海
長野県の片田舎に住む小林真弓は高校二年生だ。
山に囲まれた町で生まれ育った。遠くに見えるのはいつも山の稜線で、水平線というものを一度も見たことがなかった。
子どもの頃、泣きながらふと気づいたことがある。
涙がしょっぱい。
「なんで?」と母に聞いた。
母は台所で味噌汁をかき混ぜながら言った。
「生き物はね、昔は海にいたんだって。そこから陸に上がって進化してきたの。だから体の中には海の水が流れているのかもね」
よくわからなかった。
でも、自分の中に海があるというのはとても素敵に思えた。遠くて広くて青いものが胸の奥を流れている。それ以来、真弓にとって海はどこか懐かしい存在だった。
高校の修学旅行が沖縄に決まったとき真弓は胸が跳ねた。
やっと会える。自分の中を流れているものに会いに行く。
沖縄に到着。そして恩納村のビーチ。
バスを降りた瞬間視界が開けた。
エメラルドグリーンの海。
光を反射してきらきらと揺れている。
広い。どこまでも広い。
真弓は靴を脱ぎ波打ち際まで走った。
白い泡が足首をくすぐる。
冷たい。でもやさしい。
真弓は両手で海水をすくった。透明な水が指のあいだからこぼれ落ちる。
少しだけ口に含んでみる。
――塩っ!
しょっぱ!!
思わず顔をしかめる。
塩辛いどころじゃない。
苦いくらい。
舌がぴりぴりする。
これが海?
自分の中を流れていると思っていたもの?
真弓は呆然とした。
もっとやわらかい味だと思っていた。
涙より少し甘いくらいかと。
抱きしめてくれるような味かと。
なのに。
しょっぱくて荒くて容赦がない。
胸の中で長い間育ててきた海のイメージがぱきんと音を立てて割れた。
(海に裏切られた)
そんな気がした。
浜辺にひとり座り込む。
クラスメイトの笑い声が遠い。
波の音だけが規則正しく響く。
しばらくして呼吸が落ち着いてきた。
(海が悪いわけじゃない)
勝手に夢を見て、勝手に理想を重ねていただけだ。
そのとき、担任の先生が隣に腰を下ろした。
何も聞かない。
ただ同じ方向を見つめる。
「海ってすごいよね」
先生は独り言みたいに言う。
「こんなに広くて。果てしなくて。深くて。地球のほとんどは海なんだよ。命も、気候も、全部支えてる」
真弓は黙って聞いていた。
さっきまで“裏切り者”だった海が少しずつ別の姿に見えてくる。
きらきらと光る水面。
寄せては返す波。
遠くで白く砕けるしぶき。
甘くはない。
やさしくもない。
でも確かにここにあって。
圧倒的で。
正直。
真弓はふっと息を吸い込んだ。
潮の匂いが胸に満ちる。
「うーみーはひろいーなーおおきいーなー」
気づけば歌っていた。
先生がくすっと笑う。
「どうしたの、いきなり」
真弓も笑った。
甘くなくてもいい。
苦くてもいい。
それでも体の中には同じ塩分が流れている。
涙のしょっぱさとこの海のしょっぱさはきっとどこかでつながっている。
波がまた足元を濡らす。
真弓はまっすぐ水平線を見つめた。
やっぱり私の中に海は流れている。
終




