黒衣の疾風
ポッドが静かに開いた。内部に満ちていた気体がゆっくりと外へ流れ出す。イチは目を開けた。視界はぼんやりしていたが、すぐに意識が戻る。彼は上体を起こし、周囲を見渡した。
そこにいたのは、モモだった。
「モモ…」
イチが言葉を発するより早く、モモは彼に飛びついた。だが、その身体は霧のようにほどけ、黒い煙となってイチの全身にまとわりつく。霧は布へと変化し、彼の身体を包み込んだ。黒い戦闘服が形成され、顔には布が巻かれ、目元だけが露出していた。
イチは息を整え、すぐに外へと飛び出した。竹やぶを駆け抜ける。足音はほとんどなく、身体は風のように軽かった。
「イチ、聞こえる?」
モモの声が頭の中に響く。
「ああ」
「私を着た感想はどう?」
「…いい感じだ。倍くらい速く走れる」
イチは跳躍した。地面を蹴った瞬間、身体は空を滑るように飛んだ。まるで重力が半分になったかのような感覚だった。
「そろそろだな」
森を抜けると、視界が開けた。崖の下には、領主の屋敷が広がっていた。中庭では灯りが揺れ、宴の賑わいが遠くからでも感じられる。
「いつもの三倍くらい見えるぞ」
「それも私の力みたい」
イチの視線は中庭の一角に止まった。そこにいたのはツキ。隣に座る男の着物の柄からして、キンゾウだろう。ツキはまだ無事のようだった。
その周囲に、ぼんやりと赤い影が浮かんで見えた。
「赤い影が見えるだろ?」
「ああ」
「それが人。熱と動きの残像を視覚化してる」
イチは数えた。22人。ツキとキジマルを除けば、敵は20人。
「イチ、焦る気持ちはわかる。でもまずは人数を減らすこと。そしてキジマルの救出」
「わかってる」
イチは崖を滑るように降り、屋敷の外壁に沿って移動した。まず、門番の背後に忍び寄る。脇差を鮮やかに抜き取り、首元に一閃。門番は声を出す間もなく崩れ落ちた。イチはその身体を壁にもたれ掛けさせ、まるで眠っているように見せかけた。
脇差が砂のように崩れ、消えた。
「イチ、この脇差は私に吸い込まれた。イチが思うだけで、すぐ出せるよ」
イチが意識を集中すると、手元に黒い脇差が現れた。軽く、鋭く、手に馴染む。
見回りの門番が近づいてくる。イチは背後から忍び寄り、喉元に脇差を突き立てた。門番の太刀に手を添えると、それも砂となって消え、黒い太刀が手元に生まれた。
門番の交代の時間が近づいていた。酔った門番がふらつきながら現れる。イチはすでに殺されている門番の姿を利用し、交代の瞬間に近づいた。
「おい、交代だぞ…って、あれ?」
門番が違和感を覚える前に、イチは喉を切り裂いた。血の音すら静かに、夜の闇に吸い込まれていった。
イチは息を整えた。まだ敵は多い。だが、ツキはそこにいる。キジマルもまだ生きている。
そして、自分はもう以前のイチではない。
黒衣の疾風が、屋敷の闇を切り裂く準備を整えていた。