第9話: 白衣とマフラーと、ありがとうの声
十二月。校舎の窓は白く曇り、吐く息がうっすらと白くなる。冬の気配がいよいよ濃くなってきた。
放課後の科学室。いつもより少しざわついているのは、今日は「科学部忘年会」があるからだった。
「はい、これホットドリンクね。生姜入り。中川さん、冷え性でしょ?」
マフラーぐるぐる巻きの朝比奈さんが、いつものお節介な調子で紙コップを差し出してくれる。湯気の中に、ほんのりシナモンの香りが混ざっていた。
「ありがとう……」
私も、白衣の上からお気に入りの赤いチェックのマフラーを巻いていた。部室の暖房はあまり強くないから、みんなが思い思いに冬支度をしている。
テーブルの上には、持ち寄ったお菓子と手作りのスライムキャンドル、そして失敗したけどなんだかんだ愛嬌のある化学菓子(見た目はアレだけど食べられるらしい)が並んでいた。
「中川ちゃん、チーズパイ食べる?」
そう声をかけてくれたのは、同じ班の佐々木くんだった。先月、私がミスしたときに一緒に片づけてくれた優しい人。
「うん、少しだけ」
自然に、笑って答えることができた。
あのときと違って、今はちょっとだけ肩の力を抜いて部室にいられる。みんなの中に、自分の居場所があるように感じるから。
そんなときだった。忘年会も後半に差し掛かったころ、千紘先輩がふと私の隣にやってきて、紅茶を一口飲んでから、ぽつりと言った。
「中川さん、いてくれて助かったよ。今年」
その一言は、何気ないようでいて、強く胸に残った。
「……え?」
「真面目にやってくれるし、報告も丁寧。何より、雰囲気がやわらかくなった。班の人たちもやりやすいって言ってたよ」
まるで理科室に差し込む冬の光のような、やさしい言葉だった。
私は、言葉に詰まった。
“いてくれて助かった”
その一言に、心の奥のどこかが熱くなるのを感じた。
私は、ここにいていいんだ。
ただの観測者でも、誰かの負担でもなく、「いてくれて助かる」存在として。
白衣のポケットの中で、手がぎゅっと丸まった。なにかを握りしめるように——たぶん、それは、自信のかけら。
そのとき、窓の外に粉雪が舞い始めた。音もなく降るそれは、どこか私の心と似ている気がした。
静かで、けれど、確かにそこにある。
賑やかな空間から少し離れたベランダに出ると、冬の夜風が頬を撫でた。肩に掛けた白衣の裾がふわりと揺れ、冷たい空気にマフラーの温もりが際立った。
窓越しに見える部室では、みんなが談笑し、紙コップを片手にスナックをつまみながら楽しそうにしている。その中心にいる千紘先輩の笑顔を、ゆらは静かに見つめていた。
「……いてくれて助かったよ」
あの言葉が、まだ胸の奥で灯をともし続けている。
――わたしが、いてもいいんだ。
これまで何度も、「わたしなんて」と思ってきた。目立たないことが、失敗しないための唯一の戦略で。誰にも期待されなければ、誰もがっかりしない。そうやって、無難な毎日を選んできた。
でも。
「おーい、中川〜! こっちで写真撮るぞ〜!」
陽気な声が窓越しに響いてきた。振り返ると、みんなが手を振っていた。
一歩、足が前に出る。
マフラーを巻き直し、深呼吸する。
部室の灯りに向かって、ゆらは歩き出す。
その歩みはまだおぼつかないけれど、確かに「自分の居場所」に向かっていた。
夜空に浮かぶ月が、そっとその背中を照らしていた。