第6話 文化祭、それは心をひらく実験
九月。夏の終わりと、秋の始まりのはざまで。
私は、放課後の理科準備室にいた。
静かな室内。カーテン越しの光が柔らかく差し込む中、私は机に向かって、筆を握っていた。
描いているのは、文化祭展示用のポスター。
「テーマは“植物の生存戦略”だってさー。けっこうガチ理系よね、これ」
向かいの机で、千紘先輩がプリントをめくりながら言った。
「中川さん、描くの好きなんでしょ? こういうの向いてると思ってさ。頼んでよかった?」
「…………はい。がんばります」
私の声は小さかったけれど、先輩はにこっと笑ってくれた。
このポスターは、文化祭の科学部展示の目玉になるらしい。
テーマは難しくても、どうにか視覚的にわかりやすく伝えたい。
私は家で何度も試作したレイアウトを頭の中で組み立て直し、植物の根の断面図を色鉛筆で塗っていった。
――これは、私の仕事。私の“役目”。
ふだんはあまり目立たない科学部だけれど、文化祭のときだけは、少しだけ注目される。
そんなときに、部の印象を決めるポスターを任されるなんて……。
(……失敗できない)
いつもよりも、ずっと強くそう思っていた。
「ところでさ、中川」
千紘先輩が、ふいに声をかけてきた。
「当日さ、説明係もできたりする?」
「えっ……」
「別に無理にとは言わないけど、せっかくの機会だしさ。ノートとかすごく丁寧だし、説明も向いてると思うんだ」
説明、係……?
私は思わず、自分の手のひらを見つめてしまった。
だってそれは、人前に立つということだから。
胸がドクンドクンと高鳴る。鼓動が、体の中心で暴れている。
「……やってみたい、です」
自分の声が、震えていた。
でも、ちゃんと口にできた。
「おっ、いいじゃん。中川さんのそういうとこ、好きだわー!」
千紘先輩は大げさに手を叩いて、笑った。
それがちょっとくすぐったくて、でも少し誇らしかった。
ポスターは完成に近づいていた。
色と線が重なって、言葉ではない“伝え方”が、少しずつ形になっていく。
私はふと思った。
文化祭って、実験みたいだ。
人と人の距離が、ほんの少し縮まるかもしれない実験。
そして、私はその実験の、一歩目を踏み出そうとしていた。
ポスターの前で立ち尽くす中川ゆらの手の中に、ひとつのメモが握られていた。
それは、班員の千紘がくれた「説明の台本」。
「困ったらこれ読んで」と、あの笑顔で手渡されたとき、少しだけ胸が温かくなったのを思い出す。
けれど、実際に人が目の前に立つと、喉はカラカラになり、台本の文字すらにじんで見えた。
最初の来場者――同じクラスの男子たち――がポスターの前に立ったとき、ゆらはただ、ペコリと頭を下げることしかできなかった。
「……あれ、説明ないの?」
その一言に、顔が熱くなる。
「す、すみません……あの、こ、これは……」
震える声。けれど、たどたどしくても、台本の一行を読み上げることはできた。
「えっと……この実験は、“日常に潜む酸と塩基の反応”をテーマに……」
それは本当に、拙い説明だった。けれど、彼らは真面目に頷いてくれた。質問もしてくれた。
そして何より、「へえ、これ面白いな」「おまえ、科学部っぽくないのに」と笑ってくれた。
それが、なぜか嬉しかった。
午後になり、少しずつ人の波が増える中、ゆらは気づかぬうちにポスターの前で立ち続けていた。
台本なしでも、説明の言葉が口をついて出るようになっていた。
伊織先輩が、教室の隅からこちらを見て、ふっと目を細めた。
その表情が何を意味するのか、ゆらにはわからなかったけれど、ひとつだけ確かなことがあった。
(わたし、いま……ちょっとだけ、自分のことを好きになれてるかも)
文化祭が終わった教室に残されたのは、使い古したマジックペンと、立ち続けた足の軽い疲労、そして、心に少しだけ灯った自信の火だった。