青い空と、秘密の観察ノート
八月。
蝉の声が熱を帯びて、耳の奥まで焼きつくような午後。窓の外に広がる空は、どこまでも高く、青かった。雲ひとつないその色は、絵の具でも再現できそうにないほど澄みきっていて――中川ゆらは、思わず理科ノートの余白に「今日の空、晴天、視程良好」と書き込んでいた。
科学部の夏休み自由研究は、いよいよ佳境を迎えていた。
ゆらの研究テーマは、「水道水と天然水のミネラル成分の違いについての比較」。きっかけは些細なことだった。妹が「水道水、まずい」と言ってミネラルウォーターを買ってきたのだ。言われてみれば、確かに味が違う気がする。けれど、それは気のせいなのか、それとも科学的な差異があるのか。
そうして始まった、自宅キッチンを研究室にする日々。
計量スプーンとペーハー試験紙、塩素反応の試薬。スーパーで買った数種類の天然水。ノートには、日々の観察結果と実験手順がきっちりと記録されていった。ゆらの几帳面な性格が、こういうときだけは役に立つ。
(でも……この研究、本当に意味があるんだろうか)
ふと、そんな思いが頭をもたげた。
なにせ、伊織先輩たちの研究テーマはどれも本格的だった。「光合成における波長別の光源効果の比較」だとか、「ビタミンCの酸化反応におけるpH依存性」だとか……何を言ってるのか半分も理解できない。でも、皆が真剣に取り組んでいるのは伝わってくる。
(私のなんて、ただの水の味比べみたいなもんだし……)
ノートを開いたまま、ゆらはペンを止めた。沈黙が部屋に広がる。外では蝉が鳴いている。冷房の風がシャツの袖を揺らす。
そのとき――
「……観察ノート、見せてもらってもいいかな?」
不意に声がして、ゆらは驚いて顔を上げた。
開け放した窓の外、物干し台越しに、伊織先輩が立っていた。白いTシャツにタオルを首にかけ、どうやら洗濯物を干しに来たようだった。そう、実は彼女の家はゆらの家の隣なのだ。
「えっ、あ……はいっ、ど、どうぞ……」
どもりながらノートを差し出すと、伊織は手すり越しにそれを受け取った。ページをめくりながら、彼女の瞳が細くなる。
「これ……めちゃくちゃ丁寧に書いてるね。表もグラフも、すごく見やすい」
「そ、そうですか……?」
「うん。私が1年生の頃は、観察記録なんて“水が冷たかった”とか“少し泡が出た”くらいしか書いてなかったよ」
「えっ、伊織先輩が……?」
驚いて聞き返すと、伊織は笑ってうなずいた。
「でもね、結果を“自分の目で確かめた”っていう経験は、何よりの宝物になるよ」
そう言って、ゆっくりとノートを返してくれた。その手のぬくもりと重なって、ゆらの胸の奥に、なにか小さな灯がともった気がした。
(私の研究でも……いいんだ)
そう思えた瞬間、観察ノートが少しだけ誇らしく思えた。
「なるほどね。水の量と気温、光の強さでかなり左右されるんだな、発芽率」
伊織先輩の声が、私の後ろからふわりと降ってきた。
思わずノートを閉じそうになったけれど、ぎこちなく手を止めた。
「す、すごく……偶然ですね」
「偶然にしては、君、このベンチ使うの3回目だよね」
「…………!」
ばれていた。ベンチの独占癖。
「まぁ、ここは日当たりいいし、観察しやすいからな。俺も、ちょっと気になってたんだよ。何やってるんだろうって」
「観察、です。……自由研究の」
「ああ、それ、こないだ千紘が言ってたやつだな。中川が一人でがんばってるって」
千紘先輩……! あの人、また私のことを話して……。
でも、嫌な感じはしなかった。なぜだろう。心のどこかが、少しだけ温かかった。
「これ、全部、自分で記録してるの?」
「はい。まだ試行錯誤中ですけど、できるだけ……正確に」
「いいと思うよ。記録ってのは、研究の基礎だからな。……それに、君の文字、丁寧で読みやすい」
「っ……そ、そんなこと……!」
耳の裏が熱くなるのがわかる。何か言い返したいのに、出てくる言葉が見つからない。
伊織先輩は、そんな私をからかうでもなく、観察ノートを斜めから眺めていた。
「観察って、地味だけどさ、結果が出ると嬉しいよな」
「はい。……今日、やっとひとつ、芽が出たんです」
「おお、それはおめでとう。最初の一歩だな」
芽が出たときの、あの気持ち。誰にも伝えていなかったのに、先輩にそう言われると、不思議と胸がいっぱいになった。
「これ……よかったら、読んでもらえますか?」
自分でも驚くくらい自然に、ノートを差し出していた。
伊織先輩は一瞬目を見開いたが、すぐにやさしい笑みで受け取ってくれた。
「ありがとう。ちゃんと読むよ」
風がそっと吹いた。ページがめくれて、夏の青い空が、そのままノートに写ったみたいだった。
たぶん――
これが、初めて「誰かと研究を共有する」喜びなんだと思った。