夏休みの課題は“好き”を見つけること
蝉の鳴き声が、部屋の壁を越えて入り込んでくる。
カーテンは閉めたまま、外に出る気配もないまま、私は机に向かっていた。
――夏休み、化学班の研究テーマが決まらなかった。
部活最終日の話し合いでは、誰かの「やりたい」がなかなか出てこなくて、結局、
「それぞれ考えて、夏明けにまた決めよう」という、ふんわりしたまま終わってしまったのだ。
(……それぞれ、って)
私はため息をついて、ノートの隅に書いたアイデアの断片を見つめた。
「砂糖の結晶化」「鉄さびの進行実験」「ペットボトルロケットの飛距離比較」――どれもどこかで見たような、ありきたりなものばかり。
(これ、“私がやりたい”って言えるのかな……)
テーマを探すことは、自分の「好き」を探すこと。
伊織先輩は、そう言っていた。
でも、「好きなこと」って、そんなに簡単に見つかるものだろうか?
むしろ、「何が好きかわからない」から困ってるのに――。
私はペンを置いて、窓の外を見た。
夏の青空。白い雲。まぶしい陽射し。
どこかで誰かが笑ってる声が聞こえた気がした。
(……外に出よう)
唐突に思い立って、私は立ち上がった。
パジャマのままだったことに気づき、慌てて着替えを始める。
今日だけは、机の前から少しだけ逃げよう。
もしかしたら、「好きなこと」は、家の外に転がっているかもしれないから。
そう思って、私はドアを開けた。
近所の図書館は、エアコンの冷気と静かな空気で満たされていた。
自由研究コーナーには、夏休みらしい親子連れが並んでいて、昆虫、宇宙、食べ物――好奇心のかたまりみたいな言葉たちが、本の背表紙から溢れていた。
私は手に取った本を次々にめくった。
でも、ページをめくる指はすぐ止まり、また別の本へ。
興味がないわけじゃない。でも、「これがやりたい!」と強く思えるものが、なかなか見つからない。
ふと、視線を感じて顔を上げると、化学班の先輩――伊織さんがいた。
「あ、ゆらちゃん。……奇遇だね」
先輩は本を何冊か抱えていて、そのうちの一冊をそっと私に差し出した。
表紙には、こう書かれていた。
『身近なモノでできる、においの科学』
「これね、面白かったよ。台所とか洗面所とかでできる実験も載ってて、私も昔やったことある」
伊織さんの声は、あいかわらず落ち着いていて、優しくて、少し憧れを含んだ香りがした。
それでも私は、つい口をへの字にして言った。
「でも……“好き”かどうかは、よくわかんないです」
先輩はほんの少しだけ微笑んで、それから椅子に腰かけた。
私も隣に座る。
「最初から“好き”って思えるものって、そう多くないよ。
だけど、手を動かしてるうちに、ふっと“ちょっと面白いかも”って思える瞬間がある。
それが、研究の入口だと思うよ」
“ちょっと面白いかも”。
そのくらいでも、入口になっていいのだろうか。
私は本をもう一度開いた。
においの性質を調べる実験。
匂いが変わる温度。においの拡がり方。材料は、ハッカ油、しょうゆ、レモン、石けん――。
「これ、家でできそうです」
「うん。夏休みの自由研究って、そういうのがいいよ。
“好きかもしれない”の芽を見つけるチャンスなんだから」
先輩が立ち上がる。
「がんばってね、ゆらちゃん」
笑顔を残して、伊織さんは帰っていった。
私は、手元の本を強く抱きしめた。
――“ちょっと面白いかも”。
それでいいなら、私にも入口があるかもしれない。
誰かみたいに堂々とではないけれど、私のやり方で、「好き」を探しにいってもいいのかもしれない。
帰り道、私はコンビニでハッカ油を探していた。