前編
【神災レポート①】
神災とは、ノアの箱舟に代表される『神による災害』である。本稿は神災第3号の詳細、顛末について記載するものである。
(中略)
2xx2年11月1日。突如として100億人が行方不明となった。全く同時刻に煙のように人が消え去り、世界中がパニックに陥った。審判の日が来たのだと騒ぐ者、次に消えるのは自分かもしれないと怯える者、家族が全員消えてしまい絶望する者、あるいはその逆。善人悪人十把ひとからげ。消えて欲しい人も、消えてほしくない人も容赦なく居なくなった。
誰がどう考えても自然災害ではないため、当時は外星人の侵略説や、精霊災害説が有力視されていた。
「世界人口の増加は100億程度で頭打ちを迎え、減少に転じる」という予測が外れ、第二次人口爆発が起きた2XXX年代初頭。畢竟、ヒトという動物は衣食住が確保されていれば基本的には増えていく。農業・産業・科学技術の進歩は留まらず世界規模で食料供給が確保され、伝染病や戦争といった人口減少につながる問題もなく、気づけば総人口200憶時代。山を拓いても海を埋め立てても追いつかず、果ては南極さえ開拓し人間の住まう場所を確保する。人間という存在こそが人類を追い立てる時代で、最大にして喫緊の問題はエネルギー供給だった。石油も石炭ももはや風前の灯。核処理施設の都合上、原子力発電にも限界がある。殖えに殖えた結果、群れを支えきれなくなり破滅、という人類の+バッドエンドが現実的になった頃、救世主のように現れたのが精霊エネルギーだ。
「精霊」──幽霊や妖精の総称。非現実とされていた彼らを地に堕とし、有用なエネルギーを抽出できると分かったのは30年前。その後、多くの精霊エネルギー企業が産まれた。水希沙螺が今年4月に入社した株式会社エネジンもそのひとつで、国内では最大手の企業である。
試験会場はまだ取り壊されていないのが不思議になるほどにボロボロのビルだった。流行遅れのタイル張りの外壁はどんよりとした灰色で、ビル全体に陰気な印象を与えている。
サラは外壁に走った無数の亀裂を視線で撫でつつも、眉一つ動かさずに廃ビルへと歩を進めた。討伐課の仕事の種類を考えればこういった不気味で危険な現場に赴くことも少なくはないだろう。背後に控えている試験管に試験会場への反応も見られているかもしれない、と考え気を取り直す。
ビルの中は昼間でも薄暗い。電気が通っていないのは当然の事だが、どうやら窓も少ないらしい。快晴でもこれなら曇りなら足元さえ覚束なかったかもしれない。
はがれたモルタルを踏みつけてパキパキと鳴らしながら階段を上がると目的地は目の前だった。鉄扉が開け放たれたまま固定されており、そこから光が漏れている。
光に導かれるようにして教室をふたつ繋げたくらいの広さの殺風景な部屋に脚を踏み入れた。埃っぽいが室内に視線をめぐらせると、窓際に小さな人影がひとつ。小学生に見える少年が空を眺めている。半壊したブラインドから漏れた陽光がスポットライトのように彼を照らし、周囲の塵がキラキラと舞っていた。
──どうしてこんなところに子供が? などと考える余裕はなかった。瞬きも呼吸も忘れて彼を見つめたまま、サラは床に縫い付けられたかのように動けなくなった。
実際のところ、サラが「少年に見とれて見惚れて動けなくなっていた」ことに気付いたのは、背後の男にせっつかれた時だった。
「おーい、ミズキくん? どうしたんですか、急に固まっちゃって」
「え? あ、はい……」
二人の声に反応して少年が振り向いた。無造作に結われた黒髪が馬の尾のようにひらりと揺れる。
「呼び出した癖に遅かったな。まぁいい。俺は禍津黒祢。呼ぶなら苗字じゃなく名前で。……そっちは?」
まさかとは思ったが、名乗られてしまっては疑いようもない。彼こそがもう一人の試験官で間違いない。
声変わり前の性別を特定しにくい声色。少女と見紛うような花のかんばせ。年の頃は11、12歳ほどだろうか。あどけない顔立ちは「かわいい」と表現するのが適切であろう。だが、サラは何故か教会のステンドグラスを眺めているかのような気分で彼を「美しい」と感じていた。理性や感情よりも原始的な部分、言うなれば「魂」が彼の美しさを前に膝をついて頭を垂れている。
よくよく観察すれば髪にメッシュを入れているし、耳にはピアスもつけている「俗っぽい美少年」であり、神聖さとはかけ離れている。かわいらしい外見とは裏腹に、木を鼻でくくるような態度で名を尋ねられていたのを思い出し、慌てて名乗り上げる。
「わ、わたくし、水希沙螺と申します! 遅くなりまして、大変申し訳……」
サラが深々と頭を下げると、ここぞとばかりに背後から男が飛び出した。
「僕は吾雷・尽・フィンレイと申します。愉快な魔術師おじさんでーす。試験官同士、是非とも仲良くやらせてくださいね!」
不愛想なクロネとは対照的に、試験官の男──ジンは嫌になるほど朗々としていた。色付きの眼鏡にサックスのポロシャツ、キャメルのチノパンを合せた男は「おじさん」との言の通り、30代後半~40代の前半だと思われた。プラチナブロンドにグレーの瞳を見るに外国人かと思ったのだが、名前と発音の流暢さからすればハーフと見るのが妥当かもしれない。口調といい、見た目といい、声をかけられても着いていってはいけない人種に見える。
ジンはなおも声を張っておべっかを続けている。
「いやはや、まさかあのクロネくんに快諾いただけるとは! 恐悦至極極まれりってね! 僕もがんばっちゃいますよォ!」
目前の少年がいかなる存在なのか、サラはほとんど知らなかった。上司からは「今回の試験は特別にもう一人試験官を付ける」と告げられ、名前を聞かされてきただけだ。その程度の事で動揺する気はなかったが、中年男性が子供に揉み手で擦り寄っていくのを見ると、さすがに訝しがらずにはいられなかった。
当のクロネはジンとサラを交互に見遣ると、窓辺にもたれかかったまま、おもむろに足を組んだ。何気ない所作ですら様になる美少年だな……と感心していると、品定めが済んだらしく、鈴を転がすような透明感のある声で言う。
「俺はこの試験においてオブザーバーとして振舞うからその心算で。今日はこのために早起きさせられたからな。俺を失望させないでくれよ」
内容の割に口調は温かく、言下にニっと気さくな笑みを浮かべる。「子供らしい傲慢な物言い」と考えるには随分と大人びた雰囲気を纏っている。重ね重ね奇妙な少年だ。
「期待を裏切るようなことにはならないかと。改めまして、宜しくお願い致します」
社会人らしく無難に答えると、クロネは人好きする笑みを浮かべたまま尋ねてくる。
「お前、年は?」
「22……ですが」
試験に年齢制限はないはずだし、むしろサラの方がクロネの歳を問いたいくらいだ──そう考えていたのが伝わったわけではあるまいが、クロネはニヤニヤと答えた。
「そうか。俺は23、こう見えて年上だ。子供扱いしても構わないが、相応の覚悟を持てよ」
「は、はぁ……」
笑ってはいるがふざけている様子はなく、彼の纏う雰囲気からすれば23歳と言うのも嘘ではないように思われた。だが、やはり見た目はどう見ても小学生、どう上に見積もっても中学生だ。やはりからかわれているのだろうか、とため息のような曖昧な返答を漏らすと、傍らのジンが注目を集めるように咳払いした。
「ウォッホン! それでは挨拶も済みましたところで、僭越ながら諸々の説明をさせていただきます」
クロネの正体は気になるものの、今の最重要事項は試験だ。瓢箪から駒、棚から牡丹餅ではあるが、せっかく手に入った受験資格を無駄にする気はなかった。「討伐課」は世界に跋扈する危険な精霊、害ある精霊を倒し、『資源』として利用する。人々の生活を支える価値ある業務だ。
小学4年生の時に書いた作文を思い出す。テーマは「将来の夢」。「誰かの役に立てる人になりたいです」という、平凡極まりないが先生と両親には花丸が貰える文章で方眼用紙1枚を埋めた。
決して褒められるために打算的に掲げた目標ではなかった。比べるものではないが、クラスで一番本気だったに違いないと、サラは今でも思っている。
このチャンスをものにして、もっともっと多くの人を救いたい──今考えるべきはそれだけだ。
「精霊対策部討伐課、入課試験──内容は至ってシンプル! これから発生する悪精霊を討伐してください。制限時間は2時間。ご承知の通り、ここら一帯は無人区画で周囲に人がいないのは確認済ですが、建造物の損壊等が少ないほど貴方の評価になります。……質問はありますか?」
「はい。……『発生』ということは模擬戦用のAI精霊ではなく本物の精霊を使用している、という認識でよろしいでしょうか?」
ジンは何故か嬉しそうに両手でサムズアップしながらコクコクと頷いた。
「そうです! 実戦も実戦! いきなりハードかと思われるかもしれませんが、そのために我々がおりますからご安心を。万が一、いえ憶が一! 想定以上に強力な精霊が現れたら試験は仕切り直しになりますから、そのあたりも安心して、ご自身の実力を発揮することに集中してください。……OK?」
サラは頷いてから窓の外を見た。ジンもクロネもほぼ同時に窓の方に首をひねる。精霊感知も鍛えた甲斐があったらしい、と内心で息を吐く。
「予定より早いな。……来るぞ、構えておけ」
振り返って警告してくるクロネに頷きながら、彼の隣に立つ。
廃ビルのすぐ隣にはもはや誰にも使われなくなった公園がある。遊具撤去済の殺風景な広場に黒い靄がたちこめていた。イナゴの群れのように有機的に蠢いていたかと思う突然、風景が一瞬にして異界の入り口のように「ぐにゃり」と歪んだ。空間の歪に向かって黒い靄が集まっていき、徐々に定形と化していく。
本物の精霊の発生を見るのは初めてだった。背筋は不気味な気配にゾクゾクとするのに、喉はカラカラに渇き切っている。生唾を呑み込みながら、サラは「それ」を眺めていた。
「精霊ランク:B、カテゴリ:妖精、非現実比率:12%、全高約80センチ、属性:土! 名称:スプリガンで確定!」
スマートウォッチのホロウィンドウを見つめながらジンが嬉々と報告すると、クロネは不思議そうにつぶやいた。
「……スプリガン? どうしてこんなところに」
ジンが「スプリガン」と呼んだ精霊は公園の中心でわらわらと寄り集まっているらしい。遠目には黒いモジャモジャが蠢いているようにしか見えず判別が難しいが、ざっと20、30匹はいるようだ。
「難易度的にはちょうどいいですね。サイズもそう大きくないですし、AI精霊の模擬戦闘と似た感覚で戦えるでしょう。くじ運もばっちりですね! では早速!」
「待て」
「……おわっと!」
クロネは嬉々と進行しているジンに冷や水を浴びせかけるように制止した。機先を制された形のジンは剥がれかけたモルタルに足をひっかけたらしく、軽くつんのめっている。クロネは彼のことは無視してサラの目をまっすぐに見上げながら、神妙に問いかけてくる。
「本当に、本~当にアレと戦えるか? 別に今なら反故にしたっていいんだぜ。討伐課じゃなくたって、金は稼げるし、出世できるし、社会の役に立てる。それでもお前はバケモノと戦う道を選ぶか? 選びたいと思えるのか?」
この1か月ほど、決して楽ではない訓練をこなしてきた。当然、まだまだ初心者で至らぬ点の方が多いだろう。だとしても。
「もちろんです。恐怖心がないと言えばウソになりますが、今は自分の力を試したい気持ちの方が強いですよ。この手で多くの人を救うための第一歩だと思えば、むしろワクワクするくらいです」
虚栄でも、保身でもない、嘘偽りのない本心。クロネは射抜くようにサラを見据えていたが、「フッ」と微笑むとジャケットのポケットから菓子箱を取り出し、中から一本、棒状の砂糖菓子を取り出して煙草のように口にくわえた。
「試すようなこと聞いて悪かったな。でも、これは絶対に必要な問答だぜ。特に初陣はな。……だろ?」
最後はジンに向かって問いかけていた。蚊帳の外に追い出された可哀想な彼だったが、その程度でへこたれるようなメンタルは持ち合わせていないらしく、ニコニコと歩み寄って来る。
「まったくですね! 僕としたことがうっかりしていました。ミズキくんならあの程度、鎧袖一触と屠ってしまいそうで! ハハハ!」
ジンの取り繕うかのような笑い声につられたようにサラも思わず頬を緩めてしまう。
「ふふ……。その買い被り、きっと事実にして見せますから。試験官としての裁定、よろしくおねがいします」
きっぱりと宣言すると、窓を開けて階下へと飛び降りた。
「ええーーーーーーーっ!?!?」
「は……?」
背後から響く声が小気味良い。猫のようにしなやかな着地に成功すると、笑みを消して前方──公園を睨む。サラがスプリガンの気配を感知している以上、彼らもまたサラの存在に気付くのは時間の問題だろう。遮蔽物のない公園の中央に寄りあっているためアンブッシュは通用しないし、飛び道具を持たないサラは真正直に正面突破するしかない。
サラは武器を持たない。戦闘スタイルに特別なこだわりがあるわけではなく、ただサラの能力を活かすには徒手空拳が最適であるというだけだ。
「とはいえ、多勢に無勢だな……」
このまま集団に飛び込んでも負けるつもりはないが、適当に気を引き分散させたところで各個撃破を目指すのが戦術的な正解であろう。彼らの様子を伺いながら手ごろな石を数個握り込んだ。
「にゃあん」
予期せぬ闖入者の鳴き声。瞬間、スプリガンの発するおぞましい気配が爆発的に増大した。「標的」を発見して、興奮しているのが見て取れる。
「……っ」
石を投げる。予定を変更してスプリガンの集団の背後、すぐ近くへ着弾させる。
「ぐお?」
振り返ったスプリガンは近くで見ると意外と可愛らしい見た目をしていた。もじゃもじゃの黒い体毛が全身を覆って丸み帯びフォルムの上部で、つぶらな瞳が赤く光っている。体毛で埋もれた手には戦斧が携えられているが、サイズのせいでおもちゃのように見える。
投石に反応したのは4匹ほどだった。サラと猫、どちらを優先するべきか迷いを見せたその瞬間、一気に接近する。
「まずは4匹……!」
回し蹴りを食らったスプリガンはそれぞれに悲鳴を上げながら呆気なく消え去っていった。初陣だからと少々警戒しすぎだったかもしれない。
「これなら、このまま……」
スプリガンたちはわぁわぁと混乱気味に戦斧を振り上げて向かってきたが、そのいずれもサラの迎撃に霧散することになった。順調にスプリガンの群れを削り続け、あと数匹となった頃合いに横目に白猫が写った。先ほど鳴き声をあげてサラの予定を狂わせたヤツに違いない。スプリガンの敵視は今や完全にサラに向いており、とっくの昔に逃げおおせただろうと思っていたのだが、何故か近くで観戦を楽しむかのように座している。
最後に残った哀れな一匹は敵わないと悟ったのか、いきなり方向転換し駆けだした。意外と足が速いが十分に追いつけるだろう──。
「え……?」
スプリガンは一目散に「白猫」へと向かっていた。だが、サラが驚いたのはスプリガンの行動ではない。
「どうして……『アレ』が猫に見えてたの……っ!?」
驚愕故に脚を止めてしまったのは間違いなく悪手であっただろうが、仮にこのままスプリガンを追いかけていたとしても後の展開に大差はなかったであろう。このときのサラに出来たのはただ目の前で起きる出来事を目に焼き付けることだけだった。
「白猫」だったモノはジュルリと音を立てながら、縦に開いた口でスプリガンを呑み込んだ。骨と肉が砕ける咀嚼音に、やけに水っぽい嚥下の音が響き、束の間の静寂が訪れた、次の瞬間。
猫の背に当たる部分から白い手が無数に飛び出した。窮屈な服を脱ぐように、その本体が露わになっていく。
「ふぅぅぅぅぅぅぅうぅぅぅぅうううぅ」
ため息のような声を漏らした「それ」がスプリガンなどではないことは一目瞭然だった。
体高は4、5メートルほどだろうか。日差しが眩しく思えるほど白く、すべすべとして見える表皮が新鮮なまま腐り落ちている。どろどろとした表皮を引きずる丸っこい異形の怪物。大小様々な目と口が全身にランダムに配置された不合理極まりないデザイン。人を不快にさせるためだけに生えているような幾千の白魚のような右腕。
怪物、あるいは化物としか形容しようのないものが、時折ため息のような声をもらしながらゆったりと近づいてきていた。空白となった思考は恐怖さえ出力してくれない。
「トルトニス・カスティガティオ!」
声とともに、6本の光の柱が現れた。目前の巨体を取り囲み、電撃がほとばしる。
「ミズキ!」
クロネに肩を揺さぶられ、サラはようやく虚脱状態を脱することが出来た。
「私……試験……」
「あんな災害クラスの課題を出すような試験があるかよ。ジンの檻が機能してるうちに立て直すぞ。あれが市街地に向かったら怪獣映画みたいになっちまう」
「は、はい……」
半ば引きずられるようにして歩き出すと、ジンも公園の入り口まで来ていたことに気付いた。
「残念なお知らせですが、白腕ちゃんに魔術はほとんど通用しないようです。檻は5分と保ちませんし、AI精霊で弾幕を張っても追加2、3分稼げるかってところですね。正直かなりやばい!」
「やばい」と言いつつ、ジンは楽しそうだ。話しながら時折手元のタブレットに視線を落とし、何かを入力している。
「白腕ちゃん……?」
「アレの仮称です。精霊ランク:S、カテゴリ:怨霊、非現実比率:43%、全高役5メートル、属性:水! となっております」
なるほど。端的でわかりやすい仮称だ。
「5分保つなら上出来だ。幸い、頭数は足りてるからな。ミズキがメインアタッカー、俺が補助、ジンは後方支援って感じでイケるだろ。……な?」
クロネの視線はサラに向けられていた。ワンテンポ遅れて慌てて尋ねる。
「私が、主戦力……!?」
「あぁ。魔術が通じないとなったらこの場で殴れるのはお前だけだ。俺は……やれなくもないが、お前の10倍は時間がかかる。ジンの生命は保証できないし、この無人区画を抜ける前に倒すのは不可能だろう。ここであいつを止めようと思ったら、さっきの布陣が最適解ってわけだ。……で、どうする? 悪いが時間がないんでな。即決してくれ」
即決上等と言わんばかりにサラは言下に答える。
「やります。具体的にはどうすれば?」
クロネは端正な相貌を盛大にゆがめて破顔した。
「よしきた! とはいえお前のやることは脳筋キャラみたいにひたすら殴り続けることだけだ。道は俺たちは作る。お前は全力で駆け抜けろ」
言いながら、クロネは背負っていたギターケースをドンと地面に横倒しに置いた。室内にいた頃は背負っていなかったから、ここに来るまでに持ってきたものだろう。場違いなアイテムの出現に戸惑っていたのはほんの一瞬のことだ。ケースを開ければおのずと答えは明らかになった。
「銃!?」
「あぁ。スナイパーライフルってやつな。俺の相棒はこれだ」
脳裏には銃刀法という言葉がチカチカと目障りに点滅していたが、状況が状況だ、何も言うまい。どう見ても軽い代物ではなさそうに思えるのだが、クロネは片手でひょいと持ち上げて見せた。本来は地面に設置して使うものであり、ハンドガンのように携行して使うものではない、とサラが知るのは大分後のことである。
「さて、予め言っておくが、この銃でお前のことも撃つから絶対に避けるなよ。どうせ当てるまで撃つんだから一発目で当たれ」
「……?」
意味がわからずジンを見たが、ジンもぽかんとしている。どうやら精霊討伐業界の常識というわけではないらしい。
「俺にとってこの銃は魔法の杖みたいなもんだ。俺の使う術は全部この銃を媒介する。お前の強化だのデバフ解除だの、全部撃ち抜くことで発動する。痛みはないから安心して当たれ。以上だ」
サラが良識や人道を説こうと口を開きかけたとき、背後から鋭い咆哮があがった。
「びぃぃぃぃやぁぁぁぁぁあああああああああああ!」
ぞわりと全身の毛が逆立っていくのを感じる。秋とはいえ気温は決して低くないが、雪山に立っているかのような震えが来る。無意識にぎゅっと握っていた拳を解いて、呼吸を整える。
「おっと、檻はもうダメですね。お二方、準備はよろしいですか?」
クロネは安全装置を外す金属音で応え、サラは両手を構えることで応えた。ジンは満足げに頷くと、おもちゃを与えられた子供のようにはしゃいだ声で告げる。
「号砲はこの私が担当します! ドカーンとやるのでお二人も是非ズガーンとやっちゃってください!」
前方では雷光の檻が砕けようとしていた。素人目にも収監された怪物が解放される直前なのが見て取れる。油断なく構えたまま、「号砲」を待つ。
「幻霊召喚(AIコール)! シルフ、ノーム、ウンディーネ、サラマンダー! 行動開始!」
つむじ風が起こり、地面の至る所が隆起し、空中に水と火の玉が現れる。魔術に明るいとは言い難いサラにも所謂「四大精霊」が召喚されたのだと察することができた。隣のクロネが興味深そうにつぶやく。
「へぇ。アプリで呼び出せるのか、いつか召喚術師に刺されるぞ」
「ありがとうございます! 今の言葉、プロモーションに使っていいですか!?」
「かまわんが、そろそろやってくれ」
「ハーイ! いくぞー! AI精霊小隊! ぶちかませ!」
ジンの号令を受けた精霊たちは一斉に攻撃を開始、ただでさえ壊れかけだった檻ごと雨あられと攻撃を浴びせかけた。檻が破壊される短く鋭い轟音と濛々と立ち上った砂煙を合図にサラは駆けだした。今は砂煙で見えない白腕ちゃんに一気に詰め寄り、渾身の右ストレートを浴びせてやろうと息巻くサラの前に現れたのは文字通り「道」だった。
突如、11時の方角の砂塵がパカリと割れてトンネルのように口を開けたのだ。須臾の間の躊躇の後、砂塵のトンネルへと駆け込むと、前方で炎がひらめいた。心の中で「ははあ」と舌を巻かざるを得ない。
白腕ちゃんをすっぽりと覆う砂煙は自然現象ではない。土の精霊が作り出した砂煙の壁をシルフの風で循環させ、故意に創り上げた砂の塔だ。サラはひたすらにサラマンダーの誘導灯を追いかけ続ければ良い、ということらしい。こんな状況なのに笑いがこみあげてきそうだった。
(盲目的な滅私奉公は大得意なんですよ、私)
砂の塔の内部はまさしく一寸先も闇といった具合で、自分がまっすぐ進めているのかさえ把握できない。明滅するように現れては消える火影が無ければ、あっという間に白腕ちゃんに補足されてしまうだろう。サラマンダーを見失ったり、あるいは速度を落としたりしたらそれだけでこの作戦はご破算になる。パーフェクトのみを要求された作戦でもサラの心は揺らがない。心配すべきはサラマンダーの指示が間違っていること、それだけだ。
蛇行に加減速、ジャンプなど不規則な指示に応えていると、突如炎が垂直に高く上昇し消えていった。砂塵の形状は階段。「全力で駆け抜けろ」というクロネの言葉を反芻しながら躊躇なく一歩踏み出した。おそらくシルフの力であろう空気を踏みつけているような奇妙な感覚と浮遊感を慮外に押しやり、炎の消えていった方へ駆けのぼっていく。
空中を駆けて砂塵を抜けると、降り注ぐ陽光が眩しく感じられた。思っていたより高い位置まで登ってきたらしい。砂煙の上に立つという奇妙な状況に恐怖も戸惑いもなかったが、ひとつだけ困ったことがあった。
「……止まれってこと?」
首をひねってみても次の「道」が見当たらないのだ。ジンの指示は非常に直感的で、注視しなくては見つけられないような指示は寄越さないだろう。ならば、「制止」だろうか。
答えは発砲音によってもたらされた。一切の衝撃も痛みもなかったが、身中から漲る力は「クロネに銃撃された」ことの証左であろう。ほぼ同時に、砂塵に穴が開き、白腕ちゃんの姿が目視出来た。
(ボス部屋に入る前に強化魔術いれとくってわけね)
炎の誘導に従い、宙を駆け、踏み切り、穴へと飛び込んだ。右脚を突き出して裂帛のごとき声を上げる。
「うらああああああああああ!」
手応え、ならぬ脚応えがあった瞬間、砂煙が一瞬にして晴れ、状況が白日の元となった。
白腕ちゃんはサラの懇親のキックを受けて横倒しになっていた。とはいえ、そもそも上下左右の観念など存在しないのだろう。倒れた体勢のまま自慢の腕を振り回しているが、その動きは闇雲で、じたばたともがいているようにしか見えない。すべての目を閉じて攻撃しようと思ったらあぁなるのもさもありなん、と言ったところだ。
「怪物も、目に砂が入ったら痛いのかな」
シルフの気流に支えられてゆったりと地上に降下しながらサラは呟いた。それしか思い当たる節はない。随分と繊細な戦いを要求されたが、結局やっていたことは目つぶしという基本戦術に過ぎない。怪物だろうが目があれば潰し、脚があれば機動力を奪う。この非日常体験の最中、当然のことを当然にするのが、何故か妙に可笑しかった。
「畳みかけます! まだまだ魅せますよ! ネクロドローン大隊行けえ!」
次の瞬間、背後から「ブゥーン」という生物的な忌避感をもたらす羽音と共に黒い虫の群れがサラの頭上を飛び越えていった。
「死体の……雄蜂軍団……」
サラの呟きにジンが手元のタブレットに視線を落としたまま答える。
「ガワは本物! 蜂の死体に特殊なシリコンを打って、筋肉の柔軟さはそのままにボディを壊れにくくし、さらに液体コンピューターを注入することによって電子化、Wi-Fiで遠隔操作できるようになったのが、このネクロドローンです! ……あ、僕が殺したわけじゃなく、ちゃんと害虫駆除業者から買ってます!」
スズメバチかアシナガバチだと思われる蜂の群れは「統率が取れている」というよりも「機械的」と評すべき動きで、白腕ちゃんを包み込むようにドーム状に広がった。
「投影魔法陣、入力完了! 闇夜を彩るドローンアート、とはいきませんが、これはこれで芸術的かと!」
タブレット操作を終えたジンはスマートウォッチを口元に寄せて、起句を発する。
「トルトニス・レソルティオ!」
ネクロドローンの目が一斉に光り、空中に6つの魔法陣を映写した。縦方向に等間隔に積み上げられ、円柱になった魔法陣が白腕ちゃんの身体を輪切りにするかのようにさし挟まれ、閃光を放った。
「びびびびびびびびびびびびびびびび?」
白腕ちゃんは奇妙な声をあげているものの、苦しんだり身をよじったりする様子はない。魔法陣が消えていない以上、攻撃は継続しているのだろうが時おり白腕ちゃんの身体のビクリと跳ねる程度であり、有効なのか判別できなかった。ちらりとジンを見遣ると難しい顔をしながらタブレットを眺めている。
「ふーむ。ちょっとは効いてるか……。クロネくん、ミズキくん」
ジンは急に顔をあげるとふたりの注意を集めてから話始めた。
「今の攻撃はざっくり言うと強制イオン化……電気分解みたいなものでして、白腕ちゃんに継続固定微攻撃を与えるものです。ちょっとは効いてるので動きが鈍くなる、くらいの効果はありますが、やはり主体的なダメージソースにはなり得ません。お二人が魔法陣の範囲に入っても巻き込まれることはありませんので継戦対応の程、よろしくおねがいします!」
ジンの「がんばれー!」という気の抜けたエールを受け流しつつ、クロネの横顔を見つめた。ちょうどそのタイミングで思考がまとまったのか、口元で小さく「うん。そうだな、そうしよう」と呟いたのが見て取れた。その瞬間、まるで蛍光灯のフリッカーのようにほんの一瞬だけ視界が黒に包まれた。
「……もしかして、今撃たれました?」
そう思えるのはクロネが右手に持った銃口から薄く硝煙が登っているからだ。今回は痛みがないどころか、銃声さえ聞こえなかった。何故か、と問うと「ヘッドショットの場合は一瞬意識が途切れるからな」と返され、聞かなかったことにした。
「今のは気配を消す魔術だな。俺が白腕ちゃんに狙われやすくなる。要するに俺が盾役やるからお前は殴ってろってことだ。俺が出てから5秒後にスタートしろ。お前なら楽勝だろ? 気張れよ、ルーキー」
言下にクロネは銃を構え直して飛び出した。白腕ちゃんも視界が回復したらしく、全身の目をかっと開いた。そしてその全てがぎょろりとクロネを注視する。あれがゴルゴンなら石化してしまうところだが、白腕ちゃんの持つ威圧感だけでも十二分に足を止めてしまいたくなる。
白腕ちゃんの無数の右腕が一斉にクロネ目がけて突き出されていく。先ほどまでの単純な打擲とは異なり、チャームポイントの腕には包丁のような刃物が至る所から生えている。クロネは白腕ちゃんの変化なぞ一顧だにせず、直進し──ものの見事に全身を貫かれた。
「あ、あ……」
サラは悲鳴さえ上げられずに間抜けに彼を見つめることしかできなかった。背中から凶悪な白い腕を5本生やしたまま、空中に引き上げられていく。……が、酸鼻極まる光景の最中、磔にされたクロネは平然と言う。
「わざわざスナイパーに頭上を譲ってくれるなんてお優しいな。……デバフ弾だ、たんと味わいな」
クロネの銃撃の最中も白腕ちゃんは執拗にクロネを引き裂き、貫き、裁断していた。腹を裂かれ、臓物を引き抜かれ背骨が断たれてしまうと下半身はドチャリと嫌な音を立てながら地面に転がることになった。
「ひゅうぅ~……♪」
白腕ちゃんがワントーン高い声を上げている。無数の口が弧を描いているのを見るに喜んでいるのだろう。
とっくの昔に5秒以上過ぎていたが、サラはただ茫然と立ち尽くし、クロネが細切れにされていくのを眺めていた。気づくと、頬に涙が伝っている。手足は冷え切り、今にも倒れてしまいそうだ。
「何ボーっとしてんだ? さっさと来いって。バフにもデバフにも効果時間ってもんがあるんだ。有効活用してくれよ」
ミントを食んだ時のような清涼感のある声。我に帰って見上げると、クロネにはもはや肩と頭しか残されていなかった。残された頭部にも白い腕が生えている。
「あ、そうか。普通の人間はこれくらい損傷したら死んでるもんな。言ったろ、俺が肉壁だって。安心しろよ。別に俺はこの程度じゃ死にゃあしねえからよ」
「肺もないのにどうやってしゃべっているのか」とか「それはタンクとは呼ばない」など、疑問は山のように浮かんできたが、すべて無視して地面を蹴った。落涙を弾き飛ばしながら、右腕を振りかぶる。
「わああああぁぁーーーーーーーっ!!!」
真っ当な思考など存在しなかった。頭に焼き付いているのはクロネの無残な死体ばかりで、どうすれば彼に報いることが出来るのかと、そんな感情だけがサラを突き動かしている。目前に迫ると、白腕ちゃんは白い壁のようだった。脳裏にこびりついた赤と、視界を埋め尽くす白。双方を振り払うように、両腕を振るい続け……。
ふと気づくと、サラは公園のど真ん中に座り込んでいた。白腕ちゃんも嘘のように消えていて、両腕の疲労感がなければキツネにつままれていたのだと思い込みそうになるほど、正常で平穏な光景が広がっている。
「よくやったな、ルーキー。偉いぞ」
心臓が飛び跳ねるかと思いながら恐る恐る振り返ると、果たしてそこにクロネは立っていた。上半身と下半身は繋がっているし、完璧にかわいい顔にも傷一つない。それどころか、服に砂埃のひとつさえ付いていない。これはもしやクロネに化けた妖怪変化の類、もしくは幻覚を見ているのか……?と不安に苛まれているとクロネは顔を背けながらククッと笑い始めた。
「仮に俺が偽物とか幻覚とかだったとして、こんなにかわいい幻覚なら見られてラッキーだろ」
クロネはそのまま歩み寄って来ると、手を差し出してきた。
「ほら、立て。勇敢な後輩に飯を奢るくらいはしてやるさ」
クロネの小さな手を取ると、意外にも強い力で引き立てられた。ふと気づくと、すっかり乾いたはずの頬に再び涙が伝っていた。
「本当に、本当に、生きてるんですね……」
彼の温かい手を離せないまま、感情の荒れるまま滂沱するしかなかった。
「生きてる生きてる、一瞬たりとも死んでねーよ。……でも、心配かけて悪かっ……」
瞬間、視界が赤黒い液体で占められた。どうしようもなく鼻を突く鉄臭さにしびれてしまったかのように思考が鈍化していく。
クロネの身体は地面から無数に生えた水晶の槍によって幾重にも貫かれ、剣山に刺された生け花のようになっていた。微笑を浮かべたまま制止している彼はまさに彫像であり、どくどくと溢れ、足元を濡らす血液さえも芸術性を感じさせた。サラの生涯でこれよりも美しい死体を見ることはきっとないだろう。
「こんにちは、同胞の君。私のプレゼント、楽しんでくれたかニャ?」
それは男の声にも、女の声にも聞こえた。馬のいななきのように勇壮で、ピアノの音色のように優美で、声というよりも楽器の音を聞いている感覚に近い。
サラはクロネを見つめたまま眼球さえ動かすこともままならず、視界の外から響く奇妙な美しい声色を聞き続けるしかなかった。
【ご挨拶じゃねーか。人を現代アートみたいにしやがって。……何者だ、お前】
クロネの声は音声ではなくテレパシーのように脳内に響いた。
視界外の何者かは竹の葉擦れのようにくすくすと声をあげて笑った。
「最後に呼ばれたときは『妖精王』だったかな。でも呼び名なんかどうだっていいんだ。君が知っておくべきことはひとつだけ」
突然周囲が暗くひんやりと冷えていき、夜になったのかと錯覚しそうになった。数秒かけて自分が膝に顔を落としてうずくまって震えているのだと気づく。震える手で両耳を覆っても、旋律のような声はしかと届く。
「私は人類を憎み復讐を望む者。オブシディアンの係累たる君はその第一歩、最初の足掛かり。その心臓、私がもらい受ける」
サラは確かにこの場で二人の会話の一部始終を耳にしていたが、ほとんど記憶には残っていない。映画のカットが切れるかのように記憶がぶつ切りになっている。つぎはぎの記憶の次の場面は誰かに肩を叩かれたところから始まる。
「…くん、ミズキくん……!」
陽光に目を細めながら顔を上げる。光に慣れない視界でシルエットになっているジンはほっと胸をなでおろしているらしい。
「あぁ……良かった。何かあったんですか? 僕は会社の方に連絡してたりでこっちは見てなかったものですから」
差し出されたジンの手を取って立ち上がった瞬間、フラッシュバッグのように鮮烈な光景が蘇った。
「そ、そうだ、クロネくんは……!?」
首を振ると、存外近くに彼の矮躯があった。あの美しい死体ではない、間違いなく地に足の着いたクロネだ。彼にしては珍しく覇気が感じられず、ただでさえ小さい身体がさらに小さく感じられる。ジンとサラの視線に晒されてなお、彼は言葉を探すように俯いていた。
「……妖精王に会った」
二人が辛抱強く彼の言葉を待っているとようやくそれだけ言った。聞き慣れない言葉にサラは首を傾げたが、ジンの首はシャンとした。
「よ、よよよ……よ!?」
「現存する最古にして最強の精霊。視て触れて話し合えるのに、あらゆる機器で計測することが叶わず、存在を立証できない。……世界に遺された数少ない本物の幻想だ」
サラは夢から覚めた時のような奇妙な感覚に囚われていた。突如地面から生えた水晶がクロネを貫いた場面は鮮烈な記憶として脳裏に焼き付いている。にも拘わらず、それ以降おそらく『妖精王』が現れてからの記憶は水に溶かしたインクのようにぼんやりとしてしまい、輪郭が掴めないのである。
「しかし、不幸中の幸いでしたね。妖精王に会って何ともなかったなんて」
ジンが静まり返ってしまった場を和ませるように言うと、クロネはそれを叩き潰すかのようにあっけらかんと言い放つ。
「いや? 俺は心臓を奪われて半死半生だ。損傷箇所は回復できるが、奪われちまうと俺としても具合が悪くてな」
事が事すぎて言葉が出ない二人に畳みかけるように、クロネは淡々と事実を告げる。
「俺の命はあと1週間程度だ」
クロネはあのあと「詳しい話はまた明日」とさっさと帰ってしまった。頼みの綱であるジンも「仕方ないですね。それではまた明日」と爽やかに去っていき、サラ一人が置いてけぼりになった。
もちろんそのままボーッとしていうるわけにもいかず、サラは公園を後にしてバスに揺られて数十分後、社屋に戻ると討伐課のフロアに駆け込んだ。
「上溝課長代理!! 上溝課長代理はいらっしゃいますか?」
急き切って尋ねると、まさに上溝本人が手を揉みながら近づいてきた。
「おつかれさま! 試験は上々だったわね! まず落ちることはないから安心して」
上溝美佳子課長代理。現在は一線を退いて管理職に就いているが、かつては『微笑みの粉砕者』などと異名を取ったバリバリの武闘派である。その上、降霊術においても泰斗であるという、サラが尊敬する上司の一人だ。
糸のように細められた目と柔和な笑みがたおやかな印象の中年女性であり、一見すると小学校の先生のような印象を受ける。「課長代理」という肩書きではあるが、討伐課における実質的なトップである。
「本日の試験中に発生した事案について何点かご報告と質問があります。お時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「そうだよねぇ、聞く聞く、聞かせてぇ~?」
にこにこと頷かれると、保健室にでもやってきたような気分になる。パーティションで区切られた個室でテーブルに着くと、サラは猛然と切り出した。
「ジンさんからはどこまで聞いていらっしゃいます?」
「試験中にS級が発生したけど、我々でなんとかしておきました~、くらいね。……でもその様子だと、それ以上の『何か』があったってことかしら? 聞かせてくれる?」
白腕ちゃん発生の経緯、討伐後、妖精王が現れクロネの心臓を奪っていったことをかいつまんで話すと、上溝は感心と同情が半々に混ざったような顔をしながら、「大変な目にあったねぇ……」と呟いた。
「でも逃げずに戦ったのね。偉い偉い。いっぱい褒めてあげる」
見た目にそぐわぬ抜群の包容力には屈しがたく、サラも陥落までほんの数秒であった。
「怖かったです!!!! 本当に!!!!!」
弱音を吐くサラを口では「よしよし」と宥めている上溝だが、どうも思考の方は次の段階にシフトしているらしかった。ある程度のところで切り上げて居住まいを正す。
「そもそも今回の試験は最初から少し変だったと思います。どうして試験官が二人とも社外の人間だったんですか?」
賄賂などの不正を防ぐために受験者は当日まで試験官が誰になるのか知らされることはない。サラも試験会場の廃ビルでジンとクロネに会って、ようやく「はて?」と疑問に思ったのである。
「そっか、そうよね、そこからよね。私より左右田課長の方が詳しいから彼に代わる(・・・)わね」
上溝の言葉にサラは心の中で警戒態勢を取った。彼らの「入れ替わり」は何度か目にしたが、何度見てもギョっとしてしまうのだ。
上溝が目を瞑り、小声でもごもごと何事か呟いたかと思うと突然脱力しゴチーン!と盛大に机に額をぶつけた。彼女は呻き声のひとつもあげず硬直したままで、それが十数秒も続くと不安が募って来る。気まずい時間を耐え抜くと、ようやく『彼』が上体を起こした。
「やぁ、お待たせしました。上溝に代わりまして、左右田です」
左右田恒一、討伐課の課長である。15年前に鬼籍に入り、幽霊となった今も課長職を全うする生粋の仕事人間であり、上溝が必要に応じて左右田を呼び降ろしている、らしい。初見では少し…結構…大分取り乱したが、数回目ともなれば平然とした風体を保つことが出来た。柔和な笑みはそのままに瞳がキリっと見開かれ、「先生」は「先生」でも弁護士のような印象になる。
身体は当然上溝のままだが、仕草やしゃべり方、雰囲気は一変しており、もしこれが演技だったとしたらさっさとハリウッドに突き出すべきだ。おかげで「彼」をすんなり別人だと受け入れられた。
「さて、まずは謝辞を述べよう。キミたちの迅速な対応によりS級精霊により被害を最低限に抑えることが出来た。特にキミは試験中だったにも関わらず、協力してくれた。特別手当は出すから安心してね」
左右田はわざわざ椅子を立ち、深々と頭を下げた。慌ててサラも立ち上がりそうになったが、左右田に手で制され、浮き上がった腰を椅子に落とす。
「では本題だ。まずは今回の異動試験の経緯をまとめようか」
左右田は椅子に座り直すと、神妙に語り出した。
「きっかけは半年前までに遡る。我が社の周辺、下柳地区で観測される精霊の数が異常に減少したんだ。うじゃうじゃいたのが、突然皆無と言って良いレベルで減ったら調査しないわけにもいかないだろう? そこで我々はジンさんに調査を依頼し、原因を特定、キミにたどり着いた。……ここまでは一か月前にも伝えたかな?」
サラはコクリと頷いた。
「私は『超除霊体質』──周囲の精霊をのべつまくなし除霊してしまう異能があるんだ、と聞かされたときは本当にびっくりしました」
「逆に私はキミの食いつきの良さに驚いたよ。討伐課はうちのメインだし花形部署と言えるけど危険な業務が多いからね。異動に難色を示す人は少なくない。……なのに、キミはむしろ目がキラキラになってたからねぇ」
確かに目の色を変えて飛びついてしまったような記憶がある。改めて指摘されると急に面映ゆく感じて頬が熱くなってくる。
「い、今までの人生、霊感ゼロだと思ってたので討伐課なんて夢のまた夢だと思ってたんですよ。そもそもこの会社に入ったのも精霊討伐や資源化に関わって社会貢献したかったからですし……」
手で頬を包みながら視線をそらすと、くすりという控えめな笑い声のあとに言葉が続く。
「キミの能力は常時展開されている上に、無意識に行っているようだからね。下級の霊はキミが認識するまでもなく除霊されてしまうし、中級以上の精霊はキミの存在を感知してさっさと逃げる。だからこれまでの人生でキミが精霊の類を目撃することはなかった、という次第のようだ」
サラの脳内のイメージでは、頭に蚊取り線香を生やした自分がゆく先々で蚊を蹴散らしている様が浮かんでいた。つまり、サラの視界に入るのは蚊取り線香をものともしない凶悪な蚊──もとい凶悪な精霊だけ、ということらしい。
入社に合わせてこの下柳地区に引っ越してきたせいで、一帯を大掃除したかのように幽霊の類が消えた事でサラの能力が顕在化したというわけである。
「あれ……今更ですけど、左右田課長も幽霊ですよね……? 平気なんですか?」
左右田はその質問には答えなかった。ニコリと綺麗な笑みを作って、サラの降参を待っている。有無を言わさぬ笑みに反発するような無駄な骨は持ち合わせていない。白旗の笑みを返すと、何事もなかったかのように左右田は話をつづけた。
「まさかウチの社員が原因だとは夢にも思っていなかったが、タナボタってやつでね。討伐課はいつも人手不足だし、精霊を一方的にノーガードでぶん殴れる逸材を放っておけなかった。……それでキミも承知の通り、1か月間の訓練の後、今日の討伐課への異動試験って運びになったわけだ」
言われてみればまだほんの1か月だが、サラには遠い過去のように思えた。異動の提案を受け入れたものの、サラに戦闘経験などない。運動神経には自信があったが、戦闘とは次元が違うのは明白だった。討伐課用のAI精霊の模擬戦で日夜特訓に明け暮れた日々。疲れた体に染み入る炭酸飲料の甘さ……。
回想に耽っていると左右田がじっとサラを観察していることに気付いた。曖昧に「あの……」と尋ねると、「ごめんごめん」とはにかんでいる。
「無傷だな、と思ってさ。白腕ちゃんという凶悪な精霊に徒手空拳で挑んで、無傷で帰ってこれるのは世界中探してもキミくらいだと思うよ」
言われてサラも自分の身体を見下ろした。確かにかすり傷ひとつ負っていない。戦闘の最中は無我夢中だったが、白腕ちゃんが一切反撃してこなかったとは考えにくい。サラの体質が奏功し、攻撃を無効化したと考えるのが妥当だろう。
「ジンさんも電話口で『S級精霊をはんぺんでも削るみたいにボコボコにしてましたよ! 最強です!』って興奮してた」
左右田は笑いながら言った後、咳払いして続ける。
「脱線したけど、キミの調査依頼をした縁もあって、そのままジンさんに試験官もやってもらう流れになったんだよね」
「魔術師って一般企業の依頼でも受けるものなんですね。もっとお堅いというか、腰が重たいイメージでした」
海外、特に欧州の一流企業はまず間違いなく顧問魔術師を雇っているらしいが、魔術文化圏から遠く、独自の神話体系を持つ日本ではその存在は都市伝説と化している。実際、魔術師を名乗る輩による詐欺も度々起きており、完全に眉唾物と化している。サラの記憶が正しければ、日本国内のプロの魔術師はせいぜい50人もいなかったはずだ。そんな希少な人材に試験官を務めてもらったことが急に光栄なことのように思えてくる。
「ジンさんもウチの依頼じゃなきゃ受けないと思うよ。そもそもこの会社を創ったのがジンさんだから、頼んだらそこそこ聞いてくれるんだよね。もちろん依頼料取られるけど」
サラはバッと首を振って「創業30周年」と書かれた自社のカレンダーに視線を注ぎながら尋ねた。
「……ジンさんって何歳ですか?」
「確か……43歳じゃないかな」
「それだと13歳の時に会社を創ったことになっちゃいますけど」
「うん。中学生のときに創ったとか言ってたから合ってるよ。初めて創った会社だから愛着があるんだってさ。今でも年末年始とかたまに挨拶に来るよ」
サラは絶句するしかなかった。開いた口がふさがらないとはまさにこの事だ。中年の剽軽なおじさんにしか見えなかったジンがまさか中学生で企業するほどの傑物だったとは思いもよらなかった。
サラはしばし放心し、ぼんやりとカレンダーを見つめていたが、左右田がしきりに目配せし続きを話したそうにしているのに気づいて開いていた口を閉じた。彼はわざとらしく咳払いすると、話を続ける。
「クロネくんに試験官をお願いした件についてはちょっとイレギュラーというか……。ジンさんに調査を依頼した時に『報酬はクロネくんとのコネで!』って言われちゃってね。クロネくんの都合とか合わせたらああいう形になったんだよ」
そういえばクロネと対面したときのジンはいかにもな猫撫で声で擦り寄っていたな、と今更のように思い出す。クロネの正体について疑問に思えど、それどころではなく結局ペンディングしたままになっていた。
「コネ、というと……? クロネくんはどこかの御曹司だったりするんですか?」
正直に言えば「身体をずたずたのぐちゃぐちゃにされたのにピンピンしてたんですけど、吸血鬼か何かですか!?」と尋ねたかったが自重した。すると左右田は一瞬ぽかんとしたあと、急に手を打った。その音に思わずびくりと肩を揺らす。
「あぁ! 入社半年じゃ知らなくても無理はないか。クロネくんはね、黒曜の長男なんだよ。もう廃嫡されてるから苗字は禍津になってるけど」
サラはぱちくりと目を瞬かせてから、おもむろに胸に手を当てて深呼吸した。間違いなく「コクヨウ」と聞こえたが、少なくともサラの知る「コクヨウ」ではないはずだ。もしかしたら「コクヨ」の音節が伸びてしまっただけかもしれない。もう一度深く息を吸ってから、努めて平静を装い、尋ねる。
「まさか『コクヨウ』って黒曜石の黒曜じゃないですよね? そんなこと、あるはず……」
「俺も初めて知った時は驚いたよ。でも、残念ながら黒曜石の黒曜なんだ」
左右田の声が遠く、スロウに聞こえる。まるで水中にいるかのように物の輪郭が溶け、視界の中でぐわんぐわんと揺れていた。急激に思考が鈍化していくのに、焦燥感だけがむくむくと育っていく。
『黒曜』──神話の時代に日本に飛来した『天来の黒曜大神』とヒトが交わり、今に至る家系である。東京都八王子市に邸宅を構えており、サラの実家も同市に存在していたため、『黒曜』に対する畏敬の念は幼少より教え込まれてきた。神の係累であり、現人神である彼らはどんなにヒトに似ていても、ヒトに非ざる者なのだ、と。
「クロネくんさん、クロネ様? いや禍津様? 今更呼び方を変える方が失礼かも……、待てよ……そもそも名前を口にするのも不敬だったんじゃ……」
冷や汗をかきながら、今日の出来事を思い返し、粗相がなかったか?と確認していくが何もかも全部粗相だったような気がしてきてしまう。胃がむかむかと強張っているのがありありと伝わって来る。もはや表面だけの平静さえ保てず、戦慄いた唇で尋ねる。
「こ、ここ、こ、こここここ」
「『黒曜の長男が市井をぶらぶらしているはずがない?』」
鶏のようになってしまったサラの思考を左右田が代弁すると、サラは首をガクガクと縦に振った。
「黒曜と完全に縁を切ったわけじゃないらしいけど、クロネくんはあくまでも『禍津黒祢』という一般人だからね。好き放題ブラブラしてるみたいだよ」
鶏の次は魚のように口をパクパクとさせるしかなかった。かなり間抜けな顔を晒していただろう。
「と、と、討伐課とクロネくんの関係は……?」
「12、3年前にクロネくんの側から売り込んで来たんだ。『俺が力になってやるから仕事を回せ』ってね。それ以来、業務委託契約って形で月に2、3件お願いしてるんだよ。討伐課は常時人手不足だから正直ほんとに助かってる」
神に連なる家系の者が自由に市井を歩いているというのも衝撃的だったが、仕事をしているというのもまた衝撃だった。王子様がお忍びで城下にやってきてコンビニでアルバイトをしてるんだ、と言われたような気分だ。
「ん……? 12、3年前って言ったらクロネくんは子供じゃないですか」
今も子供みたいな見た目だけど、という言葉を飲みこみながら尋ねると、左右田は肩をすくめてみせた。
「生後半年からあの姿なんだってさ。その辺はカミサマっぽいんだよね~」
サラは引きつりそうな頬で愛想笑いを浮かべて見せたが、数秒待っても「冗談だよ」というオチはつかなかった。沈黙を納得と受けとったらしい左右田は話を続ける。
「クロネくんみたいな現人神さえ働く時代ってことさ。俺だって死んでるのに仕事続けてるし。俺もクロネくんも所詮はただの社会人だよ」
冗談めかしてても左右田の言いたいことは明白だった。この時のサラは福笑いのような奇妙な表情を浮かべていただろう。気さくで頼もしく、鈴の音のような声でサラを鼓舞してくれた「クロネくん」と、20余年抱き続けていた「黒曜」に対する畏敬の念が心の中でマーブル模様を創り出す。
──カミサマは『人間の不在』を意味する言葉なのよ。
母はお盆の季節になると、サラにそう言い聞かせながら窓の外──黒曜家の方角を見ていた。「どういう意味?」と聞いても母は答えず、サラを抱き寄せるだけだった。子供を脅かすための安っぽいフレーズではない、と解るようになったのは10歳の頃だろうか。母の背に回した腕をぎゅっと強く締めると、「苦しいよ」と笑いながら頭をなでてくれた、その手の冷たさをまだ忘れられないのだ。熱交換のように分け合った感情は母が亡くなってもまだサラの中に燻り続けている。
クロネの絵画のように整った横顔や、あっという間に塞がる傷、小学生じみた矮躯に、対照的に大人びた笑み。過去の光景がフラッシュバックのように呼び起されていく。
記憶の上映会は彼の小さな手を大写しにしたところで止まった。身体に染み込んだ畏敬の念をそう簡単に覆すことは出来ないが、それでもサラの心は決まっていた。
「……ご承知の通り、私は精霊に脅かされる人々を助けたいんです。クロネくんは今まさに妖精王という精霊に脅かされています。彼が現人神であったとしても助けたいという気持ちに偽りはありません」
言の葉に乗せると、驚くほど自然に笑うことが出来た。顔をあげると、口元に笑みを浮かべつつ眉をしかめ、泣き笑いのような顔をしている彼と目が合う。
「正直、迷っていたんだ。キミはまだ平和の中にいるべきなのかもしれないって。……でも、俺も覚悟を決めるよ」
左右田はポケットからスマホを取り出すと、サラが読めるように向きを変えてから差し出した。おずおずと受けとり、眺めると赤い画面に黒い文字で表示された「召集令状」という文字にくぎ付けになり、無意識に息を飲む。詳細など読まずとも意味は一目瞭然だった。
午後の仕事に取り掛かろうという同僚たちに引け目を感じつつ、サラは社屋を後にした。精神的にも肉体的にも疲労困憊だったため午後休は正直ありがたい。
平日の昼間とはいえ、駅前はなかなか賑わっていた。そういえば駅構内に併設されたデパートがリニューアルオープンした、とチラシを配っていたなと今更のように思い出す。
駅前広場にはロータリーやファストフード店がひしめき合い、あたりにはカレーのようなスパイシーな香りがただよっている。老若男女、国籍も様々な人々の行軍を半ば無意識に観察しながら、青信号に歩を進めた、その時。
「あ……!」
向かいの歩道で驚いたような女の子の声があがった。同時にオレンジ色の風船がぷかりと空に浮かびあがる。周囲の人間が一斉に上を向く中、サラだけは前を見据えて駆けだしていた。向かいの電柱までの約3メートルを一気に加速し、電柱を駆けあがって、跳ぶ。いっぱいに伸ばした右手に風船の紐を捕えると、踏み外さないよう気をつけながら着地する。
踵を返すと、皆一様にぽかんとしていた。青信号なのを良いことに横断歩道の真ん中で立ち尽くしている。風船を手放してしまった女の子も風船よりもサラを見上げて口をあんぐりと開けていた。
「もう離さないようにね」
速足で女の子に歩み寄り風船を手渡すと、返事も待たずにそのまま歩き出した。少々冷たい態度だが、結局「何かお礼をさせてください!」を避けるにはこれが一番効率が良い。つくづく、日本にチップの文化がなくて良かったと思う。もしここが欧米ならサラのポケットは帰宅までに硬貨でパンパンに膨れてしまうだろう。
背後からの「ありがとー! 忍者のお姉さん!」という声に振り返らないまま、軽く右手を振ると、思わず頬が緩んだ。
──あぁ、やっぱり「私」は誰かの役に立てるのが、とても……
「うっ……」
突如おとずれた眩暈のような感覚に思わず足を止めた。痛みがあるわけではないが、強烈な不快感がこみあげてくる。頭を押さえて俯くと、床に生えている目とバチリと視線がカチあってしまった。恐ろしくて視線を逸らすと、壁にも、天井にも無数に目が生えていた。幻覚に過ぎないと分かっていても怖いものは怖い。
──無数の自分の目に凝視されている。幼い頃から脳裏にこびりつき、油断していると鎌首をもたげてくる幻覚症状。もう慣れっことはいえ、恐ろしい感覚にじっとりと嫌な汗をかいている。
サラはよろよろと壁に近づきもたれかかると、幻覚を払うように首を振ってから深呼吸をした。傍目にはありふれた片頭痛や貧血の症状に見えるのだろう。行き交う人々はサラのことなど一顧だにせず、目的地へと歩を進めている。
呼吸を整えながら、必死に視線を巡らせて困っている人を探す。なんでもいい、道に迷った外国人でも、重い荷物を運ぶ老人でも、親とはぐれた子供でも。誰かのために身を削れば、こんな目の事なぞ忘れられる。
──誰か、誰か、誰でもいいから、私に助けさせて欲しい。
「おや。ミズキくん、どうしたんですか? 具合がよろしくないご様子ですね」
サラが奉公先を見つける前に声をかけてきたのは、先ほど別れたばかりの魔術師・ジンだった。
「ジン、さん……。どうしてここに?」
「単なる偶然ですよ。ひいきにしてる喫茶店がこのあたりにあって、一服しようと……なんて、僕の話はいいんですよ。問題は君です。真っ青じゃありませんか。どこかで座って休んだ方が……あ、それこそ喫茶店に行きましょうよ。うんうん、近いしちょうどいい! 決定! GOGO!」
「いえ、平気ですから……」
「遠慮は無用! 一人で飲むより話し相手がいた方が楽しいお茶になりますからね。ね、僕を助けると思って(・・・・・・・)!」
案内された喫茶店は「紅茶喫茶ティーレスト」と看板を掲げていた。名前だけ聞くと昭和情緒あふれる古式ゆかしい喫茶店を思い浮かべてしまうが、内装はかなりイマドキだ。高い天井には大きな採光窓があり、小春日和の優しい陽光が店内を満たしている。ジンは店員とも懇意なようで、入店するなり「どうも~」とだけ声をかけてずんずんと奥に進んでいく。キョロキョロと店内を観察していると至る所に動物の置物が飾ってある。特に目を引くのは帽子を被ってティーカップを携えたウサギの置物だ。飾り棚の上でネコやクマ、アヒルがともにお茶会に興じている。コンセプトは動物たちのお茶会、と言ったところだろう。SNSに興味がないサラはフォトジェニックな光景に一瞥をくれるだけで通り過ぎる。
「僕のおごりですから、好きなのを頼んでくださいね。ちなみにオススメはサングリアティーソーダフロートです」
一番奥のテーブルに着くと、ジンに手渡されたメニューを眺めてみる。3ページほど捲ってみたが、どれもピンと来ず、結局ジンのおすすめを頼むことにした。ジンは既に決まっているらしく、サラがメニューを放棄すると店員を呼ぶ。
「サングリアティーソーダフロートとヌワラエリヤのストレートで」
数分待つと、レトロな雰囲気の脚付きグラスに並々と注がれたサングリアティーソーダフロートに、湯気立つ琥珀色の「ヌワラエリヤ」が運ばれてきた。カレーのような名前だと思っていたが、ちゃんと紅茶らしい……とジッと眺めてしまう。
「僕は日本生まれの日本育ちですが、父がイギリス人でしてね。その影響もあって紅茶には目がなくって。ヌワラエリヤって言うのは……」
興味があると勘違いしたジンの紅茶トークをBGMのように聞き流しながら、ティーソーダフロートをかき混ぜ、一口。
「美味し……」
思わず声が出た。サングリアのフルーティーな風味が弱炭酸によく合っている。バニラアイスはシロップ替わりにソーダ全体に甘味と特有のコクを与えており、紅茶の渋みや苦みを打ち消していた。続けざまに2口、3口とスプーンを口に運ぶ。アイスの溶け具合で味にムラが出来る事に舌が喜んでいる。
「でしょう!? 爽やかフルーティー! でもしっかり甘くて美味しいですよね!」
食に頓着するタイプとは言い難いサラだが、手が止まらずあっという間に完食してしまった。
「……どうです? 落ち着きましたか?」
余韻に浸っていたサラはジンの言葉で我に返り、慌てて返事をする。
「は、はい。すみません、お気遣い頂いて……」
「気遣いなんてとんでもない。これはただの罪滅ぼしですよ」
「……?」
わけがわからない、と顔に出ていたのだろう。ジンは苦笑しつつ続けた。
「左右田さんから話は聞いたでしょう? ミズキくんの体質……異能を見つけたのは他でもない僕ですから。今日あった出来事は僕にも責任の一端がある、というわけです」
サラはやおらに首を傾げた。
「ジンさんは会社に依頼された仕事をこなしただけじゃないですか。その結果、私がどんな目にあったところでジンさんの責任ではないと思いますけど」
心底からそう思っているのだが、ジンは納得できない様子でうつむきがちにヌワラエリヤが入ったカップを見つめている。琥珀の水面に映る自分を眺めているのかもしれない。
「……僕は他人と自分なら、絶対に自分の方が大事です。一人乗りの救命ボートしかないのなら、容赦なく誰かを蹴落として自分だけ生きようとする。僕はそういう人間です」
長い沈黙の果て、ジンはようやく口を開いた。サラは黙って耳を傾ける。
「ですが、君は違う。いつも人助けに執心し、22年間で警視総監賞を3回も取っているとか。動画サイトでは親切無双なんて呼ばれてバズってましたし」
前者は承知しているが、後者は全く与り知らない。親切無双ってなんだ。
「間違いなく善き人である君の人生を悪い方向に捻じ曲げてしまったのではないか、と。僕はそれが気がかりなんです」
サラは空のグラスから視線を外し、採光窓の向こうの空を見上げた。数秒の思案の末、突き放すような言い方にならないよう気を付けながら答える。
「私にとって人助けはストレス発散や趣味のようなもので、別に博愛主義者ってわけじゃないんです。ジンさんが思っているような素晴らしい人間なんかじゃないですよ、私」
サラが抱える『自分の目に監視されている』という幻覚症状から逃れる一番手っ取り早い方法が『我を忘れるほどに没頭すること』で、その手段として人助けを選んだというだけの話である。今回のように喫食で解決することだってできるのだ。
「……ふっふっふ! おまけに謙虚とは何たるヒーローマインド! やはり本物ですねぇ、君は」
ジンは肩を揺らしながら笑い声をあげている。サラはどう反応するべきか迷って、曖昧な表情を浮かべたまま固まった。
「マスター! おかわりくださーい! ミズキくんもどうぞどうぞ! あ、時間が許すようなら、ですが」
首を振って時計を探すが、生憎この席からでは壁掛け時計はほとんど死角だ。カバンからスマホを取り出そうとすると、ジンが先んじてスマートウォッチを差し出してくれる。
「え……?」
しかしそこに映っていたのは時計だけではなかった。直前まで見ていたウィンドウを閉じ忘れたのか、あるいは。
「ジンさんも……?」
「『も』ということは、やはり君だったんですね。3人目は」
彼のスマートウォッチに表示されているのは召集令状──赤紙だった。愕然と画面を見つめていると、不意に彼の左手が引っ込められ、代わりに右手が伸びてくる。
「君のような頼もしい人が一緒で心強いですよ。改めて戦友として、このアライ・ジン・フィンレイ、微力ながら全力を尽くしますので!」
輝く笑顔に気圧されるように彼に手を取ると、ぐっと両手で包み込まれ、さらに上下に揺さぶられる。何かの式典の握手のようだなとぼんやり考えつつ、されるがままになっていると、電球の光が遮られて暗くなった。右を見遣ると遮蔽物となっている大柄のマスターが二人を見下ろしている。
「ご注文、お決まりですか」
底なし沼から響いて来ているような、低く暗い声に背筋が凍りそうになった。オイルの足らないロボットのようなぎこちなさで首を動かすと、ジンは未だに得意満面である。パッとサラの手を離すと、マスターに向き直った。
「もっちろんです! スコーン2つ、クロテッドクリーム付きで。それからオレンジペコ! あとオムライスと、シーザーサラダ!」
ジンの注文が終わると、マスターはぎろりとサラに視線を移した。びくびくしているのを包み隠しながら、空になったグラスを指さし「同じものをもう一杯」と声を絞り出す。
マスターは伝票にメモする手を止めると、再び鋭い眼光でサラを射抜いた。
「……お気に召しましたか」
「は、はい! とても!」
やや上擦った声で答えると、ピクリと表情筋が震えた。何か逆鱗に触れてしまったのか、と構えていると彼は「ありがとうございます」とだけ言い添え、空いた食器を持って引っ込んでいってしまった。思わず、ふぅと息を吐く。
「ふふ。マスターも嬉しそうでしたねぇ。これは飲まなきゃ嘘ですねぇ」
サラは盛大に表情をゆがめた。
「嬉しそう、でしたか……? 私には怒りで爆発寸前、みたいに見えましたけど」
「マスターが顔をぴくぴくさせてるのは笑ってる証ですからね。今日はばっちり100%スマイルでしたよ」
なまはげの鬼面のごとき表情を思い浮かべながら、サラの脳裏はしばらく疑問符で満たされることになった。
(でもまぁ、いいか。誰かを喜ばせられたなら)
ジンのよもやま話を聞き流しながらサラは思う。これまでも、これからも変わらない。誰かの幸せがサラの幸せ。それが全てで、他の方法で生きていくことなど想像できないのだ。
以上、今日の回想。
肉体労働+暴飲暴食=とてつもない眠気。サラは誰もが知る自然の摂理の渦中にいた。最初は遠慮していたが、ジンの豪快な食べっぷりに触発され、同じように制限なく食べていたらこの有様だ。酒類は一切摂っていないが、気づけば二人とも場酔いしたような状態で話が弾んだ。ジンは意外にも聞き上手で、どちらかと言えば寡黙な部類に入るサラの話をするりするりと引き出して見せた。仕事以外であんなに話したのはいつぶりだろうか。
「ふふ……私専用の武器を作ってくれるって本当かな……」
シャワーを浴び、髪を乾かしているとき、ふと気になった。泡沫のように溢れた言葉の群れ群れのひとつに過ぎないが、『専用』という響きにはときめくものがある。
ドライヤーの電源を切ってラックに戻すと、ふわふわとおぼつかない足取りでベッドへ向かい、半ば倒れ込むように布団に潜り込んだ。
膝を折って、「本当にお疲れ様でした」と自分自身に対して頭を下げたくなるような激動の一日だった。蛍光灯の輪っかをぼんやりと見ながらウトウトとしていると、いよいよ睡魔が意識を刈り取ろうと本腰をいれてくる。煌煌と光る電気が瞼の裏にまぶしい。手探りでサイドテーブルのリモコンを探しながら、「この電気の中にも精霊エネルギーが含まれているんだろうか」と何となしに考えた。
精霊エネルギーの運用が現実になって20年ほど経つが、日本の使用電力のうち精霊エネルギーは5%程度にとどまる。エコやらSDGsやらの観点で精霊エネルギー使用率増進を政策として掲げていても遅々として進まないのが実態らしい、といつかのニュースの内容を反芻する。
(父さんや母さんが電気になる日も来るのかもしれないなぁ……)
探り当てたリモコンで消灯すると、瞼の奥の残像が浮かんだ。思考が泥沼に浸かったように鈍化し、瓦解していく中、輪っかの残像を見つめ、思う。
【神災レポート②】
当該事案が『神災』と認定されたのは事件からわずか一週間後のことだった。世界のありとあらゆる媒体にスパムメールのように送り付けられた悪趣味な犯行声明によって、犯人、動機、居なくなった人々の行方が明かされたのだ。その内容を要約すると左記の通りである。(原文ままではなく、意訳であることを留意されたし)
《100億人失踪事件の犯人は私、「■■■■■■■」である。殖え過ぎた人類を間引くための神による裁定、すなわち神災である。預かった100億の身柄は地球から10光年先の惑星「■■■■」にある。転移による減損は0名であり、寿命・病死・殺人・自死を除く死人は出ていない》
この声明に世界は更に混乱することになった。人口問題は世界中の人間が抱える共通の課題であり、本来は人類がその手が解決するべきだったのだ。それを斯様な神業によって解決するのは人類に対する最大の冒涜である、と少なくとも筆者は考えている。
サラが帰社した頃、クロネは八王子駅北口のペデストリアンデッキを歩いていた。猛暑や雪など極端な気候で知られる八王子だが、今日は穏やかな五月晴れだ。昼時だからか、バスに長蛇の列を成す大学生の姿も今は見られない。向かいに建つスクエアビルに掲げられた「ハロウィンセール開催中!」の垂れ幕をぼんやりと眺めつつ、階段を下りた。
タクシーを拾うと、運転手に告げる。
「黒曜まで」
「はい、黒曜までね~」
運転手は黒曜の名に驚くことなく、スーパーサインを賃走に切り替えて車を出した。
「随分久しぶりでしたねぇ。2年ぶりですか」
「ほぉ~。……接客業ってのはすごいな。正解だ」
「ヒヒヒ。年の功ってやつですね。しかし、坊ちゃんがいらっしゃったってことはまた厄介事を抱えて来たんでしょう?」
運転手が冗談めかして言うと、クロネは「ククク…」と笑い声を漏らし、上機嫌に答える。
「あぁ。俺は『禍津』、厄病神だからな」
運転手はクロネの自虐じみた言葉を気にする様子も無く、「そうでしたねぇ」とうなずく。
運転手はそれ以上は何も言わず、粛々と目的地へと車を走らせた。約15分、山の入り口でタクシーを降りる。
「料金は黒曜付けで」
タクシーが去ると、クロネは神社の参道のように長く伸びる階段を見上げた。こうして目の前にすると天まで続いているかのように思える。紅葉シーズンにはやや早いため、木々は青々と茂り山特有の湿った匂いを醸し出していた。詩人が見れば一句詠みたくなるような情緒ある風景であろうが、クロネは一言で吐き捨てる。
「あーあ。なんで山なんだよ、黒曜。ビルにしてくれよ」
2年前と全く同じ文句を言いながら、クロネは一歩踏み出した。石造りの階段は隙間に苔が生えているくらいで、綺麗に掃きしめられている。黒曜の屋敷まで400段もあるというのに、誰が掃除をしているんだろうか。
益体もないことを考えながらペースを落とさず、せっせと登る。早鳴る心臓は存在せず、呼吸が乱れることもない。葉擦れと足音だけが響く静謐の中を登り続け、わずか10分強で踏破すると、厳かな雰囲気の日本家屋が現れた。
そこは幻想の居城だった。桜の花びらが舞い落ちる中で山茶花と沈丁花が競うように咲き誇り、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。甘い空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐く。木々と花の匂いに交じって微かにみそ汁の匂いがする。ちょうど昼時だから誰かが食事の準備をしているのだろう。山は嫌いだが、この匂いは嫌いではない。
目を細めて見上げた空はまるでパレットのように様々な色が入り混じっている。宝石のような夜空に、吸い込まれそうな無窮の青空、黄金色の夕焼け空。画家や写真家なら垂涎の光景だが、クロネは一瞥しただけで歩き出した。玉砂利を踏みしめる音を楽しむ余裕もなく、そのまま前庭を抜けて表玄関を目指す。
クロネが玄関にたどり着いたのとほぼ同時に、やにわに引き戸が開いた。半白の毛髪からポマードの香を漂わせた、いかにも執事と言った風体の初老の男性が顔を出す。
「お待ちしておりました、クロネ様」
「久しぶりだな、瀬上。早速だが通してくれ」
黒曜の屋敷は一見すると古めかしい武家屋敷のようだが、内装は和洋折衷になっている。違い棚に掛け軸の『いかにも』な書院造の和室もあれば、絨毯敷きでテーブルとソファが並んだ洋室もある。奉公する使用人の服装も同様で、瀬上は仕立てのいいロングテールコートを着ているが、通りすがる女中は紺の着物に前掛けのスタイルだ。
古色蒼然とした廊下はまるで時代劇のセットのようだが、LED照明の白い光がそれを現代へと引き戻している。相変わらず変な家だな、と考えながら瀬上の背を追いかけ、長い廊下を抜けると「光明の間」にたどり着いた。この部屋は黒曜にとって特別で使用人でも限られたものしか入室することができない。字義の通り、世界を照らす光の住む部屋なのだ。瀬上が「ごゆるりと」と言って下がる。クロネは軽く礼を言うと、襖に手をかけた。
30畳ほどの殺風景な部屋の奥に、彼女は座していた。クロネに気付くと、絹のようななめらかな声で話しかけてくる。
「兄上、会えて嬉しいですよ。2年と4ヶ月ぶりになりますね」
「……」
部屋の奥は3段ほど高くなっていて、左右に上り下りのためのキャスター付きの階段が設置されている。壇上は祭壇のようになっていて、お樒の葉に加え、中央に座した彼女の前には酒が注がれたお猪口が台座に乗せられて供えられていた。
「いつも申し上げておりますがね、貴方は私の兄上なんですから、許可なく話して頂いて結構ですよ」
「……はぁ。んなこと言われてもな。俺にだって立場ってもんがある。お前は俺の妹である以前に黒曜の当主なんだ。俺が気安く話しかけていい相手じゃない」
黒曜の現当主。黒曜吏人は女性としてはかなり大柄で体格が良く、若いながらも威厳を感じさせる。黒い着物よりも、更に黒く艶やかな濡れ羽色の髪が印象的だ。彼女は柔和な笑みを浮かべたまま、春風を思わせる穏やかな声色で続ける。
「妖精王に心臓──、神核を奪われてしまったとか。相変わらず、とんでもない厄介事を抱えていらっしゃる」
皮肉のような言葉も彼女が発すると子犬のワルツのような軽やかさが宿る。クロネはこくんとうなずいた。
「耳が早いな。ヤツは人間に恨みがあるらしい。それで手始めに俺を刺しに来たってわけだ」
「なるほど。確かに我々の神核を武器にすれば人類絶滅くらい容易い。抜け殻の身体はしばらく放置しておけば朽ちるから一石二鳥というわけですか」
リヒトはまるで世間話のような穏やかさで話していたが、不意にクロネをまっすぐに見据えた。
「して、兄上の余命は幾何で?」
「幾何もねぇよ。大体1週間だ」
「おやおや。……取り返す算段はないのですか?」
「俺も死にたくねぇから、足掻きはするさ。とはいえ相手は相手だからな。今生の別れに言いたいことがあれば聞いてやるよ」
自らの死に対して、あまりにもあっさりとしているクロネの言葉にリヒトは少し困ったように笑ってから呟いた。
「私なら、妖精王にも敵うでしょうか」
リヒトの言葉にやや面食らいながら、クロネは尋ねる。
「……それはまさか、お前が俺の神核を取り返して来る、って意味か?」
「えぇ。兄妹は助け合うものでしょう?」
クロネは思わず額を押さえた。てっきり「そうですか、残念ですね。残りの生涯を息災にお過ごしください」くらいで済むとばかり思っていたのに、話がややこしくなってきた。嘆息せざるを得ない。
「この2年でどうしちまったんだ……。お前は現人神、黒曜の当主なんだ。家族ってだけの俺を助ける義理もないだろうよ。更に言えば、妹を危険にさらしてまで生きたいとは思わない。俺は兄として、禍津として、お前が戦うことを望まない」
にべもなく拒否すると、リヒトは悄然と肩を落とした。同時に部屋まで暗くなった気がした。
「そのように言われてしまうと、私も返す言葉がありませんね」
「そんな顔するなよ。リヒト、お前は俺みたいな無能とは違う。不肖の兄貴を気にかける必要は無い」
クロネの言う「無能」は決して自虐ではない。黒曜に生まれた者は皆、神性を宿し現人神として力を持つ。しかし、クロネはありとあらゆる能力が規定以下の「無能」だったのだ。
「黒曜の長男に不自然なまでの無能が産まれた」という異常事態には大きな意味がある。各地から有識者が集められ議論を重ねた結果、クロネは「弱さを与えられた神」なのだと結論された。全てのステータスが最低なのは意図されたもので、『弱い』という役割を与えられた結果なのだ、と。
そして悪神や悪霊を篤く奉る御霊信仰に基づいて、クロネは『禍津』という災厄を司る神の名を姓として与えられた、らしい。クロネも経緯については伝聞でしか知らないし、さほど興味もなかった。
クロネは改めてリヒトを観察した。2年前に会ったときと姿形は変わっていない──というより、クロネもリヒトも生後半年には成体となり、以降は精神も肉体も成長するはずがないのだ。13歳というリヒトの実年齢も精神の成熟度を語る上では何の参考にもならない。
ふと、リヒトが産まれた頃のことを思い出す。
「産まれた」と言っても分娩されたわけではない。父祖たるオブシディアン──黒曜に祀られた本尊である巨大な黒曜石から分かたれた欠片──神核が受肉し、ヒトの形を取った者がクロネとリヒトである。
忘れもしない13年前の2月8日。早朝は氷点下で、粉雪がちらついていた。わざわざ雪の中外出する必要もなく、暖房の効いた屋内でぬくぬくと自堕落に過ごしていると電話が鳴った。急ききった瀬上の声を聞き、クロネはコートを着るのも忘れて屋敷を飛び出した。タクシーの車内はともかく、黒曜の長い階段を駆け上っているときも一切の寒さを感じなかった。それほど興奮していたのだろう。走って走って走って、そしてついに赤ん坊のリヒトに対面した、その時──。
「兄上?」
その声にクロネはハッと我に返った。
「……あー。わかった、わかったよ。ちゃんとお前の助けも借りる。だから、『妖精王と戦う』なんて絶対にしないって約束してくれ。な?」
追想を終えるとクロネはついそのように口走っていた。可愛い妹に悄然とされて逆らえる兄がいるだろうか? いや、いるわけがない。いたらソイツは兄失格の追放処分だ。
途端にリヒトは背筋をしゃんと立て直し、居住まいを正した。慈母のような笑みを浮かべる彼女を見てクロネは心中で嘆息しつつ、踵を返した。光明の間を出ると、控えていた瀬上に小声で問う。
「あいつ、いつからあの調子なんだ? 急に家族ごっこに目覚めやがってよ。やりづらいったらありゃしねぇ」
「おや、リヒト様は元々兄想いの妹君でいらっしゃいますよ」
「でも2年前は冷たかっただろ。『黒曜に連なる者として恥ずかしくない死に方を選んでください』とか言われたぞ、あの時は」
瀬上は眉間に手を当てて頭を振っている。テレパシーなど使えなくても彼が内心で「やれやれ」と呟いているのが聞こえてきそうだ。
「あの時とは状況が違いすぎます。2年前は完全にクロネ様の自業自得だったじゃありませんか」
封じていた記憶の蓋が開きそうになり、慌てて首を振る。
「……OK、OK。俺が全面的に悪かった。やめよう、その話は。俺はお暇させてもらうが、見送りはいらないから仕事に戻ってくれ」
瀬上の背をぐいぐい押しやってから、足早に立ち去る。屋敷を出て、あらゆる時間が混然一体と化したような庭を抜けると、徐々に人心地ついてくる。木漏れ日を踏みしめるように階段を下りながら、無意識に呟いていた。
「……あいつは、俺なんかを兄と呼ぶべきじゃないんだ。俺みたいなクソザコナメクジにリヒトがかかずらっていいわけないだろ」
怒りとも違う、くさくさした気持ちが心中に堆積していく。
「くそ……っ! リヒトがあの調子じゃ、俺も本腰入れて生きなくちゃならねぇだろうが……!」
妖精王に神核を奪われてわずか1時間。終活のつもりでやってきた黒曜で、クロネは出鼻をくじかれることになったのだった。
10月26日(火)
「……というわけで、命を惜しむことになった」
クロネはそのように締めくくった。彼の前にローストビーフの山さえなえれば、もう少しシリアスな雰囲気になっただろう。サラの前にもライスコロッケとスイーツがズラリと並んでいる。ジンも似たようなものだ。
3人は高級ホテルのレストランにいた。翌日、サラが呼び出された住所に向かうと、いきなり高級ビュッフェと重い話が始まった。葛藤の末、食欲には勝てず話を聞きながら普段は口に出来ないランチを堪能している、という次第である。
サラはオペラケーキをつつきながら、真面目くさってたずねる。
「なるほど。それであの赤紙ですか」
「あぁ。雰囲気あっただろ? どっちのデザインを送るか迷った」
そう言いながら、クロネはスマホの画面をジンとサラに見えるように差し向けた。
「ウワッ!」
「げえ……」
文字列だけなら何でもない、「ハロウィンパーティーのお知らせ」だが、問題はデザインだ。画面の上で目が痛くなりそうな虹色の創英角ポップ体がアーチを描いて踊っている。思わず目をそらさずにはいられない。
「うう……はやく消してください……頭が痛くなりそうですよ……」
ジンはぎゅっと目をつぶったまま情けない声をあげている。
「その眩暈がしてくるような代物を送り付けてくるつもりだったんですか?」
サラは視線を明後日の方向へ向けたまま、冷やかに非難した。おぞましい記憶を脳から追い払おうと、視線の先にある絨毯の模様をつぶさに観察する。
「緊急事態だからこそユーモアを交えようという俺の思いやりが分からないかねぇ」
クロネはぶつくさ言いながら、スマホを下げたらしい。警戒に警戒を重ね、薄目でゆっくりと視線を戻すが、クロネもウケの悪いギャグを繰り返すつもりはないらしく、唇を尖らせて大人しくしていた。未だに目を閉じている哀れなジンに声をかける。
「ジンさん、本当に大丈夫ですよ」
「創英角ポップが夢に出るぅ……」
ジンはむずがりながらも目を開けて、安堵のため息をついた。クロネは悪びれることなく鼻を鳴らすと、「で、本題だ」と無理やり話題を引き取った。
「ここに来た以上、召集令状は受諾された……参戦の表明と受けとって良いか?」
先ほどまでとは打って変わって、クロネは真剣な眼差しで二人を交互に見遣った。ジンとサラはそろって頷いたが、先に答えたのはジンだった。
「彼の妖精王に相まみえる機会を棒に振るなどあり得ません! クロネくんが帰れと言っても着いていきますよ!」
サラもうなずきながら答える。
「困っている人を放置する趣味はありませんからね」
クロネは「睨んでいる」と言っても過言ではない鋭い視線で二人を見据えていたが、肩から力を抜き、ふっと笑って見せた。
「話が速くて助かるよ。食べながら聞いてくれ、現段階での俺の計画は……」
サラが遠慮がちに挙手したのを見とがめたクロネはキョトンと言葉を止めた。なんだ?と言うように首を傾げる。
「あの~……素人質問で恐縮なんですが、そもそも『妖精王』ってなんでしょうか……?」
ジンとクロネはサラを凝視したまま数秒固まっていた。無言の数秒はまさしく針のむしろであり、サラはつま先をもぞもぞとこすり合わせるしかなかった。
「……そうだな。基本情報の擦り合わせから行こう」
沈黙を破ったクロネがおもむろに言うと、ジンも慌てて追従し「そうですね! 確認は大事!」とあえて大きな声でうなずいた。サラは消え入りそうな声で「お気遣い痛み入ります……」と答える。
「まずは簡単なおさらいだ。そもそも『精霊』とはなんぞや?」
名誉挽回すべく、サラは授業参観中の子供のようにしゃかりきで答えた。
「『精霊』は霊的な存在の総称で、現在確認されているのは幽霊、妖精、神霊、悪魔の4種! 幽霊が最も一般的な精霊で『精霊エネルギー』も99%は幽霊から抽出しています!」
教科書をそのまま読み上げたような回答にクロネは満足げに頷いた。
「よろしい。要するに霊体、精神体で存在しているものは全部まとめて精霊だ。精霊エネルギーの発見と同時に精霊の存在も実証・解明が進められたわけだが、人類が科学的に解き明かすことのできた『精霊』は実質幽霊のみ。妖精、悪魔の類は未だ手つかずのフロンティアと言って良い。『妖精王』は文字通り、いまだ謎に包まれた妖精たちの総大将、だな」
「妖精はとても気まぐれな存在ですが、人間に好意的に接する種も少なくはありません。シルフ、ウンディーネ、ウィルオーウィスプのような有名な使い魔もそういった妖精たちの一種ですね。本来は魔術師の力量や適性にあった使い魔しか呼び出せないものですが、私の開発したAI精霊なら──!」
ジンの営業トークをBGM代わりに、クロネはすまし顔で続ける。
「『妖精王』ってのは人間がつけた通称だ。少なくとも12世紀には存在が確認されていて、中世までは人間とつかず離れず上手く共生してたようだが、突然ぱったりと情報が途絶える。以降、現代まで一切の目撃例がない。『死んだ』もしくは『代替わりして人間とは没交渉的になった』と思われてたんだが、突然俺の前に現れ、宣戦布告してきたってわけだな」
「宣戦布告……?」
尋ねながら、サラは改めて昨日の出来事をつぶさに思い返してみたが、やはり妖精王についてはほとんど記憶になかった。クロネの言葉を信じるなら、サラの目と鼻の先に存在していたはずなのに。
「あぁ。ヤツが俺の心臓……正しくは神核を奪っていったのは単なる手段のひとつ、まだ準備段階に過ぎない。俺がこのまま死ねば、俺の神核の所持権限は妖精王に移譲される。そしてヤツは父祖たるオブシディアンへのアクセス権を得る」
「そうなったら……?」
「この世界の造物主の力を借りられるってことだ。妖精王は『人類を間引き、オブシディアンに奪われた妖精の安寧を取り戻す』──そう言ってたな」
ジンもサラも揃って沈黙したが、驚嘆ゆえに声が出ないわけではなかった。この惑星にとって増えすぎた人口は喫緊の課題だ。そう考えれば人外である妖精王が間引きを決行するのは、ある意味で当然なのかもしれない。サラにとってはジンの次の言葉の方がよほど意外だった。
「……それは、止めるべきなんでしょうか。あ、いや、もちろんクロネくんのことは救いたいんですが……」
「はっは! 正直なヤツ! 素直に言えよ! 『人類を思うなら死んでくれ』って」
ジンがさらに恐縮そうに視線をテーブルに落とすので、たまらず助け舟を出す。
「黒曜のご当主様……妹さんを悲しませたくないんでしょう? それに、これまでだって人類は滅びの危機を乗り越えて来たんです。今回もきっと何とか出来ますよ」
サラの楽観に冷めたのか、クロネはつまらなそうに嘆息してから言葉を続けた。
「……ま、人口が云々は棚上げだ。ともかく俺は『妖精王を打倒する』っていう高難易度クエストを突破して生き残らないといけないわけだ」
「でも、そんな謎の存在にどうやって対抗するんですか……?」
サラが疑問を口にすると、気を取り直した様子のジンもぶんぶんと音が鳴りそうな勢いで首肯している。
「そうです! 僕もそこが気になってました! やはり黒曜に秘密兵器が?!」
クロネは興味津々といった様子のジンを見て、目をぱちくりと瞬かせた。
「なんだよ、ジンは気づいてるのかと思ってたぜ。なんでド素人のミズキを巻き込んだと思ってんだ?」
今度はジンが目を瞬かせ、ぽかんと口を開けた。
「……ミズキくんの能力なら、妖精王にメタれるから……?」
クロネは盛られたローストビーフにぶすりとフォークを突きたてながら言う。
「白腕ちゃんみたいな、普通の人間なら近づくだけでお釈迦になるレベルの悪霊を簡単に倒して見せたんだ。妖精王に抗する力は十分にある。ヤツにとっちゃミズキが戦場をうろついてるだけで相当気が散るはずだ。……というわけで」
クロネはローストビーフが刺さったフォークを指揮棒のようにサラに向けた。
「俺の計画の肝はお前だ、ミズキ。気張ってくれよ」
クロネは大口を開けて勢いよく肉をほおばった。口の端にソースをつけたまま「んめー」と呟いている。サラはナプキンを差し出し、大げさに頷いて見せた。
「喜んで。期待には応えて見せます」
クロネはやや虚を突かれたようだった。ナプキンで口元を拭いてから、不敵に笑う。
「お前、外面ではクールぶってても負けず嫌いの頑固一徹ってクチだろ? クク……悪かったよ、試すような物言いで」
サラは返事をせず、素知らぬ顔でライスコロッケを口に運んだ。やや冷めているが、口の中でチキンライスが柔らかくほどけていく。ジンは空気を読んだのか、あるいは食欲を刺激されたのか、たっぷり盛られたサラダを黙々と口に運んだ。
3人とも皿を空にした頃、ジンは耐えかねたように口を開いた。
「……一般的に妖精には魔術が効きにくい。対してミズキくんの力は『全ての精霊を否定する力』と言えます。確かに効きはするでしょう。ですが、今のままでは0を1にするだけですよ? 勝算と言えないかと」
クロネはおもむろに水を口に運んだ。鷹揚に振舞っているが内心は穏やかでないことが見て取れる。
「そこはホラ、あれだ。具体的には……リヒトに頼む」
落ち着きはらったクロネの声にジンは手を打って目を輝かせた。
「なんと! 当主様が共に戦ってくださるんですか!? それなら百人力、いえ億人力と言っても過言では……」
「違う、そういうことじゃない。アイツが戦ったら地球も無事じゃ済まねぇよ。アイツに頼むのはミズキの能力の術式化だ」
この言葉にジンは実に顕著な反応を示した。椅子が倒れそうな勢いで立ち上がり、口をパクパクさせながら、両手はろくろを回すように虚空を撫でている。オーディションで「驚いた演技をしてください」という課題で披露したら則落ちするだろう。サラは吹き出しそうになるのをこらえながら、続く言葉を待った。
「そ、そんな文字通りの神業が、か、可能なんですか!? 体質なんていう複雑で体系のないものを術式化するなんて、昼間に星図をつくるようなものではないですか」
「……だってカミサマだもん」
可哀想になるほどの一蹴だった。
「そ、そうか……カミサマが出来ると言うんだから出来るんでしょう……。術式化出来たなら、転用は自由自在。なるほどそれは勝算になりますね……」
ジンは自分に言い聞かせるようにぶつくさとぼやきながら、おもむろに腰を下ろしたが座してからも目は点のまま、虚空を仰いでいる。クロネはほくそ笑みながら言葉をつづけた。
「一番無茶な部分はリヒト任せだが、重要なのはその先だ。ジンには術式の最適化を任せたい。出来るだろ?」
点だった目が一転してキラキラと輝きだす。
「出来ます! やります! やりたいっ! 神術式をイジれるってだけで赤紙を受け取った甲斐があるってもんです!!」
ジンのあまりの喜びように釣られて、サラも半ば無意識に微笑んでしまう。
「よし。このあと早速ミズキと黒曜に行って術式化を済ませてくる。トンボ帰りしてくるからお前は必要な設備を押さえておいいてくれ」
クロネの言葉にサラは温かな笑みを浮かべたまま凍り付いた。
「わぁ! ミズキくんは黒曜吏人様にお会いするんですね! うらやましい! 代わって欲しいくらいですよ」
「かかかかか」
「代わってください」と言えずに、青い顔で歯を鳴らすと、ジンは不可解そうにクロネを見た。彼は肩をすくめて答える。
「ジンは恐れが無さすぎだが、お前は怖がり過ぎだ、ミズキ。確かにリヒトは神だけど、規格はあくまで人間なんだぜ? てか、そもそも俺だって最低最弱とはいえ現人神だぞ」
その言葉に更に心が凍り付き、氷の層が厚くなっていく音が聞こえてきそうだ。左右田にクロネの正体を聞かされて以来、一瞬たりとも「彼は黒曜の長男であり、現人神である」という事実を忘れたつもりはなかった。だが、実際に彼を目の前にすると、ざっくばらんな態度や少女のような面差しからか、どうしても警戒や恐怖のような感情は薄れてしまうのだ。
「ま、この俺の魔性の魅力を前にすれば誰だって目は曇るってもんだ。気にするな」
自虐的なのか自信家なのかよくわからないことを言いながら、クロネはちらりと壁時計を見遣った。現在時刻は12時20分。ビュッフェの制限時間まで残り10分だ。
「頃合いだな。最後に茶でも飲んで仕事開始と行こう」
「……」
サラは黙り込んだまま最後に残ったプリンを見つめた。たらふく食べたあとの〆のプリンがまるで最後の晩餐のように思えてくる。一匙掬って口に含むと甘いバニラの香りが鼻を抜けていく。今更になって黄泉戸喫を気にしても仕方がない。
ホテルを出てタクシーに乗り、30分。サラはずっと黒曜の現当主・黒曜吏人への挨拶文を練っていた。脳内の原稿をすっかり分厚くしてから、「そもそも神前で言葉を発して良いのだろうか?」と不安になり、ぐずぐずと迷っているうちに黒曜の山の前にたどり着いてしまっていた。
目の当たりにしてみると、人間を拒むような異様な雰囲気に背筋がぞわぞわと粟立つの感じた。山道は舗装されているし、階段も使われた形跡が残っている。決して前人未到の地ではない。黒曜家に仕える人間も多く居るはずだ──理屈で自分自身を宥めようとしても感情よりも深い部分、本能や魂と言うべき部分が「これ以上進んではならない」と警鐘を鳴らしている。
「ちょっと長い階段だから疲れたら言えよ」
この時、自分がクロネに何と答えたのか覚えていない。さっさと階段に脚をかけて進み始めた彼の背中を慌てて追いかけて神の領域を冒してしまった。その恐怖だけをくっきりと覚えている。
階段をせっせと上り黒曜本家に近づくと、呼び水のように小学生の頃が呼び起されて来た。サラは動物、とりわけ鳥類が苦手である。理由はわからない。嫌いだから嫌いなのだ。そんなサラにとって学校の飼育小屋は地獄のような場所だった。とはいえ真面目なサラには「飼育当番をサボる」という発想はなく、重たい足を引きずるようにして飼育小屋へ向かい、修行僧のように苦難を耐えていた──ちょうど今の自分と同じように。
一歩ごとに重石が増していくような気分で、ただひたすらクロネの背中を見つめて歩いていると、ふいに彼が立ち止まり、サラはあやうくぶつかりそうになって慌てて身を引いた。クロネは怪訝そうに彼女を見てから口を開く。
「ここがリヒトの部屋、光明の間だ。基本的に話は俺がする。お前は……なるべく直視しなければ大丈夫だと思う」
「……? わかりました」
光明の間。襖で仕切られた先にいるのは「本物」の現人神であると嫌でも感じられる。気をしっかりと保っていないと震えあがって腰が抜けそうだ。深海のような重圧と、高山のような息苦しさ。決して長年の擦り込みによる思い込みではない。例えるならば、生きたまま彼岸に踏み込んでしまったかのような現実離れした感覚。地に足がつかず、浮足立ってしまう。
サラの懸念を慮ることなくクロネは呆気なく襖を開け、つかつかと歩いていく。そこが陸続きの異界であっても、サラはただその背を追うしかなかった。
室内は一見ごく普通の大広間だった。旅館の宴会場のように広さだが、照明はほとんど点けられておらず、薄暗い。
──だからこそ、ただ一人そこに在る人物は、すぐに目に入った。
そして、クロネの警告も空しく、サラは「本物の光」にまみえてしまったのだ。
【遘√?隱ー? 遘√?隱ー? 遘√?隱ー? 遘√?隱ー? 遘√?隱ー? 遘√?隱ー? 遘√?隱ー? 遘√?隱ー?】
最初に見えたのは真綿で出来た黄金のユニコーンだった。回路にはさまったココアが脈々と踊り、優美な音楽を奏でている。リクガメに乗った観音像が楽しげに手を振る様はまさしく運動会で、墓碑に刻まれたメニューは血のようにたどたどしい。カタバミの葉が降りしきる霧の夜には爛れたプラスチックの香りがする。色とりどりのトカゲの群れが祝祭の鐘が鳴る度、次々と死んでいく……。
「でぷろりりあみにんくみすときんえぉでくににににのぉぉぉぉぉぉびっえをぶんヴヴヴ?」
リヒトを一目見たきり、床に転げて奇声をあげ続けるサラから目をそらし、クロネはため息をついた。
「人の後輩を壊すなよ……」
「そう言われましてもね。その人が壊れたくて壊れているのですよ。私の威光はヒトが直視して耐えられるものではありませんから。……分かっていて連れて来たんでしょう?」
「まぁな。とはいえ、こいつならあるいは耐えるかと思ったんだ。残念ながら買い被りだったらしい。……まぁいいさ。別に正気じゃなくても結果は変わらねぇんだ」
「そうですね。さっさと済ませましょう」
発狂した人間を前に二人は実に淡々としたものだ。リヒトは立ち上がると、ゆったりとした足取りでサラに歩み寄った。唾液をこぼしながらせせら笑う彼女の前で膝をつくと、額に優しく触れる。
「結晶術:炭化水素⇄変転⇄祭器(象りなさい)」
詠唱とも呼べぬ、ただの「命令」が発された次の瞬間、リヒトの手には耳飾り(ピアス)が握られていた。小さな紫色の石が美しいそれをクロネに手渡す。
「彼女の体質を強化・加工して作ったものです。身に着ければ兄上も彼女と同様の力を得ます。……それにしても」
粛々と神業を成したリヒトは笑みを消すと足元のサラに視線をなげかけた。
「彼女の能力は一体なんなんです? 呪いというには整いすぎていますし、祝福と呼ぶには荒すぎます。なのに、間違いなく『ヒト』ですし」
クロネは目をぱちくりと瞬かせた。
「待て。まさかお前にも分からないのか?」
「えぇ。私の権限でもアクセスできません。何者かが特例の情報制限がかけているようですね」
「……マジかよ。野良にしちゃ霊力のバカ強いやつだとは思ってたけどよ。ガチの案件だったのかよ」
クロネはつい先日出会ったばかりの後輩であり、現在は唸るしか能のない肉塊と化した女をまじまじと見つめた。
「びょふ?」
自我の光を無くした目。唾液と鼻水で濡れた口元。モップのように床にこすりつけられる髪。どこを見ても哀れな人間でしかなく、クロネはため息を吐いた。ピアスを耳に着けると、空いた手で彼女の足首を持ち、そのまま踵を返す。
「よくお似合いですよ」
「そりゃそうだ。俺に似合わないものの方が少ないだろ」
リヒトは神様じみたアルカイックスマイル(すまし顔)をひっこめると、寂しそうに微笑んだ。
「どうか、ご武運を。兄上」
「……心配するなよ。お前を働かせたんだ。命くらいちゃんと拾ってくる」
それだけ言ってしまうと、ずるずるとサラを引きずりながら、クロネは光明の間をあとにした。
「あー……やっべ。治しすぎたかもしれん」
クロネの声を契機にサラの意識は急速に覚醒した。慌てて上体を起こす。
「ふがっ!? 乙姫様のメル友のビッグフットが……アイロンがけ世界大会で優勝……!?」
「おはよう。個性的な発狂だな……」
どうも床で寝ていたらしい。身体は痛まないが、何故か顔がべたべたで髪がぐしゃぐしゃだ。ぐるりと見渡すと日本家屋の中なのが分かった。特有の古い木の匂いが鼻腔をくすぐる。
「私、いつの間に寝て……ていうか、ここどこ……?」
記憶は高級ビュッフェの途中で途切れている。今日はチートデーだと決めて、ケーキを山盛りにしていた幸せな記憶から暗転し、気づいたら床に転がっていた。むしろ、ケーキの記憶も夢なのかもしれない。カロリーも夢で、膨れた腹は幻。そういうことにしよう。
「……用は済んだ。帰ろうぜ」
「え、えぇ……?」
サラの疑問を解消することなく、クロネはさっさと歩きだしてしまった。このまま置き去りにされそうな勢いで進んでいくのでにわかに立ち上がる。
「わ! 何これ、身体が軽い……視界も4K画質だし……。なんで?」
「フーン。睡眠不足だったんじゃないか?」
クロネの返答はどこかぎこちない。どうも隠し事をされている気配だ。サラは思い切ってクロネの背に尋ねる。
「私、どんな寝言喋ってました?」
クロネの肩がわずかに揺れた。
「『……うーん、むにゃむにゃ、もう食べられないよ~』とか」
本当にそんな寝言を言う人間がいるわけがない。サラは熟練の漁師のように焦らず、釣り糸を手繰る。
「どれくらい寝ちゃってました?」
「せいぜい10分だな」
動揺なし。次だ。
「睡眠って偉大ですね。それだけでこんなに調子が良くなるなんて」
ビックゥ! と誰の目にも分かるようにクロネの肩が上下した。サラはあえて聞かせるようにため息をついた。
「自分でも無理があるのはわかってるでしょう? 白状してくださいよ。私の身に何があったのか」
「……そうだな。ここを出たら教えてやる」
サラは目論見が叶い、しめしめと笑みを浮かべたが、わずか15分後には優越感を打ち砕かれ、「黒曜ォ~!!???!?」という悲鳴を上げる羽目になるのだった。
「……仕上げに俺が治してやったんだが、ちょっと治し過ぎてな。血行改善、むくみ取り、肩こりも治って、金運アップ、さらに軽微な不具合を修正した」
クロネは嫌味なほどに包み隠さず、サラの醜態を語って聞かせた。羞恥、怒り、呆れ、驚き──サラは赤くなったり青くなったり、百面相を浮かべてクロネのエンタメと化した。
羞恥の感情をどうにか抑えつけ、「ありがとう、ございます……」とだけ言うと、クロネは当然だと言うように頷いている。
「でも軽微な不具合ってなんです? まさか病気とか……」
サラが気を取り直して尋ねると、クロネは「うーん」と言葉に迷うような素振りを見せてから答えた。
「霊力の強い人間に現れる『精神のバグ』みたいな症状だ。自分自身に監視されてるように感じたりする(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)……らしい」
サラは思わずクロネの肩を掴んでいた。
「それ、治ったんですか!?」
「あ、あぁ……。ヒールの加減が難しくてな、治せるもんは全部。なんかマズかったのか……?」
肩を掴まれたまま怯えたような目で見上げるクロネに気付いて、サラは慌てて手をどけた。興奮のあまり上がった心拍数を宥めるように深呼吸をしてから答える。
「掴みかかってすみませんでした。治してくださってありがとうございます。まさかこれが治るものだとは……っ」
ふと気づくと目頭が熱く、涙がこぼれそうになっていた。サラ自身、こんな反応は予想外だった。そっぽを向いて目元をごしごしと擦るが、拭いても拭いても溢れてくる。
サラは子供の頃から、「自我」が怖かった。自分という殻の中に「もう一人の自分」という異物が混ざり込んでいる──そんな違和感が常に胸中に巣喰っていたのである。その恐怖を拙い言葉で親や友達に伝えても、心配こそすれ、ついぞ理解されることはなかった。
やがて、サラは違和感の解消を諦め、共存することを選んだ。方法は単純明快──利他精神で心を覆い、極力自分を消すこと。
それは、社会を生き抜くための処世術としては、実際うまく機能した。サラは何をやっても人並み以上にこなす秀才だったし、他者の期待を鏡のように映して行動すれば、どこに行っても重宝がられた。──「便利な人間」として。
それでも良かった。忙しく働くほど、自我も静かになってくれたからだ。順風満帆。これが私のしたいことで、これが私の人生なのだ、と充実しているつもりだった。……昨日までは。
それは欺瞞の壁で囲った偽りの楽園だった。これまでのサラは、例えるなら乱視を矯正しないまま、歪んだ世界を歩いていたようなものだ。歪んだ景色を受け入れて生きてきたつもりで、本当はずっと──他の人が見ている世界を自分も見たかったのだ。それが、今ようやく分かった。
「あぁ……私、やっと……本気で誰かを救いたいと思えるんですね……」
涙はもう拭う意味すらなく、ぼろぼろと好きに流れていく。昨日といい今日といい、人生で流した涙の降水量はおそらく史上最多だ。
「……お前、ずっと『困っている人を救う』って熱心に言ってなかったか?」
クロネが泣き出したサラに遠慮しておずおずと尋ねてくるので、サラは笑い声交じりに応えた。
「ふふ……あれでも、かなり抑えてたんです。本当の私の気持ちはあの程度じゃないですよ」
「マジか。すげーな」
もう幻覚に忖度して感情を抑える必要はないのだ。揺れる感情は暴風のようだったが、台風一過のように雲を吹き飛ばして快晴をもたらすだろう。クロネの呼んだタクシーが来るまで、サラは清々しく泣いていた。
二人はホテルにとんぼ返りし、ジンに合流。クロネの部屋──最上階のスイートルームに移動した。
聞けば、そもそもこのホテルはこの一週間の活動拠点として押さえた場所であり、ビュッフェなど序の口、最上階をフロアごと1週間借りている、と言う。好きな部屋を使っていいし、ホテルのサービスも使い放題という気前の良さで、サラの目を丸くさせた。
「いいなー! いいなー! ボクも黒曜の当主様に会いたかったなー!!」
サラの悲惨な狂態を聞いてもなお、ジンはブーブーと文句を垂れていた。確かに人が一生出来ないような貴重な体験をしたのだろうが、記憶は一切なく当主の顔さえ覚えていない。これで「会った」と言えるのだろうか。
「で、お前の方の首尾は?」
「万事OKです! 必要そうな研究機関やら人員やらを押さえておきましたよ! 機材もばっちり! 4日以内に解体して御覧に入れます!」
「解体……?」
ジンもまた、必死に駆けずり回っていたらしい。よれよれのシャツが雄弁に物語っている。いつもの元気印の言葉にも端に吐息が混じる。どうもギリギリまで動き回っていたようだ。
「アライ・ジン・フィンレイと言えば、悪名高い『精霊の解体者』様だ。コイツの手にかかればオカルトもファンタジーも実用品に早変わり。夢も希望も、裸足で逃げ出すってもんだ。精霊エネルギーの発見者もコイツだしな。早くノーベル賞でも取れよ」
サラは機械のようにぎこちなくジンを見つめた。クロネの言うことが本当なら、目の前にいるのは間違いなく200年、300年後の歴史の教科書に名を残す偉人だ。
「ワハハ! 褒められて悪い気はしませんが、僕は発見しただけで検証も実用化も他の人に任せちゃいましたからねぇ。ノーベル賞を取るならそっちの方々でしょう」
精霊エネルギーの発見は30年ほど前。石油や石炭が枯渇しはじめ、いよいよ人類が路頭に迷おうとしていた時代。暗雲から指した一筋の光が精霊エネルギーだったという。「人が生きている限り、枯渇しないエネルギー」という触れ込みは人々の目に希望の光を取り戻させ、一躍注目を集めた。
時代の後押しもあり、10年足らずで実用化、今ではすっかり当たり前の存在に──サラの世代なら学校で習う常識だ。30年前までフィクションだった精霊たちが、いまや消耗品に成り果てたのだから「精霊の解体者」という異名も大げさではないのだろう。
サラが一人で納得していると、クロネは非難するような声を上げた。
「欲がねぇなぁ……。金も名声も権威も、全部他人に譲っちまったのかよ?」
「いいえ? 当時の僕は小学生でしたから。子供が世紀の大発見の特許なんか持ってたら悪い大人がうようよ寄ってきます。だから会社を作って、法人に特許を管理させた方が安心だったというだけですよ。実証も研究員にやってもらった方が手っ取り早いですし。それでも、費用はちゃんと回収出来ましたしねぇ。……そして」
ジンはもったいぶった様子でニヤニヤとサラを見遣った。浮世離れした会話に着いていけず、動画でも見るようにぼんやりとしていたサラは一拍遅れてから視線に応えた。
「なんと! その時創った会社こそエナジン株式会社なのです! ババーーン!」
オノマトペを口にし「衝撃の新事実」を演出しているジンだったが、クロネとサラは「へー。そうだったのか」「らしいですよ」と薄い反応を返すだけにとどまった。
「……会社は売却したので僕はもうほとんど無関係ですが、そのおかげで妖精王に出会う機会を得られたわけですから、やはり僕は間違っていなかったと確信していますよ」
スベってもへこたれない男・ジンはどこ吹く風とばかりに悠然と締めくくった。
「ジンには今日を含めて4日間でピアス(これ)を解析、対妖精王の魔術を組んでもらう」
クロネは左耳からピアスを外して、ジンに放った。
「確かに頂戴しました! ……ちなみにコレ、壊しても大丈夫ですか?」
「構わん。金なら出すから、好き放題やれ」
「ハーイ! では早速研究に入ります! 吉報をお愉しみに!」
ジンは立ち上がると、バビューンという擬音が見えそうな勢いで部屋を出ていった。彼がいなくなると、部屋が一気に静まり返り、照明を落としたわけでもないのに、薄暗くなったような錯覚を覚える。
「さて、ミズキ。お前に必要なのは実戦経験だ。というわけで、段取り上手なクロネ様がしっかり予定を組んでやった。詳細は移動しながら話す。行くぞ、1分も無駄にできないからな」
まくし立てるように言うとクロネはくるりと背を向け、エレベーターホールへ歩いていく。ホテルの出口とは真逆だ。怪訝に思いながらクロネの背に尋ねる。
「せめて、どこに行くのか教えてくださいよ。会社の許可は得てますけど、報告しないと……」
クロネは階数表示の点灯を見つめたまま答えた。
「スケジュールは左右田さんに渡してあるし、お前には報告をあげてる余裕なんかない。今日も明日も、命を拾うことだけを考えろ。下手を打てば、妖精王と戦う前にお釈迦だぜ」
東京を出てヘリコプターで1時間半ほど。宮城県仙台市にたどり着いた。時刻は17時過ぎ。現場である公園の周辺は物々しい雰囲気に包まれている。
「一応、初動の封じ込めは成功、周辺住民の避難も完了済ってことだ。とはいえ、状況が良いわけじゃないらしい。かなりの厄ネタの匂いがするな」
黄色と黒に「KEEP OUT」と書かれたテープをくぐると体感温度が急激に下がったかのように感じた。周囲に漂う緊張感が肌を刺してくるようだ。周辺一帯には異常に濃い霧が立ち込めているため、実際に気温も低いのだろう。
あたりには体育祭で使われるようなパイプテントがいくつか設置されており、簡易的な事務所として使われているらしい。サラの視線に気づいたのか、「エネジンさん現着でーす!」と言いながら男性が一人飛び出してくる。
「遠路はるばるお疲れ様です! 担当の室賀と申します!」
室賀なる男は縦にも横にも大きく、相撲取りだと紹介されたらすんなり信じ込んでしまいそうな巨躯をしていた。自然とクロネを見下ろす形になるが、室賀もそれを気にしているのか、腰を深く折って話している。
「名刺交換は省略だ。迅速に引継ぎを」
クロネが急かすと、室賀は二人に資料を手渡してきた。サラが資料に目を通す傍らで、室賀に語られた内容をざっとまとめるとこうだ。
【4時46分】異常霊質反応を感知。調査員が現場へ急行するも全滅──S級精霊と断定された。
【5時20分】警報発令・住民避難開始。同時に第二調査隊を派遣し、遠見の術を用いて調査を行った。
【7時55分】調査結果をもとに戦闘員を投入したが討伐には至らず。有効打を与えられないまま現在に至る。
サラは資料から顔を上げると、公園に視線を向けた。この中で九時間も命懸けで戦い続けている人がいる──そう思うと、無意識に資料を持つ手に力が入っていた。
「調査に成功したってことはどんなヤツかはわかってんだな?」
「はい。精霊の集合体、いわゆる複合精霊ですね。見た目は鵺っぽいとか。一応スケッチならありますが……」
室賀がメッシュファイルから取り出したA4用紙には猛禽の頭に熊の胴体、トカゲのような鱗状の尾を持つ不思議な生物のイラストがかかれていた。鵺というよりグリフィンに近いように見える。
クロネはイラストを一瞥すると「……写らなかったか」と眉をひそめた。
「しっかり防呪したカメラで撮影したんですが、どうにも写りませんで……。非現実比率は70%程度かと」
「厄介だな。それで巡り巡って俺たちにまで話が回ってきたわけだ。仮称はあるか?」
「え、えーっと、我々は鵺2(ヌエツー)と呼んでましたが……」
「良いセンスだ。……じゃ、俺たちは早速ヌエツー討伐にあたる。現場指揮は俺が執るから、手続き等々、頼んだぞ」
「は、はい! どうか、ご武運を」
公園前のテントを越えると、白く冷たい静寂に支配された世界が広がっていた。貝ヶ森中央公園は、雑木林の中に遊歩道を巡らせたような緑豊かな公園で、遊具の類は見当たらない。代わりに東屋やベンチは多く設置されており、散歩やピクニックで利用する住民が多いらしい。濃霧のせいで陰気に感じる草の香りも、平時であれば爽やかだろう。
じっとりと重たい空気の中、遊歩道を歩いて5分ほどで公園の中央にたどり着いた。クロネが突然、舗装路をはずれて林に足を踏み入れてもサラは驚かなかった。
──かなり近い(・・・・・)。
霊的な存在を察知する感覚は五感で言えば嗅覚に近い。同心円状に気配は濃くなり、近づくほど深海のような圧迫感が増していく。無意識に足取りが重くなり、うかうかしていると木の根や蔦に足を取られてしまいそうだ。俯きがちに歩いていると前方のクロネが急に倒れた。
「……クロネくん?」
遠慮がちに声をかけると程なくしてのっそりと立ち上がり、土まみれの顔を拭いもせずに振り返った。
「お前は平気なのか?」
「え? まぁ足元には気を付けてますけど」
「違う。この霧──呪いだぞ。外じゃ大したことなかったが、この距離じゃ数分で命に到る」
思わず呼吸を止めそうになったが、落ち着いて息を吐いた。体調にも精神にも異常はない。
「平気、です」
「頼りになるルーキーだな、まったく。とはいえ、俺は呪詛への耐性は並みだからな……ちょくちょく死んじまうぞ。どうしたもんかな……」
クロネが口ごもった、その瞬間、彼の胸元でスマホが震えた。画面を見たクロネが通話をスピーカーにすると、場違いな明るい声が響く。
【そんなお悩みにぴったりの商品があるんです!】
ジンの声だった。驚く間もなく、彼の通販番組は続く。
【呪物を取り扱いたいけど呪詛耐性がない──そんな時はテンカくん! 早速実演してみましょう。クロネくんの背負っているギターケースもといライフルケースにぬいぐるみがついていますね?】
クロネはまたもや呪殺されていたので、代わりにサラがギターケースを調べる。ジンの言う通り、ファスナーのスライダー部分に10センチ程度の藁人形風のぬいぐるみがぶら下がっていた。先ほどまでは内側にしまわれていたのだろう。
【ぬいぐるみのお腹の部分が開く仕様になっています。そこに髪の毛や爪など身体の一部を入れてください】
蘇生したクロネは前髪を一本引き抜くとテンカくんの綿に混ぜ込むようにして納めた。
「これでこいつが俺の身代わりに呪いを引き取ってくれるってわけだな。効果時間は?」
【正直、読めません。1時間も保てばラッキー! と言ったところですね。ぬいぐるみがはじけ飛んだらおしまいです。それ以上でも以下でもありません】
「……ま、呪詛転嫁の様式をこれだけ簡略化してるなら上等だな」
クロネはそう言いながらギターケースを背負い直した。外に出たテンカくんが左右に揺れている。
「ここいらで、こいつも開けとくか」
気づくと、クロネの手にはアルミケースが握られていた。ギターケースの中に入っていたものらしい。フックを外すと「中身」が一斉に解放された。
「うわ!」
黒煙のようにケースから飛び出したのはネクロドローン群だ。こうも密集していると、さすがに羽音が煩い。
【ネクロドローンで遠隔発動できる魔術には限りがありますが、ここからは私もリモートで参加しますのでよろしく!】
いつから盗聴していたのか、など聞きたいことはたくさんあったが、明るい声が聞こえるだけで、強張った身体がほぐれていくようだ。単純に戦力としても心強い。
「よし。準備は整ったな、急ぐぞ。テンカくんが機能してるうちに終わらせたい」
クロネは顔についた土をぬぐい、髪や身体についた土を犬のようにブンブンと振り払うと歩き出した。
公園の北側の雑木林に分け入って10分ほど、ついに『現場』に到着した。空はすっかり暗く、夕日の名残もない。
「ははぁ……こりゃあすごいな。よく持ちこたえたもんだ」
サラが息を詰まらせていると、クロネはぽつりと呟いた。
「こいつらの手際が悪かったら周辺住民の避難なんざ到底間に合わなかった。よくやってくれた、偉いぞ」
クロネは地に膝をつき、積みあがった死体に静かに頭を垂れた。性別も年齢も異なる5つの遺体は、いずれも顏や服が泥にまみれており、引きずった跡が見受けられた。仲間を安置しようとした運んだものの、これ以上動かせなかったのだろう。サラは手を合わせて深く一礼してから、彼らをむざむざと殺した怪異を睨んだ。
サラの視線の先には、大人でも入れそうな巨大な藤製のつづらがあった。その周りでは男性が二人に、女性が一人立ち尽くし、経文のようなものを唱え続けている。サラたちにもまるで気づかず苦悶の表情を浮かべ、つづらを睨んでいる。休むことなく、仲間が斃れようとも、ずっと──9時間も闘っていたのだ。
「俺が来たからには使い捨ての対症療法はおしまいだ! まずは回復しろ!」
取り出したライフルで3発。その発砲音と急激に回復した体力によって、彼らはようやく闖入者の存在に気付いた様子だ。
「ジン、30秒で良い。抑えられるか?」
【承知!】
クロネは満足げに頷くと、声を張り上げる。
「引継ぎだ! 複合精霊:仮称【鵺2】の討伐は現時刻を持って、俺たちが引き受ける! 合図したら退け! ……3、2、1、今!」
三人が一斉に後退すると同時に、ジンの声が響いた。
【サンクトゥス・ヌミノーゼ!】
サラダボウルをひっくり返したような半球状の魔術障壁がつづらを包み込んでいる。ひとまずの封じ込めは成功のようだ。
「弱点は!」
「頭です! 動物霊が混ざり込んでいる故に生体の弱点を誤って引き継いでいる可能性が!」
答えたのは3人中でも最年長と思われる初老の男性だった。
「よし。……ジン、こいつらを保護しつつ、追加の情報があるかヒアリングしてくれ。あとは俺たちのバックアップ。頼んだぞ」
ジンの返事を待たず、サラとクロネは駆けだした。
「28秒か。ギリ届かなかったな」
クロネが2時間ぶりに笑みを見せるのと同時に魔術障壁は砕け散った。いよいよつづらの中身とのご対面が叶う。
つづらの蓋が爆発するように吹き飛び、倒れたつづらから霧が噴き出す。
「くっ! 前が見えない……!」
まるで吹雪の只中にいるかのように、瞬く間に一面が白に染まった。左右を見渡しても鵺2はおろかクロネさえ見つけられない。
「ミズキ! 右だ!」
クロネの声に反射的に身をかわした。直後、風切り音と毛むくじゃらの前足が目の前をかすめていった。心臓が爆発するかのように高鳴り、沸き立った血液がつま先まで伝播していく。呼吸が浅く、震えることさえできない。
──ズガン!
ライフルの発砲音にハッと我に帰る。
「クソ……外したか。ミズキ、理由はわからんが奴は北に移動したらしい。もしかすると拠点があるのかもな。俺は先回りしてヤツの頭を叩く。お前は後から追え。挟撃するぞ」
「ま、待ってください! 北って言われても……わ!」
目前に現れた炎が、サラの言葉を遮った。ライターのように小さな火だが、五里霧中の状況では火影の温かみに心がほぐれていくようだ。
「昨日と同じだ。30秒数えたら走れ」
それだけ言って、クロネは音もなく霧の中へ消えていった。
霧の中、唯一の縁として揺れる炎を見つめながら、サラは自分が細かく震えていることに気付いた。
まるで真っ白な出口のない部屋に閉じ込められているようだ。見えるのは僅か数センチだけで、自分の脚さえおぼろげだ。歩いても動いた実感がわかず、観客のいない舞台を演じる哀れな役者のような気分になってくる。
「……30!」
人生で一番長い30秒を乗り越えると、身体にまとわりつくような重い白から逃げ出す囚人のように駆けだす。火を追いかける点では昨日と同様だが、やはり林の中というだけあって地面は凸凹しているし、時折草で滑って足を取られそうになった。
公園の北側には大きな池がある。池の向こうはすぐに住宅街だ。鵺2が住宅街や街に侵入することがあれば5人が命をかけて稼いだ時間が水の泡と化してしまう。それだけはなんとしても避けねばならない。
ほどなくして、ドブ特有の異臭が漂ってきた。直進しているのか大回りしているのか定かではなかったが方向はあっていたらしいと安心し、胸をなでおろした──その瞬間。
「!」
バイブレーションの音に思わず総毛立ってしまった。周囲を伺っても白しか見えないのだが、ついキョロキョロとあたりを伺ってしまう。自分をなだめるように深呼吸を挟んでから、受信をスワイプし、小声で非難する。
「なんですか、クロネくん。こんな時に……」
「俺だ、禍津黒祢だ……ミズ…、無事か? どこ……る?」
「え、あれ、クロネくん?」
電波が悪いのかはたまたクロネに何かあったのか、通話は唐突に終わってしまった。通話終了の文字を茫然と眺め──
「ミズキ!」
背後からかけられた声に仰天し、危うく携帯を落としそうになった。もう少し配慮できないものか、とやや憤慨しながら声の方向を睨む。
「おい、無事か?」
姿は見えないものの、木の上にいるらしく、クロネの声は頭上から聞こえた。声色にしかと非難の色を乗せながら小声で答える。
「驚かせないでくださいよ。まぁ無事は無事ですけど……。ていうか、挟撃はどうなったんです? 合流したら無意味じゃないですか」
クロネは言葉に詰まったらしく「む……」と口ごもると、悔しそうに切り出した。
「見失ったんだ。あいつ、忽然と消えちまった。それこそ霧みたいにな。んで、血眼になってたらお前の独り言が聞こえてきたわけだ」
クロネの語調には明らかに呆れと批判的な色が聞き取れた。先ほどから彼の一挙一動に振り回されている身としては看過できず、強く反駁する。
「独り言って……。電話をかけてきたのはクロネくんの方ですよ」
「はぁ……? 何言ってんだ。お前の番号なんか聞いてないのに、どうやって電話をかけられるんだよ」
「え? てっきり左右田さんに聞いたんだと……」
クロネの言葉に嘘はなさそうだった。
(……じゃあ、さっきの電話は?)
サラは一瞬、どちらの言葉を信じるべきかわからなくなってしまった。頭上のクロネか、電話口のクロネか──間違いなくどちらかは偽物のはずだ。
話の噛み合わなさに違和感を持ち始めた時、再び携帯が振動し始めた。思わず息を止めながら着信画面を見つめる。
「……またかかってきました」
「『俺』からか。……面白ぇ。出てみろよ」
頭上の声に頷きながら、再び受信をスワイプする。
「……ミズキ、今どこにいる?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、ノイズ混じりのかすれた声。音が遠いものの、聞き慣れたクロネの声には間違いなかった。
「北側の池の周辺です」
「いいか、その池は霧の発生源、鵺2の拠点と考えていい。危険だ、すぐに引き返せ」
クロネの苛立ったような声は続いていたが、一旦保留にし頭上のクロネに尋ねる。
「水辺に近づくな! って言ってるんですけど」
頭上のクロネに言うと、クク……という漏らすような笑い声が響いてきた。
「それなら拠点にマズいものでもあるのかもしれないな。……まずは俺が出る。行けそうなら曳光弾で合図するから着弾位置を思いっきり叩いてくれ。逆に3分間何もなかったら離脱しろ。……どっちを信じるかはお前に任せる」
「……わかりました」
クロネは忍者のように木の上を駆けて移動しているらしく、ジャキリと銃を構え直したような音をさせながら、その場を離脱していった。
再び耳が痛くなりそうなほどの静寂の中、息を殺して待つ。耳を澄ますとわずかに水音が聞こえてくる。それが虫や魚の出す自然音なのか、あるいは何者かが動いて発生した音なのかは判然としない。
こうして身じろぎもせず待機していると、頭の中が5体の哀れな骸でいっぱいになってしまう。この街の人々を救うために誰よりも尽力した彼らが泥だらけで放置されている状況がどうしても許せなかった。彼らを目にしたあの時からずっと、サラは心の奥底に沸き立つような怒りを抱え続けている。早く、一刻も早く鵺2を片付けて彼らを家に帰らせてあげたい。
考えれば考えるほど怒りと焦燥が身を焼いていくが、不思議と感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていく。わずかな音も聞き漏らすまいとしていた、その時──携帯が震えた。
「クロネくん……!」
指先が画面に触れた──その瞬間、池の底から低いうなり声が響いた。
「ぐぅるるるるるるるる……」
決して大きな音ではなかった。猫が喉を鳴らす音にも地鳴りにも似た音に視線を向ける。
11時の方角。距離はそう遠くなく、せいぜい十数メートル程度だと思われた。鳴き声は水音と共に遠ざかっていく。──つまり、こちらに背を向けている。駄々っ子のように暴れる心臓を宥めながら、震えるスマホをポケットに戻し、空をにらみつける。
(来た!)
光が見えた瞬間、サラの迷いは消えていた。曳光弾は別名を星弾という──それは知ったのは大分後の事だが、霧を駆ける様はまさしく流星だった。まるで星を掴もうとする子供のように、サラは右手を振りかぶりながら、一息に距離を詰めた。流星の着点、すなわち鵺2の頭部がある場所をめがけて拳を振り下ろし──。
「え?」
まるで白昼夢でも見ていたかのように星も精霊も消えてしまった。渾身の一撃も空を切り、サラは敵の拠点に一人で飛び込んで──足首を池に浸しただけだ。
「あぁ……」
思わず出た嘆息は自分に向けられた失望の現れだ。気づいたときには全てが遅きに失していた。水が意思を持っているかのように水柱をあげて、サラに絡みついて来たのだ。四肢を取られ膝をつくと、濁った水面に映った自分の顔が皮肉なほどによく見えた。嘲るように嗤う彼女が何を言っているのか、音はなくともよく理解できる。
(馬鹿。〝本物〟のクロネくんは止めてくれたのに)
為す術もなく、深く深く水中へと引き込まれながら銀色の水泡だけが天を目指していく。薄れゆく意識の中、最後の呼気に乗せた音が電話口の彼に届くよう願った。
「ごめんね……クロネくん」