1-06 魔女に喝采を、咎人に願いを、望まれぬ貴女に永劫を。
千年前、英雄王は魔女の心臓から作った剣で、竜種により滅ぼされかけた人類を救った。――母を殺したと嘆く子どもを魔の森に置き去りにして。
魔女アマンダを母と慕い、英雄王エルダーを兄代わりとして育ったレイチェルは、千年もの間、エルダーを呪い、彼の子孫を祟り、彼の作った国の東に広大な魔の森を構築した。そんなある時、魔獣を使役し、踏み入る者全てに死を与える彼女を討伐するべく、英雄王の国から騎士団が派遣されたのだが。
「会いたかったわ、お母さん!」
「俺は男だ!」
アマンダの魂を持つ騎士団長ガンドルフを見つけ、レイチェルは懐いた。だんだんとほだされていくガンドルフに、レイチェルは笑顔で告げる。
「人類を救いたいなら、アマンダの剣で私の首をはねればいいのよ。千年前のエルダーのように。簡単でしょ!」
魔女の魔法と咎人の願いにより、永劫の孤独で壊れた子どもは、千年先の未来で運命を取り戻す。
獣たちさえも息を潜める森の中、兄代わりの青年は母と慕った魔女の心臓を貫いた。
レイチェルの目の前で。
「やめてよっ、やめてよエルダー! アマンダが死んじゃうよぅっ!」
「お前は黙ってろ。アマンダが望んだことなんだ。僕にこうしろと」
「いやだ、いやだアマンダ! 死なないで!」
くぷりと赤い水を口から吐いて、アマンダが笑う。
アマンダの心臓には青年の持つ剣が突き刺さり、可憐なドレスを血に染める。
アマンダは血を吐きながら、その剣を愛おしそうになぞった。
「んふ、ふふ、エルダー、よくできまし、た」
「……許さないからな、アマンダ。僕は君を許さない」
「そうして、ね。そうじゃないと、貴方は報われない、わ」
くふくふと笑うアマンダは、泣きじゃくる幼子へと手を伸ばす。
「レイチェル。良い子。貴女は良い子。その憎しみを糧に、生きなさい」
「いやだよ、いやだよアマンダ、死なないでぇっ」
「私を殺したエルダーを、憎みなさい。とっても疲れるけれど、死にたがりな貴女には、それくらいがちょうどいいものね?」
アマンダは紅をひいたように真っ赤に染まる唇を、レイチェルの額に寄せた。
「魔女に喝采を、咎人に願いを、望まれぬ貴女に永劫を。魔女アマンダの、最期の魔法、よ」
レイチェルの額にアマンダが口づけた瞬間、ぶわりと大地から魔力が吹き出して、彼女たちの服や髪を大きく巻き上げた。
「アマンダぁ……っ」
「レイチェル、笑顔を忘れずにね? 笑顔で、エルダーを憎むの。エルダー、わかってるわね?」
「……貴女っていう人は、本当に馬鹿です」
「んふ、だって魔女だもの!」
場にそぐわず朗らかに笑ったアマンダは、暴力的な魔力の奔流に耐えきれずに苦しげなレイチェルの頬を撫でた。
「レイチェル、悠久に飽きたら魔女の国で逢いましょうね? エルダーはせいぜい、レイチェルに殺されないようにがんばって?」
「分かってます。だからさっさと逝ってください」
エルダーがアマンダに刺さる剣の柄を再び掴む。
ぐ、と押し込み引き抜くと、魔力の奔流が一層激しく荒れて。
くふ、と声なき声をあげて、アマンダは微笑んで逝った。
アマンダが空っぽになると、あれほど荒れていた魔力がぴたりと止まる。レイチェルの髪や服を煽っていた魔圧による風もやみ、静かになる。
残されたのは、空っぽのアマンダと、魔女殺しのエルダーと、それから。
「……エルダーは、ずるい」
「レイチェル」
「エルダーはずるい!」
どくんどくんと、レイチェルの血が沸き立つ。
沸騰するように熱いそれに涙を流しながら、レイチェルは虹色に煌めく瞳でエルダーを睨みつけて。
「今すぐいなくなれ! 私の前から消えちゃえ! アマンダを殺した咎を末代まで祟ってやる!」
「それなら僕は、ずっと一人で生きていこう」
「ならばたとえ生まれ変わろうと、私はエルダーを呪ってやる!」
だから、だからと、幼いレイチェルは怒鳴るように、泣きじゃくるように、縋るように、喘ぐように、エルダーへと言葉をぶつける。
「アマンダの死を、無駄にしないで」
「分かってる。全部終わったら、返しに来る」
「返しに来たら、殺してやる……!」
エルダーは笑った。
そうしてくれ、と笑った。
それから幾年月を経て。
レイチェルは一度だけ森の外を見た。
森の外は荒野と廃墟が積み重なっていた。積み重なる中で、命が逞しく息を吹き返しているのを見つけた。
エルダーは見事、アマンダの心臓から作った剣で、人類を滅ぼそうとした竜種を打ち倒したらしい。
レイチェルは森へと戻ると、アマンダの森を育てながら、千年を過ごした。
エルダーはまだ、あの日の罪を贖いに来ていない。
◇ ◇ ◇
今日も森は健やかだ。
黒曜石のように柔らかく光を反射させる黒髪を風になびかせ、一等高い針葉樹の天辺でレイチェルは両腕を広げた。
虹色の瞳が蒼碧の空を見上げると、空気が震える。
「広がれ、広がれ、私の森よ。呪え、呪え、血を吸う大地。塞げ、塞げ、闇の茨」
唄う声が風に攫われていく。
攫われていった唄は波となって、眼下に広がる森のその先を目指して駆け抜けていく。駆け抜けた先で、森の支配者であるレイチェルの意志を具現化した。
ここは魔の森。
レイチェルが千年かけて居心地良く作った森だ。
この千年、誰もこの森へと入ったことがない。厳密に言えば闖入者はいたけれど、誰もレイチェルのもとへはたどり着かなかった。たどり着かなかったから、レイチェルはいつも一人ぼっちだった。
一人ぼっちでもレイチェルは笑う。笑って唄う。やることがないから笑う。笑って森を増やす。森を増やせばちょっとした獣が魔獣化して、レイチェルの言うことをよく聞いてくれるようになるから寂しくはなかった。
「一角獣さん、南の花の開花時期を見てくれない? そろそろだと思うのよ。レッドベアーさん、東の岩場にある洞窟が塞がれちゃったから、岩をどけてくれるかしら」
レイチェルは唄う。唄えば森も魔獣も彼女に従った。この森はレイチェルの王国。女王レイチェルは今日も元気に森を支配する。
「ロック鳥さん、北の……あら?」
レイチェルの目が瞬き、少し尖った耳がぴくぴくと動く。
次の瞬間、レイチェルは破顔した。
「ロック鳥さん、あなたはそのまま縄張りを守ってね。すごいわ、すごいわ! 二十年ぶりのお客様だわ!」
レイチェルは浮足立つ心を抑えながら、針葉樹の尖端でくるりと踵を返す。
森の西側がひどくざわめいていた。大地が重く響き、魔獣たちの命が散っていく。レイチェルはにっこりと微笑んだ。
「広がれ、広がれ、私の森よ。呪え、呪え、血を吸う大地。塞げ、塞げ、闇の茨!」
普段はなんとなくで紡ぐ唄を、レイチェルは心をこめて紡いだ。紡いだ唄はレイチェルの意志を強く反映し、具現化する。
散っていく命の中に、魔獣ではないものが混じりはじめた。それでも散っていく命は魔獣のほうがよほど多い。
レイチェルは嬉しくなった。
目を凝らした先、森の西側に見えるのは、有象無象の軍勢だ。
エルダーが興した国の国旗と、その国に属する軍の軍旗。それらを掲げて、武装した軍勢が魔の森を侵そうとしていた。
レイチェルは両手を水平に揃えると、掌に掬うように森の端にいる人間たちの軍勢へと手を差し伸べる。
自分の元へとたどり着くまでに、この掌いっぱいの命がどれほど散っていくのか。レイチェルはそれが楽しみで仕方がない。
「ねぇ、エルダー。言ったでしょう? 末代まで祟ってやると」
レイチェルは数える。森に入ろうとしてくる有象無象のうち、エルダーの血を引く人間を数えていく。森の中に一歩でも踏み込んだらレイチェルの領域だ。命を数えるのは雑作もなかった。
ひぃ、ふぅ、みぃ。
にっこりと笑顔を浮かべたレイチェルは、ふと目を凝らして有象無象を見つめた。
何かおかしなものがいる。懐かしいものがいる。
レイチェルの胸がとくんとくんと早鐘を打つ。
まさかのものを見つけた。
まさかのものを見つけてしまった。
凛然とした存在感を放つその魂を見つけて、レイチェルは歓喜した。
「あの人が帰ってきたわ! 千年を越えて帰ってきたわ! 迎えに行ってあげましょう!」
レイチェルのまろやかな背中が隆起する。盛り上がった皮膚の内側から、骨が、膜が、皮が張って、大きな翼が生えた。彼女は翼をはためかせると、有象無象の軍勢目指して森を直線的に滑空していく。
そうして見えた、有象無象。
森を囲うよう作った無数の茨を切り捨て、燃やして、勝手に入ってきた闖入者たちが、突然現れたレイチェルを見て身構えた。
「女の子……?」
「竜の翼だ!」
「黒い髪に虹の瞳をしているぞ」
「竜人だ! 世界最古の竜種だ……!」
口々に聞こえる有象無象の声。追撃しようとする弓矢や槍がレイチェルに鋒を向けられる。
でも彼女は止まらない。翼を背中に格納して落下する。
レイチェルは笑顔で両腕を広げて、厳しい眼差しで軍勢を指揮する男に抱きついた。警戒していたらしい男は驚いた様子だったけれど、敵意なく落ちてきたレイチェルをとっさに抱きとめてくれた。それが嬉しくて、彼の首へと縋りつく。すんっと匂いを嗅げば思ったより汗臭かった。
「お帰りなさい、待っていたのよ!」
「な、んだ……!?」
「ねぇ、私、あなたが留守の間、一生懸命頑張ったのよ。ねぇ、褒めてくれるでしょう? ねぇねぇねぇ」
「総員、剣を構えろ! 警戒を解くな! 最悪俺ごと切り捨てろ!」
ハッとした男が吠えるように周りに声をかける。レイチェルはぎゅうぎゅうと懐かしい人に抱きついた。男はレイチェルを睨みつけてくる。
「お前が世界最古の竜種か」
「ひどいわ、そんな呼び方をするなんて。忘れちゃったの? 私はレイチェルよ?」
抱きついた男の頬に手を這わせて、優しく撫でる。
アッシュグレーの短髪に、琥珀色の瞳。鼻筋は通って、少し彫りの深い顔。首が太く、腕は丸太のよう。胸も厚く、全身筋骨隆々で逞しい身体つき。レイチェルが抱きついてもびくともしない体幹。
姿形はずいぶんと変わってしまったけれど、レイチェルはひと目見て分かった。満面の笑顔で、彼女は男へと抱きつく。
ずっとずっと、待っていたの。
「会いたかったわ、お母さん!」
「はぁ!?」
レイチェルが抱きついた男は素っ頓狂な声を上げる。
彼女たちを囲っていた軍勢も、ぎょっとして男を見た。