1-04 こひつじちゃんとおおかみくん~またその手を取れる日を夢に見て~
『ゆーちゃん、だいすき!』
在りし日の残響は、遥か遠けき夕闇の彼方に。
思春期の少年・大上悠真は、幼馴染みの皆川遥を意識するあまり強く拒絶してしまう。その日を境に遥は行方不明となり、帰ってきたとき彼女は羊になっていた。
遥が、羊になった。
そんな事態に、悠真はもちろん周りも慌てふためき、日常は変貌し、悠真たちの世界は変質した。
黙したまま無情に流れ、全てを置き去りにしていく時のなかで、意志疎通すらうまくとれなくても、悠真は遥に寄り添おうとし続ける。
一度離れた手を、また取れる日を夢に見て。
きっと始まりは、夕焼けに染まったあの帰り道。
『ねぇゆーちゃん、一緒に帰ろ?』
『いいよ、そういうの』
『でも。でも今日、』
『やめろって! 遥はいつも鬱陶しいんだよ! どっか行けよ、この依存体質女!』
言い過ぎた、とは一瞬思った。
だけど口から出た言葉は飲み込めなくて。
両目に涙を滲ませて「ごめんね」と呟いて走り去った遥が次に見つかったのは数ヵ月後。俺たちの住む町から少し離れた地区の、独り暮らしの男の家だった。
詳しいことはもう知りようがない。
そこで暮らしていた男は、単身その家に辿り着いたらしい遥の父親によって殺されたらしいし、遥の父親もそいつの抵抗に遭って死んでしまった。その場所で何があって、どういう目に遭わされてきたのか、もう誰にもわからない。だけど戻ってきてからの遥は、もう俺の知る遥ではなかった。
メェェェェェ……
メェェェェェェェ……
今日も、掠れた鳴き声が聞こえる。
あぁ、またか。
インターホンを鳴らして、やはり誰もいないことを確認して。
俺は鳴き声の主……遥のもとへ向かった。
* * * * * * *
発見されたとき、遥は羊のマスク以外何も身に付けていなかったらしい。全身に青黒い痣が残っていて、部屋の床はゴミや排泄物で酷い有り様だったそうだ。身体は目に見えないところまでボロボロにされていて、たぶん普通の生活は二度と送れないだろう──ネットに流れた情報から語られる様々な憶測は、不愉快なことに全く的外れなものではなくて。
目の当たりにした遥は、むしろそれらをもっと酷くしたような状態に見えた。
「メェェ、メェェェ」
薄暗い部屋のなかで、今日も遥は鳴いている。
足音を聞き付けたのか、俺の方に寄ってきた。
……いなくなる前の遥は、少し肉付きのいい印象だった。太っているとかそういうのではなくて、あくまで健康的な範囲で。別に俺はどうとも思っちゃいなかったが、音楽の授業では歌声の評判がよかった。合唱コンクールでもソプラノのパートリーダーとかに抜擢されて、柄にもなく張り切っていた姿を覚えている──なんか嬉しそうに報告までしてきてたっけ。何が楽しいんだか知らないがいつも目を輝かせながらこっちに来て、口を開けばゆーちゃんゆーちゃんと……俺にだって体裁ってものがあるから、そんな呼び方されるのは不本意極まりなかった。
今じゃ、まるで別人だ。
恐らく誰のことも見えちゃいない瞳で俺を見上げてくるその身体は痩せ細っていて、肋骨の厚みまでわかるくらい浮き出た胸元は見ていて痛々しさしか感じない。開きっぱなしになった口からは相変わらず嗄れた声で羊みたいな鳴き真似をして、その声にはもう音楽の授業で持て囃されていた頃の面影なんて欠片ほども残っちゃいない。
可愛い服が好きだとか言って、人間というより人形が着ていそうな服を着ては『どうかな! 可愛くない!?』なんて言って俺に見せびらかしていたやつが、今は一糸まとわぬ姿で過ごしている。……そんな姿を見ても興奮なんてまるでできなくて、一時は自分が異常なんじゃないかと思ったが、俺に限らずこんな有り様のやつを見て興奮する方が異常なのだろうと思い至った。
「遥」
「メェェ、メェェェ」
嗄れた声が返ってくる。
「遥」
「メェェェ、メェェェェ」
散々泣き叫んで潰れたのだろう喉から、か細く絞り出される声は人間のものとは思えない。
「遥」
「…………ェェ、メ……ェ、ごほっ、」
目的もなくずっと鳴いていたからだろう、途中から遥は噎せ返り、ようやく耳障りな声が止んだ。咳き込む声も前みたいな声ではなく、ヒューヒューとただ空気が通り抜けるみたいな音の混ざった声になっていた。
「遥」
「…………」
キョロキョロと辺りを見回す遥。いったい誰を探しているのかは、もう見当がついている──遥をこんな目に遭わせた犯人だ。遥は犯人に数ヵ月もの間『飼育』されていたらしい。それまで築き上げてきた人間としての常識や価値観、尊厳を全て踏み荒らされ、蹂躙されて、痛みや暴力で何もかもを壊されて。そうやって何もなくなった遥には、犯人から強いられた羊としての振る舞い以外残されていなかった──変わり果てた遥の様子からは、それがありありと窺えた。
遥は今、家にたったひとりだ。
父親は死んだし、母親もいつの間にか出て行ってしまっていた──あの人を思い出すと、前に一度すれ違ったときに激しく詰なじられたことまで思い出してしまう。
『あんた、よく遥のこと邪険にしてたっていうじゃない。あんたのせいでこんなことになったんじゃないの!?』
穏やかで可愛らしく、明るい笑顔ばかり見ていた人とは思えないくらいに怖い顔で、俺に怒鳴り散らしていた。窶れて、疲れきって、何かにひどく追い詰められたような姿を見たのが、遥の母親を見た最後だった。その翌日気持ちが落ち着かなくて見舞いに行くと、数日くらいは食い繋げそうな食料と遥だけを残して、遥の家からは何もなくなっていたのだ。
たったひとり──そう形容していいのかすら、判断に迷ってしまう。
気にしないようにしていたが、家のなかは酷い臭いだ。遥は汗も拭かないし、トイレだって使わない。体臭に加えて排泄物の臭いまで加わって、いるだけで吐き気を催すような場所だった。
監禁されている間の生活がどんな風だったのかはもちろんわからない。だが、あまりに人間性を放棄したような現状に、その一端が表れているような気がした。
汚いという言葉だけで片付けるのも生ぬるいような室内で、遥はメェメェと痛ましいまでに掠れた声で鳴いている。四つん這いになって歩く足下では、遥が好きだと言っていたアイドル系パンクバンドの新譜や名のある女優たち数名で秘密裏に結成していたシンフォニックメタルバンドのデビューライブのBlu-rayが、箱の上から踏みつけられたようにひしゃげていた。これだけ痩せていたらさすがに中身は無事だろうが、もう遥はこういうのにも目を向けなくなっていたのだ。
なんとか、前みたいな遥を見たかった。
いま遥の足下から拾ったCDやBlu-rayもそうだし、他にも遥が興味を示しそうなものをいくつか差し入れしたことがあった。そんなのが効果的なのかは知らなかったが、どうしてもここを出たがらず、またすぐに服を脱いでしまうせいで出すわけにもいかない遥に対して、なんとか自分なりに考えたつもりだった。
今のところ、俺が持ち込んだもので遥が興味を示したのは食べ物だけだった。だが、それは遥らしいというよりは腹を空かせた動物のような食いつき方で、昔からの好物だろうと、昔から苦手だったものだろうと、何でも構わず口に突っ込んで消化していく──その有り様を見てしまっては、むしろ胸が苦しくなるだけだった。
「何なんだよ……」
何度となく呟いた言葉が、また口から漏れる。
遥の母親が、消える前に吐き捨てた言葉。
俺を激しく詰った、悲鳴にも近い怒号。
そんなのは、俺自身ずっと思っていたことだった。消える前に泣いて走り去る遥を見送っていたのは、俺だったのだから。あいつをひとりにしたのは、俺なのだから。
だから、俺がどうにかしなくちゃいけないのに。
いざこんな状態の遥を前にすると、いつも何をしたらいいかわからなかった。それで思い付く限りのことをしてみても、効果があるとは思えなくて。
やり直したかった。
つい口をついた、罵倒の言葉を吐く前に戻りたかった。汚物まみれの床にあってギリギリ汚れずに済んでいたものを拾い上げて、それにも反応を示さない遥を見下ろして歯軋りしたとき。
すり、
慣れない箇所に慣れない刺激を感じた。
見下ろすと、遥が俺の太股に頬擦りするように顔を押し付けている。舌を突き出しているのか、犬みたいな荒い息を漏らしながら懸命に、必死にすら感じる仕草で俺の太股やその付け根あたりに頭を擦り付けてきている。
与えられる刺激と、耳を侵食する吐息──身体に起きた生理的な反応をごまかすように、俺は声を張り上げる。
「やめろよ!」
腰を引いて、遥から離れる。
「……?」
遥は、何をしているのかわからないというように小首を傾げ、それでも俺の身体に追い縋ってくる。まるで、俺が想像した行為が当たり前であるかのように。
当たり前なのか、もしかして?
遥の中では、当たり前になってしまっているのか? 苛立ったり、何か催した相手へのご機嫌とりのように……。
俺のことも、そう見えてるのか!?
……欲望が、首をもたげる。
よく知りもしないやつが、こんな風に壊れるまで遥を好き勝手したんだろ? だったらさ……!!
「────っ」
何考えてんだ、俺!?
「はっ、はっ……はぁっ……!」
おかしい、今の俺はおかしい!!
遥の部屋を飛び出して、荒い息を整える。頭のなかに思い浮かぶ最低な想像を振り払いながら、俺はそんなんじゃないと心のなかで叫びながら。
「……また来るから」
やっとのことで声を絞り出して、遥の家を後にする。玄関のドアを後ろ手で閉めたとき。
「悠真?」
ふと、声がして。
顔をあげた先にいたのは、奏田奈緒。俺と遥の昔馴染みで、俺が今付き合っている彼女だ。家も近いから、偶然通りかかったのだろうか。
その声は、少し震えて聞こえて。
「ここ遥の家だよね。何してるの?」
顔も見えないくらいの夕闇に飲まれる風景のなか、奏田の声はやけに胸を騒がせた。





