1-20 毒は蓄積、決壊刹那
蓄積する毒は、やがて決壊する。それは刹那――。
家が隣ということもあり仲の良い幼馴染の隆と智也。しかし、小学校三年生の頃から誰よりもおしゃべりで活発だった隆が寡黙になり、毎日のように身体に傷を負うようになった。
隣家からは毎日のように叫び声と何かが壊れる音が聞こえ、智也は隆を何とかしてやりたいと思ったが、子どもが手に負えるわけがなかった。智也の両親も何度となく追い出される隆を不憫に思い、隣家へ抗議に行ったが取り合ってもらえず、追い返される日々だった。
中学に上がる頃、隆の両親が離婚をしたが、隆の様子はあまり変わらないまま月日が過ぎ、高校二年生の冬に智也は隆から将来の仕事について相談される。「屠畜を仕事にしたい」と。
穏やかに見える隆の精神は、既に決壊寸前だった。
ぷくぷくと泡を立てながら朱に染まった水は排水溝へと流れていく。
いつもより強いシャワーの音は窓の外で唸りを上げる暴風雨にかき消され、静かにさえ感じる。
ザアザア
コポコポ
流れる水の音を聞きながら自らも無になり、一心に目の前の作業に取り組む。憔悴した体を駆け巡る高揚感で、気付けば鼻歌を口ずさんでいた。
子どもの頃、母の背中で聞いた歌を。
さすがに皮肉だと首を振り、再び目の前の作業に取り掛かる。憎しみと悲しみと喜びと感謝があふれては消え、まるで排水溝に向かって流れていくこの水泡のようだと小さな笑みが浮かんだ。その顔は見る人によっては鬼のようであり、寂しげでもあった。複雑な感情を浮かべた顔はやがて能面のように感情を失う。
「さあ、次はミキサー」
小分けにビニール袋に入れたものを少しずつキッチンへと運ぶ。ミルミキサーにかけているうちに次の袋を取りに行く。慎重だった作業は時間が経過するにつれ大胆に変わっていった。
数台の小さなミルミキサーは、自分には分不相応な仕事量に悲鳴を上げながら職務を果たしている。
「こんなものか。こんなに簡単だったのか」
あとは出来上がったこの肉片を流すだけだ。ひと仕事を終え力が抜けたのか、今頃になり膝ががくがくと震えた。近くの壁に背を預けると力なく重力に従ってズルズルと身を落とし、目の前で必死に業務を遂行する機械をただ見つめる。
まだ外は嵐が去らず、ゴウゴウと鳴り響く風雨の音がやけに鮮明で頭にこびりついた。
*
「屠畜を仕事にする?」
いきなりそう聞かされ、智也は驚いた。
高校二年生の冬休みが明け、これから進学か就職かをより否応なく突きつけられる。しかし目の前の未来は自分の選択肢で選ぶことができるというのに、よりにもよって屠畜を職業にしたいと幼馴染の隆が言うのだから驚かないわけがない。
「変、かな」
大柄で快活なはずの幼馴染の姿は肩を落として小さくしぼみ、まるで捨てられた子犬のようだった。智也は元気づけようと、小さくうなだれる親友の背中を音がするほど強くたたくと、わざと声を大きく張り上げる。
「考えたんだろう? 俺、おまえがいつも必死で何かを考えているって気付いてた。将来のことを考えていたんだろ?」
「うん。あまり人に大きな声で言えない職場ってことは分かってるんだけどさ。オレ、社会の役に立ちたくて」
うなだれた頭では表情までは分からないが、誰もが就きたがらないような職業に就きたいと決めた隆の覚悟が声から伝わってくる。親友なのだから理解してやらなければという軽い義務感があったことは否定しないが、この時はそれが最適解だと思った。
「食肉加工は人間の血肉になる大切な仕事だもんな。隆が昔から食肉について調べているのは知ってる。おまえは栄養士にでもなるのかと勝手に思っていたから、ちょっと驚いた。そうかぁ、料理になる前の方に行くのか」
小さく頷いた隆は顔を上げると、満面の笑みを浮かべていた。
「やっぱり、智也は分かってくれると思ってたんだ」
「難しいとは思うけど、人の役に立つ仕事を選ぶのは立派だよ。俺なんて何をしたいかもぼんやりで。とりあえず大学、だからなぁ」
智也はニカっと笑うと立ち上がり、屋上にある柵に両腕を乗せ、今にも降りだしそうな曇天を見上げる。
二年の校舎は三階建てで決して高いとは言えない屋上だったが、空が近く感じられるという理由で二人のお気に入りの場所だった。どちらが行くと示し合わせたわけではないが、授業が終わると屋上へ集まり、日々のくだらない話や勉強についてなど、それぞれの友人には話しにくい悩みを相談していた。
心地よい沈黙を破るようにチャイムが鳴ると、隆は慌てて鞄をつかみ「悪い、帰るわ」と短く言って屋内へと続くドアを乱暴に開け走り去った。
その姿を見送り智也は小さくため息をついた。
隆は体が大きくて力も強く勉強もでき、優しくてそれなりにモテる。それなのに家に縛られていた。幼い頃から隆の家は異質で、よく暴力を振るわれ追い出されては智也の家に転がり込んできたものだった。智也の両親は何度となく抗議をしたが受け入れてもらえず、智也は家の事情に踏み込むにはまだ子どもで、力になってやりたくても難しかった。
やがて中学に上がる頃に隆の両親は離婚した。今は母親と一緒に暮らしているが、この母親も暴力を振るう。体ではなく、精神の方に。
先ほどは隆の手前、就きたい仕事はまだ決まっていないと言ったが、本当はそんな隆を助けてやりたくて、暴力に立ち向かえる刑事になることがいつの間にか智也の将来の夢になっていた。ただ勝手な思いを押し付けたくなくて隆には話していない。
「隆、もったいないよ。おまえの力があればその世界からは離脱できるのに」
隆の性格からすると、屠畜場で働くと言うのは離婚した両親への精一杯の当てつけなのだろうと勝手に解釈はしたが、釈然とはしない。
校舎から走り去る小さな親友の影を見送り、自身も鞄を肩にかけると駅前にある塾へ向かうため、重い足取りで屋上をあとにした。
一方、隆はやはり智也に話をするべきではなかったと後悔しながら家路を急いでいた。
家に帰ると家事をしなければ母に怒鳴られ罵倒される。言い返せば良いのだろうが、幼い頃から虐待されてきた隆の中にそんな恐ろしい考えは浮かばなかった。
両親に絶対服従という鎖は、身長180センチ体重80キロの立派な体躯に成長した隆を縛り付けていた。幼い頃から浴びた洗脳にも似た呪は、反抗したあとに隆の精神を否応なくむしばんだ。反抗しなければ良かったと酷く苦しみ悩む隆に追い打ちをかけるように、母はヒステリーを起こす。
「親不孝者! おまえなんて産むんじゃなかった! 父親そっくり!」
暴力を振るう父のどこに似ているのかと思うが、毎日のように罵倒されていくうちに隆の精神は殺されていった。やがて、従順にしていれば機嫌の良い母の顔色を窺うようになった。
自分の心を閉じてしまうことは存外簡単で、学校でも嫌な顔ひとつしたことがない。母と比べれば、学生の行動は子どもの我儘程度で扱いやすかった。
ただ、幼い頃から何度となく助けてくれた智也だけは、ごまかせているとは思えなかった。自分を理解してくれている智也は特別で、何でも相談できる貴重で頼れる存在なのだ。
智也に、就きたい仕事が屠畜だなんて言ってしまった。オレはバカだ。
後悔しながら自宅の扉を開けると、家の中はいつものようにタバコの臭いが充満していた。風俗店へ出勤する前の母が、店では吸えないタバコをできる限り堪能したのだ。
顔をしかめて家の中に入ると母が出かけたことを確認し、換気扇を回して次亜塩素酸水を振りまき臭いを消すと、アルコールでの拭き掃除をする。念入りに消臭してから洗濯物を取り込み、その場で畳んで各収納へしまう。
次は冷蔵庫の中を確認して夜の献立を考える。幸いにも母がビール以外に手を付けた様子がなかったので、朝の残りのポテトサラダを使った変わり種の揚げ餃子を作ることにした。酒のつまみになるものを作っておくと母の機嫌が良くなるため、これは無意識下の自衛行動でもある。
隆は料理をすることが嫌いではない。家事をする姿を見せると母に蔑まれることもあるが、料理を褒められることが圧倒的に多かったからだ。
「オレ、本当は料理の道に進みたいんだよ、智也」
餃子を包みながらぼそりと口から零れ落ちた本音を慌てて飲み込み、黙々と餃子を包んだ。変わり種以外に、ひき肉と白菜としいたけを混ぜ合わせた肉餃子を包み焼く。蒸し焼きをしている間にポテトサラダ餃子を揚げ、スープを作る。
父と暮らしていた頃から手伝わされていただけあり、その手際は素晴らしいものだった。その姿を見れば誰もが良い料理人になると言うだろうが、その腕前は親友である智也ですら見せたことが無い。外では男らしく振舞うよう母から強制され、愚直に守っているのだ。
――オレ、本当は料理の道に進みたいんだよ、智也
そう智也に相談ができたらどんなに良いかと思いながら、パリパリと音を立て揚げ餃子を噛む。塩だけで味付けした揚げ餃子は上出来だったが、美味しくできたと言いたい相手は目の前にはいない。
味気ない夕食を摂取し終え、そのまま洗い物を済ませると、隆は冷ました料理にラップをして冷蔵庫に片付けると、日付けが変わる頃に帰宅する母への伝言を書いて自室へと戻った。
学習デスクの前に力なく座り、ギイギイと椅子を揺らして考える。母は料理なんて男が進んでする仕事ではないと言った。隆はフレンチのシェフも日本料理の板前も男の人だと珍しく反抗してみたのだが、厳しい修行の末に地位を勝ち取った特別な人におまえなんかがなれるわけがない、と一蹴されてしまった。さらに誰が学費を出すのかとヒステリーを起こされ、聞く耳も持ってもらえなかった。
だから屠畜場とは実に皮肉だが、まず母から逃げて金を貯め、料理の修行を始めるというのが隆の計画だった。
屠畜場では解体が行われ、食肉用に加工する工程がある。そこで解体の技術を学べば料理の役に立つというのが隆の考えだ。しかも常に死臭がまとわりつく職場は母が嫌がることが推測でき、家を出られ一石二鳥だと思った。
できるだけ遠くがいい。母が追いかけてこないような場所にある理想の屠畜場が。
母の数多い顧客兼愛人の男からおさがりで貰ったパソコンを立ち上げ、隆は今日も職場を探した。
「屠畜 屠殺 殺 殺殺殺殺……」
隆の精神はゆるやかに崩壊を始めていた。