1-19 仮想捜査官コーデッカー
仮想空間が普及した現代社会。《セカンド》が生活を豊かにする一方、インセクトという巨大なバグのせいで、人々は予期せぬサイバートラブルに脅かせるようになっていた。
そんなある日、インセクトを退治するインセクト・コーデッカーが新星のごとく現れた!
これは《セカンド》の秩序を守るコーデッカーと、それを支える仮想捜査官達の活動記録である。
また、あの耳障りな音が耳をよぎった。これで何度目だろう。俺は右手で蚊を追い払う。
季節は夏、八月の真っただ中。引っ越してから間もないアパートの一室には無数の段ボールが居座っており、その半数近くが開封されていなかった。
こうして他人事のように語っているが、この状況を生み出しているのは俺自身である。言い訳をすれば、仕事が忙しく荷解きをする暇がなかったのだ。面倒くさかったからでは断じてない。
幸運なことに今日は休みだ。俺は今、邪魔な段ボールから中身を取り出している。今日こそは荷解きを済ませるのだ。
しかし、端末のコール音が聞こえた瞬間、今日の予定が大きく狂うことを悟った。
俺はズボンのポケットから端末を取り出し、嫌々ながらコール音に応えた。
「やっほー先輩。元気してます?」抑揚のない低音、そのわりには愉快な話し方。開口一番に話しかけてきたそいつは俺の職場の後輩だった。
「お前の声を聞くまではな。で、なんの用だ。アキナ?」
「いやぁ、すみませんね。でも、朗報です。コーデッカーを見つけたんですよ」
「分かった、すぐ行く。お前の現在地を送ってくれ」
「ラジャー」
彼女からの通話が切れた。俺は《セカンド》へ向かうため、開封済みの段ボールの中から白のヘルメットを取り出した。だが、ヘルメットを用意したのはバイクに乗るためではない。そもそも俺は免許を持っていない。所持しているものといえば、仮想捜査官の身分を示す物理バッジぐらいだろう。
仮想捜査官。この単語が休日に出ることになろうとは……。
俺はヘルメットを頭に被せ、《セカンド》へ急行した。移動はコンマ1秒も掛からない。
視界が暗転し、次に映ったものはド派手なホログラムと、白煙まみれの屋台が入り乱れる繁華街だった。そして、場所が場所なだけに通行人が多かった。いや、Tレックスだのガイノイドだの、ネコかタヌキか判別不明な珍獣だの、人以外の存在もたくさん歩いていた。
「三秒遅いですよ、先輩」左耳から後輩であるアキナの声が聞こえてくる。俺は彼女のアバターは知っていたので、前を見据えたまま左耳付近の空間を指で弾いた。すると「うぎゃ」という奇妙な悲鳴が彼女の口から漏れた。
「いきなりなにするんですか」
「ああ、悪い悪い。耳元に蚊が飛んでると思ってな」
「こんな可愛い子を虫扱いするなんて。おろろ」アキナは自身のアバター――子犬のようなぬいぐるみを俺に見せつけてきた。不等号で簡略化した、漫画的な涙目の顔。彼女はそれを俺の目の前に近づける。
「はいはい」
俺はアキナの胴元を掴み取ると、空中へ放り投げた。くるくると宙を舞う。よく見ると彼女の目は渦巻きをディフォルメしたものに変わっていた。
見ての通り彼女のアバターはマスコット的だ。ファンシーな存在らしく、回転の勢いが弱まると、彼女はそのまま浮遊しながら俺の元に戻ってきた。
「コーデッカーをどこで見た」
「相変わらず堅物ですね。ところで先輩、デフォルトのアバターって味気ないと思いませんか?」
「思わない。今話すべきはコーデッカーだ」
「やーい、仕事人間」
アキナは文句を垂れたが、俺は無視した。いくら着飾ったところでそれはアバターが変わるだけ。現実での姿が変わるわけではない。食事をしたところで腹が膨れるわけでもない。死んだ人間が生き返るわけでもない。結局のところ、俺にとって《セカンド》はただのインフラに過ぎなかった。
そして、俺の仕事はそのインフラの捜査であり、コーデッカーというバグ――《セカンド》風に呼ぶとインセクト――を調べることが任務だった。
コーデッカー。数年前から現れた謎の存在。そいつはインセクトを退治するインセクト、いわば益虫のようなものだが、たとえ大衆がヒーローと褒め称えようと、悪意や害意がなかろうと、《セカンド》のイレギュラーである事実は覆しようがない。
「奥で見かけたんですよ」アキナは自分の体を浮かせ、そのまま人込みの上を飛行する。「こっちです」
俺は彼女が飛んだ先を追いながら、通行人をかき分けながら進んでいく。彼女のアバターはふざけているが、人込みを避けるという意味では合理的かもしれなかった
「コーデッカーと会えるのか。嬉しいな」アキナはそう呟き、アバターの尻尾を左右に激しく揺らした。「先輩は嬉しくないですか?」
彼女の問いに、俺は「ああ」とだけ答えた。奴を追ってから一年が経過していた。神出鬼没で接触する機会になかなか恵まれなかったが、ついに叶う日がきたのだ。その日が休日でないのなら、なお好ましかったが、そう簡単に事が運ばないのが常である。俺はため息を吐いた。
「なんですか、そのガッカリ感は。あのコーデッカーに会えるんですよ。もっと喜びましょうよ」
「俺が嬉しいのは捜査対象と接触できるからだ。ヒーロー自体に興味はない」
《セカンド》の秩序を脅かすインセクトを退治する存在だけあって、コーデッカーは実にありがたい存在だ。それに奴の姿はパワードスーツじみた外装を身に着けた人型で、フィクションのヒーローを体現したかのようである。奴を嫌う人間は、よほどの捻くれ者ではない限りはいないだろう。だが、一介の捜査官として奴の出現を素直に喜べるものではなかった。
「だいたいな。コーデッカーの出現っていうのは、インセクトの出現と同じなんだ。要するに面倒事が起こる前兆だ」
「まあ、それはそうですけど――」
アキナが反論しようとしたその時、周囲の人々が両腕を空に掲げ、急に消えた。それからほどなくして『緊急事態です。インセクト出現しました』と捜査官の専属オペレーターが俺達を呼びかけた。オペレーターに状況を確認したところ、このエリアでモスキート音に似た異音が発生したらしく、一般人はその音を逃れようと半ば強引にログアウトしたらしい。俺達捜査官は特殊なプログラムで異音を防げているが、異音は未だになり続けているようで、ミュート設定でも対処不能とのことだ。
要するエラー音だ。そして、この状況が起こる前にコーデッカーが出現したという事実。それが何を意味するのか語るまでもないだろう。
「先輩、あれ」
アキナが腕で指し示した先に、気色悪い薄茶色の巨大な虫が空中を飛び回っており、外装を備えた人影がその虫を追っていた。
赤い体に黒の斑点、テントウムシを思わす外装を身に着けたそいつは、間違いなくコーデッカーだった。そいつが追っている虫は十中八九インセクトだ。
インセクトとコーデッカーは何度も衝突しあい、茶色と赤い軌跡を描く。
俺達、仮想捜査官。いや、人間の動体視力では認識不能な戦いを奴らは繰り広げていた。
視認してから五秒後。いつの間にかインセクトは消え、コーデッカーだけが残った。
その戦いは本当に一瞬の出来事だった。
しかし、惚けてる暇はない。「コーデッカー」俺達は奴の元に全速力で駆け寄った。
「君達は?」コーデッカーは首を捻り、俺達の姿を眺めた。
「俺は仮想捜査官の及川サグル。で、このマスコットもどきは山本アキナ。仮想捜査官っていうのは、まあ、あれだな。インセクトの駆除業者みたいなもんだ。で、お前を捜査しに来たってわけ。…………お前と話がしたい」
我ながら悪役じみた発言だが、お役所仕事というのは時として憎まれ役を負うこともある。いちいち気にしていても仕方がない。
良性インセクト・コーデッカー。今まで悪性しかなかったインセクトの前提は、こいつの出現によって崩れ去った。そして、奴は世界初の良性だ。貴重なサンプルであり、世界各国が奴を求めた。俺達の任務は奴を持ち帰ることにあった。
手段は問わない。だからこそ俺達は馬鹿正直に奴と接触を試みた。