1-13 亡くした初恋 〜王女が結婚したがらない理由〜
流れ者の剣士であったリゲルは、突如として王命を受ける。それは――
「王女アルテミシアが結婚したがらない理由を聞き出せ。もし一年以内にできなければ、そなたが王女と結婚せよ」というもの。
リゲルは王女の近衛騎士として働くことになるが、内心乗り気ではない。彼には、流れ者として日陰の生活を続けていきたい事情があるのだ。実は彼の正体は、死んだことになっている亡国の王子レグルスだった。
また、リゲルがレグルス王子であった頃、即ち彼の故国が滅びる前、子供時代の彼と王女アルテミシアは会ったことがある。しかし十年を経て再会した今、王女のほうはリゲルとレグルス王子が同一人物だとは気づいていない。
さらに、生涯結婚しないと言い張るアルテミシアにも理由があった。「人を好きになるのがこわいの。私は不吉な子だから」
二人は次第に惹かれ合うも、一歩恋に踏み出せない。訳あり騎士×拗らせ王女の、じれじれ純愛ストーリー。
「ねえ、リゲル。最近私のそばにいるのが、いつもあなたのような気がするのだけれど」
「……私は与えられた業務にあたっているだけです」
――クローティア王国、王宮庭園。生温く、ゆるやかに頬をくすぐる午後の風は、関係性の定まらない二人を面白がっているかのようだった。
木陰に置かれた白のガーデンチェアに腰掛けているのは、十九歳になった王女アルテミシア。陽に煌めく金の髪、透き通る白い肌。長いまつ毛に縁取られた碧色の両瞳は、手元に開いた本の頁へと視線を落としている。
傍らに立ち、王女に無愛想な返事をしたのは近衛騎士のリゲルだ。少しくせのある黒髪はふわりと空気をはらんで。中途半端に伸びた前髪部分が、琥珀色の瞳と通った鼻筋に影を落とす。
彼は、護衛の役割を果たせる位置に控えながらも、その範囲内でなるべく王女から距離をとっているかに見えた。大股で一、二歩。それが二人の距離である。
また、上品な濃紺の騎士制服を纏ったリゲルはどこか窮屈そうでもあった。その訳はおそらく、ここが彼にとって予期せぬ働き口だったから。ついひと月ほど前まで、彼は定住地を持たない流れの剣士だった。
しかし、先日ひょんなことから王宮に呼び出された彼は、とある任務を課されることとなったのだ。
「王女のアルテミシアが縁談を断ってばかりで、どうしても結婚したがらない。理由を聞き出してくれ」
リゲルに突如与えられた、この国の王が直々に下した使命。いったい何故そんな話になったかというと――
放浪の旅をしていた頃、リゲルには剣の師がいた。名はシリウス。年齢はリゲルの祖父ほどで、若い弟子にとっては親代わりのような存在でもあった。
リゲルが十一歳のときから二十歳になる最近まで、師弟は訳あって二人きりで旅をしていた。
ふた月前、このシリウスが年齢的な衰えにより亡くなった。師は自らの死期を悟っていたのだろう、最期は眠るように安らかだった。そして、リゲルのもとには一通の手紙が残された。
「俺が逝ったら、この手紙を旧友まで届けてほしい。ただし、リゲル。必ずお前の手で届けてくれ」――あろうことか、手紙の宛先はここクローティア国の王だった。
リゲルは、手紙を届けさえすれば役目は終わりだと思っていた。王宮の敷地をぐるりと取り囲む鉄柵の外側で、多少あやしまれながらも衛兵にこれを手渡し、そそくさと立ち去る。
約九年にわたって日陰の放浪生活を送ってきた彼には、賑やかな王都の様子は落ち着かなかった。早急に離れたいところだったが、日暮れが迫っていたので仕方なく、裏通りの安宿に一泊した。
翌朝、宿先でリゲルを呼び止める者があった。それは王の使者で、気づけば彼は王宮へと連れられ、当の国王本人と対面していたのだ。
「なるほど、そなたが……」
リゲルを前に王がもらした声は、どこか感慨ともとれる響きを含んでいた。王の手には昨日届けた、師シリウスからの手紙があった。
いったい何が書かれていたというのか――リゲルは手紙の内容を知らない。また、この王から感慨深げな眼差しを向けられる覚えもなかった。
彼の戸惑いをよそに、王はふと柔らかに目を細めた。年の頃はおそらく、師と同じか少し若いくらい。目尻に寄った皺が王の威厳をやわらげ、急に孫を見る祖父のような顔つきになる。
「各地を渡り歩き、先々で剣士の仕事を得ていたというが。今後はここで働くといい」
「…………」
「遠慮することはない。しばらく疎遠であったがシリウスとは旧知の仲だ。この老いた友からの思いを、彼の代わりに受け取ってはくれぬか」
リゲルが言葉を失ったのは遠慮からではない。王宮で働くなんて冗談じゃない、そう思ったためだ。
一人で細々やっていく程度の稼ぎでよければ、剣士の仕事はいくらでもある。用心棒や野盗退治、剣術大会に出て賞金を稼ぐという手も。幸いリゲルは腕が立った。師亡きあと一人でも今までと同じ生活を続けていける自信があったし、それが気楽でいいと思っていた。
なんとか断れないかと彼は無言のうちに思考を巡らせたわけだが、一国の王にこれほど下手に出る物言いをされてしまっては。「ご厚意に感謝します」と、小さく返すしかなかった。
しかし王の話には、リゲルが思ってもみない続きがあったのだ。
「して、リゲルよ。早速仕事の一環として、ついでに頼まれてほしいことがあるのだが……」
こうして唐突に始まったのが、王の孫にあたるアルテミシア王女の話である。
美しい王女には当然いくつもの縁談があったが、彼女は何かと理屈を並べてどれも受けようとしない。近頃はもうはっきりと「私は生涯結婚しません」、そう言い張っているという。
どうして結婚したくないのか、王が訊ねても明確な答えは返ってこない。だからこの理由を聞き出してほしいと。
話しぶりから、王が孫娘に手を焼いている様子は十分に伝わってきた。
だが、よりによって何故その役目が自分に回ってきたのかまったく腑に落ちない――リゲルが怪訝に思う気持ちは、もはや隠しきれていなかったらしい。王は先回りする形で彼の疑問に答えた。
「そなたなら、王女から何か聞き出せるのではないかと思った。老年の勘のようなものだ」
「……もし、できなかった場合にはどうなるのですか」
「そうだな、では期限を設けよう。一年だ。もし期限内に理由を聞き出せなかった場合には……リゲル、そなたがあれをもらってやってくれ」
――はっ……?
思わず頓狂な声を上げそうになり、リゲルは慌てて片手で口を押さえた。
「お言葉ですが、俺……私はなんの身分もない流れ者です。万が一、ご冗談であっても、王女殿下の相手には相応しくありません」
動揺により言葉遣いを乱しながら、さすがにリゲルも反論せざるを得ない。
しかし、王の笑顔の奥にある瞳はいたって真面目だった。
「こんなことで冗談は言わない。それに言葉を返すようだが、そなたの血筋は問題ないはずであろう? ――レグルス王子殿下」
「…………その名は、もう」
“レグルス”――それは、彼にとって捨てた名だ。正確に言えば捨てたというより、亡くした。
九年前、ネメシアという小国が滅びるにあたって、かの国の王子レグルスもまた死んだのだ。
政変により、父王をはじめ王族は命を奪われ、居住していた館には火がかけられた。混乱のさなか間一髪で当時十一歳のレグルスを救って逃げたのが、騎士として館に出入りしていたシリウスだった。
ネメシア滅亡の糸を引いたのは、東方に位置する大国ブロンテオン。状況を踏まえれば、生き残った王子を擁立して国を取り戻すなどということは不可能であった。王子は名を捨て、二人はただ生き延びることだけを考えた。
「私はこの先レグルスとして……王族として生きる気はありません」
「ああ、言葉が足りなかったな。そなたに政治的役割を求めるつもりはない。私は旧友シリウスの大事な存在である青年に、安全な居場所を与えたいだけなのだ。王女の件はついでだと思ってくれればよいし、そなたの過去も私の心に秘めておこう。それでどうだろうか?」
いつの間にか、リゲルはこの物柔らかな王の言葉を全て承諾する羽目になっていた。やはり一国の王ともなれば、食えないな……。胸中でぼやきつつ、彼は謁見の間を後にする。
一旦の滞在先として彼が案内されたのは、王宮内にある広すぎる客室だった。勤務体制など諸々の準備が整うまで、数日間ここで待てという。
言われた仕事内容は、近衛として王宮内を警備すること。加えて、王女が結婚したがらない理由を聞き出すこと。
改めて考えてみれば頭痛がしてきそうだった。近衛騎士なんて簡単に就ける職ではない。確かな身分を持つことが最低条件で、知力体力判断力ほか様々な面で選りすぐられた者がなるのだ。さらに王女うんぬんは、既に理解の範疇を超えていた。
部屋で一人きりになった途端、リゲルはどっと疲れを感じた。いかにも高級な布が張られたソファーに遠慮なく倒れ込むと、静かにまぶたを閉じる。
――アルテミシア王女か……。
彼の思考はゆっくりと、奥へ潜っていった。ゆっくり、奥深くへと。
レグルスの名を亡くして以来、意識して浮かべることはなかった古い記憶。
夏の森。緑を濃くした樹々に囲まれ、ぽっかりとあいた空間。中心には、向こう岸を見渡せるくらいの湖がある。空の青と、樹々の緑。それから力強い太陽の光を受けて、湖面は一瞬一瞬ちがう色に輝いていた。
十歳のレグルスは湖畔に座って、目の前の景色を飽きずに見つめていた。空気は涼やかに澄みわたり、あたりはとても静かで。世界から時間というものが消えてしまったんじゃないか、ふとそんな感覚にとらわれるほど穏やかな場所だった。子供ながらに美しいと感動したものだ。
だが、彼が美しいと思ったのはそれだけではなかった。
彼の隣には、一人の少女がいた。その両瞳が映すのは湖面と同じ、青とも緑ともいえない神秘的な色。
それが、先ほどまではしゃいだ声を上げて、ワンピースの裾をつまんでちょこちょこと走っていた少女と同一とは思えず。どきりと、レグルスの胸は小さく音を立てた。
不意に少女がこちらを向いて、目が合う。瞬間彼女はにこっと、花が咲きこぼれるかの笑みを見せた。今度は大きく、胸が鳴った。
――彼女はもう、俺がレグルスだとは気づかないだろう。死んだことになっているし、俺はきっと面影がないくらいに変わっている。住む場所も食べるものも一切の心配なく、無邪気に全てを享受していた子供のレグルスは、もういない。