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《八話》炎から

 「いつか、私も貴女と共に睡蓮を見てみたい……」


 祐翔ゆうしょうから送られてきた文を胡娘こじょうは思わず声に出して読んでいた。治療の礼は済んでいるであろうに、祐翔は文を送ってきている。

 内容は恵佳内親王から睡蓮を見た話を聞いて、自分も見てみたいということだった。確かにここ慶徳宮の睡蓮の池は殿舎の名に使われるほど綺麗で自慢のものだ。


 「本当に親王殿下は妹君のことで感謝しているのね」


 太医すらも治療ができなかったと聞くから、その感謝は深いものだろう。胡娘としては後宮の医官や仵作の知識不足や杜撰な管理の方が問題ではないかと思うのだが。気鬱は医者でも治療するのが難しいというし、胡娘は運が良かった。


 胡娘の故郷の医術と恵佳内親王が上手く噛み合った結果だ。


 『親王め…姉さんをそう簡単に渡したりしないんだから!』


 顔の隣で妹妹が手紙を覗き込んだ気配がした。妹妹は不安なのだろう。ここは故郷ではなく異国なのだから、人間に対して疑い深くなっている。


 「なら、明日の散歩に親王殿下もお誘いしようかしら」


 胡娘は偶に恵佳内親王と散歩するほどの仲になっていた。とう貴妃も胡娘と散歩したがっていたが纒足なのであまり歩けないことと、皇后派閥ではない陶貴妃と皇后派閥であるふう妃との関係もあるので陶貴妃にはお茶を一緒にするということで納得してもらっている。


 『姉さん!? こんな下心丸出しのやつに恵佳内親王との時間を邪魔されてもいいってわけ?』


 妹妹は何故か祐翔のことが気に入らないようで、祐翔絡みのことがあると噛みつくような声を上げていた。


 「恵佳内親王と親王殿下は兄妹よ。少し羨ましいと感じただけじゃないかしら」


 恵佳内親王は睡蓮の開花を見れたことを自慢げに話していたようである。たしかに開花の様子が見れるのは早起きの特権だ。それに、親王であるとはいえ気軽に後宮に出入りできない祐翔には珍しい光景だと思えるのだろう。

 

 次の日は恵佳内親王と後宮に立ち入る許可をもらった祐翔との三人で早朝を散歩した。恵佳内親王は兄である祐翔のことを慕っているようで「にいさま、にいさま」と雛鳥のように後ろをくっ付いて回っていた。

 祐翔も妹が可愛いのか嬉しそうだ。あとの二人の内親王、万智まち内親王と紫麗しれい内親王はまだ幼いし生まれた時には祐翔は後宮から出ていたのであまり親しくないのだろう。


 恵佳内親王は初めの頃より体力がついたようで、池までかけっこをしないかと胡娘と祐翔を誘った。


 「恵佳、お転婆はまだ直らないようだね」


 祐翔は困ったように笑って恵佳内親王の頭を撫でた。


 「濘貴妃様はかけっこしてくださるでしょう?」


 恵佳内親王が甘えたように胡娘を見てくるものだから、祐翔の前ということも忘れて胡娘は頷いていた。


 「足の速さには自信がありますわ」


 纒足をしていない足なら何処までも駆けて行ける。そんな自信が胡娘にはあった。草原を駆ける馬のように、風を受けて靡く髪を思い出させた。


 恵佳内親王の掛け声では走り出す。振り返れば祐翔は眩しいものを見るかのように目を細め笑っていた。年下たちの前ではしゃぎすぎたと胡娘は反省した。恥ずかしさが身を包む。


 慶徳宮の睡蓮の池にたどり着いた三人は、ゆっくりと開花する睡蓮をずっと眺めていた。


 「そういえば、濘貴妃様。濘貴妃様が話してくださるお話はとても面白くて。でも、お名前が変わった人ばかり出てきたわ。濘貴妃様も本当のお名前は違うとお母様にお聞きしたのです」


 恵佳内親王はそっと胡娘の手を握った。胡娘が世界からこぼれ落ちていくような気がしたのだろう。光帝国の、後宮という狭い世界で暮らす彼女は壁の中の世界が全てで、そこから外れたものはとても奇妙なものに見えるのだろう。


 「確かに、濘貴妃の本当の名前を知らないな。もしよければ教えてくれないだろうか」


 祐翔までもが知りたいと言い出した。胡娘は戸惑った。この国に来るときに、今までの名前は捨てたのだ。それくらいの覚悟でこの地へ来た。ここでは西の蛮族だと馬鹿にされていると聞いて、それに対する反抗心からか胡娘と名乗った。


 そんな蛮族を嫁に迎えるのだぞ、という怒りを込めて。そんな蛮族が貴妃という上に立つのだぞ、という思いを込めて。本当は西の部族の武力を恐れ交易を必要としたからだということはわかっている。


 「本当の名前はニルファルと申します。睡蓮という意味です」


 胡娘がそういった時、一斉に睡蓮が開花し始めた。まるで胡娘の言葉を待っていたかのようだった。


 「だから睡蓮がお好きなのですね」


 納得したように恵佳内親王が頷いた。確かにそうだ。もう誰も呼ぶことのない名前を睡蓮を見ることで思い出させた。ニルファルは変わらずそこに居ると睡蓮が語りかけてきてくれるようだったから。


 「では、私的な時であれば名前を呼んでもいいだろうか。ニルファルと」


 祐翔が微笑んだ。その名前を呼ばれたとき、胡娘は懐かしい気持ちになって涙が滲みそうになった。もう誰も呼んでくれないと思っていた名前が、今耳に届く。


 「ええ、ぜひ。それが私の名前ですから」




******




 祐翔も忙しいのだろう。会いにきてくれることはなかったが時々、文を寄越した。内容はどれも当たり障りのないような季節のことだったりかなりぼかされた近況のようなものだったりだが、必ず胡娘のことをニルファルと書いてくれていた。それが嬉しかった。


 ニルファルはここに居ていいと言われているような気持ちになるのだ。もうすぐ冬が来る。皇后の冷えや関節痛がひどくなる季節だ。しかし今年は自分がいるのだから、今までより過ごしやすい冬を迎えてほしいと胡娘は思う。


 冬といえば、火災の多い季節だ。暖を取ろうと火を使うので燃えてしまうことも多いし、何より煤毒によって死んでしまうこともある。寒いが、換気は大事なのだ。

 

 高位の妃嬪である胡娘の宮は換気を徹底させているため、暖かいが風の通りもある。各所に火鉢を配置させ、女官や宦官たちが何処でも暖が取れるようにした。


 自分だけ分厚い綿入りのふかふかの布団で眠ることに罪悪感のようなものが募るが、ありがたいことでもあった。故郷である西方の地はここ光帝国より暖かいので、胡娘は寒さに弱かった。


 胡娘は窓の外を見る。色が段々と失われ行く景色は冬になることを暗示していた。


 「まったく! 何ということか」


 その時、廊下の方で太監が誰かを叱りつけるような声が聞こえてきた。あまり小さなことで折檻するのは避けてほしいと胡娘の方から宮全体に言い聞かせているので、この慶徳宮ではよほどのことでない限り体罰は行われないようにしている。


 しかし聞こえてきた声は、怒りに震えているように感じられた。


 「どうかしたの?」


 胡娘が廊下に出て尋ねると、太監とその太監付きの童子が頭を下げた。


 「これは濘貴妃様。実はたった今知らせを受けたのですが、蚕室が火事になり、今日配属されるはずだったものが亡くなったと」


 蚕室とは後宮では別の意味を持つ。蚕を育てる場所ではなく、男を宦官とする場所だ。横たわった者たちの姿が蚕に似ているという理由から蚕室と呼ぶ。本当に蚕を飼っている部屋のことは蚕房と呼び分けられていた。


 今日配属される予定だった宦官は胡娘と同じく西方の地から来たものだと聞いていた。亡くなったという知らせを聞き、同胞を失った悲しみから胡娘は眩暈がした。

 まるで自分の体を削ぎ落とされていっているような苦痛だ。


 「火事…?」


 胡娘は痛みで目を細めながら尋ねた。


 「ええ火事です。今は鎮火したとのことですが」


 話を聞くと、蚕室にいた痛みで動けないものたちは全滅してしまったのだという。もちろん、その中には何人も胡娘と故郷を同じくする者たちがいた。蚕室を管理する太監たちは、火が確認されると我先にと中に動けない人がいるにも関わらず逃げ出したそうだ。


 「亡くなった者たちに花を手向けに行きたいわ」


 そういう胡娘に太監は驚いたように首を振った。


 「なりませぬ。まだ埋葬も済んでおりません。それに、後宮の外に埋められます故、濘貴妃様には何もできることはございませぬ」


 申し訳ないというように太監は頭を下げた。それに倣って童子も頭を下げる。


 「わかった。ならば、へやに篭って私は故郷の同胞たちの鎮魂を祈るから。しばらく人は近づかないでくれる?」


 胡娘が頼むと太監は「かしこまりました」というと童子と共に去っていた。「濘貴妃様はお優しい方ですね、師父」という幼い声が聞こえてきたような気がしたが、胡娘はごめんなさいと心の中で謝った。

 

 へやに篭った胡娘はまず胡服に着替えて、そっと慶徳宮から抜け出した。向かうのは蚕室がある殿舎である。まだ火事の煙が残っているのかあたりは臭いがした。

 人が焼けた臭いに胃から酸いものが混み上がりそうになる。火事で騒ぎが起きたのか特に誰にも見つかることなく、蚕室に辿り着いた。

 蚕室の辺りには内侍府の太監たちなど周りに人が集まっていて、胡娘が紛れても誰も気にしなかった。周りには見慣れない容姿の者たちも紛れているのであまり目立たなかったのかも知れない。


 蚕室は黒く焦げ、中は何も残ってはいなかった。死体が院子にわに運び出されて並べられていた。その仕事をするのは下っ端の宦官であったり、仵作である。


 「これは全員焼け死んでますな。こりゃ酷い」


 仵作は死体を一瞥するとそう告げた。穢れが移るからと、早く片付けようとする。その雑なやり方に胡娘は呆れと怒りを覚えた。


 「ちょっと待って。しっかり検屍なさい」


 胡娘が人だかりの中から一歩踏み出すと、皆が胡娘に注目した。この中で胡娘の姿を知るものがいないのを願うばかりだが、今は男装しているのでよっぽど近しい侍女あたりでないと気づかなないだろう。そしてその侍女たちはこんな火事の現場に近づいたりはしない。


 やっぱり、雑な仕事しかしないなと胡娘は心の中で溜め息を吐いた。前に仵作に扮した際も思ったが、死体など高貴な身分でもない限り、丁重になど扱われはしないのだ。


 胡娘はとある死体に近づいた。そして地面に横たわっているそれの近くに蹲み込み、まだ暖かい死体の口の中を見た。「ひぃっ」と周りの者たちが悲鳴を上げる。


 「口鼻内に灰が入ってる。両手両足が拳を握り縮まっていて、皮、焦がれて肉は爛れている。この方は炎に焼かれて亡くなった」


 次も、また次の死体も見ていく。表情は窺い知れないが、苦悶の表情のように口を開けている。その中には煤や灰が入り込んでいた。


 そして最後の死体になる。一番損傷が激しいが、何とか人の形は保っていた。


 「口鼻内に灰がない?」


 胡娘が不審に思って呟くと仵作がその答えを口にした。


 「ならそいつは火事の前にお陀仏だったってことだろ。ここは蚕室だ。弱って死んじまったんだ」


 宦官の施術に失敗すると後は死を待つのみ。そういった死体だったのだろう。あとは蚕室を管理していた太監たちが内侍府の者たちに一応取り調べられるだけで終わるだろう。

 蚕室の太監たちは火鉢から燃え移ったのではないかと証言していたことだし、事故として処理される。


 しかしここで一人の太監が叫んだ。


 「増えている! 一人増えている。蚕室に居たのは六人だったはずなのに七人に増えている!」

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