《七話》覆す
『姉さん、本気? 本気で郭貴人を助けるの?』
妹妹が怒ったように叫んでくる。今、胡娘は皇太后の宮に行くために輿に揺られているところだった。早くしなければという焦りからか、今日の輿はゆっくりに感じる。これならば走った方が早い。
『子殺しの女じゃない。助ける必要ある?』
「妹妹、私はこの後宮という閉ざされた空間で恋という娯楽に溺れたことが悪いことだと思わないわ。恋するだけで死ぬなんて本当はおかしいのよ。子を殺す選択を選ばなければならなかった彼女を憐れんでいるくらいだわ」
胡娘は小声で妹妹に反論する。妹妹がこんなにも胡娘の意見に反対することは今までなかった。
『仮にもし、郭貴人を生かせるとして。生かしたところで何になるの? 死刑を減刑されたところで宮刑がいいところじゃない。相手の男だってもう処分されてるわ。そんな状態で郭貴人が生きていたいと思うの、姉さんは』
妹妹の口調からすごく怒っていることがわかった。この助命嘆願は胡娘自身も危険に晒すと考えているのだろう。それ以上に郭貴人に対しての怒りで燃えているようだった。
宮刑は主に男性に行われ宦官にするための刑だった。下腹と太ももを包帯で縛り、男性の証を切断する。尿道が塞がらないように針で栓をしてから傷口を冷水に浸した紙で覆う、という手順だ。
女性に行う場合は腹を打ちつけ子宮脱の状態にするか女陰を縫い合わせて塞ぐという手法が取られた。
「それでも、生きていれば何か成せるかもしれないじゃない!」
その言葉を言い放った途端に、体が急激に冷えていくのを感じた。否、妹妹の怒りの温度が冷えていったというのが正しいのか。妹妹の声は氷のようだった。
『酷いわ。生きていればなんて」
妹妹はその言葉だけ残すと、気配は消えてしまった。まるで最初から一人だったかのように。
皇太后の宮は絢爛豪華な場所だった。本来は太妃や太嬪など先代の後宮にいた妃嬪たちが生活する宮に移されるところを、皇太后は摂政として宮中に居座った。
「皇太后陛下、私濘 胡娘は郭貴人の助命をお願いしたく…」
「ならぬ」
皇太后許氏は、白髪が混じりながらも金の簪を存分につけ、大輪の牡丹の花を頭に飾った若々しい人物であった。その口から発せられる言葉は、皇后張氏のものよりも厳しく重い。
「郭貴人が杯を賜ることはもう決定事項じゃ。覆ることはない」
皇太后は粘ろうとする胡娘のことを見通してか、すぐに宮から追い出してしまった。これで何かが変わると信じて挑んだ胡娘は希望が打ち砕かれたような気分になった。
皇太后の宮の前で、侍従に囲まれた輿があった。胡娘が乗ってきたものとは別のものだ。それは親王、祐翔のものだった。
「その様子では駄目だったようですね」
祐翔の言葉からは分かりきっていたという感情が滲んでいた。それでも、胡娘は諦めたくなかった。
「親王殿下、ご相談があるのですが」
******
翌日、郭貴人には毒杯が下りそれを飲み干したところを幾人もの太監たちが確認した。罪人であるため、仵作の検屍のあと罪人たちの共同墓地に犬猫のように葬られることが決まっていた。
「げほっ、けほっ、……」
まさか墓に入れられる直前に郭貴人が息を吹き返すなど誰も思いはしなかっただろう。
「よかった! 無事に生き返って」
仵作の姿に扮した胡娘は、郭貴人の顔を覗き込む。
「どうして…濘貴妃様!?」
郭貴人は驚いたようにこちらを見ている。胡娘が仵作の姿になっていることも驚いたようだが、死んだはずの自分が生きていることにも驚いているようだ。
胡娘は祐翔に借りを返さないかと持ちかけた。恵佳内親王の件だ。それはさまざまな品物の礼で済ませていると考えたようだが、それは返すので毒杯をすり替えることを礼にして欲しいと胡娘は頼んだのだ。失礼な提案ではあったが、祐翔は恵佳内親王の件に関しては感謝しているからか強くは出られず、了承してくれた。
なんてことはない。毒を別の毒とすり替えるだけなのだ。本来ならば鳥兜系の毒が使われるところを、曼珠沙華などを調合した仮死状態になる毒にすり替えた。
そして胡娘は胡服に着替えて男装し「新人ですけど?」と何食わぬ顔で検屍室に現れたというわけだ。胡娘の入内から少し遅れるように、西方から献上品が送られた。その中にはもちろん人もいる。
そこから送られてきた人間のように振る舞えば珍しい容姿も怪しまれることはなかった。
宮廷の仵作も、罪人の検屍となれば早く上がって酒を飲みたいという欲が勝つようで死を確認したら、すぐに新人に丸投げしてしまった。そもそも本当に検屍の心得を持つものは少なく、こうした杜撰さを逆手にとった。
「これからあなたは宮廷の外に埋められるわ。でも大丈夫。罪人の死体の数なんていちいち数えないわ。宮廷をでたら、身を隠して好きなところに行きなさい。もうあなたは後宮にはいなくていいの」
郭貴人はそれを聞いて、涙を流していた。好いた男も自分の子供もいない世界で生きながらえさせるのは胡娘の勝手だったのかもしれない。
「私、死にたくなかったんです」
郭貴人──今はもうただの貞貞は、検屍台の上で泣き崩れた。貞貞が子を殺したのも全て、自分が生き残るための行動だったのだろう。
「でも、私これからどうすればいいでしょう。あの人もいない。子供だって私が…私が…!」
貞貞は髪を振り乱して頭を抱えた。
「あなたに出来ることは生きていくことだけだわ。死んで楽になろうなんて思わないことね。それがあなたにとって慰めになるし、あなたが罪悪感を感じている人たちへの償いになるわ」
胡娘は自分がひどい言葉を羅列していることとを自覚していた。ずっと貞貞は泣いていたが、やがて決意したかのように泣き止むと、粗末な筵に横たわって死体が運び出される荷馬車の中でその時を待つことにした。
荷馬車の中は死臭が漂っていて、居心地の良い空間ではないだろう。しかし、貞貞は文句の一つも言わず黙っていた。貞貞を乗せた荷馬車が城の外へと向かっていくのを見届けると胡娘は素早く慶徳宮へと帰った。
自分は体調が悪く寝床に篭っているという設定で抜け出してきたため、絹の帳が降りた寝室には誰の姿もない。窓から自分の部屋に侵入した胡娘は急いで着替えると、今日着た胡服は勿体無いが燃やしてしまうことにした。
死臭が染み付いて取れないからだ。洗濯だって妃嬪自らできるものではないので仕方がない。
「妹妹、そろそろ出てきたらどうなの」
何もない空間に向かって胡娘は呼びかける。すると柱の後ろに隠れるように気配が戻ってきた。
『本当に助けちゃったのね。姉さん。あんな人、死んだ方が良かったかもしれないのに』
姿は見えないが、妹妹が口を尖らせたような気がした。
「私は医者よ。人を助けるわ」
それが胡娘の信念だ。
『今回の件がばれたら姉さんが殺されるかもしれないのよ? それにあのいけすかない親王に弱みを握られちゃったわ』
「いけすかない…って妹妹ねぇ。あの方は親切な方よ。それに弱味じゃないわ。貸し借りなしにしたのよ」
妹妹が渋い顔をしている様子は簡単に想像がついた。
「親王殿下には、鳥兜の毒は長く苦しむからせめてもの慈悲として楽に死ねる毒に変えてくださいってお願いしただけよ。まさか生きているなんて知らないわ」
『あの親王がただの親切ないい人ってわけじゃないのは私だってわかるわよ。あれは絶対に下心があるわ。私わかるもの』
妹妹が自慢げに胸を張ったように見えた。貞貞のことは話題に出しても、貞貞の子供については口にしない。やはり何か思うところがあるのか、それともないのか。
「妹妹、怒っている?」
胡娘は恐る恐る尋ねた。
『怒ってる? もう怒ってないわよ。助けちゃったものはもう仕方が無いじゃない』
深いため息の音が聞こえたような気がした。ただの隙間風ではなければいいのだが。
******
「祐翔、もう濘貴妃の元へ行くのはおやめなさい」
長椅子にゆったりと腰掛けながら、皇后は息子を諭した。周りには大きな団扇を持った女官たちが控えており、風を送っている。
「母上の贈り物を届けただけですが」
祐翔は何でもないかのように取り繕った。
「お前の好奇心があの風変わりな医術に向いていることはわかります。しかし、濘貴妃は陛下の妃嬪。お前が近くに寄ることで不義密通の疑いがかけられるかもしれない。お前の考えることは手に取るように分かりますよ」
そこで皇后はじっと祐翔を見つめた。祐翔はこの人の腹から出てきたが、全くこの人のことがわからない。
「濘貴妃は御渡りがない妃。下げ渡してもらって嫡福晋に迎えようと考えていることなどお見通しですよ。陛下は濘貴妃に興味がないようだから下げ渡して貰える可能性はあるでしょう」
祐翔は少しの希望を持ち、皇后を見つめた。だが、「しかし」という言葉に遮られる。
「嫡福晋となった者はいずれ皇后になる。異民族の者を皇后にする覚悟はあるのですか。臣下たちからも民からも理解を得ることはできない。あなたが必死に守っても必ず取りこぼす。そして取りこぼした小石が彼女を苦しめるのです」
皇后は厳しい母の顔から、穏やかな母の顔になった。
「身を引いて、守るというやり方もあるのです」
側福晋としてそばに置くという方法も取れたはずだ。しかし、その方法は祐翔を躊躇わせた。側室はどうやっても使用人という立場から抜け出せない。正室だけが家族として数えられる。
あの大地を駆けていくガゼルような美しさに惹かれていた。母や妹を治療してくれた恩だけではない。彼女の人を助ける信念に胸を打たれた。陶貴妃とは、直前に言い争っていたという証言がある。しかし彼女は救ったのだ。
恵佳内親王からも話を聞いている。誠実な優しさが彼女にはあると。惹かれ始めていると認めなくてはならない。そして父の妃なのだから諦めなくてはならないということもわかっている。
「諦めたくはないです」
祐翔は思わず口から言葉が出ていた。皇后は呆れたように笑う。
「では、せいぜい努力することね。女の花盛りは短いのよ。年上の妻となると子供を産む数だって限られてくるし…」
皇后だって自分の敵になる可能性を一つ潰して、息子嫁ができることを喜んでいるように見えた。