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《六話》子流しの薬

 じん嬪の女官、貞貞ていていは貴人に格上げされた。妊娠が発覚するまで元の主人である沈嬪のいた位である。きっと複雑なのだろう、と胡娘こじょうは思った。

 また陶貴妃の猫のように、要らぬ事実を暴いてしまっただけなのだろうか。あの件は深く胡娘に暗い影を落としている。


 今日も、皇后への薬膳の指導という名のお茶に誘われていた。茶の席には祐翔の姿もあり、なんだか親子水入らずの空間に胡娘が邪魔しているような状態になってしまっている。


 「濘貴妃、顔色が悪いようだが?」


 祐翔に言われ、そこで初めて胡娘は自分が今どんな顔色をしているのか理解した。この国では珍しい肌の色は、顔色の悪さまでは隠してはくれなかった。


 「そなたの方が太医が必要なように見える」


 皇后も祐翔の言葉に頷いた。自分自身の体調管理もできないなんて医者失格だ。


 「大丈夫です。かく貴人について、少し考えていて」


 胡娘は、郭貴人にあのまま子流しの薬を渡してやった方が幸せだったのではないかという考えが浮かんでいた。貞貞は貴人に格上げされ、側室としてのへやが与えられたがそこからあまり出ていないようである。唯一、書を読むため大書楼には通っているようだ。

 周りは流産の危険を恐れているのだと思っているだろうが、胡娘と胡娘付きの侍従たちだけは真実を知っていた。郭貴人はその気になれば自ら子を流そうとするだろう。それが心配だった。


 「娘娘、典薬尞や医局の警備を増やしてください。沈嬪や郭貴人など妊婦がいる後宮の状況で、誰かよからぬことを企むものが盗みに入るやもしれません」


 一番、盗みに入りそうなのは他でもない本人である郭貴人なのだが、そのことについては胡娘は黙っていた。腹の子が男児だと思われることも生まれてみるまでわからないのだから不確定なことはいえない。ただ、妹妹が外したことなどなかった。


 「それは私も思っていた。後宮は私の管轄。警備を増やし、夜警も強化しよう」


 皇后が頷くと、胡娘は張り詰めていた息を吐いた。


 「子流しの薬になりうる生薬は当帰です。月経の薬ではありますが、流産の危険があります。特に気をつけて警備をしていただきたいですわ」


 郭貴人の知識では胡娘が教えた当帰を狙うだろう。胡娘も皇帝の御子殺しの間接的な犯人にはなりたくない。


 「御子の誕生は国家の慶事。濘貴妃よ、沈嬪らに何か贈り物をしたいのだが、妊婦には何が良いだろうか」


 皇后が尋ねる。


 「安胎生薬としましては、人参、陳皮、冬虫夏草あたりでしょうか」


 「そうか。では人参の蜂蜜漬けでも贈ろうかしらね」


 人参も蜂蜜もどちらも高級なものである。それをぽん、と与えてしまえるのはさすが皇后だ。


 盗みに入られる心配も少なくなったことだし、これで安心できると胡娘は思っていた。しかし、それが間違いだったことをのちに知ることになる。


 郭貴人が流産したという知らせは数日後に後宮を駆け巡った。




******



 

 流産の知らせを受け、すぐに胡娘は郭貴人の元へ見舞いに行った。牀榻で青白い顔をしながら、痩せているように見える郭貴人は数日前に見たばかりなのにまるで別人に見えた。あの時も、月のものが来ないとかなり憔悴していたようだが、流産してからはもっと痩せ細っていた。


 「あ…濘貴妃様、起き上がれず申し訳ありません」


 「起き上がらなくてよろしい。今は安静に、ですよ」


 胡娘の声は少し叱りつけるようになってしまった。


 「あなたの望み通り、子は流れました。これでよかったのですか?」


 やるせない気持ちになって、責めるように問うてしまった。郭貴人は無理矢理口角を上げたように笑った。


 「これで…よかったのです」


 郭貴人の顔は満足げである。少ない期間だったが自分の腹にいたのに、少しも情がわかなかったようである。


 「薬を…飲みましたね。子流しの薬を」


 胡娘は冷たく言い放つ。その言葉を聞いた途端に、郭貴人は可哀想と同情するほどに震え出した。


 「あなたが大書楼に行っていたという証言が取れています。そこから芸香を盗みましたね」


 芸香は本の虫食い予防に使われているが、子流しの薬としても使われている。典薬尞ばかりに目がいって、他に子流しの薬となりうるものがあると気づけなかった。気づいたのは郭貴人が流産した後だ。大書楼に通っているという話からもしや、とその可能性に思い至ったのである。


 「これでよかったのですわ。濘貴妃様」


 それは胡娘を納得させようというよりは、自分に言い聞かせるように聞こえた。郭貴人に残ったものはなんだろう。元主人である沈嬪との確執は子が流れたことにより薄らぎ、皇后と政治的に敵対することもない。女官の身分から下位の側室に格上げされた。


 郭貴人は子を流したことで手元に身分が残ったように見える。自分付きの女官と宦官も得た。平穏な生活を守れて、身分も上がった。郭貴人にとってはいいことだったのかもしれない。


 しかし何とも言えない嫌な後味が舌の上に残るような結末だ。とう貴妃の猫よりもっと後味が悪い。


 「妊娠初期の流産はよくあること。そうですわよね、濘貴妃様」


 力なく微笑みかける郭貴人がそう収めようというならば、胡娘が何かをするわけにはいかない。それは要らぬ事実を詳らかにするようなことだからだ。人の傷を抉るのは趣味ではない。


 胡娘は静かにへやから去った。妹妹の気配が今は遠のいている。彼女は自分と同じように産まれてくる前に死んでしまった赤子に何を思うのか、怖かった。

 妹妹は胡娘が殺したようなものだから。双子という繋がりか、それとも胡娘が吸収したからか不思議な関係は続いている。


 輿に揺られている間も、ずっと胡娘は郭貴人と流れた赤子について考えていた。妊娠した時点で、こうするしか道はなかったのだろうか。ここが後宮という場所でなければ。


 胡娘は形だけとはいえ貴妃であるので、誰かに仕える女官の経験はない。だからこそ、沈嬪と同じ時期に妊娠してしまい絶望する郭貴人の気持ちを本当の意味でわかる日は来ない。


 輿が慶徳宮につくと、太監たちが慌てた様子で胡娘を呼びに来た。


 「親王殿下がお越しです、濘貴妃様」


 祐翔は大量の荷物と共に胡娘の元へと訪れた。荷の中身は絹であったり金銀の簪であったり、珍しい宝石だったり、鮮やかな刺繍の花盆靴であったりなど、目が眩むような装飾品の類いだった。

 皇后からの贈り物で、自身の治療の感謝として祐翔が代わりに持ってきたものだった。


 「母上は濘貴妃にとても感謝している。そして私も妹の件で濘貴妃には感謝している。それなのに礼の品が遅れて済まない」


 なかなか手に入らなかったものだから、と祐翔が差し出したのは冬虫夏草だった。他にも珍しい薬などの品々を渡してくる。皇后からの贈り物も嬉しかったが、胡娘のことをわかっているのは祐翔の方だった。


 手触りの良い絹よりも、珍しい生薬の方が胡娘の目は輝く。


 「あなたと共に…と思って」


 そう言って祐翔が侍従たちに用意させたのは胡餅である。胡娘の故郷の食べ物だった。小麦粉を使った麵麭のようなそれは、懐かしい味である。その味を思い浮かべて、唾液が口内で分泌される。


 「懐かしいですわ」


 卓を囲み、胡娘は祐翔に勧められるがまま胡餅を口に入れる。齧り付きたかったが上品に小さく控えめに口の中にいれた。


 「よかった。あなたの調子があまりよくないと聞いていたから」


 祐翔も茶と香ばしい胡餅を楽しみながら、食事がひと段落すると口を開いた。


 「郭貴人のことであなたが心を痛めることは無いよ」


 全てを見透かされているのだと、心臓が冷えたような気がした。何故、知っているのかと思いかけたところで後宮は全て皇后に掌握されているのだと気づく。あの日、郭貴人がまだ女官だったときに訪ねた日、聞いていた侍従たちが皇后に報告したのだろうということは容易に想像がついた。


 本来ならば胡娘を監視する命を受けた者たちだったのだろう。


 「敬事房太監と太医、そして郭貴人と同僚だった女官から証言が取れた。郭貴人が皇恩を授かった日の記録と赤子の妊娠がずれている。そして、後宮外との文のやりとりが確認された。郭貴人があれだけ子を堕したかったのは、陛下の子じゃなかったからだよ。賄賂を握らせて月に一回ほど後宮を抜け出していたらしい」


 祐翔はそこで茶を一口飲んだ。


 「もちろん、あなたの助言通り巡回の警備も増やしたし、賄賂を受け取っていた者も処分した。今後、後宮内で不義密通は起こらないようにする」


 胡娘は体が固まっていくのを感じた。


 「郭貴人はどうなるのですか」


 「姦通は死罪だよ」


 祐翔は残念そうな顔をした。後宮の女は妃嬪から婢女に至るまで皇帝のもの。それを見せつけられたような気がした。そして胡娘もまた皇帝のものなのだ。


 「郭貴人は明日にでも杯を賜ることになるだろう」


 祐翔は悔しそうに目を細めた。杯とは毒杯のことだ。一応妃嬪の位になったことから絞首などではなく、温情が与えらたのだろう。


 「そんな…」


 胡娘はそう呟いていた。


 「郭貴人の助命嘆願をしに、陛下の元へ行きます」


 決意を固めるため口に出すと、祐翔は信じられないというような目をした。


 「あなたがそこまでして郭貴人を助ける必要はない」


 「私は助けを求めている人を救う医者です」


 思わず、胡娘は椅子から立ち上がっていた。頭が熱くなっていくのを感じる。冷静さが失われていく。


 「あなたは医者じゃない。陛下の妃嬪だ。それはどう足掻いても変えられないことなんだよ」


 祐翔が苦しげに言葉を吐く。その言葉の中には苦々しい何かがあった。祐翔としても胡娘を医者として認めてやりたいのだろう。しかし、親王の立場がそうさせない。


 胡娘がただの妃だったならば、皇后を治療することも、陶貴妃や恵佳内親王を救うこともなかったのだと祐翔自身が一番わかっているだろう。あのとき、祐翔は胡娘を医者として扱ってくれた。


 長い沈黙が二人の間に降りてきた。その沈黙を破ったのは祐翔の方からだった。深いため息を吐いた彼は、静かに独り言のように言った。


 「助命嘆願をしにいくなら、皇太后様にするといい。全ては皇太后様が握っているから」

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