《五話》子流しの薬
朝の清涼な空気を肺いっぱいに吸い込む。こうすれば肺にまつわる病に罹りにくくなると胡娘の故郷では信じられてきた。
胡娘の故郷の医術とは自然治癒と病気の予防を重視し、生活習慣や環境を病気の原因として考え、生活指導や食材の性質を考慮した食事療法により治療していくのが主流だ。
馮妃の暮らす敬秀宮から胡娘の慶徳宮までは少し距離があるものの、良い運動になる。本来は輿に乗っていくところを人払いしたため徒歩だ。恵佳内親王はこれほどの距離を歩いたことがないのか、少し汗ばみ始めている。
汗をかくことは体の老廃物を出すのに有効だ。胡娘はこの後宮にきてから、皇后が纏足を嫌うように輿に乗って移動する文化を嫌う。宦官たちが輿を担ぐのだが、馬のような扱いに耐えきれない。それに、足腰が弱っていってしまう。医者として不健康になり行くのは避けたい。
「濘貴妃様、ちょっと…距離が…長すぎますわ…」
息を吐きながら、小さな歩幅でちまちまと着いてくる恵佳内親王の姿はまるで雛鳥のようで愛らしかったが、胡娘は自分のいつもの歩幅で歩いていたことに気づき、恵佳内親王の歩調に合わせる。
胡娘の慶徳宮も人払い済みで女官から宦官、婢女に至るまで息を殺したように静まり返っている。人払いといっても本当に追い出してしまってはならないので、姿が見えない位置にいるだけだ。
「恵佳内親王様、ご覧くださいまし。これが睡蓮殿自慢の睡蓮の池ですわ」
薄くぼんやりと水の上に浮かぶ、睡蓮はゆっくり開花している途中だった。満開が一番美しいのは知ってはいるが、それでも開花の経過を見るのも良いだろうと早朝からの散歩にしたのだ。
「美しいですわね」
恵佳内親王が呟いた。それに深く胡娘も頷く。池には幻想的な風景が広がっていた。
「わたくし、一番花の中で睡蓮が好きなのですわ。ですから、自分に与えられた宮に池があって、睡蓮があることが嬉しいのです。睡蓮を見ることが、唯一の楽しみですわ」
睡蓮を眺める胡娘の横顔は恵佳内親王から見れば何処か寂し気に見えた。
「私、朝に睡蓮を見れてよかったと思いますわ。部屋にいたら見れなかったものですもの」
恵佳内親王は何かを決意したように、口を開いた。
「私、琴が好きでした。お母様も侍女たちも皆褒めてくれて、期待してくれたから頑張りました。でも、期待が重くなってある日突然弾けなくなってしまいました。それから何をしても駄目で部屋に引き篭もるようになってしまったのです」
太医にも馮妃にも言ったことのない話だったのだろう。恵佳内親王の顔には言ってしまったと言う清々しさと少しの後悔が混ざっていた。
「濘貴妃様は、そんなことで…と笑いますか?」
恵佳内親王は不安気に胡娘を見上げる。
「笑いません。恵佳内親王にとってはそれほど大きなことだったのですもの」
安心させるように胡娘は微笑んだ。
「部屋に引き篭もってからお母様は言いました。悩むことなんてないんだから、早く出てきなさいと。でも、私にとっては悩むことだったんです。琴が弾けない私なんて価値がないと思っていたから」
恵佳内親王は目尻に滲んだ涙を拭った。どうやら話しているうちに感情が溢れ出してきてしまったようだ。
「お母様も、お兄様も心配してくださってたって知って私嬉しかったんです。何も価値がない私を心配してくれる人がいるんだって。濘貴妃様も来てくれて嬉しかったです」
日が昇り始める。睡蓮が満開に近づいていく。その光景を食い入るように二人は見つめた。きっと生涯この光景を忘れまいとするように。今日は一日の始まりに相応しいいい朝だった。
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「濘貴妃、あれからすっかり恵佳も外に出るようになった。ありがとう。これは親王としてではなく、恵佳の兄としての礼だ」
祐翔がややぎこちなく頭を下げる。ここは永寧宮の一室であった。皇后の薬膳の指導に訪れた日に、祐翔に礼を言われたのだ。
頭を下げることに慣れていないのだろう。そんな冷静な分析は置いておいて。親王に頭を下げられていると言う状態は胡娘にとって色々まずい。
「頭を上げてくださいませ、親王殿下。わたくしは医者として当然のことをしたまでですわ」
「しかし、医者ではなく妃嬪ではないか。私は勝手に陛下の妃を医者代わりに使ってしまったのだ」
胡娘は自分が妃嬪扱いされることにむず痒いものを覚えた。
「わたくしめが勝手にやったことにすればよろしいですわ。それに、親王殿下が頭を下げるのであればわたくしはもっと下に頭を持ってくるしかないですわね」
胡娘は早く頭を上げろ、という意味を込めて膝をついた。これで頭の位置逆転である。祐翔は胡娘のその姿を見て耐えられないというように吹き出した。
「濘貴妃、あなたは門の時もそうだが驚かせてくれる」
門…と胡娘は思考を巡らせる。たしか、皇后への朝の挨拶に遅れた日があった。自身の頑固さが出た結果とも言えるが門の前で伏して開くのを待っていた時のことを思い出す。想定していたよりも早く門が開いて、我慢比べは胡娘の勝ちだと記憶していた。
あのときを祐翔も見ていたのだろう。なんだか照れくさいような気持ちになってきた。
「あの時は、娘娘に挨拶しなければと必死で」
「慣れない異国で不安だろう。何があれば、私や母上を頼ってくれていい。あなたは恩人だからな」
ふわりと祐翔が微笑む。春の陽気のような笑顔だが、胡娘の見立てによれば祐翔は火の気が強く、気質で言えば乾熱、季節で言えば夏である。妹妹もそう言うのだから間違いない。
人の気を感じ取るのは胡娘の今までの医者としての経験と、妹妹という霊的存在の協力がある。
「親王殿下、最近寝不足なのではないですか。少し、気の乱れが見られます」
「やはりわかってしまうか、濘貴妃には」
祐翔は眉を下げて笑った。
「公然の秘密なんだが、陛下の職務の一部を皇太后様の命で私が担っててね。それのせいで寝不足なのだろう」
皇后と同じく、疲れを溜め込んでしまう性質らしい。そのあたりは親子なのだろうか。まだ立太子も済んでいない親王に皇帝の職務の一部を任せているという状態は果たして良いのだろうか。
皇帝は朝議の際も居眠りし、暖簾を下げた皇太后が全て指示しているという噂はあながち間違いではないのかもしれない。
「ではカミツレのお茶をお勧めしますわ。安眠効果がありますの。殿下は男性ですから大丈夫でしょうが、妊婦にはお勧めしませんわ。流産を引き起こす可能性がありますから」
そうは言ったものの、胡娘ははっと気がついた。つい皇后と同じように治療しようとしてしまった。先程、祐翔は火の気が強いと思ったばっかりだというのに。
カミツレは熱性、火の気が強まっているのだとしたら冷性もので熱性の病を治さなくてはならない。
「ああ、わたくしとしたことが間違えましたわ。親王殿下は火の気が強くなっていますからニオイスミレで安眠効果を得ることをおすすめします」
もしよろしければ、と胡娘は腰から下げていた荷包から花弁に砂糖を加えて膏状とした糖花剤を取り出した。貝の入れ物に入れられたそれは、スミレの香りをしている。
「あなたでも間違えることがあるのだな」
祐翔は珍しいものを見たように目を丸くしてこちらを見つめてくる。胡娘は必死に妹妹の気配を探ったが、気でも遣っているのか現れなかった。妹妹がいたならば指摘してくれるので間違えることなどなかったのかもしれない。
「医者に間違いなどあってはならないのです。気づけてよかったですわ」
胡娘は取り繕うように微笑んでみせた。しかし、妹妹がいないという不安の方が大きい。常にそばにいるはずの妹妹が感じられなくなっていた。
結局、妹妹の気配は慶徳宮の区画に戻ってから感じられるようになった。胡娘は怒りながら妹妹に問いかける。
「急にいなくなって、心配したじゃない」
『何を言ってるの姉さん。私はずっと一緒にいたわよ』
妹妹は不思議そうに返してくる。本当にずっと一緒にいたのならば胡娘がおかしくなってしまったと結論づけるほかないだろう。もしかするならば、祐翔が霊的なものを祓う気のようなものを持っていて妹妹との繋がりが遮断されたのではないだろうか。
思えば恵佳内親王と一緒に睡蓮を見た時も、妹妹の気配を感じなかったように思う。やはり皇族には何かしら力があるのだろうか。
そう輿に乗りながら胡娘は考えていた。もうすぐ睡蓮殿に着くというところで、輿の前に一人の女が飛び出してきた。
「無礼な! 貴妃様の輿を止めるなど」
輿を担いでいた太監の一人が怒鳴りつける。しかし女は頭を地面に擦り付けたまま動かなかった。
「濘貴妃様にお願いがあってご無礼を承知で参りました。わたくし、沈嬪様の女官でございます」
身元は彼女の着ている旗袍の刺繍を見れば、どこの所属かわかるようになっている。偽りはないようだ。沈嬪とは今、妊娠中の妃嬪であり、貴人から格上げされたばかりだという。本来、嬪の定員は六名なのだが、沈嬪の格上げにより定員が七人となってしまっている。
格式を大事にする者たちがいるので、沈嬪の立場は少し複雑なものだ。
「えっと、沈嬪の遣いで来たということですか?」
胡娘が尋ねると、女官はまさか尊き人からの直接の声が聞けるとは思わなかったのか、地面に頭がめり込みそうになるほど頭を下げた。
「いえ、濘貴妃様は医術の心得があると聞き、私の個人的なことではありますが濘貴妃様がお力になってくださると思いお願いに参りました」
「とりあえず、話だけは聞きましょうか」
胡娘がただの、しかも他の妃嬪の女官を宮に招き入れたことに他の者たちは驚いた。しかし、胡娘は患者に貴賎は関係なしと考えている。話くらいは聞いてやってもいいだろう。
茶でもてなそうとしたが、侍従たちに止められ、しかも女官本人が畏れ多いと固辞したものだから本当に話を聞くだけになってしまった。
「それで、どうしてわたくしの元に?」
胡娘は椅子に座って、沈嬪の女官は床に伏している。どうしてもこの形ではないと駄目だと女官が言ったからこの形だ。胡娘は椅子くらい座ればいいのにと思うが、それだと貴妃と対等になってしまうからだという。
「実は月のものが来ず、月経を操る薬を濘貴妃様ならご存知かと思ったのです」
医局で医官に相談すれば良い内容だが、宦官とはいえ男に相談するのが嫌だったのだろうかと胡娘は思う。しかし、何処か違和感があった。
「確かに当帰の根を煎じて飲めば、周期を安定させるでしょうけど。妊婦に飲ませたなら子宮収縮を引き起こし流産につながる劇薬よ。これは私の嫌な想像でしかないけれど、あなた沈嬪に飲ませようなどとは思っていないわよね」
そう問えば、女官の顔が青くなった。何故、胡娘の元へ来たのかずっと不思議だった。自身の仕える妃嬪を流産させる薬を医局からは調達できまい。
沈嬪はその立場が不安定な妃嬪だ。沈嬪が流産して欲しいと願う誰かの手先かもしれない。
「違うのです。本当に違います。自分自身のために使います。今、その当帰の煎じたものをこの場で飲み干してもよいですわ。本当です」
女官は必死にそう叫ぶ。胡娘は静かに「妹妹」と囁いた。妹妹は顔を見ただけで妊娠しているか否か、そしてお腹の子が男か女かまでわかるのだ。妹妹の気配はぐるりと女官の周りを囲んだ。
『この女官、妊娠してるわ!しかも男の子』
妹妹の声が弾む。
「あなた、妊娠しているわ。妊婦に子流しの薬を渡すわけにはいかない」
周りの者たちが「おめでとうございます」やら、報告しなくてはならないなど話し合っている。すっかり祝賀の雰囲気に包まれていた。そんな中、女官だけが青い顔をして泣き叫んだ。
「そんな! 嫌! 心優しい濘貴妃様どうか、わたくしをお助けください。主人と同時期に妊娠なんて、沈嬪様は私をどう思われるか。それに後ろ盾もない中、男児なんか産みでもしたら、私はお終いです!」
女官は床に敷かれた絨毯を掴みながら、泣いている。確かに、と思う部分はあった。彼女が妊娠しているのは間違いなく男の子だ。このままいけば、彼女が描く最悪の未来に辿り着く。
主人の沈嬪からも見放され、皇位争いで皇后と敵対することは確実。ならば、自分で堕してしまおうということだろう。
医官に相談できない内容ではあった。もしかしたら同じ妃嬪の胡娘ならば同情して協力してくれるとでも思ったのかもしれない。位こそ違うものの、胡娘も異国の蛮族の姫ということで後ろ盾がない。
ただ西の交易のためにおとなしく和平を結んでおこうという名目での輿入れだ。
「もう一度言うわ。陛下の尊き御子を身籠ったあなたに、子流しの薬を渡すことはできない。さあ、立ちなさい。お腹を大事にね」
太監が女官の腕を抱えて立ち上がらせる。女官は泣きながら宮を後にした。
その日のうちに沈嬪の女官、名を郭 貞貞が妊娠していると報告がなされた。