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《四話》内親王様の憂鬱

 「ねい貴妃、そなたの活躍にはとても感謝している」


 顔色が少し良くなった皇后が胡娘こじょうに微笑みかける。砂浴と按摩、そして薬膳の効果が現れているようだ。


 「勿体無いお言葉です。娘娘」


 胡娘はゆっくりと頭を下げる。御座に座って、胡娘を見下ろしている皇后の肌艶はよく、髪もしっかりしている。頰も血色が良く纏う気も良い状態だ。健康と言っていいだろう。


 「今日は我が息子からそなたに頼みがあるそうでな。話を聞いてやってはくれないか」


 お願いという体ではあるが、これは命令だと胡娘は思った。ごくりと唾を飲み込む。皇后より一段下の隣の席に座っていた祐翔ゆうしょうが口を開く。


 「実は我が妹、恵佳けいかが気鬱の病に罹っているらしく、これを太医も治せない。それどころか太医に話もしなくなった。濘貴妃ならば、恵佳の話を聞けるかもしれない。頼まれてくれるだろうか」


 恵佳内親王は祐翔の腹違いの妹で、四人しかいない妃のうちの一人、ふう妃の娘だ。大人しい性格であまり宮からも出ないという。話を聞くだけ、のように見せて治せと言外に言っているのだ。


 「気鬱……が不足している状態です。疲れやすい、息切れ、しゃべりたくない、精神的な疲労、無力感、体に力が入らない、少し動くだけで発汗、などの症状があります」


 胡娘が言うと、祐翔は「まさにそのような症状だ」と答える。


 「わたくしに出来ることでしたら、精一杯治療いたしますわ」




******




 恵佳内親王が暮らす、敬秀けいしゅう宮の桔梗殿は馮妃が暮らす殿舎である。まだ九歳の内親王は母と一緒に暮らしていた。


 「濘貴妃様、ようこそお越しくださいました」


 馮妃が揖礼して胡娘を出迎える。しかし、一応位が上の胡娘に頭を下げただけのように見える。馮妃としてはこちらは女とはいえ帝の尊き御子を産んでいるのだと言う自負があるのだろう。

 西の蛮族の娘が、自分より上の貴妃として選秀女も受けずに後宮入りしたことに対してあまりいい感情は抱いていない。


 馮妃は二十四歳、十五の時に皇恩を受け恵佳内親王を出産している。出産により体型が崩れたのか美姫と呼ばれていた頃の面影はなく、ふくよかで帝の御渡りも今は途絶えている状況だ。


 そして、才気溢れる秀才として評判だった恵佳内親王が部屋に引き篭もるようになってからの心労か少し気が乱れている。


 「親王殿下、及び皇后陛下の命により恵佳内親王様の治療に参りました」


 胡娘はなるべく若い娘が気に触るようなことはないように控えめに微笑む。

 

 「濘貴妃を疑うわけではございませんが、太医でもあの子の治療は無理でしたのよ」


 馮妃はどうせ無理なのだろうと決めつけている。それも仕方がないのかもしれない。胡娘は貴妃であって医官ではないのだから、陶貴妃を助けた事があったとしても、それを噂のみで知る馮妃にはあまり信憑性がないだろう。


 「とりあえず、お話するだけででも。恵佳内親王はどちらに?」


 「ずっと部屋にいるわよ。お前たち、案内してやりなさい」


 馮妃は本当にやるのか? という表情をしながらも、侍従たちに胡娘を案内するよう伝えた。恵佳内親王の部屋は殿舎の隅にあり、扉は固く閉まっている。

 

 「恵佳内親王様、濘貴妃様がお越しです」


 太監がそう声をかけるが扉は一向に開かない。胡娘の立場なら無理矢理扉を開けさせることもできるが、それをしてしまうと恵佳内親王との間に修復不可能な溝ができてしまう。治療ができなくなってしまったら困る。


 「今はとても御前には参れませんわ。どうかお帰りください」


 まだ拙い弱々しい声が部屋の奥から聞こえてきた。


 「恵佳内親王様、ならば扉越しにお話いたしましょう」


 胡娘はこの機を逃すまいと語りかける。


 「濘貴妃様とお話することはございませんわ」


 ぴしゃり、とまるで心の扉さえも閉められたような気がした。事実そうなのであろう。だが、ここで諦めたら祐翔の命を遂行できなかったことになる。

 胡娘は陶貴妃と姉妹の契りを結んだと噂──美梅が言っていた──のだから反皇后派と思われるのだけは避けたい。親王の命を遂行し、信頼を積み上げておきたい。


 保身のために治療にあたるのは本意ではないが、今は環境が違うのだと胡娘は自分に言い聞かせる。患者に貴賎はない、敵味方もない。誰であろうと治療しよう。


 「わたくし、西から後宮へ参りましたのよ。きっと珍しい話ができますわ。えっと、蛇を操る大道芸人の話とか…」


 恵佳内親王が食いついた様子はなかった。しかし、胡娘はもう勝手に話そうと決意する。気鬱の病は長期的な治療になる。すぐに解決すると考えてはいけない。


 その日はただ扉の前で胡娘が一人で勝手に話すだけで終わった。太監たちがおろおろしていたのが印象的だった。馮妃も「こんなことで治療など笑えるわ」と呆れたように言った。次からは桔梗殿に入れてもらえないかもしれないと覚悟していた胡娘だが、訪れるたびに恵佳内親王の部屋の前までは通してくれた。


 馮氏も張氏と同じく皇太后許氏の傘下の家なので、皇太后の手引きで入内した胡娘を表向きは邪険に扱えないのだろう。その点に関しては望まない入内だったが、皇太后に感謝だ。


 『これは長い戦いになるわよ、姉さん。恵佳内親王様に心を開いてもらわなきゃ、治療できないわ』


 「そんなの覚悟の上よ」


 柳の木が風に揺れるような声だった。それが胡娘の耳元に息が吹きかけられる。今、睡蓮殿のへやには胡娘一人である。しかし、この場には確かに二人いた。


 妹妹と胡娘が呼ぶ、精霊のような類のものである。人の目には見えないし、胡娘の目にも見えない。しかし、確実にここにいるという実感だけはあった。


 故郷では医術と呪術は離せないものだった。「亙」と呼ばれる祈祷師や呪術師のようなものが歌や踊りを利用した療法を行っていた。その者から胡娘はこう診断されている。


 元は双子だったが腹の中で片方が死に、栄養として吸収された。お前の感じ取る存在は、お前と双子だった者だ──と。


 妹妹のおかげで、胡娘は人を見ただけで気が感じられるようになった。精霊的な存在と同じ体で同居しているのだから、そういったものを感じ取れるようになったのだろう。生まれる前に死んだ者なので名前はなく、ただ妹という意味の妹妹と呼んでいる。


 「内親王様の気を見たいけど、お目にかかれないんじゃね」


 ぽつりと胡娘が呟いたのを妹妹は聞き逃さない。彼女はどこにいようとも音を拾い上げる耳を持っていた。


 『私が見てこようか? 陶貴妃の時だって私が陶貴妃の中に入って息を吹き返させたもの。私が恵佳内親王の中に入って扉を開けさせるわ』


 「やめて。そんなことしたら、内親王様が不審がるでしょ。私の治療を受け付けないかもしれない。地道にやるわ」


 その時、侍女が胡娘に茶を運んでくる。菊花茶である。


 「濘貴妃様? 今、誰かとお話を?」


 「いいえ、誰も」




******




 それから約一ヶ月、胡娘は桔梗殿に通い続けた。時には馮妃からも恵佳内親王のことを聞き出した。最初は胡娘を信じず、迷惑がっていた馮妃も胡娘の真摯さに突き動かされてから、ぽつりぽつりと語るようになっていた。


 「あの子は、元々才能のある子でした。詩を詠むのも上手いし、琴を弾かせれば天下一くらい…いや、親の贔屓目かしら。何も塞ぎ込むことなんてないはずなのに」


 馮妃はため息を吐いた。何度も太医に診せたようだが一向に治らない。食事も手をつけず、痩せ細っていくばかりだという。恵佳内親王は食欲がないといつも言うようだ。となれば薬膳を口にさせるにも苦労するかもしれない。


 いつものように胡娘は恵佳内親王の部屋の前にきた。妹妹は焦ったいとでも言うように気配が胡娘の周りを飛び回りそのまま扉の向こうに消えてしまいそうにも見える。それを胡娘の言いつけを守り我慢している状態だ。


 「恵佳内親王様、今日は草原の王、白銀の狼の話をしましょうか」


 胡娘が扉に向かって語りかけた時だった。ゆっくりと扉が開く。と言っても隙間程度しか開かなかったが大きな進歩だった。その隙間から恵佳内親王がこちらを覗いている。


 「恵佳内親王様、初めてお目にかかりますね。ねい胡娘こじょうと申しますわ」


 「存じておりますわ。だって毎日いらしてくださったのですもの」


 扉の影に隠れるようにして、恵佳内親王はこちらをじっと見つめていた。


 「いつも、顔くらい見せないとと思いながらも体が重く今日になってやっと体が動いたのですわ。今までの無礼どうかお許しください濘貴妃様」


 胡娘はふわりと微笑んだ。努力が身を結ぶ時こそ、一番報われる瞬間だと思った。


 「気鬱とは長い病。恵佳内親王様がわたくしに会ってくださったことが大きな一歩ですわ」


 胡娘はもっと時間がかかると思っていた。恵佳内親王の気を妹妹に探らせる。やはり気が乱れているようだと顔を見てわかった。恵佳内親王は痩せていて、あまり健康的とはいえない。馮妃から聞き出した話によると、粥を食べるのが精一杯のようだ。

 気の乱れは疲労や食生活の偏りにある。粥しか食べれない恵佳内親王はまさにその状態だった。


 まずは食の改善からだ。膳房に行き、薬膳を作らせる。貴妃直々にやってきたことで膳房の者たちには驚かれてしまった。


 気が不足しているときは、生薬は人参、大棗、山薬など。食べ物では玄米、南瓜、牛肉、葡萄だ。

 羊の乳で煮た粥を作り、そこに干し葡萄と大棗を入れる。干し葡萄は胡娘の故郷、西方の名産品で乾燥した砂漠に植栽のものが一番甘いのだ。葡萄は薬用として故郷では使われていた。

 南瓜もすり潰してどろどろになったものにして、喉に入りやすいように汁物にした。


 一見、質素に見えるがちゃんとした薬膳の完成だ。粥が西方風の味付けになってしまったので口に合うか心配なところだが、普段は同じ味の粥を繰り返し食べているようだから、偶には違う味も食べたくなるだろう。

 

 「恵佳内親王様、薬膳をお持ちいたしましたわ」


 胡娘が手を叩くと、侍従が食事を運んできた。


 「昼餉はまだでしょう? もしよろしければ召し上がって」


 恵佳内親王の顔が不安気になった。きっと薬ばかりの苦い食事か、栄養満点の豪華な食事を想像して食欲が失せていっているのかもしれない。


 恐る恐る恵佳内親王が椀の蓋を開ける。干し葡萄の姿を見て、少し驚いたようだ。粥に果実の葡萄は奇妙に見えただろう。


 「これで私の病が治るのですか?」


 「気を回復させるにはまず、食事をきちんと摂ることです。規則正しい生活が、大切なのです」


 胡娘の言葉を聞いて、恵佳内親王は焦り出した。寝る時間も起きる時間も決めていないので日によって違うのだと言う。母親の馮妃からすれば、皇帝が寝宮を出る爆竹の音までには起きて欲しいとのことだった。


 皇帝の起床よりも遅いことを許されているのは、恵佳内親王に対して皇帝が興味を持たないからだろう。


 その日は食事をとってくれただけでまた一歩前進だった。しばらくは薬膳を食させて、肉がある程度付いてきた頃に外出させる。


 「恵佳内親王様、今睡蓮殿の池の睡蓮が見頃の時間ですわよ。散歩に行きましょう」


 まだ眠そうな目をこすりながら、恵佳内親王が扉の隙間から顔を出す。胡娘は恵佳内親王の部屋に入れてもらえるようになっていたが、恵佳内親王自身を部屋の外に連れ出すのは困難だった。


 「こんな朝早くからですか」


 まだ早起きに慣れない恵佳内親王は今にも眠ってしまいそうだ。この時間は婢女などが起きる時間で、妃嬪である胡娘や内親王である恵佳はまだ寝ていても良い時間だ。


 事前にこの日に散歩に行こうと誘っていたおかげか、着替えなどは済ませているようだが、恵佳内親王はあまり乗り気ではない。


 今日は胡娘が早起きしてしまったのでその世話のために慶徳宮の全てが早起きだった。少し申し訳ないような気もしたが、故郷では早起きだった胡娘の癖だ。いつもならまだ眠ったふりをするが、今日は早朝の散歩に恵佳内親王を連れ出す日だ。馮妃からも許可をもらっている。


 「外は怖いですわ、濘貴妃様。だって皆、私を見ていますもの。きっと愚鈍な内親王だと馬鹿にしているんだわ」


 そう言って恵佳内親王は奥に引っ込もうとする。


 「人払いしておりますから大丈夫ですわ」


 胡娘は恵佳内親王の手を掴むと、部屋の外に一歩引き寄せた。一歩、部屋の外に出た恵佳内親王は慌てたように辺りを見渡す。しかしすでに人払い済みなので胡娘以外には誰もいない。


 「ね? 意外と外に出るのは簡単なのです」


 胡娘はそう言って恵佳内親王に微笑みかけた。

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