《三話》寵妃を救え
緩んでいた拘束の手を胡娘は振り払って駆け出した。馬のように早く、しかし山羊のように軽やかに太監たちの隙間を縫うようにして走り去っていく。
草原を駆ける馬のようだ。やはり大足女と揶揄されようとも纒足よりよっぽどいいと祐翔は思った。
「祐翔、私が後宮の庭園の散策許可を与えます。私の代わりに目と耳となり事を見届けなさい」
皇后は密かに祐翔に向けて微笑む。胡娘について行けと言っているのだろう。頷いて椅子から立ち上がると祐翔は侍従たちを引き連れ、胡娘の後を追った。
梅花殿の鯉の池の脇に、陶貴妃は横たわっていた。雪のように白い肌は今は魚のようである。宦官や女官たちが取り囲んでいて、誰一人冷静ではない。その中で冷静な胡娘の姿は異質だった。
まず、陶貴妃の衣服を緩める。
「陶貴妃様の衣服を剥ぎ取るなど!」
太監の一人が顔を真っ赤にして吠えたが、胡娘はそれを無視する。剥ぎ取ってはいない。ただ胸元を少し緩めただけだ。そして胸元に耳を当てた。周りのざわめきが大きくなる。
「まだ、蘇生できるかもしれない」
胡娘が呟いた。そして、胸部を圧迫し始める。「何を…!」と周りの者たちは状況を掴めていなかった。尊き体に触れる事をためらっているのか、それとも死体だと断定して穢れを厭うからか、周りの者たちは一歩、また一歩と後ろへ下がる。
三十ほど胡娘は陶貴妃の胸を押し続けたように見えた。その後、なんと胡娘は陶貴妃に接吻をしたのだ。その様子に周りの者たちは悲鳴を上げる。妃嬪同士での接吻も問題だが、それが片方が死体であれば尚更である。
「濘貴妃! 何をやっているんだ」
祐翔は侍従に陶貴妃から胡娘を引き剥がすように指示を出そうとした。しかし、胡娘は一瞬だけ顔を上げた。その顔には怒りが含まれているように見える。
「何を? これは救死方ですわ!」
救死方── 溺死、凍死、縊死、さまざまな状況の仮死者の蘇生法である。
「見世物じゃないのよ! 陶貴妃様を救う気があるのならば、早く典薬尞から未加工の半夏の粉末を竹筒に入れて持ってきなさい。あと、生姜の生汁も」
胡娘が叫んだ。祐翔は侍従に取りに行かせるよう指示を出すと太監は弾かれたように走り出した。皆が、今の状況について行けなかった。
すぐさま、半夏の粉末と生姜の汁が用意された。胡娘は陶貴妃を膝を折り曲げて地上に置き、僧侶が座禅を組んでいるようにせよ、と命じた。しかし、誰も動かない。皆が自分が死体に触れ穢れを受ける役をやらされることを恐れていた。
「陶貴妃様はまだ生きている! だから穢れなどない。たとえ死していても私は穢れを恐れない」
胡娘がそう説得を試みる。しかし太監たちは「それは濘貴妃様が西の蛮…部族ご出身だから恐れぬだけでございます」と一歩、また一歩と陶貴妃の体から離れる。それもそうだ。彼らは自分たちの職位に関して矜持があり、死体に触れる仵作などの下級の役人ではないと思っている。
胡娘は形だけの貴妃だと皆から思われている。陶貴妃のように寵があるわけでも、張皇后のように実家が権力があるわけでもない。遠い異国から一人で嫁いだ蛮族の娘。
その時に、祐翔が口を開く。
「濘貴妃の言う通りにせよ」
命じられた太監たちは顔が真っ青になり、地に膝をつく。
「親王殿下、どうか御慈悲を。穢れを受ければ生きては行けませぬ」
まるでこれから死罪になる己の助命嘆願だった。確かに穢れを受ければ病になると信じられ、高度な医療に掛かれない身分の者たちにとっては死と同じだろう。
「濘貴妃を手伝った者には特別な手当と穢れを祓うと言われる香を焚こう」
太子となるであろう親王にそこまで言わせるならば、とやっと数人の宦官が渋々陶貴妃の体を胡娘が言った通りの形にした。
その形になると、胡娘は半夏の粉末を陶貴妃の鼻腔内に吹き込んだ。そうすると、「げほっ」という音と共に陶貴妃が水を吐き出した。その様子が信じられないと、周りの者たちは声を上げる。
「げほっ、けほっ、はぁ…はぁ…」
青白い顔をした陶貴妃が何度も腹に溜まったのであろう水を吐き出した。
「陶貴妃様、こちらを飲んでくださいませ」
そう言って胡娘は生姜の生汁を飲ませる。こうして半夏の毒性を打ち消す。
「奇跡だ! 陶貴妃様が生き返った」
誰かがそう叫んだ。その声を皮切りに歓声が上がる。「陶貴妃様、よかったですわ!」と陶貴妃の侍女たちが駆け寄る。すぐさま、祐翔は陶貴妃の侍女たちを拘束するように指示を出す。
「なっ、何を!」
拘束された侍女たちは顔を真っ赤にして犬のようにきゃんきゃんと吠えた。
「陶貴妃の侍女たちが濘貴妃の手の者に陶貴妃が突き落とされたと証言したようだな。じっくりと話を聞かせてもらおうか」
祐翔はにやりと笑う。もし陶貴妃を突き落とした黒幕が胡娘であるのならば、必死に陶貴妃を救おうとはしなかっただろう。内侍府のものは、犯人だから逃げ出したと考えていたようだが、この陶貴妃の救命劇をみて考えを改めたようだ。
祐翔は侍従らが拘束した侍女たちを引き渡されて、しっかりと拘束している。
侍女はこれから拷問されるのだと気付いたのか、泣き出した。
「申し訳ございません! 嘘です。嘘でございます! 陶貴妃様が誤って池に転落するのを防げなかった失態を濘貴妃様になすりつけたのでございます」
侍女の一人が膝をついて、地に頭を擦り付ける。纒足である陶貴妃が池の鯉を鑑賞している際に、滑って池に落ちたのだという。その転落を防げなかった侍女たちは罰を恐れ、後ろから陶貴妃を突き落とした濘貴妃の手先の下女という架空の存在を作り出した。
「お許しください」
泣きながら、土で顔が汚れるのも厭わず頭を擦り付けている。その先にはまだ咳き込む陶貴妃と侍女を見つめる胡娘の姿があった。
「陶貴妃様は死ぬところだった。その失態を誤魔化そうなど…」
胡娘の瞳には怒りが揺れていた。自分に濡れ衣を着せられたということもあるだろうが、それ以上に穢れるからと救命活動をしなかった周りの者たちに怒りを燃やしているようだった。
助かったものの陶貴妃を見殺しにしようとした、そして池に転落するのを防げなかったということもあり、侍女たちは杖刑に処されたあと、解雇されることが決まった。
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こうして、寵妃溺死かと思われた事件は解決した──のではあるが、胡娘の中ではずっと続いていた。何故ならば。
「姉様、こちら実家から送られてきた絹ですの。これで姉様の夏の衣装を作ったらいかがかしら?」
「ええ、まぁ。小梅の衣装を作った方が良いと思うのですけれど」
あの日、胡娘が救った陶貴妃美梅はとても胡娘に感謝した。そして接吻──本当は人工呼吸なのだが──については、驚いたようだが姉妹の契りを交わしたと何とか好意的な解釈をしたようだ。こうして、美梅は胡娘を姉様と慕う事態になったのだ。
美梅は十七、胡娘は十九なので胡娘が姉になるのはわかるのだが、姉様と呼ばれるたびにむず痒い。最初は十九での入内に薹が立っていると散々馬鹿にしていたはずが、この変わりようだ。やはり命の恩人になると何もかもが変わるらしい。
ただ、美梅と仲良くなってしまったことから皇后との関係は少し心配事の一つだった。美梅と皇后は対立する立場にある。もちろん、胡娘は太医のように政治には介入しない中立を貫く予定ではある。
「姉様ったら! だって姉様は数着の旗袍以外は西の胡服じゃありませんか。後宮内で浮かないように今のうちに仕立てておくものでしてよ」
「浮いているという点では、もう手遅れなのだと思いますけど」
不思議な妖術を使うという噂は美梅を救ってから後宮の内にとどまらず、外朝まで広がっているらしい。妖術を使う噂はきっと胡娘が後宮に来てすぐあたりのころ、薬研で薬を調合している際に漏れ出た笑い声を誰かが勘違いしたのだろうと当たりをつけている。
でも、この後宮内で身につけた医術の知識が役に立つ日が来るとは思っていなかった。皇后を治療し、寵妃を蘇生させた。太医の仕事を奪ってしまっているという申し訳なさはあるが、自分は生粋の医者なのだと胡娘は再確認した。
「次がもしあったら、頑張ろうね。妹妹」
そっと胡娘が呟く。
『うん。頑張ろうね』
耳朶に風があたるようにそっと誰かが囁いたような気がした。
「姉様、今何かいいましたか?」
美梅が首を傾げて尋ねる。胡娘は笑顔で答えた。
「いいえ。何も」