《二話》皇后様の治療
「どうして、見ただけでわかるのだ?」
祐翔はこれが噂の妖術かと、少し感心してしまっていた。
「それはわたくしが医者だからとしか言えませぬが。…えぇっと、じゃあそうですわね。そこの太監様」
皇后付きの太監、門の前に居た者だ。その者を指差して、胡娘は答える。
「太監様、貴方はお酒がお好きですわね?」
「ええ、まぁ。嗜む程度ではありますが」
指を差された太監は少し顔を赤らめ、頰をぽりぽりと掻いた。
「毛根の弱り具合、そしてその太り方。乱れた気。もしや好きというより、酒依存ではありませんか?」
指摘された太監は驚いたように目を瞬かせた。口からは「依存などと…」とは言ってはいるものの心当たりがあるのだろう。
「待て。太っているなら誰でも酒依存になってしまうのではないか? 宦官は行き場のない欲を食欲に変えてしまうこともある。それではないのか?」
祐翔はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。やはり性を切り取られると体内の気が乱れるのか高位の太監には太っているものも多い。
「確かに太っているだけで酒依存というわけではございません。ただ全体的に太っていらしゃいますが下腹が特に出ている太り方でしたのでもしや…と思っただけですわ。全てわたくしの勘です」
何度も太っている太っていると連呼された太監はがっくりと肩を落としていた。
「わたくし、気が見えるのです」
胡娘が静かに告げる。「き?」と皇后が困ったように尋ねた。先程から胡娘の言っていた「気」がわからなかったのかもしれない。
「気とは人間、自然を構成する気質のことですわ。火、空気、水、土、の四つが万物を構成しています」
それは光帝国の医学にも通ずるところがある話だった。
「人体に反映したものが、胆嚢、肝臓、肺臓、脾臓の四つの臓器であり、黄色胆汁、血液、粘液、黒色胆汁の四つの体液ですわ」
胡娘は淡々と説明していく。まるで、静謐な空気を出しているようで皆が黙って耳を傾けていた。
「もっと簡単に言えば気とは人体の力と内臓の働きのことです」
笑顔で胡娘は締めくくる。最初からそう言ってくれと祐翔は言いそうになってしまった。
「それが、見えると」
祐翔は信じられないという思いで胡娘に尋ねる。
「はい。顔を見ただけで大体は。詳しくは脈を見たり身体を見たりとしなければならないのですけども。気の乱れは大体顔に出ますわ」
「ほう」と皇后は感嘆のため息を漏らした。
「素晴らしい才。もし妃でなければ、私の侍医にしたのに」
このわずかな時間ですっかり皇后は胡娘のことを気に入ったようだ。先程まで門の前に締め出していた人物とは思えない。
「ぜひ、前向きに検討してくださいませ。わたくし、妃より医者の方が性に合っていますもの」
皇后も冗談で言ったものだが、まさか真面目に捉えられるとは思わなかったという顔をした。しかし、これで胡娘は寵を競う気がないということになる。
「娘娘、わたくしに治療させてはもらえないでしょうか」
******
日当たりの良い、汗ばむほどの日差しが降り注ぐ院子に胡娘の故郷から取り寄せたという普通の砂よりきめ細かくさらさらとしたものが大量に運び込まれていた。
院子の真ん中には木造の巨大な風呂。しかし中に入っているのは湯ではなく、砂だ。
「こちらが我が故郷に伝わる砂浴療法です。ただ彼方の方が暑いので、こちらではできるだけ日当たりの良い場所でしなければなりません」
胡娘は湯着姿の皇后に砂浴に案内する。風呂の周りには女官たち──胡娘いわく砂かけ女たちである。砂山に深さ二十から三十センチの穴を掘り、そこに皇后を横たえて砂を掛けていく。
「湯治は行ったことがあるが、まさか砂に埋まる日がくるとは」
皇后は物珍しそうに埋まっていく自身の体を見ている。
「関節炎や手足、腰などの疼痛、寒性胃腸炎、高血圧、リウマチ、浮腫などの治療に効果があります。砂に埋まっている皮膚の温度を上げ、脈管を膨張させて血行を良くし、新陳代謝機能を高めるのです。それに砂浴は日光浴にもなりますし、発汗療法により老廃物を体外に排出します」
「うむ。暖かい。体が緩んでいくようだ」
「娘娘は先程触診させていただいた時にわかりましたが、水の気が乱れお体が冷えたものと考えられます。暑い季節も油断せず、体を冷やさないことが重要です」
砂かけ女に任命した女官が皇后の体に新しい砂をかける。そうしてしばらく皇后は砂の中に埋まっていた。滑稽な姿ではあるが、治療とあらば仕方がないと皇后も受け入れたのだろう。
砂浴を終えたら、按摩による治療。焼灼術は焼いた鉄製の器具を使い、これは光帝国の鍼灸に影響を受けている。そのあとに薬膳による治療だ。
「食材や生薬にも熱・冷・湿・乾の気質がありまして、娘娘は冷・湿の粘液の体液が優位ですから臓器でいうなら肺臓、季節なら冬です。療法としては熱いもの によって寒性の病を治し、寒いものによって熱性の病を治すので、熱の気を持つ食材を取り入れます」
御座に座って足を伸ばしている皇后の隣にはまだあどけなさが残る親王、祐翔が座っている。砂浴の際は同席しなかったが胡娘の腕前を見たいと自ら望んだのである。
「季節があるのか?」
祐翔が尋ねると「はい」と胡娘は頷いた。
「春の気候は湿熱であり、人体の体液が増え傷など血性病が起こりやすくなります。夏の気候は乾熱で、黄胆質的病が多いです。秋の気候は乾寒で昼は暑く、夜は寒いという気候のため、昼と夜の寒暖差が大きく、風邪、リウマチ、神経的な病が多く見られます。冬の気候は湿寒で、肺病、傷寒、関節の痛みが多いですわ」
そこまで説明したところで胡娘は皇后を見る。
「冬がもっとも関節痛が酷くなりますわ。冬から患っているものでございましょう」
「濘貴妃、そなたはこの春に後宮に来たから私が冬から患っていることは知らないはずよ」
皇后は一言も、いつから調子が悪いとは言わなかった。
「気の乱れ具合により、その頃からだと予想しました」
そう言って胡娘は頭を下げる。本当に妃にしておくには勿体無い知識だと皇后は思った。
その時だった。俄かに外が騒がしくなったかと思えば、宮廷の治安を守る部署──内侍府の宦官たちが束になって押しかけてきていた。
「娘娘、火急でしたので無礼をお許しいただきたい。後宮の梅花殿の池にて陶貴妃様が溺死なさりました。それが陶貴妃の侍女たちによりますと、猫の言いがかりの恨みで濘貴妃様の手の者が突き落としたと申しております。事件が解決するまで、濘貴妃様の身柄を拘束させていただきます」
素早く太監たちにより、胡娘は両腕を抱えられ拘束される。
「お待ち。陶貴妃の侍女の証言だけで事を判断するつもりか」
皇后の威厳ある声に怯んだのか、胡娘を拘束していた腕が緩む。
「いえ、そんなつもりは。ただ容疑者ではございますので宮から動かぬようにと」
内侍府の太監は汗を拭って答える。ここまで走ってきたからなのか、それとも皇后に気押されたのか。
「お待ちください! 陶貴妃様の死はちゃんとした仵作によるものですか?」
胡娘が叫んだ。何を…と太監たちは戸惑っている。
「その場に居合わせた宦官が冷たくなっていると判断したまでにございます」
その言葉を聞いた瞬間、翠の目が煌めいた。そして呟く。
「まだ救えるかもしれない」