《一話》 死んだ猫
南北の長さ、約二里(九六一メートル)東西の長さ、約一里半(七五三メートル)城壁の高さ四丈(十二メートル)。九百八十あまりの建物で構成される光帝国の宮殿、紫光城。
その中の後宮、東西に六つずつの宮を有する皇帝の花園。皇帝の宮に近い側から高位の妃嬪たちが住まう。
東の慶徳宮、睡蓮殿に住まう貴妃、胡娘は重い旗袍に身を包み、花盆靴を履いていた。この後宮にいる女の中で纒足をしていない大足女としても胡娘は大変有名だった。
そこに怪しげな妖術を使う噂と、元からの不美人な容姿と相まって御渡りもないことから形だけの貴妃とすっかり評判を落としていた。
「濘貴妃様、そう気を落とさないでくださいまし。大家も何かお考えがあるのでしょう」
侍女の一人が茶を出しながら慰める。しかし、胡娘は特に何とも思ってはいない。むしろ、面倒くさいことにならずに済んだと喜びの舞を踊り出しそうなくらいには上機嫌だった。
「わたくし、気にしてないわ。それよりわたくしに関しての噂が気になるのよ」
侍女はそれを聞いて、怒りが思い出されそうな顔をした。
「そう、噂!貴妃様に関しての酷い噂が流れていて、私腹が立って!」
噂なら胡娘の耳にも届いている。怪しげな妖術を使うだの、病を患っているだの、色々だ。そして、胡娘は首を傾げる。
「どこから漏れたのかしら。病だという噂は私が後宮の医局に通い詰めたのが原因かしらね」
それを口にすると侍女はぷりぷりと怒り出した。
「それがわかっているなら自重してくださいませ。医局にわざわざ貴妃様が出向かなくとも、こちらに呼びつければよかったのです」
「光帝国の医者がどういうものか確かめねばならないからね。もし私が病にかかったとき、いい加減な治療をされては困る。まぁ、私が私を治療してしまうかもしれないが」
胡娘は一人で後宮という魔窟に飛び込んだ。侍女は胡娘の故郷から連れてきた者ではなく、胡娘の入内に合わせて皇太后に選ばれた女人たちである。そのため、胡娘の性格を掴みきれていないところがあった。
胡娘の身支度が終わった頃だった。甲高い女の声が睡蓮殿に響く。
「大変です、濘貴妃様。突然、陶貴妃様がお訪ねになられて…!」
慌てた様子で駆け込んできたのは胡娘付きの太監である。これから皇后の殿舎にまで朝の挨拶に向かわねばならないというのに一体どうしたのだろうかと首を傾げた。
陶貴妃は二人いる貴妃のうちのもう一人であり、現在後宮で一番皇帝の寵愛を受け、その力は皇后をも凌ぐと言われている。そのため、皇后の宮に挨拶に向かわない妃嬪の代表格といえた。
「こちらは皇后様に挨拶に行かねばならないというのに、あちらは関係なしか。朝から騒がしいことで」
胡娘は渋々と椅子から立ち上がった。同じ貴妃として敵対視されている身としてはあまり顔を合わせたくない相手である。
殿舎の外では、陶貴妃とその侍女たちが烈火の如く怒り狂い、それを太監たちが抑えているという状況だった。
陶貴妃は美しい烏の濡れ羽色のような黒い髪を持ち、胡娘の宮と隣り合う福寿宮に住んでいる。住まいの梅花殿と黒い髪、そして名前の美梅に合わせて『烏梅の君』と呼ばれていたりする。
この呼び名を聞いたとき、胡娘は「まぁ、烏梅は下痢や腫れの薬ですわね!」と思わず言ってしまった。それを陶貴妃本人の前で言ってしまったものだから、やはり下痢という単語がよくなかったのか蛇蝎の如く嫌われてしまうことになった。
それでも、胡娘からすれば褒め言葉だったのだ。薬のような効果を持つ妃とは最上の褒め言葉である。そんな異名が付いているならばどんな薬学の知識をお持ちだろう、お友達になれるかしらと心踊らされたものだ。すぐ叶わぬ夢となったが。
そんな嫌っている相手の殿舎に、朝から一体何の用なのだろうか。
「陶貴妃、おはようございます。良い朝ですわね。そんなに騒いで何用で?」
胡娘は侍女たちを引き連れ、陶貴妃の前に立つ。赤く怒りに染まった陶貴妃の顔は美しさを損なっている。
「よくも私の猫を殺しておいて良い朝などと言えたものね!」
陶貴妃の足元には灰色の毛の猫が横たわっていた。話を聞くと、昨夜から放し飼いにしている猫が戻らず、隣り合っている胡娘の宮に迷い込んだかもしれないと、捜索の許可を取りに朝からやってきたのだという。
しかし、宮についてみれば陶貴妃の猫は睡蓮殿の院子で横たわって死んでいた。胡娘の宮で死んだのだから胡娘がきっと殺したに違いないということだった。
「恐れながら申し上げます陶貴妃様。猫とは自分の死期を悟ると姿を消すもの。陶貴妃様の猫も死期を悟り濘貴妃様の宮に姿を隠したのやもしれません」
太監の一人が膝をつき頭を下げる。しかし、そんなものでは陶貴妃の怒りは収まるわけもなかった。
「嘘を言っているわ」
陶貴妃が怒りに任せて長い護甲で太監の頰を打とうとした時だった。すっと胡娘が前に出たかと思うと猫の前に膝をつき蹲み込んだ。愛猫だろうに死は穢れだからと触れようともしなかった陶貴妃とは違い、胡娘は優しく猫に触れた。
「可哀想に。死んでしまったのね」
猫を優しく撫でた後、胡娘は顔を上げた。
「この猫を、わたくしは殺してはいませんわ」
そして冷たくなったって固まり始めた猫の口を開けた。
「ほら、中に何か詰まってます。きっと殺鼠団子を誤って食べてしまったのでしょう。毒ですから吐き出そうとしましたが、喉に詰まって窒息してしまったものと見られます」
猫の口の端からは吐瀉物が流れ落ちている。それが詰まってしまっているのだと胡娘は考えた。老猫のように見えるのできっと元々弱っていたのだろう。
「なっ…なっ…!」
死を穢れとする光帝国の風習を気にしない胡娘と己の猫の死因が信じられなかったのか、陶貴妃は声にならない声をあげて腰を抜かした。倒れそうになるのを陶貴妃の侍女たちが支える。
この寵妃の猫の死の事件は、殺鼠団子を撒いた太監が百叩きの刑に処されることで終息を迎えた。その結末は胡娘の心に苦いものを残す。
「私は、要らぬ事実を暴いてしまっただけなのかしら。あのまま老衰だとした方が良かったのではないだろうか」
胡娘は鈍く痛み続ける頭に顔を顰めた。あの後、陶貴妃は自身の猫の亡骸を籠に収めて持ち帰った。そのあと、急いで胡娘は皇后の元へ朝の挨拶に向かう。
皇后の永寧宮の殿舎、金桜殿は朱塗りの飾り柱が美しい豪華な宮だった。その名の通り桜が植えられており春になると儚い薄紅が雲のように屋根を覆っている光景が見られる。
「娘娘に朝のご挨拶を…」
輿から降りた胡娘は皇后の宮の門を開けるよう頼むが、その扉が開くことはなかった。
「濘貴妃様、娘娘の元には客人が来ております。朝の挨拶は遅すぎましたな」
皇后付きの太監が残念そうに首を振った。胡娘たちを通す気はないらしい。きっと皇后は相当怒っているのだろう。もしかしたら挨拶に伺わない陶貴妃たちのもとに阿ったのかと思われたかもしれない。
「娘娘はお怒りなのでしょうか」
胡娘は自身を守るように立っていた侍女や太監を押しのけ、皇后付きの太監の前に出る。
「娘娘は濘貴妃様の挨拶は結構とのこと」
太監は冷たく言い放つ。ここで皇后派閥からも見捨てられ、陶貴妃派閥にも迎合できないとなると、胡娘は異国出身ということもあり孤立してしまう。そうなれば寵もない今、悲惨な未来しか待っていない。
「ならば、娘娘にお目通り出来るまでここでお待ちします」
皇后付きの太監は目を丸くした。なんと強情な娘だと思っているのだろう。
「むしろ、伏してお待ちいたしましょう」
そう言って胡娘は絹の旗袍が汚れるのも構わず、その場に座り込んだ。皇后付きの太監が青ざめて「おやめください!」と騒いでいる。胡娘付きの太監や女官たちも「貴妃様!」と慌てていた。
その騒がしい声の中、胡娘は静かに伏していた。これではまるで皇后が貴妃に苛烈ないじめをしているように見える。貴妃の矜持など胡娘にはあまり気にしない。今はどんな手を使っても後宮で生き残らねばならないのだから。
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「母上、よろしいのですか。貴妃に対して苛烈ないじめを行なっているなどと誤解されてしまいます」
皇后宮、金桜殿。その二階の露台から見下ろしているのは、皇后の一人息子の親王、祐翔と皇后張碧琳である。皇后は護甲のついた爪を眺め、門の前に伏して待っている濘貴妃──胡娘のことなど気にしていないようだ。
「いじめなどはやらないよ。ただ、躾は必要だわ。あの胡の娘と自ら名乗る貴妃がどのようなものか見たかっただけよ。もう少ししたら門を開けてやりなさい」
近くに待機していた太監に、皇后は指示を出す。ゆっくりと門が開くのを見下ろしながら祐翔は顔を顰めた。
「こんなやり方を私は好みません」
今年で十五になる息子はまだまだ甘いと皇后は眉を下げて微笑む。
「祐翔、同じ皇太后様の派閥だとしても私とおまえは違うのだと知らしめてやらなければならないよ」
名門張家の娘と、西方の蛮族の娘では何もかも違い過ぎる。それなのに高位の貴妃として入内し、舞い上がっているだろう小娘をここで理解させておかなければならない。
皇后は御座に戻ると、威厳ある姿で濘貴妃を待った。その側には祐翔も座す。まさか親王が客人だったとは貴妃は思いもしないだろうな、と祐翔は驚くであろう濘貴妃に少し申し訳なく思った。
十になるまでは金桜殿で暮らしていた祐翔も今は東の宮が与えられ、そこで暮らしている。今回の母への訪は、体調があまり優れないという母への見舞いだった。
体調の悪い姿を側室などには見せまいとしているのか座る皇后の姿は背筋が伸びていて毅然としていた。
「皇后陛下に朝のご挨拶を申し上げます」
金桜殿に入ってきた胡娘は、本当に風変わりな姿をしていた。太陽に愛された褐色の肌に、翡翠のように吸い込まれそうな翠の瞳。「本当に翠なのだな…」と思わず祐翔は呟いてしまった。
「親王殿下にご挨拶申し上げます」
濘貴妃は祐翔の方に体を向けて頭を下げた。「面を上げよ」と皇后からの許しが出る。顔を上げた胡娘の翠の瞳は照明の光を吸い込んでか、硝子珠のように輝いていた。
皆が口を揃えて、不美人、不美人と言うものだからとんだ醜女を覚悟していた祐翔だが、これは異国の美しさへの嫉みがあったのだろうと推察する。
纒足もしていない大足女だが、皇后は何度も纒足禁止令を出すように皇帝に上奏するほどの纒足嫌いで後宮が纒足に塗れている状態を常に嘆いていた。「あの悍ましい奇習に飲まれた者どもを私の宮に入らせてはならぬ!」と自身の身の回りには纒足をしたものを近づけなかった。
もちろん寵妃である陶貴妃が皇后をなめていると言うのもあるのだが、皇后が纒足である陶貴妃を宮に入れなかったことも、陶貴妃が挨拶に来ない理由だった。
そんな母の思想のもと育った祐翔も纒足はあまり好むところではなく、大地を駆け回るような女性が好みだ。だからこそなのだろうか。未だ嫡福晋を迎えていない。
その時、無礼だがじっと胡娘が皇后を見つめた。
「失礼ではありますが娘娘、最近お食事が喉を通らないのではないですか? あと、関節が痛むせいでなかなか寝付けない」
それは祐翔が聞いた皇后の不調の原因と全く同じだった。後宮での諍いの仲裁に入らねばならない皇后はその疲れが出たのだろうと言っていた。何処から情報が漏れたのだろうか、と背筋に嫌な汗が滲んでくる。
「……何故わかる」
皇后が冷たく、そして厳しく尋ねる。胡娘は頭を下げて答えた。
「何故わかったのか。それは私が医者だからでございます」
思わず、祐翔は「姫なのに?」と尋ねてしまった。胡娘は少し戸惑ったような表情をした後、口を開く。
「えっと、故郷では上に立つものが知識を持つものとされてきました。ですから王族であっても医者になれたのです」
少し、目が泳いだように見えたが上に立つものが知識を持つものという考えは間違ってはいない。
「娘娘の気が弱まっております。ですので冷えからくる胃腸炎や関節痛などの症状が出ているのだと思われます」
その翠の瞳は真剣で、しっかりと皇后を射抜いていた。