《十一話》不老不死の薬
あの日から数日が経ち、胡娘の元には祐翔から文が来ていた。内容は胡娘を下げ渡してもらうことを皇帝に頼んだというもの。
あの後、胡娘は一旦は再婚の話を宮に持ち帰り妹妹と議論することになった。妹妹はもちろん最初は反対したが、知らない爺に身を捧げるくらいなら若い男がいいと言った。
胡娘も少しの高揚を覚えながら、再婚の了承の文を出したのだ。しばらくは未来への展望に胸をときめかせ、そして少しの後悔のようなものを繰り返しながら、返事を待っていた。
しかし返事が来るより前に、敬事房太監により再び告げられた御渡りの知らせに胡娘の下げ渡しは却下された事がわかった。皇帝は本当に胡娘に興味を持ったのだろうか。だからこそ、惜しくなって親王に下げ渡すことを拒んだ。
事情を知らない侍女たちはただ純粋におめでとうございます、と言葉を掛けてくる。矢でも降っているかのようにその言葉が胡娘に突き刺さった。
もう自分の医者としての人生が潰されてしまうんだ、と胡娘は思った。気がつけば沐浴を済まされ、香油を肌に塗り込まれ、寝台で皇帝を待っている。
「何をしているの、私は…」
皇后は守ってくださると言った。祐翔は再婚を考えて欲しいと言った。胡娘は医者としての未来を約束されていたはずだ。笛の音で皇帝の来訪が告げられる。
いよいよ逃げられなくなったと胡娘は悟った。部屋に、皇帝が入ってくる。その時、胡娘は違和感に気づいた。龍が描かれた黄色の袍を着たその人物の気が乱れているなんて言葉では形容できないほどになっていることを。
こんな重篤な症状の気を見たことがなかった胡娘は、固まってしまった。今目の前にいるのが皇帝なんてことは忘れて、ただの患者のように見えた。
皇帝は胡娘に見向きもせず、椅子に座る。ということは皇太后の圧力についに負けて、渋々やって来たということだろうか。渋々で人生を潰される胡娘にはたまったものではないが。
胡娘はゆっくり目の前の椅子に座り、皇帝を見るが皇帝は恐ろしい翠の瞳と目を合わさないようにしているようだった。まるで目を合わせたら呪われてしまうとでもいうように。
女官によって滋養料理が運ばれて来た。滋養強壮の食材が並ぶ中、それを最初は酒か何かだと胡娘は思っていた。しかし、異様な液体に妹妹が悲鳴をあげた。それにつられて胡娘も嫌な予感がしていた。
「陛下、それは?」
胡娘が尋ねるとまさか喋ることができたのかと驚かれたように皇帝は目を丸くした。そして少し怯えているようだ。
「不老不死の薬だ。私は毎晩これを飲んでいる」
そう言って皇帝は震える手で、杯に入った液体を飲み干す。妹妹が「やめて!」と悲鳴を上げる。胡娘は思わず椅子から立ち上がって、皇帝から杯を取り上げていた。しかし中身はすでに飲まれてしまっていて、底の方に少し残っているだけだ。
「陛下、これは水銀です! 人体に毒です!」
胡娘は無礼と分かっていながらも叫んだ。不老不死の薬──嫌な予感は当たった。
「何を言う! 水銀は万病の万能薬。不老不死の薬だ」
皇帝はいきなり杯を取り上げた貴妃に怒りが募っているようだった。水銀は肝臓や肺障害を引き起こす劇薬であると皇帝は知らないようだった。不老不死の薬と信じてしまっている。
「腹痛や吐き気、下痢などがございますか?」
「そんなもの、この不老不死の薬で治る」
皇帝はまさか薬によってその症状が出ていると気づいていない。そしていつから水銀を摂取しているのかすら、わからなかった。体に蓄積された毒が体を蝕んでいくことを知らずに。
その時、皇帝はふらりと体が揺れたかと思うと椅子から転げ落ちた。「だから言ったじゃない!」と妹妹が悲鳴をあげながら叫んでいる。
物音から部屋の外に待機していた太監たちが部屋の中へと入ってくる。
「これは何ごとですか!?」
敬事房太監が叫ぶ。
「陛下が倒れた。水銀を摂取したからよ」
胡娘が訴えるが太監たちは滋養強壮の料理を運んできた女官を捕縛せよと命じている。違うのだ。彼女はただ運んだだけ。裏にいるのは薬と偽って皇帝に毎晩飲むよう指示したものだ。
それは太医か、皇太后か。それとも二人の共謀なのか。とにかくこのままでは犯人の可能性が高い太医が治療にあたることになってしまう。
「とにかく陛下を寝台にお運びして。治療はわたくしがいたしますわ」
丁度、飾り付けられた寝台が横にある。太監と協力して皇帝を寝台に横たわらせた。薄らとまだ意識はあるような皇帝がうわごとを呟いている。
「太医をお呼びしなくては!」
太監の一人が慌てた様子で房から出ようとするのを胡娘は止めた。
「陛下は水銀を不老不死の薬と仰った。陛下の薬ならば太医が管理しているはず。太医が陛下に水銀という毒を盛った可能性がある以上、治療はさせられないわ」
太監たちが皇帝暗殺の危機であったことを感じ取り、息を呑んだ。
「娘娘に報告を! 早く!」
胡娘は皇后ならば何とかしてくれるであろうという期待があった。今は目の前の皇帝を救うことを考えなければ。とりあえず、体に蓄積している毒素を排出しなければならない。
利尿作用のある薬をゆっくりと飲ませる。皇帝は寝台から動けなかったので女官たちには何度も汚れた敷布を変えさせてしまった。
そして解毒作用のある硫黄を多く含むアブラナ科やユリ科の野菜をすり潰したり、細かく刻んだものを摂取させた。
皇帝を燕寝に帰してしまったなら、太医が診ることになるだろう。そうなれば、そこでまた水銀を万病の薬だと与えられてしまうかもしれない。それは避けたかった。
皇后は事態を把握した後、居合わせた太監や女官全員に箝口令を敷き、『皇帝陛下は一晩経った後も貴妃と離れ難く、そのまま滞在している』ということにしてくれた。朝議にも出ないなんてなんたることか! という声が出ると予想したが、元々皇太后が暖簾を下げて参加していたので皇帝がいなくても大丈夫らしい。
今は、皇帝のその普段からの暗愚っぷりに感謝だ。
『姉さん、こんなこと言うのはあれだけど…皇帝が死んでくれたら晴れて親王と再婚できたじゃない。どうして必死に治療するの?』
静かに寝息を立てる皇帝の横で椅子に座る胡娘に妹妹が話しかけた。彼女はもう一人の胡娘。きっと妹妹の言葉は、胡娘が少しでも思ってしまったことだろう。
「私が師匠から継いだ医者としての信念よ。目の前に助けられる患者がいるのに見殺しにはしない」
『姉さんが身代わりに出されたとき、見捨てた男の信念よ』
あんなに尊敬していた師匠のことを悪くいうなんて、胡娘も心のどこかで見捨てられた、裏切られた、失望した、という気持ちがあったのだろう。
だからといって胡娘は建良のように葬り去ったりはしない。信念を捨てるということは胡娘の中で師匠を殺すことと同義だろう。
「私は医妃よ」
祐翔が言ってくれた言葉を噛み締める。胡娘は──ニルファルは、医者として妃としてここに居ていいんだと許されたように感じる。
「だから、誰も見捨てたくない」
そう言って胡娘は顔色の悪い皇帝の顔を見つめ続けた。
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皇后張氏と親王祐翔の活躍で、皇帝の暗殺未遂犯として水銀を調達していた太医と皇太后が捕縛された。太医は斬首のちに晒し首。皇太后は尼寺への出家と生涯そこでの幽閉が言い渡された。皇太后は真に不老不死の薬だと信じ、子を思って薬を飲ませ続けていた。今までの功績もある故に温情のある措置が取られた。
太医が捕縛された後、皇帝の身は燕寝に移され、そこで胡娘を筆頭とした医官たちによって治療が続けられてた。長い期間の治療だった。一年ほど皇帝は寝台の住人だった。
数年経つ頃にはすっかり体内の毒が抜けきり、健康に近い体に戻りつつある。
今回の皇帝の治療という胡娘の功績、そして太医の捕縛に尽力した祐翔の功績により、二人は再婚の許可を得た。皇帝の容体が回復すると、胡娘は下げ渡され嫡福晋として祐翔に迎え入れられることになる。
祐翔の成人とともに皇帝はその位を譲り、離宮に蟲の研究をすると引っ込んでしまった。皇太后となった張氏も離宮へと着いていった。
そして祐翔は宮廷の制度の改革を行なった。杜撰な体制だった下級官吏、特に仵作などの膿を排出し、新たな体制に作り変えた。そして皇后の宮である永寧宮には国内唯一の女医の養成機関である、『ニルファル女子医学校』が開かれる。何故、異国風の名前が名付けられたのかは知られていない。




