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《十話》不老不死の薬

 春が訪れ始める。この時期になると、蚕神を祀る儀式が執り行われる。皇后は蚕房を持っており、自ら蚕を育てているのだ。といっても実際には自ら皇后が世話するのではなく、女官たちが世話しているのだが。

 

 天子は自ら畑を耕して供え物の穀物を提供し、皇后は養蚕し,祭服を提供する。そのため蚕神儀礼は皇后にとって重要な催事だ。皇后による桑摘みが一番の目玉だろう。


 皇后の催事なので、他の妃嬪は関係ないかと思われたがどういうことか、側室たちも親蚕はせずとも自らの祭服を仕立てよとのお達しがあった。そのため、胡娘こじょうは今、せっせと裁縫に勤しんでいる。


 「針を持つのは嫌いじゃないわ」


 そう言って他の妃たちは女官に任せるところを胡娘は自ら服を作り始めた。縫い合わせていくのは、人の皮膚を縫い合わせていく感覚を思い出させた。

 生きた人の皮膚の感覚よりも死体の感覚を思い出させる。罪人の死体は解剖して良いことになっていたので、胡娘もよく医学の師匠に連れられ、解剖したことがあった。


 解剖したあとはまた縫い合わせて、刀の試し切りなどに死体は使われる。その様子を見て幼いながらに胡娘は罪だけは犯さないようにしようと決めたものだ。

 だが、罪を犯した。罪を犯し続けているといっていいかもしれない。何故なら、胡娘は全てを騙しているから。


 鮮やかな色の糸を針に通して布の海に沈めて行く。胡娘は西方の部族の姫君ではない。ニルファルは部族長の娘に仕える医者だった。しかし、結婚当日、姫は駆け落ちし背格好が似ているニルファルに白羽の矢が立った。蛮族の顔など奴らには見分けがつかぬだろうよ、と言われ遥か遠くから輿入れした。


 まさか本当に誰も気づくものがいないとは思わなかった。蛮族だから仕方がないという目で見られていたのか、胡娘が不審なことをしても誰も怪しまなかった。

 

 自分が姫の身代わりに決められた日、胡娘は絶望した。知らぬ異国に一人で嫁ぐこと、そして自分が今まで築き上げてきた医者としての人生を否定された気がした。


 医者としてのニルファルは要らぬと、言われたようだ。医術の師匠ですら、族長の意見には逆らえず胡娘を手放した。もう自分の身につけた医術が日の目を見ることはないだろうと思っていた。


 しかし、皇后の気の乱れを見過ごすことが出来ずに首を突っ込んでしまったことから胡娘の人生は好転し始めたように思える。誰もが、胡娘が医術の心得があることを知り受け入れてくれるようになった。


 皇后からの許可を貰い、慶徳宮の院子にわを薬草などを育てる畑に変えた。今後の目標は女の医官を輩出出来る教育機関を慶徳宮に開くことだ。

 流石にこれはまだまだ理解が得られていない。女官たちを対象に、医術の心得が少しでもあったならとう貴妃の時のように誰もが救助に向かわないという事態は無くなるかもしれない。


 鼻歌混じりに胡娘は手を動かす。胡服の仕立てしかしたことがない胡娘は、帝国式の祭服の仕立ては未知のものだから好奇心が刺激される。


 「なかなかうまく出来たじゃない」


 胡娘が自画自賛していると、妹妹の気配がふわりと濃くなる。近くに来ているのだろう。


 『あら、姉さん! とっても素敵。前に燃やしちゃったせいで服がなかったものね』


 ゔっ…と胡娘は声を漏らした。慶徳宮の架空の宦官小胡(しょうこ)になりすました時は大変だった。後日、内侍府の太監たちが記録を見て怪しんだのだろう。胡娘の宮にやって来たのだ。

 胡娘は自分の愛人であると仄めかしながら何とか太監たちを追い返すことに成功したが、もう二度と小胡にはなれないという足枷を得た。


 『火事の現場なんかに行くのが悪かったのよ』


 「でもあれは殺人だったわ。事実を明らかにしなきゃ、犠牲になった人たちはきっと悔しくて楽園にはいけなかったわ」


 本当は同じ故郷の者たちが正しい手順で検屍され、正しく葬られるか心配だったのだ。宮廷の下級役人は雑な仕事ばかりの者が多いから。


 「私にもっと力があったら、こんな杜撰なことやらせはしないのに」


 杜撰な現場だったからこそ貞貞ていていを救えたというのも事実だ。貴妃という位に着いていても胡娘は無力に近い。もっと自由に動ける身だったなら、そう医官などだったら…と胡娘が思うのも無理はない話だ。だからこそ女医の教育機関を作りたいと考えた。


 医者はその手で、人を救うことができる。師匠が胡娘にくれた言葉だ。その信念を胸に、胡娘は後宮でも生きて行こうと決めていた。


 「よし、形にはなった。あとは刺繍を増やせばいいかしら?」


 胡娘の故郷では何重にも細かく刺繍を施し、病避けとする風習があった。帝国の衣服も刺繍が施されていて綺麗なので、仮にも貴妃らしく華美にしておいた方がいいだろう。下のものは上の者より服を華やかに出来ないので、貴妃である胡娘が清貧さを表に出しすぎると下位の者たちが見窄らしくなってしまうと知った。


 だからこそある程度は華やかにしていないといけない。決して贅沢に溺れているわけではないのだ。庶民派な感覚の胡娘としては上に立つ者も意外と苦労がある。絹の衣を何の躊躇いもなく身につけれるならよかった。


 しかし、華やかに刺繍した祭服は胡娘に不幸を運んでくることになる。



 

******



 

 蚕神を祀る儀式は、滞りなく無事に終わった。しかし胡娘の美しい衣服は何処か異国情緒を感じさせ、皇帝の目に留まった…ということらしい。


 「今夜、ねい貴妃様に大家ターチャが御渡りになります」


 太監からそう告げられた時、胡娘は崩れ落ちそうだった。歓喜からではない。胡娘が入内してから一年近く何もなかったのに今更どうしてだろうか。


 胡娘はもう完全に忘れ去られた妃として市井に下賜されるのを待っていたというのに。そして皇后、親王祐翔(ゆうしょう)と対立しなくて良かったのは皇恩を授かっていないから。それがお手つきともなれば、どうなるのか。考えるだけも恐ろしい。


 敬事房太監の説得がやっと実を結んだのか。それとも皇太后の圧力に耐えられなくなったのか。本当に胡娘が目に留まったのだろうか。


 「あ…わたくし、月のものが」


 胡娘の口からは思わずそんな言葉が出ていた。妃嬪の月経の記録が医官により記録されているというのに苦しい嘘だった。無理矢理、月経を起こさせる薬なら胡娘の手元にある。しかし強烈な副作用がある薬でもあった。下手したら命の危険すらある。


 「濘貴妃様、失礼ながら貴妃様は月のものは正常に来られる方。もし、出血があったのだとするならば医官をお呼びしましょうか」


 太監が不安そうにこちらを見る。


 「ええ、そう。不正出血があったの。子宮に何か問題があるかもしれないから……無理ですわ」


 胡娘は医官を呼ばれるのを何とか阻止し、宮廷の医官は信用ならないから自分で自分の治療をすると言って押し切った。侍女たちが心配そうに様子を伺っているのが、何だか罪悪感を掻き立てる。


 しかし、大事になって実は嘘でしたも通用しない。しばらくはこれで押し通せるかもしれないが、いずれ無理が出てくるだろう。胡娘は冷や汗が垂れてくるのを感じていた。


 どうしようか、どうしようもない。皇帝を受け入れるか? それは死に近い。何度も繰り返し巡る思考を断ち切るかのように、翌日胡娘は皇后の宮に呼び出された。


 「そなたが皇恩を跳ね返すような女であると、私は知っています」


 皇后の冷たい眼差しに射抜かれ、胡娘は背筋に棒でも突き刺さったかのように真っ直ぐになる。皇后には全て見抜かれていた。しかし、瞳が冷たいのはこれから対立する可能性があるからだろうか。異民族の血を引く天子の御子が生まれてしまう可能性がある。

 それは政治的に複雑な立場に置かれなければならないということだ。後宮の夜伽は皇后も把握しているだろうが、それを指示し管理するのは皇太后だ。


 ここで皇后に「実は皇恩を受けたくないのです」と泣きついたところで何になるだろうか。表面的な「何を無礼なことを」と窘められるだろうか。


 「娘娘、私は…」


 それでもこの人の前では偽りたくないと胡娘は口を開きかけた。しかし、それを手を挙げて皇后は静止する。まるで全てわかっているかのように。


 「濘貴妃、そなたは欲のない女だ。寵愛を受けようとはせず、ただがむしゃらに医術の道に邁進した。私はそれを好ましく思っている。そなたの考えはわかるよ。皇恩を受け入れることに迷いがある。しかし、私は皇后としてどんなことになろうともそなたを守ろう」


 それは皇恩を受けよ、と突き放されたように感じた。たとえ皇后は胡娘が親王を産んだとしても自分の派閥の妃として守るから、心配なく皇恩を受けよと至極真っ当なことを言っている。しかし、それは胡娘にとっては見捨てられたも同然だ。


 知らぬ男に身を捧げる覚悟を、入内するときに済ませたはずなのにやはり怖い。今すぐに逃げ出したいくらいだ。仮死状態になる薬を飲んで後宮の外に出してもらおうか。否、自分の貴妃という立場がそうさせない。

 きっとしっかりした検屍が行われ、そこで気づかれるだろう。


 「濘貴妃、それが嫌ならば祐翔の福晋(つま)となることだ」


 それは考えても見なかった提案だった。


 「娘娘?」


 胡娘は驚いて、皇后の顔を見る。真剣な様子で冗談などではないようだ。確かに知らぬ男ではない分、気を許せそうな気はする。しかし、祐翔のことは胡娘にとって弟のような気がしていた。

 父帝から妃が下げ渡されるなんて無い話では無いのだが、まだ感情が追いついていなかった。


 「祐翔の福晋となるならば、陛下からの皇恩を受けずに済む。私だって守ってやれる。濘貴妃よ、考えてはみないか?」


 胡娘は固まってしまった。きっと皇后は若い娘が皇帝に嫁いだことを不憫に思い歳の近い親王と再婚させてやろうということなのだろう。


 皇恩から逃れるためには、親王と再婚しなければならないのだろうか。しかし、それはまた次代の後宮に身を置くということにもなる。後宮にいる限り、胡娘は妃嬪であり医者としての胡娘は死んだままだ。


 「娘娘、正直に申し上げます。わたくしは、後宮から出たいと考えていました。ここにいる限り、医者としてのわたくしは死んだままなのです。皇恩を受けるわけにはいきません。しかし、親王殿下と再婚することもまたできないのです」


 皇后は静かに胡娘を見つめていた。そこには母性的な柔らかさが滲んでいる。胡娘の知らないところで勝手に話を進めて、気づけば下げ渡されていたという事態にもできただろうに、それをしなかった。皇后は胡娘を尊重してくれていたのだと気づいた。


 「後宮に来た時点で、そなたは医者としては死んだのだ」

 

 冷たく皇后が言い放つ。そこには先程の母性的な柔らかさが何も無くなっていた。


 「ですが娘娘や親王殿下が医者としての私を蘇らせてくださいました」


 胡娘が言い返すように口を開くと、皇后は言葉に詰まった。


 「……あれは、ただの戯れに過ぎぬ」


 信頼を打ち砕かれたような気がした。胡娘が後宮でやって来たことなど何も意味を為さなかったと言われているようだ。皇后は胡娘をただの妃嬪として扱いたいのだろう。医者としての胡娘をもう一度、殺しにきたのだ。


 「失礼致します」


 まだ話は終わってはいないだろうに、胡娘は溢れる怒りと涙を抑えきれずその場を後にした。そんな姿を見せる方がよっぽど失礼だと思ったからだ。


 後ろから太監や女官たちがぞろぞろと着いてくる。今はそれすら煩わしかった。その時、太監たちが一斉に立ち止まって、頭を下げた。胡娘は思わず立ち止まって涙を溢しながら、顔を上げると、親王祐翔の一行と鉢合わせてしまっていた。


 「失礼いたしました。親王殿下、ご機嫌麗しゅう」


 胡娘も慌てて頭を下げた。泣き顔を見られたくないという思いの方が強かったのかもしれない。しかし、そんなわずかな願いすら叶わなかったようだ。


 「濘貴妃…母上から何か酷いことでも言われた?」


 心配するような声がかけられる。胡娘の泣き顔なんて見られてしまっているのだろう。


 「とりあえず、あそこの東屋にでも」


 何かを察したのか祐翔は、胡娘を院子にわの東屋に誘導した。太監や女官たちは東屋の中には入らず外で皆、待機している。


 「何が、貴女をそんな風にさせてしまっているのだろうか」


 祐翔の優しさが沁みるのと同時に、今はその察しの良さと優しさは発揮しないでくれと言いたくなった。


 「いえ、ただ医者としての死を突きつけられただけにございます」


 抑揚のない声が出てしまった。自分の方が年上のはずなのに酷く子供っぽい。そんなことを言っても祐翔を困らせるだけだと知っていたのに。

 祐翔だって胡娘を医者扱いしたかと思えば妃嬪扱いしたりと、皇后寄りの考え方なのだろう。胡娘はこの人に何を望んでいるのだろう、と自問した。

 自分を後宮から解き放って欲しいのだろうか。それとも妃から廃して医官として登用して欲しい? ──どれも望むものだが少し違う気がした。


 慰めて欲しかったのか。ただ傍にいて欲しかっただけなのか。彼は貞貞を救う際に協力してくれた人だ。胡娘なりに信頼はしていた。しかし急に再婚相手の候補として出て来たのだから、驚きもする。今は、まだ感情が定まらない今だけは会いたくはなかった人物だ。


 祐翔は躊躇いがちに口を開いた。


 「確かに、貴女は医官にはなれない」


 胡娘は何故かがっかりした。彼に何を言って欲しかったのだろうか。彼は当然のことを言ったまでだ。


 「でも、ただの妃にしておくには勿体無さ過ぎる。ニルファル、私は貴女を()()だと思いたいんだけど、どうだろうか」


 医妃──不思議な響きだが、何故か自分のことだとはっきりわかる。とてもしっくり来たのだ。

 

 「福晋になれば宮に女医の教育機関として開いていいし、自由に医術の研究をしてくれて構わない。そうだ、医院として宮を造る? 貴女が望むようにしてくれたらいいよ」


 祐翔は胡娘の手を握りながらそう語る。胡娘は一瞬何を言われているのかわからなくなった。


 「………殿下?」


 「母上から聞いてるでしょう。再婚の話。真剣に考えて」


 祐翔は驚きのあまり涙が止まった胡娘を見て「やっと止まった」と笑いながら、胡娘を東屋に残して去って行った。まるで言い逃げのように感じられて、胡娘は胸の中に渦巻く複雑な感情に困惑しなければならなかった。


 祐翔がまさか再婚に乗り気だとは思わなかった。そして医妃という言葉を反芻する。これは祐翔が出来る限り、胡娘の気持ちを汲み取ってくれた結果なのだろう。


 胡娘も薄々わかっていた。自分が市井に降る時にはもう満足に医者ができるほどの歳ではなくなっているだろうという事に。ならば再婚して、医妃として宮にいた方がいいのでは…?と。祐翔もそれを許してくれそうだ。




******




 「仁寿じんじゅ、いつもの薬をお飲み。不老不死の薬だよ。お前には、長く玉座に着いていてくれなくてはならないからね」


 「……はい、母上」


 

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