不気味な貴妃
光帝国に西方の部族より、一人の姫が輿入れした。翠眼という風変わりな容姿を持った妃。実質的な側室の最高位である貴妃として後宮に召し上げられたその女は、摩訶不思議な妖術を使うとの噂だった。
「大家、今宵はどなたにお渡りになられますか」
敬事房太監、俊祥は妃嬪たちの名が書かれた札を皇帝の机の上に並べた。その中の一人、噂の貴妃の『胡娘』と書かれた札をぐいっと前に突き出す。まるで札遊びの際にこれを引けとわざとらしく示しているかのように。
「嫌だ。私は濘貴妃の元には向かわんぞ」
皇帝仁寿は深く椅子に鎮座し、駄々っ子のように首を振った。噂の貴妃、姓を濘、名を胡娘といった。故郷である西方では名付けの仕方が違うらしく、こちらに来る際に帝国風に改めたものだという。
「大家、皇太后様からも強く言われております。濘貴妃の後宮入りは西方の部族との和平のため。一度はお渡りになりませんと」
皇帝の御渡りは政治に直結する重大事。差が出ないように慎重に皇恩を与える相手を選ばねばならない。寵愛の傾きが、国を傾けることにも繋がりかねない。
後宮にいるのは下位の者や婢女を除けば、諸侯や部族長の娘たちばかりである。
「いくら母上の命だとしても今回だけは無理だ。あの妃は病で目が翠になったと聞くぞ。交わったことにより私にまで移ったらどうする」
仁寿は全てを皇太后に管理されてきたいわば人形だ。そんな彼が初めて自分の意思を持ったことに喜ぶべきかもしれない。しかし、俊祥には帝国の平穏のため、なんとしても濘貴妃へのお渡りを実現せねばならない立場にあった。
この国で一番の実権を握っているのは皇太后の許氏であり、皇帝はその操り人形に過ぎない。その伴侶であり、今は仲が冷え切っている皇后張氏もまた皇太后派閥から選出された娘だ。『長く生かすには番にする方が良い』と皇太后が与えた女。
今回の濘 胡娘も同じだろうと仁寿は思っているのだろう。張皇后と少し事情は違うが、皇太后の手引きで後宮入りした女である。そして何より、御渡りを躊躇わせるのが不気味とも言えるその容姿だった。
翠眼であることはもちろんのこと、肌は浅黒い色なのだ。この帝国の美の基準に合わない不美人である。
「大家ともあろうお方が、噂に振り回されてはなりません。確かに翠の目というのは珍しいですが、太医も目の色が移るなどの症例は聞いたことがないと申しております」
俊祥は内心はこの生殖を管理された珍獣のような扱いに同情しながらも淡々と告げる。
「しかし、怪しげな妖術を使うと聞く。カマキリのように私が喰われてしまったならどうしてくれる」
「大家、女人とはそう恐ろしいものではありません。もし、仮に大家が貴妃様に頭からばりばりと食べられてしまったとしても、必ずや相応の罰を貴妃様に下しましょう」
「私が死んでしまったあとではないか!」
仁寿は机に突っ伏して泣き出してしまった。今年で四十になる髭を蓄えたこの男は幼少期からの皇太后の徹底的な管理により、心が子供のままだ。そして女嫌いな節もある。
百花咲き乱れる花園で女人を愛でるよりも、昆虫などを観察する方に熱心だ。それでも皇帝としての務めは果たさせたが、現在太子となると思われる親王が一人、内親王が三人と少し心許ない。
継承できる男児が一人だけという状況はどうも不安がつきまとう。
俊祥は眉間を押さえて、ため息を吐きたくなったが我慢する。せめて摩訶不思議な妖術を使うなんて噂さえなければ、なんとか説得できたかもしれないものを。すっかり交われば呪われてしまうと仁寿は怯えている。
翠眼の貴妃、なんと厄介なことか。