零落 四
戻ってる。襖の先も、廊下の続きも一巡している。
何故あの先へ行けないのだろうか。最後に訪れた場所は茶の間だった。
夥しい赤色と畳や木材の腐敗臭に加え、あの鉄錆の臭いが鼻を衝く。体に媚びりついてしまったのだろうかと不安になる。
そんなことは頭の端に置いといて、このループを脱出しなけばいけない。
手元にはお札を巻き付けた短刀と折れた櫛、それに紐綴じの日記。それぞれに黒い糸が撒かれている。
一つだけ中でも異質を放っているのは櫛だが、それよりも目を張るのは赤い糸。黒色が際立ちすぎて色が混ざり少し視えにくいが、霊の気配を意識しながら辿ってみる。廊下を進むとまた一番最初にいたあの女中の部屋にやってくる。群青色の石を部屋の隅に置いたのだから間違いない。
ループするということは意味がある。何を見逃したか、何かを伝えたいか。それとも空間ごとに閉じ込める為か。一番近しいものは後者だと思われる。
だけれど現在の柊也にとってはどうでも良くて、弟の事が凄く気掛かりだった。もしまたあの悪霊の襲撃に合っていたら、そう考えるだけで鳥肌が立つ。この空間から出られるヒントがないか、もう一度念入りに調べてみることにした。
意識を集中させ、縁を認識する力を強化する。通称“見鬼”。生来、柊也が持ち合わせる霊能力。
幼い頃から霊はあまり余るほど見てきた。人間に近いものも、人間の本来の姿とはかけ離れているものも、たくさん。
最初は視分けることは難しかったが、今は慣れたものだ。あの時以来彼は、とある人物との出会いによって力を制御をする術を知った。そして対抗できる力を授かった。現在弟や友人を守れるのは柊也一人だけであり、絶対に離れては行けなかったのだ。
「ん?畳に赤い糸が…」
薄く赤色の糸が畳に向かって伸びている。重たい畳を避けて、床を見るが何もなくちらりと畳裏を覗くと黄土色に変色した千切れた紙が一枚張り付けられていた。
それを剥がし、裏返しにすると文字と四角の図形が規則的に並べられている。文字は掠れていて読みづらいが恐らく、蔵と庭の部分を描いているのであろう。
キーンと突然耳鳴りが始まり目を張る。その紙から目の前の襖に向けてまた赤い糸が伸びている。
襖を開け、恐らく庭へ繋がっているであろう廊下の襖を開けてみる。押しても引いてもピクリともしない。
手に短刀を持ち直し、襖を切り込む。パキイィィィンと到底木材が壊れるような音ではなく、切れ目から白い霧のような物が噴出してくる。
僅かな湿った土の香りと肉の腐った臭いが廊下に充満する。さっと危険を感じてショルダーバックのフロントポケットから桃色の小さな珠を取り出す。強く握って潰し、桃色の淡い光が彼全体を覆う。
「っ…。」
ほんの少しだが二の腕と顔に掛かってしまった。噴出してきた霧のようなものは所謂瘴気と呼ばれるもので、生きている生物には有害な性質を持つ。罹ったところは青紫色の変色し、時間が経つにつれて腐食していく恐ろしいものだ。
瘴気とは黒く歪んだ縁から漏れ出るもので、体が腐食していくうちに魂にまで浸食し、果ては廃人のようになりやがて命を落とす。柊也が纏っている瘴気から身を守る結界が無ければ、彼も瘴気の餌食になり、永遠にこの怪域から出ることは出来ないだろう。全身に腐食が進行される前に浄化するか、怨念に塗れた縁を切らなけばならない。そんな時間は惜しく結界がいつまで持つかわからないため、赤い糸が示す方向へ。
走る、走る。幽かな視界の中でぼんやりと淡く光る糸のその先へ向かうため。
勘ではあるが赤い糸は弟たちがいる場所に案内しているのかもしれない。とても悪い気はしなかったのだ。どちらかというと慈愛、懐かしさを感じるものだった。
何故こんなにも胸をじんわりと温かくしてくれるのだろう。あと、一歩。また一歩と足を歩ませる。
「ガアアァァァ」
だがそんな柔らかい気持ちはすぐに硬化する。そうここは敵地の中で怪域に囚われ、亡霊の仲間入りしてしまった元人間または亡霊たちが群がり立ちふさがる。
どれだけの人が犠牲になったのだろうか。どれだけの人たちが怨嗟の餌食になってしまったのだろうか。
本来なら関わることなく、縁など交さないはずなのに。何かの因果が働いているように思える。
思考に耽ることは許されず、次に襲い掛かってくる。あの悪霊が髪の毛で操っているように見える。
(それならば)
短刀とお札を何枚か取り出して、迎え撃つため構える。頭上に伸びる髪の毛を切り裂きながら、その隣を走り抜ける。如何やら柊也を見てるわけではないようだ。これなら札を無駄遣いしなくても済む。
――走れ、走れ
汗が背中にじわりと浮き立ち、額に流れ始める。途方もない時間を走っているように感じる。
身体の感覚も影響されてきたようだ。早く、一秒でも、一分でも早く彼らの元へ向かわなければ。
――走れ、走れ
誰かの声が聞こえる。心が焦りで蝕むのを止めているように。記憶の奥に仕舞った筈のあの懐かしくも寂しいあの声が。
はっ、立ち止まると目の前には蔵と思われる建物があった。
はぁはぁと止まらない息切れを整えるため、頬へ流れる汗を拭き祓う。
人の気配はしない、此処にいなかったらなどの不安が沸き上がる。だが此処で立ち止まっても居られない。
ゴクリと固唾を飲み、押戸を押す。木鳴りが響く。
「雅也?」
そこには灯されたままの懐中電灯が転がり、奥の壁に寄りかかり血がしたり立てていた。
「――智尋…?」
懐中電灯の光を当てれば、林檎のような赤い髪が頭を垂れ、左太腿と右脇腹から血が流れ力なく座っているずっと探していた友人の変わり果てた姿だった。