― みんなトンカツが好きでした(5) ―
◆女将と辣油
その日、夜の決行を控えているからなのか、茶屋の一部、伊平と怪しい四人の周囲には張り詰めた空気が漂い、いつもはその口から断続的に発せられる低俗な冗談も影を潜めていた。
そして昼八つを迎えた頃、伊平は卓での接客を終えた接客係に次々と声を掛け始めた。
「今日は暮六つまでにゃ店を閉めるから、そのつもりで対応しろ」
大店の後家らしい客の対応を終えて精算の連絡を告げた時、伊平からそのように声が掛けられ、へい、と答えた平太は
“やはり、準備やら何やらで少し早めに店を閉めるのか”
と思った。幸い、その後は一人の客を相手し終わった段階で七つ少し過ぎとなり、予定どおりに店は閉められた。
茶屋を後にした平太はいつもの路地に金吾の姿を確認し、すっと体を滑り込ませた。
「衣笠様よりお預かりした書き付けでやす」
金吾はそれを平太に手渡すと
「じゃあ、あっしはこのまま茶屋を見張って、中の奴らが出てきたらすぐに後を付けやすんで」
と頭を下げ、素早く路地の奥に消えて行った。
平太も何も言わず書き付けを懐に入れると、周囲を伺いながら路地から通りに歩いて行った。
麹町のシメの店に差し掛かろうとした時、その手前でいきなり留吉の声が聞こえた。
「お早いお帰りで」
その笑顔の割には低く真面目な声で寄る留吉に、話したい事があるようだな、と感じた平太は無言で肯き、共にシメの声が聞こえる店に入って行った。
「今夜の事は聞かれやしたか?」
いつもの障子の奥で卓を挟みながら、奉行所から何らかの話を聞いているのであろう御用聞きが訊いてきた。
「いえ。たぶんこの書き付けに書いてあるんでしょう」
言いながら、平太は懐から金吾に手渡された手紙を取り出した。
そこには、村田より‘捕縛なった直後の現場の検分を許可する’旨と、‘ただし、完全に顔を隠すか変装するかで何者か判らないようにし、留吉と共に行動するべし‘との条件が書かれていた。
「検分はできるようだが、変装だなんて……そこまでする必要があるのかな?」
気に入らない素振りで呟く平太に、横からそれを読んだ留吉が
「そりゃそうだ。もし悪党どもの一人でも取り逃がし、臨場や検分しているのが男茶屋で働いている平太さんだと相手にバレでもしたら、こりゃ大変な事になりやす。どこで意趣返しされるか気が気じゃありやせんぜ」
心配そうに言った。
「そんなもんですかねえ。仕方ないな、頬被りでもして行きましょうか」
さして気に留めずに言う平太に
「それだけじゃいけやせん。身の安全はあっしが盾になってお衛りしやすが、念には念を入れて村田様の仰せのとおり、竹田頭巾でも被るか、顔に炭を塗るなり化粧で塗りたくるなり、身元の判らないようにしてくだせえ」
大真面目な顔で留吉が頼み込むように頭を下げた。
「わ、分かりましたから。何らかの変装をしてきますので、顔を上げてください」
村田からの極端な指示に加えて大仰に頭を下げる留吉に、少し困惑したように平太は胸の前で両掌を振った。
そこへ
「お酒にされますか?」
と障子を開けてシメが笑顔を覗けた。
「いえ、今夜はちょっと事情がありますので、ご飯と何かおかずを頂けますか?」
「おう、俺もだ」
平太と留吉が揃ってそう答えた事から、何かあると事情を飲み込んだシメは
「それじゃ、今日は麦飯の日なんで何かそれに合う物を用意しましょう」
と障子を閉めた。
酒の無い手持ち無沙汰の中、紫煙を上げながら待つ平太に、ところで、と切り出した留吉が
「この前の簪はいかがでやしたか?」
顔を寄せて小声で訊いてきた。
「あっ、そうだった!」
声を上げて煙管を煙草盆に置いた平太は、突然両手で留め吉の右手を包み込むように掴み
「忘れていました。ありがとうございました」
満面の笑みで礼を言った。突然の平太の態度に驚いた留吉だったが
「そ、その笑顔からすると、首尾は上々ってとこで?」
恐る恐る下から伺うように訊いた。
「はいっ!気に入ってもらえたようで、早速髪に挿していましたし、大事にします、って」
「そりゃあ良かった。これであっしも気難しい職人に頼んだ甲斐がありやしたぜ」
留吉も嬉しいのか、残った左手を平太の手に被せてきた。
「これも全て留吉さんと女将さんのお陰です」
どんどん声のトーンを上げる平太は頭を下げ、握った留吉の手を激しく上下に振った。
「あれま」
障子を開けて盆を持ってきたシメが、手を取り合って喜ぶ二人を見て驚いたように声を上げた。
「おう、シメ。平太さんの簪、上手くいったそうだ」
平太の手を握ったまま、亭主は嬉しそうに女将の顔を見て言った。
「まあまあ、そりゃ良うござんした。では祝杯をって訳にはいきませんが、そんな小汚い御用聞きの手は離して、早速ご飯を召し上がってくださいな」
言いながら女将は盆から丼飯と皿、小鉢を卓に降ろした。
皿には半片の卵とじ、小鉢にはヒジキと共に炊き込んだ雪花菜が盛られており、それぞれからは香ばしい香りが立ち上っていた。
「わあ、美味しそうですねえ。この香りは胡麻油ですか?」
「そうです。ただし、唐辛子を揚げ出した辛い胡麻油を使っています」
卵とじの皿を手に取って香りを嗅ぐ平太にシメが言った。
「ああ、辣油ですか。葱とニンニクの香りも移っていて美味しそうだ」
そう言った平太はそれを一口頬張り、笑顔で、うーん、と唸って丼の麦飯を口に詰め込んだ。
「旨いっ!この暑い時季に香ばしい辣油を使うとは、さすがに女将さんですねえ。こりゃ麦飯に合うし、食も進みますよ。しかし、まさかこの江戸で辣油に出会えるとは思いませんでした」
ごっくんと嚥下した平太は讃辞を述べた。
「ありがとうございます。らあゆ、と言う名かどうかは知りませんが、この辛い胡麻油は父親が支那の料理人から教えてもらったそうで、仕込むのをいつも見ていました」
嬉しそうに言うシメに、そうなんですか、と笑顔で応えながら、平太は雪花菜に箸を伸ばした。旨味を醸し出しながらもあっさりと仕上げられたその味は、辛味のある卵とじと絶妙の組み合わせだった。
ほっほー、と喜びながら麦飯のお代わりを頼んだ平太は、あっという間に全てを平らげた。留吉も辣油で胃液の分泌を促されたのか、二杯目の麦飯を掻き込んでいた。
「ところで親分、今夜は何時に動き始めるんですか?」
留吉が完食するのを待って平太が小声で訊いた。
「へい、ちょっと早いんですが、夜四つ過ぎに。あっしが長屋に出向きやしょう」
留吉は楊枝に手を伸ばしながら答えた。
「分かりました。ではそれまでに変装もしておきます」
そう告げた平太は腰を上げ、女将に勘定を支払って店を出た。
長屋に戻る前、平太はほたる屋に寄り、猫の額ほどの裏庭に回って清造に声を掛けた。おう、上がれ、との返事に部屋に上がった平太は
「実は、今夜泉州屋の現場に立ち会う事となりました」
正座をして清造に告げた。
「はあ?何でお前ぇが捕物に立ち会うんだ?」
清造は読みかけの本を置いて訊いた。
「いえ、捕物に立ち会うんじゃなくて、捕物後に奴らの仕掛け道具を確認します」
「そりゃ村田様もご存知なのか?」
「村田様には許可を頂いています」
「だけど捕物の後ったって、事前に隠れるかして控えてるんだろう?危険じゃねえのか?」
煙草盆を引き寄せて刻み煙草を詰めながら清造が訊いた。
「顔が判らないように変装して留吉親分と共に行動せよ、というのが村田様の指示です」
「ならいいか」
清造は紫煙を吐きながら、少し渋い顔で言った。そして
「だけどお前ぇ、変装はいいんだがその着物じゃ派手だし、何よりいざという時に動きにくかろう。何なら店にある作業用の衣を着て行くか?」
と勧めてくれた。
「ありがたく使わせて頂きます」
「おう。だが、これだけは言っておく。絶対に捕物にゃ手ぇ出すな、捕縛は奉行所に任せるんだ。分かったな」
清造は手を突いて頭を下げる平太にそう釘を刺した。
分かりました、と応えた平太は、店の紺色の作務衣に似た着物を手にほたる屋を後にした。
◆陰間と変装
長屋の自分の部屋に戻った平太は、行燈に灯を入れて作業衣を置くと再び表に出た。
そして、文太の部屋に灯りが点いているのを確認し
「文太さん、いいですか?」
その障子を叩いた。
「あらやだ、平太さん。夜這いにはちょっと早いんじゃ」
中からすっぴん顔を出した文太はからかうように言った。
「誰が夜這いなんですか。変な事言わないでくださいよ」
言いながら恐る恐る足を踏み入れた平太は土間に立って
「お願いがあるんですが」
と切り出した。
「お願いって?」
「俺とは判らないように変装を、顔を変えて欲しいんです」
「えー?何のために?まさかあんた、変装してケイちゃんに夜這い掛けるんじゃ」
「ふざけないでください。もう夜這いからは離れてください」
「だったら何なのよお」
平太の意図がわからない文太に事情を簡単に説明し
「という事で、絶対に俺とは判らない顔にしてください」
顔の前で両手を合わせた。
「あら、そういう事なの。でも高いわよ、もう深夜割増しだしぃ」
文太は意地悪そうに平太の顔を睨め上げた。
「その代わりと言っちゃ何ですが、文太さん、トンカツ食べたくないですか?」
文太に意地悪く言われるのを覚悟していたのか、平太は小声で言った。
「と、トンカツっ!どこっ、どこで食べられるの?」
意地悪顔から一気に破顔した文太は、素早く平太の胸ぐらを掴んで迫った。
「く、苦しい、離してください」
「どこ?どこ?トンカツはどこなのよ?」
「明日、シメさんの店です」
トンカツと聞いて正気を失ったかのように、更に締め上げようとする文太の手を強引に解いて言った。
「明日?明日なのね?いつ?何時?」
「もう、本当に握力が強いんだから、何なんですかその絞め技は。一体何の格闘技やっていたんですか?」
くしゃくしゃになった襟を正しながら言う平太に
「合気道よ。これでもインターハイで準優勝したんだから。それよりも、何でシメさんの店でトンカツなのよ?」
平太は何度目かの慰労会の説明をして
「だから、トンカツとカツ丼をご馳走しますから、顔を何とかしてください」
そう言いながら框に腰を下ろした。
「分かったわ、そういう事ならお任せよ。トンカツとバーターでこってり変身させてあげるわ」
嬉しそうに立ち上がった文太が道具箱を持ってきた。
「で、どんな感じにしたいの?」
框に座った平太に、涎掛けのように手拭いを纏わせながら文太が訊いた。
「どんなのでもいいんですが、とにかく正面切っても俺とは判らない顔にしてください」
「で、時間はあとどれくらいあるの?」
「四つ過ぎには留吉親分が迎えに来るでしょうから……あと半刻ってとこですかね」
「まっ、あまり時間は無いわねえ」
「半刻って一時間ですよ。一時間で足らないんですか?」
「この前のあたしの大変身なんか一刻半掛かったんだから」
「三時間ですか?そりゃやり過ぎでしょう」
「馬鹿ねえ、顔の骨格から変えようとするとそれくらい掛かるのよ」
「骨格まではいいですから簡単に、それでも俺とは判らないようにしてください」
「簡単に、判らないように、ったって……難しいわねえ」
うーん、と唸って、暫し平太の顔を見つめながら考えていた文太は
「そうだ、あれにしよ。あんただと絶対に判らなきゃいいのよね」
思い付いたように目を輝かせた。
よしっ、と嬉しそうな表情で道具箱を開けた文太は、小皿の中で白粉に紅を少し混ぜ始めた。そしてその調合が終わると
「じゃ、べったり塗って誰だか判らないようにするから、目に入らないようにしっかり瞼を閉じててね」
言いながら、それを刷毛で顔に塗り始めた。少し冷んやりとして気持ち良かったが、途中から文太の鼻歌が耳に入ってきた。
♪やーまをとーびー たにをこえー ぼくらのまちへ やってきたー
文太の鼻歌はそう聞こえた。一瞬、嫌な予感が過ぎった平太は
「文太さん、もしかして」
と恐る恐る声を出したが
「駄目よ、今べったりと塗ってるんだから、乾くまで口や瞼を動かしちゃペケペケよ」
文太にそう言われ、口を閉じざるを得なかった。そして
「よしっ、これでベースはオッケーっと。後は目と口と頬だわねえ」
別の小皿で違う色を調合し始めた。
作った色で目の周りに取り掛かった文太は、再び鼻歌を歌い始めた。
♪どんぐりまなこに へのじぐち~、くるくるほっぺに
平太には文太がどのように顔を塗っているかが判った。そして、それを想像すると情け無い気持ちになり、はあ、と溜息を吐いてしまった。
「あらあら、溜息の数だけ幸せが逃げちゃうのよ~」
平太の心中などお構いなく言いながら、文太は団扇で平太の顔を扇ぎ始めた。
しばらくそうして扇いだ後
「できたわよ。これで頬被りでもすりゃパーペキなのさっ。もう目も口も開けていいわよ」
と言った。
手鏡の中にある平太の顔は、予想どおりだった。
「とほほ~」
「何がとほほなのよ、ケムマキの方が良かったのかしら?でも、これで麹町の平太だとは誰にも判らないはずよ。しかし、目と口を開けるとイメージ崩れるわねえ。何だか違う生き物にも見えるわ」
平太は無責任に言い放つ文太に何も言えず、はあー、と前よりも大きく二リットルほどの溜息を吐いた後、のろのろと腰を上げた。
半ば項垂れて自分の部屋に戻ろうとするその背中に
「じゃ、明日のトンカツを楽しみにしてるわよ~」
脳天気な文太の声が投げられた。
◆変装と捕り物
「平太さん、いらっしゃいやすか?」
部屋で作業衣に着替え、沈みきって煙草を吹かしていた平太に留吉の声が聞こえた。
はい、との返事に、そろそろ行きやしょう、と言いながら障子戸を開けた留吉は
「げっ!てっ、手前え誰だ!」
大声で叫ぶなり一歩飛び下がって身構えた。
「俺ですよ、平太ですよ」
煙管をぽんと灰吹きで叩いた平太が力無く声を出した。
「へ、平太さんですかい?そ、その顔は一体」
あ然とした表情の御用聞きは、疑うようにじりじりと土間に足を入れた。
「変装ですよ」
「変装ったって……それじゃお化けでしょう」
手拭いに手を伸ばす平太に、留吉は困ったように言った。
「お化けでもQ太郎でも何でもいいんですよ。じゃあ行きますか」
立ち上がった平太は藍色の手拭いで頬被りをし、手鏡を覗いた。
そこには本当に漫画の主人公がいた。とほほだよ、と呟きながら行燈の灯を落として草履を履く平太を、どう反応すれば良いのか分からない表情で留吉が見ていた。
さてと、と平太が障子を閉めて表に出ると、先程の留吉の叫び声が聞こえたのか、そこには忠助と太一が出てきていた。
「お、お前、もしかして平太……なのか?」
「へ、平太さんなの?」
揃って二人は疑問を口にした後
「お、お前、そりゃハットリくんじゃねえかーっひゃっひゃっひゃー」
忠助の暴力的な笑いが始まった。ハットリくんを知らない太一はそれ以上の言葉が出ず、腹を抱える忠助の後ろに引き攣った顔で隠れるように下がった。
そして、その忠助の大笑いが聞こえたのか、今度は障子を開けて三佐とケイが顔を覗け、平太と視線が合ってしまった。
「ちっきしょーっ、行ってきますーっ!」
やけくそのように声を上げた平太は肩を怒らせて木戸に向かった。留吉は住人達に頭を下げながらおろおろと後に続いた。
“くっそーっ、一番見られたくない人に見られた。こうなりゃ見てろ、明日は陰間のトンカツに芥子をしこたま入れてやる”
怒りでのしのしと歩くその背中に
「待ってくだせえ。ここからはあっしの後ろを静かに付いて来てくだせえ」
留吉が申し訳なさそうに声を掛けた。
「あんだけ笑われちゃ頭にもきやしょうが、ここは一つあっしの言う事を聞いてくだせえ」
その一言で少し血圧の下がった平太が立ち止まり
「すみませんでした。ちょっと頭に血が上ってしまいました」
ふうー、と丹田から息を吐いて、ぺこりと頭を下げた。
「その顔じゃ、そりゃあ誰だって仕方ねえこってす。とにかく、ここからは声を立てないであっしに付いて来てくだせえ」
留吉は小さな提灯を手に、平太の前を先導するよう歩き始めた。
無言のまま留吉の後ろを歩き、程なく通りに面した泉州屋の手前に着いた。
「おそらく、奴らはあっちから来てあそこの辻に仕掛けを施すだろう、ってのが村田様の読みのようです。ですから、あっしらはこの用水桶裏の路地に隠れて待ちやしょう」
小声で留吉の指した先に高さ一メートルちょっとの大きな用水桶があり、その奥には暗くて細い路地が闇に向かって伸びていた。そうですね、と同じく小声で返した平太は留吉と並んで座り込み、その体を桶の陰に隠した。
程無く、後ろから衣笠の、留吉か?、という低く抑えた誰何が掛けられた。しかし、振り向いた平太の顔を見た同心は
「貴様っ、何者だ!」
低く脅すような声を発して一歩下がり、刀の柄に右手を掛けて身構えた。一瞬、鯉口を切る嫌な音が平太の耳に聞こえた。
「待ってくだせえ、平太さんでやす」
慌てた留吉が両手を広げて二人の間に割って入った。その御用聞きの顔を確認して安心したのか、同心は刀を鞘に収めた。
「驚かさないでください。平太さん、その顔は一体どうしたんですか?」
ふう、と息を吐いた衣笠が囁くように訊いた。
「だって、顔が判らないように変装しろ、って書いてあったじゃないですか」
みんなから顔のメイクをイジられ続けた平太は、ふて腐れたように口を尖らせた。
「そ、それはそうですが……その顔はちょっと」
変装のイメージがかなり異なる平太のメイクに、衣笠は困ったように言葉を濁した。
「そんな事より、村田様もいらしてるんですか?」
平太は泉州屋の方向を窺いながら訊いた。
「村田様はここから見て泉州屋の向こう側にあたる乾物屋に控えておられます。あとは北町の面々が泉州屋を取り囲むように潜み、おそらく入って来るであろうこの通りの向こう側だけは、態と開けてあります」
「衣笠様は?」
「私はここと泉州屋の間くらいに控えます。奴らが逃走を図った場合、こっちの方面を塞ぐ役です」
「では、我々の場所はここでよろしいんですね?」
「これだけ離れれば良いでしょう。ただ、捕物が収まるまでは絶対に動かないでください。それと、留吉」
そこまで言って衣笠は留め吉に向き直った。
「さっき言ったように、奴らがこちらに来る事のないよう私の班が抑えるつもりだが、万が一という事もある。平太さんをしっかりお守りしてくれ」
承知しておりやす、と深く頭を下げる御用聞きと怪しい漫画キャラクターに
「では、私は持ち場に戻りますので」
と言って背を向けた。しかし、すぐに振り返り
「そうそう、先程奴らを尾行していた御用聞きのサブが速駆けで到着し、奴らが蔵を出たと伝えてきました。おそらく、もう半刻もしないうちに奴らは泉州屋に到着するでしょう。今しばらく辛抱してください」
平太に向かって言った。
「そうだ、蔵、蔵はどこに在ったんですか?」
平太が詰め寄るようにして訊いた。
「築地でした。ここの捕物が片付いたらそちらの蔵も捜索します」
「お願いです、俺を蔵の捜索にも立ち会わせてください」
「分かりました。捕物が無事に終わったら村田様に伺ってみましょう」
衣笠は縋るように願う平太にそう言い置くと、では、と二人に背を向けて泉州屋の方向に歩いて行った。
どれくらい時間が経ったのか、泉州屋の向こうから何かが転がる音が聞こえてきた。
徐々に大きくなるその音は、おそらく車輪の転がる音とは思えるのだが、妙にくぐもった鈍い音のように聞こえた。
「何でやしょうね。車輪の音とは思うんですが、少し妙でやすな」
留吉もそれに気が付いたのか、小声で呟くように言った。
“あの音はまさか……いやいや、あり得ない……”
平太には心当たりのある音に聞こえたが、すぐに頭の中でそれを打ち消した。
そのうちその音も止まり、ややあって今度はギリギリという不快な音が聞こえ始めた。
壁に穴か、と呟きながら桶の陰から平太が泉州屋の方向に目をやると、店の前の通りを大八車らしきものと黒い人影の横切るのが辛うじて確認できた。
“大八車の移動とエレキテル配線か。推測どおりなら次は鞴による風の音だが……奉行所はどのタイミングで抑えに掛かるんだろう?村田様も仕掛けの手順は解っているはずだから、間違いは無いと思うが……”
平太がそう思った時、ビョーッ、という風を切るような高音が闇に響いた。
その途端、バタバタガラガラ、と騒々しい音とともに、ピーッ、という甲高い笛の音が聞こえ、御用だっ、という複数の叫び声が上がった。
「始まりやした」
留吉もそう言いながら身構え、平太も緊張で顔の筋肉が強張るのを感じた。そのうち、あちこちから、神妙にしろっ、という声が発せられ、複数の叫び声が交錯し始めた。
しかし、何分間か続いた騒々しい物音に加えて、逃げたぞーっ、という叫び声が聞こえ、忙しなく笛が鳴り響いた。留吉も異変を感じたのか、頻繁に周囲に視線を配り始めた。
急に二人が控える横の店の屋根瓦が、カタカタカタ、と音を立てた。誰かが屋根の上を移動している事は確かだった。
「くそっ、来やがったか」
そう言い放つなり、留吉は懐から十手を取り出して音のする屋根を見上げた。
それと同時に、二人の控える路地に黒い影が降ってきた。向こう向きに降り立ったその影は、背中に二人の気配を感じたのか、爪先を中心にして中腰のままくるりと振り返った。
「御用だっ」
大声を上げ、ピーッ、と笛を吹く留吉に向いたその顔は寅次だった。前身黒ずくめの忍者のような装束を纏った寅次は、チッ、と舌打ちすると再び体の向きを変え、路地の奥に掛けだそうとした。
しかし、奥からはおそらく捕り方であろう数人の激しい足音が聞こえ、その足を止めた。留吉が笛を吹き続ける中、両側の屋根を見上げた寅次は、再び舌打ちをして二人に向き直った。路地の奥や屋根への逃走を諦めて、与し易そうな平太と留吉を排除して強行突破しようとする腹に見え、そのとおり寅次は腰の後ろから鈍く光る匕首を取り出した。
それを見た留吉は
「下がってくだせえ」
と顔を斜めにして平太に告げ
「もう逃げられねえぞ。神妙にしろい」
と寅次を恫喝したが、それを無視した悪党は匕首を中段に構えて突進してきた。
しかし、一直線に突き出される匕首の一撃を身を翻して数センチの間合いで避けた留吉は、その擦れ違いざま右足で寅次の足を引っ掛けた。
予想外の足技にもんどり打って転倒した寅次は、くそっ、と声を出して素早く起き上がり、続いて振り下ろされる十手を匕首で跳ね返すと、それでも逃走しようと今度は平太に向き直った。
「野郎っ」
そう叫びながら、平太を守るため再び寅次の後ろから十手を振り上げた留吉の鳩尾に、電光石火で繰り出された悪党の足が螺旋の軌道を描きながらめり込んだ。
“おお、ナイス後ろ回し蹴り!フィボナッチ数列から作られる螺旋形状だ!美しい”
その場には全く不似合いな感想が平太の心に湧き上がった。
留吉は咄嗟に左腕でガードしたが、そのジャストタイミングの蹴りには勝てず、二メートルほど後ろに飛ばされた。
しゃっ、という音を口から発した寅次は再び平太に向き直り、歩を踏み出すとともに右手の匕首をその胸めがけて突き出した。しかし、それまで俯き加減だった平太が恐怖で顔を上げた途端
「うっ、ば、化け物っ」
と声を上げた賊は一瞬その動きを怯ませ、それによって刃の軌道が狂った。加えて、後退りしようとした平太がバランスを崩して尻餅を突いた事で、突き出された匕首はそのターゲットの左肩を掠めただけとなり、化粧された顔への恐怖からか、賊の体は数歩引き下がった。
その瞬間、通りから用水桶とそれを背にした平太を飛び越した黒い影が寅次の前に立ちはだかった。
「大人しく縛に就けっ」
一喝とともに賊と対峙したのは衣笠であった。手にしていた大型の提灯を賊に投げつけ、素早く刀の柄に手を掛けてその身を斜に構えた同心だったが、すぐにその路地の狭さを勘案してか、刀から手を離して空手の構えのような姿勢を取った。地面で燃える提灯の炎が襷掛けをして剥き出しになったその両腕を照らし、着込まれた鎖帷子を浮き上がらせた。
「けっ、ナメやがって」
改めて、背後の多勢より正面の徒手二人の方が与し易しと判断したのか、匕首を構えた寅次は毒づくセリフとともに衣笠に突進した。
おわっ、という平太の悲鳴を背に、衣笠の体は怯む事なく素早く腰を落とし、マッハの踏み込みで寅次の顎を左掌底で撃ち上げると同時にその右脇に身を滑り込ませ、匕首を握った右手首を掴んで相手の脇から背面に身を抜く反動でその腕を逆に捻り上げた。そして、ごりっ、という肩関節の外れる嫌な音が聞こえた瞬間、鋭い右回し蹴りをその下がった顔にめり込ませた。更に、おごっ、という声を発しながら仰け反って後ろに下がる相手の股に右手を差し入れ、一気に抱え上げて後頭部から地面に叩きつけた。目を剥いて、ぐえっ、と声を上げた寅次を見た平太は、これで片付いた、と思って体の力を抜いた。
しかし、その相手はよろつきながらも再び立ち上がり、衣笠に向かって尚も身構えた。普通の人間なら気絶しても不思議ではないダメージを与えたにも拘わらず、尚もファイティングポーズを取る相手に、平太は底知れない恐怖を感じた。
“半分意識は無いはずなのに、まだ逃走しようとするのか……”
立ち上がった寅次は、垂れ下がった右手から匕首を左手に持ち替え、無言で突進しながら鋭くそれを突き出してきた。
油断無く構えを解いていなかった衣笠は、その動きを読んでいたのか、一瞬膝を折るように身を低く屈め
「ていっ!」
気合いの一声と共にほぼ水平に左足を伸ばした。そして、その足先が踏み出した寅次の右膝に到達した瞬間、その膝部分が反対側に折れ曲がった。近接戦における必殺の膝割りが炸裂したのだった。
「ぎえっ」
悲鳴のように異様な声を上げ、寅次の体が身を落とした衣笠の左半身を掠めるように不自然な形で前のめりに崩れた。
素早く彼我の間合いを取り、構え直した衣笠だったが、その視界に頭を振りながら立ち上がる留吉の姿を確認すると
「留吉っ、縄をっ」
尚も迎撃の構えを解かず声を上げた。
「へ、へいっ」
一瞬で状況を把握した御用聞きは、寅次の左手に握られた匕首を十手で叩き落とすと、腰に差していた縄束を素早く解き、左手を振り回して足掻く寅次に迫った。
「がーっ、ちっきしょーっ」
寅次は悲鳴にも似た叫びを上げながら片足で立ち上がり、尚も逃走を図ろうと後退ったが、構わず躍りかかった留吉によって素早く縛り上げられた。
「野郎、手間ぁ掛けやがって」
これで決着したと感じた留吉が十手を腰に差し、脱力したように横たわる寅次の襟首を引き上げた時、路地の奥から、そして通りから大勢の捕り方が路地に飛び込んできた。
「大丈夫ですかっ」
やっとの思いで立ち上がった平太にそう衣笠が声を発したのは、右肩を不自然に曲げて右膝を逆方向にへし折られた寅次が、戸板に縛り付けられるようにして運ばれた後だった。平太は、その問いにふと先程感じた肩の痛みを思い出して右手で左肩を引き寄せ、首を捻るようにその箇所を見た。
その動きに何かを感じたのか、衣笠は後ろに立っていた役人の照明をもぎ取り、平太の背中を照らした。
「平太さん、肩を切られていますよ」
同心は作業衣のすっぱりと切られた口を広げ、中の傷を詳細に確認した。
「良かった、幸い深い傷じゃありません。皮一枚の掠り傷ですが出血していますね。すぐに小石川に行きますか?」
傷を見る事に慣れているのか、冷静に訊いてくる衣笠に
「そうですか。皮一枚程度ならすぐに血も止まるでしょう。俺は血がすぐ止まる方なんで大丈夫ですよ」
同じく冷静な口調で平太は言った。
「とは思いますが、しばらくは何か当てておいた方が良いでしょう」
その時、あっしが、と後ろにいた留吉が手拭いを裂き、腰に差していた竹筒を取り出して
「ちょいと染みるかも知れやせんが」
と言いながら、その中身を傷口に流し掛けた。
「ちょわっ」
「濃い焼酎でやす。しばし我慢を」
軽く悲鳴を上げる平太に言いながら、留吉は裂いた手拭いにもその液体を染み込ませて傷口に当てると、残った手拭いを手際良く肩口に巻き付けて固定した。
留吉に、ありがとうございます、と頭を下げた平太は
「それよりも衣笠様、お見事でした。相手も何かの技を習得しているんでしょうが、それに勝る体術の技ですね」
軽く左肩を回しながら感心した表情で言った。
「いえいえ、この狭い路地では刀が振り回せませんので、咄嗟の技ですよ」
同心は恥ずかしそうな笑顔を浮かべて謙遜した。
「で、悪党は全員捕まったんですか?」
「はい。さっき運ばれた男を含めて六人、全員お縄にしました。しかし、あの男は?」
「寅次でした。六人と言うと、やはり奴が首謀者でしたか。ならば衣笠様、奴らの仕掛けを見せてもらえませんか?」
平太が願いを告げた。
「そ、そうでしたね。もう六人とも連れて行かれたようですから」
そう言いながら衣笠は泉州屋の方向を見た。
「じゃあ行きましょう」
嬉しそうに言う平太は通りに出てすたすたと歩いて行き、その後を同心と御用聞きが追うように付いて行った。
◆大団円と仕掛け
泉州屋から通りを挟んだ向かい側まで黒い線が二本這っていた。
「やはりな」
平太のメイクに驚愕の表情を浮かべる役人から照明具を借りた平太は、自分の推理に納得しながら、衣笠と留吉を従える形で泉州屋とは反対方向にその線を辿って行った。
そこへ後ろから
「おお、平太か。ご苦労だな。その肩はどうした?まさか悪党にやられたのか?」
村田が声を掛けた。そして、へい、掠り傷なんで大丈夫です、と振り返るその顔を見た与力は
「な、何だその顔は?」
案の定、慌てて一歩下がって声を上げた。しかし、もう顔の変装を言い訳する事に疲れた平太は、その言葉と態度を無視して礼を口にした。
「村田様、この度はお疲れ様でした。加えて、この検証にも許可を頂き、本当にありがとうございます」
「いやいや、今回悪党どもを一網打尽にできたのも、全てお前の推理があったればこそだが……しかし、その顔は、まるで縁日で売られている面のようだな」
異様な顔で頭を下げる平太を恐る恐る制しながら、与力は多少引き攣った笑顔で言った。
「それより衣笠、留吉、見事な捕縛だったらしいな。頭目らしい一人が屋根に上って逃げた時は少し慌てたが、無事お縄にできて良かった。この手柄はお奉行様にも伝えておくぞ」
満面の笑みで褒める与力に、同心と御用聞きは、滅相もございません、とお辞儀をした。
そして与力は
「肩は本当に大丈夫なのか?」
心配そうな表情で平太に向き直った。
「衣笠様にも見ていただきましたが、皮一枚掠っただけなので出血ももう止まっていると思います」
平太の答えに村田は衣笠の顔を窺ったが、その同心の頷きを確認すると元の柔和な表情に戻った。
「ならば良いが……で、あとは物証だが、どうだ?お前の推察どおりか?」
「おそらく。この先にエレキテルがあるはずですが……あった、あった」
地面に這い蹲るように導線を辿っていた平太は、その先の路地に重箱ほどの黒い箱があるのを見つけた。その奥の薄暗い空間にはぼんやりと大八車も見えた。
近寄って見るその箱の横には、おそらく中のガラス管を回転させるためであろうハンドルが飛び出ており、二本の導線は箱の背中側に引き込まれていた。
「意外に小さいな。まあ、これで起電器は確認できた」
ぶつぶつと呟きながら、平太は向きを変えて泉州屋に向かった。
「村田様、どこの壁に穴を開けていたんでしょうか?」
泉州屋の前に立つ平太の問いに、こっちの路地だ、と指差す村田の返事があり、平太は店に向かって右横の路地に向かって歩いた。
指されたその細い路地を覗き込んだ平太は愕然とした。確かにそこに穴の開けられた壁があったが、その穴から延びた竹筒の先には信じられない物が繋がっていた。
「ま、まさか……」
平太が照らす路地の中にあったのは、家庭用のプロパンガスボンベそっくりの物だった。駆け寄って間近に見て触れたそれは、間違いなく高さ一メートル、直径六十センチほどの黒光りする鉄製ボンベで、その頂部には短いレバーの付いたバルブらしきものが見て取れた。そのバルブの横からは直径五センチほどの同じく鉄製のパイプが突き出ていて、おそらく片栗粉を吸入させるための分岐を有する先程の竹筒に接続されていた。
「嘘だろ……これはボンベじゃないか……何で、何でこんな物が在るんだ」
震える口で呟きながら恐る恐る平太はバルブに触れてみたが、回転式のそれを捻ると、かなりの高圧と思われる空気が、バシュッ、と放出された。
「何だそりゃ?」
後ろから村田の声が聞こえたが、平太の耳には入らないようだった。
村田の問いに何の返事もせず、すぐにバルブを閉じた後、照明でボンベを照らしてその冷たい鉄肌に鼻が接触するくらい顔を近づけていた平太は、他の三人には意味不明な言葉を呟いていた。
「ボディは鍛造で作って……継ぎ目は叩き付けの圧接か。溶接が無いから仕方ないんだろうな。しかし、バルブは……気密性はどうやって」
与力以下三人は平太に声を掛けるのも憚られ、ぶつぶつ言いながら腰を折って黒い塊を調べる平太をただ見下ろすしかなかった。
その時、もしかしたら、と声を上げた平太はすっと立ち上がって路地を飛び出し、通りを横切って先程のエレキテルと思しき箱の前に立った。
しかし、手にした照明具はその黒い箱ではなく、その少し奥に駐められた大八車を照らしていた。
「やっぱり、ゴムだ。ゴムタイヤなんだ。だから気密性を確保できるのか」
近寄って車輪の横に佇んだ平太は声を出した。
「ゴムタイヤ?」
後ろを付いてきた村田が訊いた。
「見てくださいこの車輪。普通の木製車輪にゴムを巻き付けています」
興奮したように言う平太は、その車輪に巻かれたゴムを触り続けていた。
「まさか、この時代にゴムは存在しない、なんて言うんじゃないだろうな」
座り込んでいる平太の横に村田も腰を下ろし、その口を平太の耳に近づけ、少し離れて立っている同心と御用聞きに聞かれないよう、小さな声で囁いた。
「いや、あります。南米のアマゾン辺りで採取されて利用されています。ただ、まだ加硫法が発明されていないんで世界規模での工業的利用には至っていないはずです。しかし、今のこの日本に入ってきているかまでは分かりません」
「そうなのか」
何故か安心したように声を大きくした村田が続けて質問をした。
「しかしその、かりゅうほう、ってのは何なんだ?」
「この時代のゴムは全て天然ゴムなんですが、これをそのまま使っても耐候性や耐久性が低いんです。防水剤として雨合羽に塗っても、しばらくするとベトつき始めて使い物になりません。屋外に長期間放置された輪ゴムが朽ちてネチャネチャになるのと同じ現象です。しかし、その天然ゴムに硫黄や一部の硫化物を添加する事でそれが防げるんです」
「しかし、何でゴムタイヤなんだ?」
「静音、それとサスペンション替わりに巻き付けたんでしょう。犯行は常に深夜でしょうから、ある程度の消音とクッション性を求めたんだと思います」
へえ、と納得しながら立ち上がった村田に、同じく立ち上がって手を叩きながら
「やはり相当な頭脳の持ち主が絡んでいるようですが、ただ気になるのは」
平太はそう言って、今度は黒い箱に近づいた。
そして、その箱の上部を重箱の蓋のように開けた瞬間、凍り付いた表情で言葉を失った。
「どうした?」
その態度を不審に感じたのか、村田が再び腰を下ろして箱を覗き込んだ。
「こ、これは……」
そこには村田でさえ愕然とする物が詰まっていた。
「コ、コイルじゃないか!」
「ご存知ですか。そうです、コイルです。それに隣はおそらくキャパシタでしょう」
驚きの声を上げる村田に、平太は抑揚の無い声で静かに言った。
「きゃぱした、とは何なんだ?」
「村田様の時代で言えばコンデンサです」
「コンデンサなのか。解るぞ。儂はラジオ店の息子だったからこれが何を意味するか解るぞ」
「全て手作りのようですが、まさに発電のためのコイルと蓄電のためのキャパシタに間違いないでしょう」
指先でそれらの部品を弄っていた平太が言い、すぐにその蓋を閉じた。そして、すっと立ち上がり
「村田様、ちょっと二人だけでお話をしたいのですが」
強張った顔で村田を見た。村田も平太の言いたい事が分かったのか、うむ、と肯き、手招きをして衣笠を呼び
「衣笠、人手を集めて奴らの仕掛け一式を南町に運んでくれ」
と告げた。
「南町奉行所でよろしいのですか?」
「ああ。北町には後で儂が話しておく」
疑問を口にする同心にそう言うと
「留吉、すまんが手伝ってくれるか」
と続けて御用聞きに言った。
へい、と御用聞きが応えて同心と共に泉州屋方向に向かうのを目で確認した与力は、平太に向き直った。
「平太、お前の言いたい事はもしかして」
「はい。村田様も既にお感じになっているとは思いますが、これを作った人物はこの江戸の時代の人間ではない可能性があります」
予想していた言葉だったためか、村田は顔色を変えず腕組みをした。
「その根拠は?」
村田は腕組みのまま短く訊いた。
「まずはこの発電器です。前にも言いましたように、エレキテルはガラス管を擦る静電気タイプですが、これはコイルによる磁場を利用したダイナモです。そしてこの型のダイナモがフランスで発明されるのは、俺の記憶に間違いなければ一八三二年、今が天保二年、西暦で言うと一八三一年ですから、あと一年経たないとこの世には現れない代物です」
驚愕の事実をあくまでも冷静に語る平太に対し、村田は顎に梅干しを作り、腕組みをしたまま無言でその顔を見つめていた。
「次に、最初に泉州屋の横で見たボンベです。ボンベの発明年代というのが特定できないので何とも言えませんが、少なくとも、高圧の気体を利用する、という概念の無いこの江戸で必要のある物とは思えません。必要は発明の母、という言葉がありますが、必要の無い物は発明されない、という事になり、今の江戸に在るべきものではないと思います」
村田の無言を発言を促すものと感じた平太は続けた。
「しかも、ボンベには厳格な気密性が求められます。ボンベ本体は今の鍛冶技術を応用すれば超高圧用でない限り十分製作可能でしょうが、問題はバルブです。高精度な螺子切り技術や旋盤機械があれば金属だけでも気密性は確保できますが、それをこの時代の日本に求めるのは不可能です。そうなるとゴムパッキンが必要となるのですが、その発想自体がここには無いと思われます。言い換えれば、高圧流体を扱わないこの江戸でゴムパッキンを発想する必然性がないのです」
平太がそこまで言ったところで、衣笠が数人の役人を従えて戻ってきた。その数人はゴムタイヤの大八車を引き出し、導線を巻き取りながらそれに発電機を乗せて、おそらくボンベの積み込みに取り掛かるのであろう泉州屋に向かって行った。
その間、二人は無言だったが
「で、お前はあの悪党の中にもしかすると現代人、いや今の江戸から見れば未来人か、そいつがいると言いたいのか?」
腕組みをしたまま、離れて行く大八車から視線を戻した村田が言った。
「そうとしか考えられません」
平太も腕組みをして答えた。
しばしそれを見つめていた村田が
「あの中にいなかった、としたら?」
意外な発言をした。
「へ?いなかったらって、じゃ、じゃあ一体何故、未だ発明もされていない技術を彼らが使えたんですか?江戸の人間が世界に先駆けて世紀的発明をしたとでも言うんですか?」
自分の意見を否定されたような気がして、少し興奮した声で返した平太は、すぐに、あっ、と声を上げた。
「もしかして、村田様が仰るのは」
「そうだ。まだ後ろに何者かがいるんじゃないか?お前の言うように仕掛け一式の発想は江戸に無い物で、ダイナモも来年にならないと登場しない物なんだろう。決して誰かが何らかの実験でもしていて、途中で副産物的に作り出した物なんかじゃないだろう。今の江戸はある意味時間の止まった世界で、そんな実験や研究なんて等閑にされている空間だ。という事は、明治か大正か昭和か知らないが、やはり未来の人間が関与していると儂も思う。しかし、それらを作ろうにも、あの六人だけで可能なのか?あの中に未来の人間が複数いたとしても、ダイナモやボンベ、それにゴムまでを六人だけで作れるものなのか?」
村田の意見は的を射ていた。ダイナモの製作はまだしも、ゴムの入手から加工、大掛かりな鍛冶技術が必要となるボンベの製作や精密性が求められるバルブなど、到底六人で行えるものでない事は平太にもすぐに解った。
「後ろに控えているのか操っていたのか、とにかく大掛かりな集団や組織が確実に存在すると考えるべきだろう」
「ならば……」
「まだ続くんじゃないか。もしかすると、新たな仕掛けで違う形の犯罪を仕掛けてくる事も考えられる」
「まさかそんな」
「まさかじゃない。味をしめた犯罪者ってのはそんなもんだ。特に本当に未来の人間で相当な知識や応用力を持っていたとしたら、その知識をもって図に乗り、新たな手口を、って考えるんじゃないのかな」
諭されるように言われた平太は、それ以上は何も言えなかった。
「まあ、そいつが今夜捕縛した奴らの中にいるかどうか、ってのは、吟味で明らかにしてみせる」
自分に言い聞かせるように言葉を口にした村田は
「さて、次は築地の蔵に行くんじゃないのか?」
諦めの表情にも感じられる顔で平太に言い、平太も心持ち気落ちしたように、そうでしたね、と言った。
化粧で変装した顔に驚く御用聞きのサブの案内で築地の蔵を検分した平太と衣笠は、その中に、ボンベに空気を充填するためであろう人力式のコンプレッサーや大量の片栗粉、そして床に広がる血痕を発見した。おそらく隅田川と寺に投げ込まれた三人がここで殺されたものと推測された。
発見された品々が予想どおりの物であった事から、無言で一通りの検分を終えた平太は表に出た。
「平太さん、どうでしたか?」
続いて出てきた衣笠の問いにも
「考えていたとおりです」
としか言わず、少し明るくなってきた東の空に向かって、あー、と大きく背伸びをした。そして、その隣に立って同じく背伸びをする衣笠に
「俺はここまでで、もうこれ以上この件には首を突っ込みません。いろいろとお騒がせしましたが、後は奉行所にお任せします」
笑顔を向けた。
しかし、その気持ちはとても清々しいものではなかった。今回の泉州屋においては犯行を未然に防ぐ事ができて犯行グループもお縄になり、一連の事件の大団円を迎えた事から心底喜びの声を上げる状況ではあったが、平太は素直に万歳できる心境にはなかった。
“奴らの後ろの闇に隠れているのは……”
たぶん村田の、未来の人間が新たな手口でくる、と言う推測は当たっているのだろうと思った。そしてその人物は、どのような方法で手に入れたのか知らないが、コイルを巻き、ボンベを打ち出す技術集団と、海外からゴムを入手できるルートを持っている、とも考えていた。しかし、それ以上考えても、その正体や目的は分からなかった。
「しゃーねえ、そん時ゃそん時だ」
もやもやの晴れない事を諦めたように、平太は未だ藍色の天空に向かって声を上げた。隣では、その叫ぶような声の意味が全く分からない同心が、不思議そうに平太を見つめていた。
◆井戸端とケイ
さすがに疲れていた。築地から徒で帰還する平太の足は、途中で衣笠、サブと分かれた後、その重さを徐々に増していた。
当然、体の疲れもあったのだが、犯行グループの捕縛によって明らかになった仕掛けから、高度な技術を持った大掛かりな集団の存在が疑われ、予想どおりの大団円で晴れやかになるべきその心情が一気に重く鬱屈したものになっていた。そのために、体に掛かる重力が二倍、三倍にも感じられていたのだった。
明るくなった通りを行き交う人々の数が加速度的に増え始め、普段はその人通りを縫うよう稲妻型に歩かなくてはいけなかったが、今朝は違った。
弛んだ作業衣を纏った上に肩を手拭いで縛り、顔には強烈なメイクを施して足を引きずるその姿は明らかに異質であり、その異形の者を避けるため、人々の流れが奔流を分かつように左右に割れていった。その異形さ故に人々が避けるように距離を取っている事は分かっていたが、メイクを落とす事すら物憂い平太は、その割れた人波の真ん中をモーゼさながらに歩き続けていた。
途中、シメの店に差し掛かった折、寄って留吉の様子を覗おうかとも思ったが、どうしても足が向きを変えなかった。いつもならその縄暖簾を見ただけでパブロフの犬並に感じる空腹感も全く湧かなかった。ただただ怠く、重力が二G、三Gを超えたかのように感じている足の持ち主は、帰巣本能のみで移動を続けていた。
ほたる屋の裏に続く路地に差し掛かった時、漸くその爪先が九十度向きを変え、そのこぢんまりとした木戸を潜った。
やっと帰った、と感じ、ほんの少しだけ残っていた緊張の息を吐き出そうとした時、その視界に井戸端で炊事の準備をするケイの後ろ姿が入った。
本来なら今の顔を見られたくなくて踵を返すであろう平太だったが、既に昨夜ケイに見られていた事と極端に萎えた気力とが相まって、そんな事はどうでも良くなっていた。今はただ、彼女の後ろ姿に映える桃色の簪が暗夜の灯台に見え、そこに辿り着く事だけを考えていた。
アンニュイにも見える重い足取りで近づく平太の気配を感じたのか、ケイはゆっくり振り返った。
「平太さん……」
「おはよ」
立ち上がって心配そうな表情を見せるケイに短く口を開いた平太は、のろのろと井戸端に縋るように近づくと、釣瓶に手を掛け水を汲み上げた。そして、今までの蝸牛のような動きからは想像もできない勢いでザブザブと顔を洗い、上を向いて、ぷーっ、と水滴と共に息を吐いた。
「あーっ、さっぱりした」
井戸端に腰掛けた平太は声を上げ、首に巻いていた手拭いで荒っぽく顔を拭いた。そして、ケイに向いて
「吃驚したでしょ?」
と力の無い笑顔で言った。
「は、はい。一体昨夜のあの顔は何だったんですか?それに、その肩、怪我でもしたんですか?」
前掛けで両手を拭きながら彼女が訊いた。
「ああ、大した怪我じゃありません、ただの掠り傷です。話せば長いんですが、昨夜、というか今朝方、そこの泉州屋で捕物があったんです。一連の天狗事件です。正確に言えば、そうなるはずだった事件です」
手拭いで眦を擦りながら平太はゆっくりと物憂げに語った。
「俺はこの数ヶ月、事件の絡繰りを推理する事で奉行所に協力してきたんです。それで昨夜、天狗を騙る悪党どもが泉州屋を襲うという情報があって、無事に奉行所が悪党どもを一網打尽にしたんですが、その捕物後に俺の推理どおりの絡繰りだったのか確認に行ってきたんです。まあ、協力したとは言え、一介の町人が犯行現場を検分するってのもおかしいんで、ああして誰だか判らない変装をした訳です」
「ああ、昨夜この麹町で捕物騒ぎがあったというのは聞きました。まさかそれに平太さんが行ってるなんて……それで、それで怪我をしたんですか?」
ケイは胸の前で両手を組むようにして心配そうに言った。
「捕物には参加していませんよ。その後の確認が目的ですから。捕物の間は離れた場所に隠れていました。これはその時に出来た軽い擦り傷です」
「隠れると言っても、それでも危ないんじゃ……」
「まあね。実際、逃げた悪党が襲ってきたんですが、その時はちょっとビビったけどね」
一瞬驚いたケイの表情が心配顔を通り越してほんの少し歪み、その目が潤み始めた。
それを見た平太は
「いやいや、側に同心の衣笠様や留吉親分もいましたんで二重丸の安全マークでしたよ」
慌てて両掌を振りながら、安心させようと少し歪曲した説明を口にした。
しかし、彼の意に反して、彼女の組まれた両手に込められた力が増し、その両目から涙が溢れ始めた。
それを見た平太の頭はパニックに陥り
「だ、だ、大丈夫だよ。ほれこの通り肩もちゃんと動くし、ダイジョブだぁ~」
平成のギャグで戯けて見せた。そして
「そ、そんな事より、早く朝御飯の準備をしないとお兄さん、仕事に間に合わなくなるよ」
と両手を前に突きだして泥鰌掬いのような格好で言ったのだが、ケイはとうとう前掛けを顔に押し当ててしまった。
“わっ、泣いた!ど、どうすりゃ……でも、卑怯なくらいに可愛い……”
動揺した割には多少場違いな考えを抱く平太は、ケイの側に駆け寄り、ダイジョブだぁ~、と再び戯けたが、それにも拘わらず声を立てずに泣く彼女に途惑った。
“う~ん……しゃーない、こうなったら、最終兵器ハグ!”
そう決心した平太がケイを抱きしめようと両腕を広げた時、ガタッ、と後ろの長屋で音がした。
ヤバっ、と思った邪心の男は、なーんちゃってね~、と言いながら急遽不自然にハグを取り止め、広げた両手を彼女の肩に優しく置いた。そして
「心配してくれて、ありがとう」
と言うと、態とゆっくり部屋に戻って行った。
部屋の障子に手を掛けてちらっと横を見ると、太一の部屋の障子が少し開いていたように思えた。
“くっそーっ”
本当は振り返ってケイの姿を確認したかったのだが、状況が状況だけに、平太は心の中で毒づきながら障子を閉めた。
そんな事があったにも拘わらず、平太はそれから電池が切れたように爆睡した。
何時間そのまま気絶状態で寝ていたのか、やっと薄ら目が開き、その視界に入る天井の梁をぼーっと見ていた平太だったが、あーっ、と大声を上げて飛び起きた。
慰労会の事を思い出したのだった。
“しまった!今何時だ?”
慌てて障子を開けた先の空はまだ明るかった。
着物に着替えようと急いで肩の手拭いごと作業衣を脱ぎ飛ばした時、その下で傷に当てられていた手拭いも吹き飛んだ。しかし、手鏡を回して見たその傷口からの出血は既に無かった。
それを確認した平太は、うっしゃーっ、と一声叫んでほたる屋に向かって駆けた。
「今、何時ですか?」
店に飛び込むなり、そこにいた忠助に息を切らせながら訊いた。
「何だ何だ?急に現れたと思ったら」
あ然とする忠助の横で帳場に座った清造が
「お前ぇ、大丈夫か?まだ寝てても構わねえんだぞ」
と言ったが、その声で平太は無断欠勤をした事に気が付き
「あ、すみませんでした。俺、無断欠勤でした」
深々と頭を下げた。
「昨夜の事があったんで、そりゃいいって事よ。昨夜、お前ぇから話を聞いた時点で、儂は端っから今日は休ませようと思ってたんだ」
清造は笑顔の前で右掌をひらひらさせた。
「それよりも、昨夜は衣笠様が大活躍だったらしいじゃねえか?悪党の頭目を叩きのめしたそうだな」
忠助が清造の横に腰掛けながら嬉しそうに言った。
「あれ?何で知っているんですか?」
「昼過ぎだったかな、留吉親分が、今夜は是非うちの店に、と言いに来てな、そん時に聞いたんだ」
不思議そうな顔をする平太に忠助が説明し
「お前も掠り傷とはいえ負傷したらしいが、大丈夫なのか?」
と心配そうに訊いた。
「はあ、本当に皮一枚の掠り傷なんで。とっくに血も止まりました」
頭を掻きながら平太が言うと、忠助の後ろから清造が一枚の紙を差し出した。平太が手にとって見ると、それは瓦版だった。
そこには‘天狗を騙る大悪党’との大きな文字が見え、天狗の扮装をした六人の男達を踏みつけるように、襷掛けをした同心が十手を振り上げ、その足下で留吉と思しき御用聞きが縄を掛けているイラストが描かれていた。
「それにゃお前ぇの事なんかこれっぽっちも書いてなかったが、とにかく留吉親分は、お陰で手柄を立てる事ができました、って繰り返し礼を言ってたな」
そう清造に言われて、平太は瓦版を忠助に渡しながら言った。
「はあ、まあ想定外に頭目っぽい奴には襲われましたが、叩きのめしたのは衣笠様ですし、俺は身元が判らないように化粧をしていましたから」
「そりゃ、あの変装じゃ誰だか以前に、人間かどうかってのも怪しいぞ。ま、正解は正解だが」
可笑しそうにそう言う忠助は
「とにかく目立たねえように、ってのが俺達のモットーだ。そんなんで瓦版にでも書かれた日にゃ、平太は江戸のスーパースターだ。今日から男茶屋も無くなるだろうから、以前のようにこの店の周りを娘っ子どもが、平太さん平太さん、って取り巻くぞ。そうなりゃお前、おケイちゃんがまた泣くぞ」
変な方向に話を曲げ始めた。
「ま、ま、また、って何ですかっ?そ、それに俺とケイちゃんはそんな、か、関係じゃ」
突然ケイに話題が及んだ事で、平太は顔を真っ赤にして噛みまくりで忠助に食って掛かった。
「そんな、か、関係じゃ、って、なら、ど、どんな関係なんだ?」
意地悪そうな笑顔で、忠助はからかうように平太の口調を真似て言った。
「おう、お前ぇ今朝方、おケイちゃんを泣かせたらしいじゃねえか?」
清造も参戦してきた。
「でーっ!な、何で知ってるんですか?」
平太は手足をじたばたさせ、満艦飾のボディランゲージで声を上げた。
「やっぱりそうか。手前ぇ、朝っぱらから婦女子を泣かすたぁどういう了見だ」
「お前、もしかして押さえ込もうとしたんじゃねえだろうな?」
二人の一斉射撃が始まった。
「な、何ちゅう事を言うんですか。ここにはプライバシーの欠片も無いんですか?」
平太の顔色が赤鬼のようになり、その容積も膨張しているように思えた。
「何がプライバシーだぁ。この江戸にゃ百万の人間が住んでんだ。その狭い江戸のほとんどが武家地や寺社地になってるし、そのうえ百万人の内の大部分が町人で、もっと狭い町人地でひしめき合ってんだ。自分だけの空間なんて望むべくもねぇ」
「頭の言うとおりだ。自分だけの空間ってのは長屋の部屋だけで、それでも騒音や話し声は筒抜けだ。それ以外の場所なんて共用の空間と思わなきゃやってらんねえぞ」
「て事ぁ、平太、お前ぇはその公共空間で不埒な行動に走ったのか?」
「頭、こりゃ公序良俗を乱す輩として、奉行所からお灸を据えてもらわなきゃいけませんぜ」
「百叩きかあ」
「タイキック百発ですな」
二人は妙に真面目な顔で完膚無きまでの攻撃を続けた。
「だから、俺はケイちゃんに何もしてませんって。泣いたのも、あれは俺の事を心配してですよ」
「心配してだあ?お前、自意識過剰じゃねえのか?あんな可愛い娘が、お前なんか心配する訳ねえじゃねえか」
「な、な、何を言うんですか。ケイちゃんは俺の贈った簪もすぐに挿してくれたし、毎朝俺に笑顔を見せてくれるんですよ」
そう言って、平太は頬を膨らませたが、
「ち、違う、違う、違う!こんな不毛な議論をするために顔を出したんじゃないんです。とにかく今何時ですか?今夜の準備があるんですよ」
急に本来の用を思い出して地団駄を踏み始めた。
「お、そう言や今夜カツレツだったな。時刻か、ええと」
「頭、さっき七つの鐘が鳴ってました。って平太、お前ここで時刻訊くよりも、シメさんとこに走ってった方が良かねえか?」
「そうだ、そうなんだ。こんな事をしている場合じゃない。申し訳ないんですが俺はシメさんの店に行きますんで、皆さんはいつもどおり暮六に店を閉めたら来てください。じゃあ」
じたばたしながらそう言った平太は、慌ててシメの店に駆けて行った。その勢いに、残った二人は苦笑しながらその背中を見送るしかなかった。
「本気みてえだな」
「純情ないい奴ですよ」
「だがなあ、泣くのは奴なんだぞ」
「泣くかどうかは分かりませんよ」
「奴なら……そうかも知れんな」
「相当な脳天気ですから」
「それより、カツレツまでもうひとっ働きするか」
「へい」
◆女将とトンカツ
「遅くなりましたーっ」
息を切らせてシメの店に飛び込んだ平太を見て、あらま平太さん、と声を発したシメが厨房から慌てて出てきた。
「昨夜はうちの役立たずが本来は平太さんをお衛りすべきなのに、傷まで負わせてしまったそうで、誠に申し訳ありませんでした」
手を前に揃えて深々と頭を下げるシメに
「ありゃー、女将さんもご存知ですか」
平太は荒い息で両膝に掌を突いたまま言った。
「はい。朝方あの馬鹿が帰ってきまして、不手際をやっちまった、と珍しく反省していました」
「お願いなんですが、俺が捕り物の場所に出向いた事は誰にも言わないで欲しいんです。ほら、この前言ったように、俺は名前が知れるとまずい人間なんです」
逆に平太が深々と頭を下げた。
「そうでしたね、分かりました。後であの能無しにゃしっかりとお灸を据えておきます」
「いえいえ、親分が立ち向かってくれなければ、こんな傷どころか命も危ない状況でしたので、そんなお灸とか言わないでください。それよりも女将さん、俺も朝方帰ってきて馬鹿みたいに寝込んでましたんで、遅くなってすみません。材料が揃っていたらすぐに準備をしましょう」
本来の話題に戻った平太は、懐から用意していた襷を取り出し、片方の端を口に咥えて素早く襷掛けをした。
「はい、仰られた材料は全て揃えていますが、平太さんは大丈夫ですか?まだお休みになられていた方が……」
「いやいや、俺は大丈夫ですよ。ところで、親分は?」
「あの表六玉、朝反省してたと思ったら昼前頃にぷいっと出て行って、今度は八つ時くらいに帰ってきたと思ったら、今は上で大鼾をかいています」
シメは人差し指で二階を指した。
「そうですか。親分も疲れたんでしょうから気遣ってあげてください。それよりも、今日の料理を作るのは女将さんで、俺は作り方を指南するだけですが、それでいいですね?」
「元よりその覚悟です」
「あはは、覚悟って言うほどの料理じゃありませんが。じゃあ、厨房に入らせてもらいます」
女将に敬意を払って一礼した平太は、暖簾を潜って厨房に入った。
後ろから続いたシメは平太の脇をすり抜けるように前に回り、水に浮かべて濡れ布巾の掛けられていた大振りな桶から、油紙に包まれた塊を五つ取り出した。
それを女将から手渡された平太が全ての包みを解くと、そこには三キログラム程度の見事な豚ロースブロックと、これまた良く肥えた丸鶏が四羽あった。
「うひょー、最高の食材ですよ女将さん。それに保管方法も極めて衛生的で、これだったら何の文句もありません」
感歎の声を上げる平太に
「そう言って頂けると幸いです。両方とも今朝方潰したそうですが、この時季ですからなるべく傷まないようにしておきました。鶏だけは腹を捌いて羽を毟って毛焼きをしています」
嬉しそうに胸を張って言った。
「チョベリグです。他の材料も揃っていますか?」
「は、はい、こちらに」
シメの指す笊には、その他の食材全てが揃っていた。
「あの、ちょべりぐ、って何ですか?」
「あっ、あれは異国の褒め言葉です」
適当に誤魔化した平太は
「では、取り掛かりましょうか」
と俎板の見える位置に小振りな樽を置き、それに腰掛けて腕組みをした。
「まずは、調味料から作っていきましょう。胡椒は挽いてありますか?」
シメは、はい、と返事をし
「今から作る調味料は南蛮で使うマヨネーズと言うものです。一番大きな丼に卵の黄身だけを五つ入れ、十膳ほど束ねた箸で良く掻き混ぜてください」
シメは言われたとおりに始めた。
「良く撹拌できたら次に酢を半合入れて塩、胡椒、芥子を加えます。いいですか、ここからが辛抱の要る作業です。これをさっきのように掻き混ぜ続けながら、サラダ油じゃなかった菜種油をちょっとずつ垂らしながら加えていきます。油は混ぜているものが柔らかめの膏薬のようになるまで加えますが、決して混ぜる手を休めないでください。ではお願いします」
シメは左手に菜種油の入った椀を持ち、右手にした箸の束を高速で回転させ始めた。あまりの高回転に大きな丼が揺れ始めたので、腰を上げた平太が両手でそれを抑えていた。
シメは額に汗しながら要領良く油と丼の中身を撹拌し続け、しばらくすると丼の中身がマヨネーズっぽい粘度のものになっていった。
「はい、よーし」
平太の声で撹拌を止めたシメはさすがに肩で息をしていた。
丼から箸の束を引き上げた時のそのツンと立ったゲルの先を指に取った平太は、少し匂いを嗅いだ後、ぱくりと口に入れ
「うっひょーっ!マヨネーズっ!」
嬉しそうに声を上げた。
「上出来です。最高のマヨネーズの完成っ。星三つですっ」
「これが、まよねえず、という調味料ですか?」
意味不明な褒め言葉を口にする平太に、シメは未だ肩で息をしながら訊いた。
「はい。正確な発音はメイヨーネイズと言いますが、こいつはなかなか腐らない代物なんです。この味は癖になりますよ。ところで女将さん、俺今朝から何も食べてなくて腹が減ってるんですが、ご飯、白飯はありませんか?」
平太は、不思議そうな顔で丼の中身を嗅いでいるシメに訊いた。
「ご飯なら炊きたてがありますが、おかずはどうしましょう?漬け物でも切りましょうか?」
「いえいえ、このマヨネーズがあれば十分です」
その言葉に首を傾げながら、シメは茶碗にまだ湯気の立っている白飯を盛ってきた。
その盛りの頂点に大さじ二杯ほどのマヨネーズを載せた平太は
「醤油を少しもらえますか?」
と言い、あ、旨味調味料が無いよな、と呟きながら
「削り節を、それも細かい粉になったものがありませんか?」
と続けた。シメは、はいはい、と明るい返事を返しながら、鰹節削りの引き出しを抜いて醤油差しと共に差し出した。
「鰹節の粉が残っているはずです」
と引き出しの中を覗きながら、隅に残るそれを小皿に取りだした。
「ありがとうございます。では、これを上に掛けてっと」
マヨネーズの上に一撮みの削り粉と醤油を数滴掛けて軽くご飯と混ぜ、平太は、いっただきまーす、と手を合わせ、ガツガツと口に頬張った。
「うほほー、ちゃんとマヨネーズご飯じゃーん。久しぶりー」
これ以上ない満面の笑顔で喜ぶ平太を、シメは不思議そうな顔で見ていた。しかし、見ていたのは平太でなく、手にしたマヨネーズご飯だった。それに気付いた平太は
「一口食べてみますか?」
と茶碗を差し出した。シメはそれを待っていたかのように、はいっ、と返事をして受け取ると、新たな箸を取り出して結構な量を頬張った。
しばらくもぐもぐと味わっていたシメは
「あらま、変わった味ですが、何だか癖になりそうに美味しいですね」
と二口目を頬張った。それを見た平太は
「あーん、駄目ですよお。俺の食う分が無くなるじゃないですか」
と茶碗を奪い返し、取られてなるかという勢いで残りを全て平らげた。
茶碗を置いて、ふーう、と満足の息を吐いた平太は
「どうですか?これがマヨネーズです」
とシメに言った。
「はい。これはいろいろ使えそうな味ですね。例えば、カマスなんかの淡泊な白身の魚を焼いて上に掛けるとか」
「ベーリィグー!まさにその使い方ですよ。さすがは女将さん、すぐに最高の使い方を口にするとは。でも、今日は違う使い方をしましょう」
「違う使い方?」
「この前作った粉吹き芋、あれに崩した堅ゆで卵とこのマヨネーズを混ぜるんです。これぞ給食の王道ポテトサラダです」
「そうなんですか。でも、きゅうしょく、って何なんですか?」
「いやいや、それはこっちの話で……とにかく今日はそれを作りますので、ジャガ芋を十個ほど茹でて粉吹き芋を作ってください。味付けは任せますので、女将さんの味に仕上げてください」
はい、と答えたシメは、早速ジャガ芋と卵を入れた鍋を火に掛けた。
その間、煙管を取り出した平太は紫煙を燻らせていたが、その鍋が火に掛けられたところで次の準備を口にした。
「次は鶏肉にかかりましょう。今日はこの鶏をブツ切りにして油で揚げます」
「揚げる?天麩羅ですか?」
「いえ、天麩羅の衣は付けません。調味汁に漬けた後に片栗粉を塗して高温の油で揚げるんです」
「調味汁ですか?」
「いいですか、今から言うものを大鍋に入れてよく混ぜ合わせてください」
「ちょっと待ってください」
そう言ったシメは戸棚から紙と筆を取り出し
「すみません、先程のまよねえずも作り方を書き留めますので、少し待ってください」
サラサラとレシピを記録し始めた。
じゃあその間に、と呟いた平太は、大型の包丁で丸鶏一羽をバンバンと断ち切り始めた。
「これくらいの大きさが俺の好みです。以降は女将さんの好みの大きさを探ってください。ただ、鶏足を一本だけ残しておいてください。最後に別の料理に使います。では調味液の材料を言います、いいですか?」
平太はマヨネーズレシピを書き終わったシメに、醤油、大蒜をはじめとする材料を告げ始めた。シメはそれを丁寧に書き留めた後、手際良く大鍋で調合して鶏肉を漬け込んだ。
その後、平太はトンカツの作り方を説明し、衣を付けるところまでシメに準備させたのだが、問題はその衣だった。パンが存在しない以上、生だろうが乾燥だろうがパン粉の使用は望むべくも無く、パンを作ろうにもイースト菌の入手が不可能だった。
そこで平太の考えた代替は素焼きの煎餅だった。煎餅を乾いた布巾で包み、その上から擂り粉木棒で叩き潰して篩に掛け、大粒でもなく粉々でもなく、ある程度粒度の揃ったものをパン粉の代わりにしたのだった。昆布茶に入っているような細かな霰を使う事も考えたが、霰揚げとして実際に存在する調理方法でもあり、平太の感覚からもトンカツと思えなかった事からその使用は諦めた。
「後はこれらを揚げるだけなんで、来客が揃ったら揚げましょう。ジャガ芋も卵も茹で上がったようですから、その間にさっき言ったポテトサラダを作ってください」
トンカツレシピを書き留めているシメに言い、平太は厨房を出て店の椅子に座って煙管を吹かし始めた。
“ふう。さすがに教えるだけでも疲れるな”
平太は紫煙と共に大きな溜息を吐いた。しかし、それは心地良い疲れにも思えていた。
そうこうする間に暮れ六の鐘が響いてきた。もう少しするとほたる屋のメンバーが飛び込んで来る時間帯だった。
その時
「一応あたしの味付けで作ったんですが、味見をお願いします」
シメが大きな擂り鉢を抱えて平太の前に立った。
卓に置かれたその中を見ると、懐かしいベージュ色のポテトサラダが山になっていた。
それを一口、箸で掬うように口に入れた平太は、おお、と声を漏らした後、何も言わなくなった。シメがその顔を覗き込むと、その目が涙で潤んでいた。
「だ、駄目ですか?変な味ですか?」
慌てたシメが声を掛けると、伏せ気味だった平太が顔を上げ
「お袋の味です、最高です。よくぞこんな素晴らしい味付けをしてくれました。懐かしすぎて涙が出ました」
そして立ち上がってシメの両手を掴み、もう一筋涙を流した。
「母親がよく作ってくれたんです。ハムや玉葱は入っていませんが、全く同じ味です。ありがとうございます」
手を握られて一瞬戸惑いをを見せたシメだったが、母親の味と言われてすぐに頬を緩め
「その、はむ、とか、たまねぎ、と言うのは分かりませんが、勿体無い程のお言葉、ありがとうございます」
平太の手を強く握り返した。
その時、ガラガラと戸が勢い良く開けられ
「トンカツーっ」
「カツ丼―っ」
大声と共に忠助と文太が店に飛び込んできた。後ろには清造と太一の姿もあった。
しかし、平太とシメが手を取り合っているのを見た途端
「お前ぇ、何やってんだ?」
清造が言い、続いて
「お前、ケイちゃんを押し倒そうとしただけじゃなく、女将さんにまで」
「平太さんて、凄いんだ」
「何言ってんのよ、サイテーな男よ」
忠助と太一と文太も言った。
「ち、違うんです」
慌てて女将の手を離して立ち上がった平太は、胸の前で両掌を振りながら言った。しかし、その姿は狼狽以外の何ものにも見えなかった。
「何が違うんだ?潤んだ目をして人の女房の手を握るってのは何なんだ?」
「あんたやっぱり気が多い男なのねえ。男茶屋でもせいぜい楽しんだんじゃないの?」
特に忠助と文太の口撃は辛辣だった。
「だから違うんですよ。お袋の味なんですよ」
狼狽がエスカレートして両手足をばたばたさせる平太の横でシメが、ほほほ、と笑い
「忠助さん、平太さんが言うように違うんですよ。これですよ、これ」
嬉しそうに擂り鉢の中身を見せた。
「うおっ、ポテトサラダじゃねえか!」
「あら懐かしい。あたしのママもよく作ってくれたのよお」
忠助と文太のうって変わった歓声に、清造と太一もそれを覗き込んだ。
「そうなんですよ。今日始めて平太さんに教えてもらって作ったんですが、平太さんが、お母様の味だ、っていたく感激されましてね、涙まで流されたんです」
「何よ、ただの感激シーンだった訳ね。つまんないの」
シメの援護でスキャンダルではない事が判明し、文太は素っ気無く言った。
「だから、違うって言ったじゃないですかあ」
誤解が解けた事で、鼻の穴を広げて勝ち誇ったように言う平太に
「何言ってんのよ。女にルーズな男の言う事なんか信用できる訳ないわよ」
文太は冷たく言い返した。
「ル、ルーズって何なんですか?」
「まあそんな事ぁいいじゃねえか。それよりここに突っ立ってねえで、腰を下ろしてそのポテトサラダってのとカツレツを堪能させてもらおうじゃねえか」
文太と平太の唾の吐き合いを制して清造が前に出た。
「それとこれだ。太一、お渡ししな」
へーい、と返事をした太一が振り返った先には、騒ぎで気が付かなかたが、菰の巻かれた灘の高級酒の二升樽が二つ置かれていた。
重そうに太一が椅子の上に置いたそれを前に
「女将さん、今日は平太の我が儘放題を聞いてくだすってありがとうございます。食材やらの銭は奴が払うんでしょうが、迷惑料としてこれを納めてください」
清造が丁寧に頭を下げた。
「おやまあ、迷惑だなんてとんでもない。今日は本当に平太さんから勉強させていただいて感謝感激で、あたしの方から指南料をお払いしなくちゃいけないくらいですよ」
シメも清造に負けないくらいに深々とお辞儀をした。
丁度その時、奥から留吉が顔を出してきた。
「こりゃいけねえや、もう皆さんお揃いで。つい惰眠を貪っちまいやした」
慌てて草履を突っ掛けて来て、夫婦で頭を下げた。
「女将さん、これで全員が揃ったようですので、そろそろ揚げに掛かりましょうか。それまで皆さんにはこの酒とポテトサラダで練習していてもらいましょう」
平太は襷を締め直しながら笑顔で言った。
「練習、って?」
意味の分からない太一が訊いた。
「宴会の練習って事だ。料理も揃っていねえし主役も席に着いてねえのに、始めます、ってのも角が立つだろ。だから、練習、と言ってお先に始めさせてもらうんだよ」
珍しく忠助が丁寧に教えた。
「ふーん、そうなんだ。じゃ、おいら練習の準備をさせてもらうよ」
そう言った太一が腰に巻いていた風呂敷包みを解くと、中から一合枡が十個ほど現れ、それから檜の良い香りが立ち上った。太一が各々の座った卓にその枡を配り始めると、忠助が菰を解いて樽を開いた。
そして
「練習は練習だが、とりあえず乾杯しねえか?」
との声を出し、皆の枡に柄杓で酒を注ぎ始めた。
「では頭、発声をお願いします」
との平太の声で威勢良く、乾杯っ、と清造が声を上げ、一同は一斉に枡を傾けた。
「やっぱり灘の上酒は違うな。最高の下りもんだあ」
「かーっ、たまんないわねえ」
「これだこれだあ、日本人に生まれて良かったぜ」
枡の半分ほどを流し込んだほたる屋の面々が目を細めて感歎のセリフを吐く卓に、シメがおそらくポテトサラダ用であろう小皿を配った。
「じゃあ女将さん、トンカツから揚げましょう」
枡を手にして言った平太は
「あれ?女将さん乾杯の酒は?」
と訊いた。
「もう頂きましたよ」
しれっと答える卓に置かれたシメの枡を見ると、既に中身が無かった。
「こいつはね、飲ませば蟒蛇並みの酒豪なんでやす」
隣の留吉が誇らしそうに言った。
「この宿六、女房を捕まえて蟒蛇とは何て言い草だい。いえね、若い頃は女酒豪番付で前頭を張った事もあるんですよ、おほほほ」
そう言いながらも、シメは満更でもない笑顔を見せた。そして
「もう油に火は入れてありますので、揚げの調子を教えてくださいな」
そう言うと、すたすたと厨房に向かい、平太もその後に続いた。後ろでは
「こりゃいいぞ、ポテトサラダってのは旨めえな」
清造の賛辞が聞こえていた。
油温計が無い事から、平太は衣を少し油に落として具合を探る方法をシメに教えた。
「いいですか、豚や鶏の肉を揚げるときは熱さに注意してください。生揚げだと体に悪いし、揚げすぎると堅くて旨くありません。油に衣を一撮み振り落としてこんな状態になったら肉を入れてください」
「揚げの調子はどのように判断するんでしょうか?」
「揚げ色です。何回か返して上方の稲荷寿司のような色になれば良しで、江戸の稲荷寿司の色だと揚げ過ぎです」
厨房での指南は続き、途中で平太はソース作りを指示した。言われたとおりシメは、赤味噌と味醂と酒、それに昆布出汁を加えて作った。その味噌ソースを指に着けて一口味わった平太は、上出来です、と笑顔になり
「そろそろ良い色になったんで油から上げて切りましょう」
ソースレシピを書き留めているシメに言った。
シメは言われたとおりに俎板でトンカツを帯状に切り、その一切れを更に半分に分けた。
その意味が分かった平太は細かく切られたトンカツを摘み、先程のソースに漬けて口に放り込んだ。
「女将さん、合格です」
その笑顔を見たシメは自分も同じように味見をし
「これは……こんな料理もあったんですねえ。とても美味しいです。これも他の肉や魚に使えます」
「粉吹き芋を押し固めてこの衣で揚げるとコロッケという料理になります。正確な発音はクロケットだったと思いますが」
はいな、と嬉しそうに顔を輝かせたシメは、トンカツを大皿に盛り始めた。
それに先立つように店に顔を覗けた平太は、擂り鉢の中のポテトサラダがほぼ空になっているのを見た。
「おーっ、俺のポテトサラダが無い!」
まさかすぐに無くなるとは思っておらず、自分のを取り分けていなかった平太が怒りの声を上げた。
「平太さん、おいら始めて食べたけど美味しかったんだよ。お代わりもしちゃった」
申し訳無さそうに言う太一の横で
「お前が涙する理由が分かったよ。こりゃ、お袋の味に間違い無え」
「あたしもママを思い出しちゃった」
忠助と文太が目を潤ませていた。しかし、そんな言葉は耳に入らないのか、平太は慌てて鉢に残ったポテトサラダを掻き集めていた。申し訳程度のポテトサラダが小皿に移された。
「まあ、これくらいあれば良しとするか」
激怒するまでとはいかない分量が残っていた事から、先程の怒りを収めた平太は
「続いて本日のメイン、トンカツです」
後ろで大皿を抱えて立つシメに立ち位置を譲った。
「出たーっ、トンカツだーっ!」
「おお、まさにカツレツじゃねえか」
「トンカツよ、トンカツよーっ」
卓に置かれた大皿の中身を見た数人から大歓声が上がった。おそらく始めて見たであろう太一と留吉は珍しそうに顔を近づけて覗き込んでいた。
「待った!」
全員が箸を伸ばそうとする大皿の上に突然平太が掌を翳し、みんながお預けをくった犬のようにあ然と平太の顔を見た。
「俺の分は残しておく事。それと……ソースですーっ!」
平太は後ろ手に隠していた味噌ソースの丼をさっと出した。
「ひゃっほーっ、味噌カツー」
「きゃーっ、名古屋よ名古屋なのよ、うみゃーのよーっ」
興奮したメンバーによって店内は阿鼻叫喚の修羅場となった。
さて、次は唐揚げだな、と言いながら厨房に向かう平太を清造が呼び止めた。
「平太、これらの料理は旨えんだが……まさか未来にしか存在しねえ料理じゃねえだろうな?」
清造が口にする心配は当然だった。在るべきはずのない物を具現化する事で歴史が変わるのを心配しての発言だった。
「頭、大丈夫です。俺もその事は考えています。ポテトサラダに使ったジャガ芋は江戸近隣で作られたものですし、味付けに使ったマヨネーズは古くからヨーロッパにあって、おそらく長崎の出島辺りには欧州人とともに来ているはずです。そして、トンカツもコートレットという呼び名の極一般的な調理方法で、これも出島に来ています。それに、ここの女将は長崎の料理人の娘で、その人が知識を得て作ったんですから、何の問題も矛盾も無いはずです」
ほんの少し怪しげな論理だったが、平太は自信を持って答えた。
「そうか。なら安心して食っていいんだな」
安堵した表情になった清造は、ソースの掛かったトンカツにかぶりついた。
鶏の唐揚げに取り掛かろうと厨房を覗いた平太は、そこでシメが調味液に漬けていた鶏肉に片栗粉を塗すのを見た。先程から続けて揚げられていたトンカツは俎板の上に並べられており
“大丈夫みたいだな。この女将、いや料理人はちゃんと食材の意味を理解している。今日はもうあれこれ教える必要も無いだろう”
そう考えた平太は
「残りのトンカツは最後に使いますんで」
と言い置き、踵を返してトンカツ騒ぎに戻って行った。
「俺にも酒を注いでください」
留吉の隣に座った平太は、丁度自分の枡に酒を注いでいた忠助に言った。
「おう。もう厨房はいいのか?」
平太の手から枡を受け取りながら忠助が訊いた。
「あの女将なら大丈夫ですよ。それよりも俺にトンカツを」
忠助から手渡されたなみなみと酒の入った枡を右手に持ち、平太は左手で小皿を突き出した。
へーい、と言った太一が、どさっとその小皿にトンカツを載せた。そして、それに味噌ソースを掛け、先程の最後のポテトサラダを引き寄せると交互に頬張り始めた。
「うほほっ、自画自賛だけど旨いよ」
これ以上ない笑顔で枡から酒を流し込む平太に
「なあ、文句言う訳じゃねえが、ちと衣が硬てえなあ」
それでもトンカツを頬張りながら枡を煽った忠助が言った。
「はあ、すみません。この前言ったとおりパン粉が無いんですよ」
「じゃあこの衣はどうしたんだ?」
「素焼きの煎餅を砕いて代わりにしました」
驚いた顔の忠助に平太は言った。
「そうなのか。お前やっぱり頭いいわ」
「頭でっかちですからね」
「へへっ、違えねえ。臨機応変に応用の利く頭でっかちだあ」
褒め言葉か何か分からない言葉を吐く忠助の横から
「あんたにこんな才能があるとは、全く知らなかったわ」
少し酔ったのか、文太が赤くなった頬を近づけて言った。
「でしょう?少しは惚れ直しましたか?」
平太もハイになってきて冗談口を叩いた。
「まっ、本当に気の多い男ね。おケイちゃんに言いつけちゃうんだから」
「おーまいがっ。文太姐さんのご機嫌損ねると大変な事になりそうですねえ。くわばらくわばら怨霊退散」
「怨霊退散って何なのよお。ぷんぷん」
いつもの怪しいブリッ子文太に戻った。
「それにしても平太さん、あっしゃ今日の料理全部始めて食べるんですが、他の皆さんは一応ご存知のようですねえ。平太さんはともかく、ほたる屋の皆さんはいったい何者でやすか?」
隣の留吉が小声で訊いてきた。ポテトサラダやトンカツなど江戸では見る事もない料理を、さも当然のように知っているほたる屋の面々に驚いているようだった。
「それはですね、曰わく因縁の有る俺を平気で雇っている事からして……それ以上知りたいですか?それを知ってしまうと……親分、どうなるか分かりませんよ」
平太はなるべくおどろおどろしく言った。
「い、いえ、滅相も無い。あっしの心得違いでやした。今言った事は忘れてくだせえ」
慌てて箸を置いた留吉は卓に平伏した。
「あはは、まあまあ顔を上げてください。そんな事よりも、どうです、トンカツは旨いでしょう?」
「いや全くでさあ。こんな旨い料理は食った事がありやせんぜ。酒も飲めるし、これだったら飯のおかずにもなりまさあ」
「親分、これも女将さんの腕前ですよ。この江戸の人間が好むかどうか分かりませんが、女将さんの応用次第でなかなかの人気料理になると思います」
「へへえ、ありがたや、ありがたや」
またもや留吉は両手を合わせて卓に平伏した。
しばらくして、できましたよー、という声と共に、シメが良い匂いの立ち上がる大皿を運んできた。
「か、唐揚げだーっ」
「かーねるさんだーすーっ」
大皿を覗くまでもなく、その匂いで鶏の唐揚げだと分かった忠助と文太が再び騒ぎ始めた。
「おいらにもー」
どんと置かれた大皿に太一が真っ先に箸を伸ばした。
それを見た平太は、シメに向かって
「女将さんは食べましたか?」
と訊いた。
「はいな。一つ味見で頂きましたが、昔どこかで食べたような懐かしい味でした」
「これは九州北部、特に豊後大分辺りで有名な唐揚げです。九州におられる時にでも口にされたんじゃないですか?」
記憶を辿るように首を傾げるシメに言ったが、この時代に大分で唐揚げがあったかどうかなど、酔いの回り始めた平太にはどうでも良くなってきていた。
「お前、こりゃまさに中津の唐揚げじゃねえか?この味付け、何でお前が知ってるんだ?」
唐揚げを頬張って興奮した忠助が訊いてきた。
「ああ、俺のお袋は大分の佐伯出身なんですよ。だから我が家の唐揚げはこの味が基本なんです」
平太は懐かしそうに上を見上げながら言った。
「そうなのか。だけど、後はビールだな。キンキンに冷えたジョッキで、ぐびーっと一気に飲みてえなあ」
「あ、それは無理です。今でも長崎に行けばあるはずですが、ここで醸造しようにも俺には無理です」
「分かってるって。夢だよ夢」
忠助も呂律を怪しくしながら懐かしそうに言った。
ふと見ると、唐揚げをばくばく食べる太一の前に座って、シメがトンカツを味わっていた。その表情は何とも言えない、人が美味しい物を口にした時共通の幸せそうなものだった。
“魚食や菜食が健康的だとは解っているんだが、やっぱりみんな肉が食べたいんだ。トンカツや唐揚げが大好きなんだな”
女将だけでなくみんなの表情を見回した平太はそんな事を考えていた。その平太の顔も幸せそうに弛んでいた。
その時だった。貸し切り札が掛かり、縄暖簾も出ていない入り口の戸が急に開いた。何事かと皆が視線を集めたその先には、ぬっと突き出された村田の顔があった。
「何なんだこりゃあ?」
しまった、と平太が呟いた。今になって村田を誘っていなかった事に気が付いたのだった。
「こりゃあこりゃあ村田様じゃありませんか。ま、どうぞどうぞ」
酔いの回った忠助が枡を手に立ち上がり、私服で現れた村田の背中を押すように席に誘導した。騒ぎの意味が分からない村田は、きょろきょろと周りを見回しながら席に座った。
「村田様、今日は何事ですか?」
これまた酔いが回って鼻の頭を赤くした清造が、村田の前になみなみと酒の注がれた枡を勧めながら訊いた。
「昨夜の平太の活躍を労おうとほたる屋に行ってみたら誰も居らんし、長屋に寄っても同じく皆留守だ。たまたま顔を合わせたトモさんに聞いたら、皆ここにいるとの事で覗いてみたんだが……一体この騒ぎは何なんだ?」
条件反射的に枡を手にした村田が、あ然としたような表情で言った。
「今日は慰労会ですよ。それも平太さんの奢りで」
珍しく目がイッてしまっている太一が身を乗り出した。
「慰労会?」
そう言いながら卓上の皿に目を落とした村田は
「こ、こりゃあトンカツじゃねえか!」
大皿にまだ残っている揚げ物の断面を確認した途端、大声を上げた。
「し、しかも、これは味噌ダレかっ?味噌カツじゃにゃあか!」
名古屋弁が飛び出した。
「それに鶏の唐揚げっ!一体どういう事なんだ?」
村田の声で店内が急に静かになった。
「村田様、これには訳がありまして」
一瞬の静寂を破るように平太が口を開いた。村田を誘っていなかった事に気付いた時から、平太の酔いが徐々に醒めつつあった。
「実は、先日が男茶屋の給金日でして、俺は半月も働いていないんですが、これが篦棒な給金だったんです。それで女将に無理を言ってこの店を貸しきりにさせてもらい、迷惑を掛けた皆さんへの慰労会を開いたんです」
「なるほど、それは分かったが……トンカツや唐揚げとは……これは江戸にあっても良いのか?」
深刻な顔で村田は訊いた。先刻の清造と同じく歴史上異質な事象を心配しているのだった。
「それは大丈夫です。トンカツはコートレットと言うんですが、長崎には伝わって来ていますし、唐揚げも存在します。ポテトサラダに使ったマヨネーズも然りです。しかも、これを作ったのはここの女将で、彼女は長崎の卓袱料理人の娘ですから何の矛盾もありません」
「そうか。ならば安心だ」
村田の表情は明るくなったが、すぐに険しい顔つきに変貌し
「だが、慰労会を儂に内緒にしていたのはどういう訳だ?」
両目をきらりと光らせながら、顔を突き出すようにして凄んだ。その遣り取りの間、誰も酒や料理を口に運ぼうとはしなかった。
「い、いえ、内緒にしていた訳じゃないんです。探索のために働いていたとは言え、結局は悪党からもらった給金ですので、そんな銭での席に村田様にお越し頂くのは……」
その迫力に平太が顔を引き攣らせながら言った時、村田の前にあった残り少ないトンカツを、何食わぬ顔で箸で挟んだ文太がぱくりと口に入れた。
それを見た村田の口から、おわっ、という悲鳴にも似た声が出た。
「ぶ、文太さん、ダメじゃん……」
「ほう、あくまでも良い事は小人数で、という訳か」
文太の行動にあ然とする平太に向かい、背を引いて詰るような表情で村田が言った。
「そ、そんな、滅相も無い」
「馬鹿者っ!トンカツ、しかも味噌カツとなりゃ話は別だ。貴様ぁ、悪銭をもって不埒な酒食を饗する不逞の輩としてお縄だあ!」
大声を上げて立ち上がった村田は、腰の十手を抜こうとしたがそこに十手は無く、くそっ、と言いながら側の箸を握って突き出し、御用だ、と凄んだ。
「ひえー、お許しを」
「ええい、ならん。御用だっ」
卓に平伏す平太を見下ろす村田の顔には、意地の悪い笑顔が浮かんだ。それを見て取った平太以外の皆の表情が一気に弛み、それは無言の薄ら笑いに変わった。そしてシメは素早く厨房に入って行き
「村田様、これでお許しを」
素早く皿に盛ったトンカツを目上に掲げた。
それを見て、うむ、と頷いた村田は、未だ卓上に平伏している平太に顔を近づけ
「なーんてね」
と笑いながら言って腰を下ろした。
「はえ?」
村田の一言できょとんと顔を上げた平太に
「本当にあんた馬鹿ねえ。こんなんでお縄になる訳ないじゃん」
文太が呆れたように言い、周りのみんなは口を押さえて笑いを堪えていた。
平太が慌てて周りを見回した後で村田に目をやると
「こりゃうみゃあわ。やっとかめ~」
これ以上ない笑顔で村田が咀嚼していた。
「そ、そんなあ。冗談も程々にしてくださいよお。ビビって小便漏らすところでしたよ」
からかわれた事に気付いた平太は口を尖らせた。
「はは、悪い悪い。名古屋生まれの儂としちゃ味噌カツにゃ目が無くてな。女将、こりゃ旨いぞ」
「はい。平太さんの指南で今日始めて作ったんですが、お褒め頂きましてありがとうございます」
シメが前で手を合わせて嬉しそうに言った。
「よく豚肉なんか手に入ったな?」
「薩摩のお屋敷で飼われていまして、伝を通じて事前に頼めばある程度手に入ります」
そうか、と嬉しそうにトンカツを頬張って酒を煽る村田を見て
“ここにもトンカツの鬼がいた”
と平太は思った。
その時、平太に目を移した村田が嬉しそうな表情を変えず、左の人差し指でクイックイッと呼んだ。顔を寄せろ、と受け取った平太が前屈みになると
「寅次が死んだ」
村田が口にする突拍子もない言葉に平太は返す言葉が出なかった。
「奉行所に着いて縄を解いた途端、襟に隠していた毒を煽りやがった。そして、捕まえた残り五人の中に先々の人間はいなかった」
村田は小声で素早く言った。これを聞いた平太は強張った表情で、では、と口を開いた。
「覚悟せにゃならんな」
村田は再び小声で言ったが、全くその笑顔を変えないで口にする内容とは思えず、そのアンバランスさに平太の背筋が凍り付いた。
そのまま何かを考え込むように背を曲げた平太の背後から
「そろそろ締めのカツ丼じゃねえのか?」
呂律の怪しい忠助がその背中を叩いた。その軽い衝撃で拘束の解かれた平太は慌てて周りを見渡した。
「まだ締めじゃないでしょう」
「まだったって、もう持ち込んだ酒も無えし、トンカツも唐揚げも食い尽くしちまったぜ」
「えー、俺まだ三合目ですよ。酒って四升はあったでしょう」
「馬鹿野郎、太一なんかもう六合目だぞ。それに、この店だってオールナイトの不夜城じゃねえんだ。ちったあ迷惑考えるんなら、とっととカツ丼を出せこの野郎」
忠助にそう言われ、平太は慰労会が始まってかなり時間が経っている事に気が付いた。
「分かりました。じゃあ女将さん、最後の料理になりますが」
そう言って厨房に向かう平太に、はい、と応えたシメが続いた。
「最後はみんなが期待しているカツ丼です。要するにトンカツの卵とじを丼のご飯に載せた料理です。トンカツを鶏肉に変えれば親子丼、肉種を何も入れなければ卵丼となります」
厨房でトンカツを前にした平太が最後のレシピ説明に掛かった。
「おやこどん、ですか?」
聞き慣れない名前にシメが訊いた。
「鶏と卵が親子関係ですから親子丼です。ま、洒落ですよ洒落」
「はあ、そうなんですか。で、お出汁の配合は?」
「基本的には、この前女将さんの作った半片の卵とじ、あれの出汁と同じで良いと思います。あ、あの辛い胡麻油は必要ありません」
「では、醤油、酒、味醂、鰹出汁と砂糖でよろしいんですね?」
「そうですね。その出汁に白ネギを斜め切りにしたものと切ったトンカツを入れて、煮立ったら溶き卵を回し入れてください。卵が半熟程度に固まったら、そのまま崩さないで丼のご飯にどばっと載せるだけです」
平太の語るレシピをさらさらと書き留めたシメは、そのとおり手際よく出汁から作り始めた。それを確認した平太は店に戻り
「カツ丼と親子丼の好きな方を言ってくださーい。まずカツ丼っ」
と声を上げた。平太と村田そして女将を除く五人が手を上げたが、留吉にその正体が分かっているのかは怪しかった。
これで残りのトンカツ五枚全てが捌けてしまい、あとの三人は自動的に親子丼となってしまった。
「儂は、カツ丼は味噌カツ丼しか認めんから親子丼なのだ」
村田はあっさりそう言い切った。どこかの天才のパパのような言い方だった。
丼は一人前ずつ作らなければならない事から、厨房に戻った平太は親子丼の調理に取り掛かった。
「申し訳ありません」
申し訳無さそうに言うシメの横で
「これだけは一人前ずつですから、ちょっと面倒ですよね。それで、女将さんは親子丼になったんですが、両方味わってもらうために親分と半分半分食べてください」
と言いながら、平太は鶏足の肉を外して出汁で煮込み始めた。
しかし、シメが手際良く調理した事から次々とカツ丼が完成し、できた端からテンポ良く店に出す事ができた。
「おーっ、カツ丼だぜえ」
一番楽しみにしていたと思われる忠助の歓声を聞きながら、平太も最初の親子丼を村田の前に置いた。
「まさかもう一度親子丼が食えるとは思わなかった」
まず顔を近づけて香りを嗅いだ村田は、感無量の表情で呟いた。
最後の親子丼を盆に載せ、平太とシメが店に戻った時には、大半の丼が空になっていた。
みんな早いなー、と呟いた平太は
「さ、女将さん、今日最後の料理です。この親子丼と親分のカツ丼の両方を味わってください」
そう言って、自分の親子丼を手にして頬張り始めた。
留吉は半分ほど残していたカツ丼をシメに手渡していた。シメも笑顔でそれを受け取り、ゆっくりと味わうように口を動かした。
「参りました。一度調理してそのままで食べられる物を再び煮立てる事と、白いご飯を出汁で汚す事に少し抵抗はあったんですが、その意味が解りました。この衣の柔らかさとそれに染み込んだ味、衣から染み出た油と出汁と半熟の卵、これらがご飯に掛かると何とも言えない優しい味になります。参りました」
カツ丼を平らげたシメが感慨深そうに言った。
「あっしゃこの鶏と卵の飯が気に入りやした。元々豚や山鯨よりも鶏が好きなもんで、先程の揚げ鶏もまた食いてえです」
旨そうに親子丼を頬張る留吉も感心したように言った。
「そうですか、気に入ってもらえましたか。味付けも作り方も女将さんに伝授してありますので、毎日でも作ってもらってください」
「いやあ、毎日だとちょいと精が付き過ぎて困りやす」
「あんたっ、変な事は言わないの!」
女将に怒られた留吉は照れ笑いで頭を掻いた。
「いつもながら仲の良い事で。つかぬ事を伺いますが、お二人にお子は?」
平太は不謹慎とは思ったが、前から疑問に思っていた事を訊いてみた。
「はあ、これがなかなか授かりやせんで」
留吉は頭を掻き続けながら肩を竦めた。
「そうですかあ。仲の良い夫婦なのに」
ふと平太が見ると、シメが顔を少し赤らめて何だか恥ずかしそうにもごもごとしていた。その顔は平太がプライベートな事を訊いたためや、酒を飲んだ事による紅顔とは少し違ったように見え、意味ありげに隣の夫をちらちらと窺っていた。
そのうち、シメは肘で軽く留吉の脇を小突いた。
「はあ、何だあ?」
丼を置いて枡を口に付けていた留吉は、それが何のサインか判らないようだった。夫に何だと訊かれても、シメはますます頬を紅潮させて恥ずかしそうに俯いていた。
早々とカツ丼を食べ終わり、三人の会話に耳を傾けていた文太が
「女将さん、もしかしてお目出たっ?」
思い至ったように問い掛け、文太の顔を見たシメが恥ずかしそうに頷いた。
「まっ、凄いじゃなーい。みなさーん」
文太は立ち上がって声を上げ
「女将さんがご懐妊なのよーっ」
両手がメガホンのように口に当てられていた。
「マジかっ?」
「こりゃあ目出てえ」
「良かったな留吉」
「ごかいにんって何なの?」
様々な歓声が一度に上がった。女将の顔がこれ以上ないくらい真っ赤になり、嬉しいのか恥ずかしいのか俯いてしまった。
一番分かっていないのは留吉のようだった。皆から祝福の声を掛けられても枡に残り少ない上酒を注がれても、へ?、という表情のままだった。
「おいおい何だ。親分、解ってんのか?父親になるんだぞ」
清造が呆れたように言った事で、初めて事の次第が理解できたようであった。
「え?え?……て事あ」
そう呟いた留吉はシメに向き直り
「ほ、本当か?や、やや子ができたのか?」
その俯いた顔を覗き込んだ。シメはそのままの姿勢で黙って頷いた。
その途端、大きな拍手が上がった。見ると、腰を上げた村田が思いきり手を叩いていた。それにつられたのか、夫婦以外の全員が立ち上がり拍手を始めた。その響きにあ然と周りを見回した将来の父親は、ありがとうございやす、ありがとうございやす、と目を潤ませて何度も頭を下げ、その妻も同じようにお辞儀を続けた。
あに図らんや最後は懐妊祝賀会となった慰労会は、料理も酒も尽きて皆が満腹となった事で終宴となり、そのまま、妊婦に力仕事はさせられない、とのその場の一致した意見をもって全員での片付け、掃除へと移行した。村田も手慣れた動きで皿洗いを率先していた。
片付けも一通り終わり、参加者皆が留吉夫婦に礼と、特に体の用心をシメに告げて帰ろうとする中
「これは今日のお代です」
平太が懐から取りだした紙包みをその女将に手渡した。
ふとその重みが気になったシメが包みを開けると、そこには小判が一枚入っていた。
「これでは多ございます」
慌てて返そうとするシメに
「いいえ。今日の珍しい材料費、女将の手間賃、店の借り上げ代を考えると多額とは思えません。懐妊の祝いも含めて収めてください」
平太は両掌を突き出して頭を下げた。そして、しかし、と困った表情の女将に
「受け取ってもらえないんだったら、俺は二度とこの店に来ません」
爽やかな笑顔で脅しとも言える言葉を告げた。
それでも内心は納得できない表情のシメだったが
「では、預からせて頂きます」
との言葉で何とか場を収めた。
夫婦に手を振りながら表に出た平太を四人の男とおネェが待っていた。
「平太、今夜は馳走になった」
その目下への言葉とは裏腹に、村田は腰に手を当てて丁寧に頭を下げていた。
「平太、すまなかったな」
「ゴチだ。カツ丼は久々に感動したぞ」
「おいらも初めて食べたけど、美味しかったよ」
「次も期待してるわよーん」
他の各々も礼を口にしてお辞儀をした。
「あは、やめてくださいよ。それもこれも、みんなが支えてくれたお陰です」
平太も照れたように後頭部に手をやった。
「それと、言い忘れていたが、それ以前に今回の一件ご苦労だったな。平太だけじゃない、ほたる屋の皆にも世話になった」
村田はほたる屋の面々にも礼を言った。そして、では、と右手を上げながら踵を返した与力は、多少千鳥足ながらもご機嫌そうな足取りで深夜の通りに消えて行った。
「さてと、久々に懐かしい未来を味わった事だし、帰るか」
清造の声に無言で頷いた面々も、それぞれ笑顔で村田とは反対方向に歩き出した。
しかし、笑顔を見せてはいても、平太の心の隅には小さな黒い痼りが顔を覗かせていた。
“また新たな……か”
今回の逮捕者に未来の人間はいなかった、という村田の言葉が喉に刺さった魚の小骨のように、平太の心に引っ掛かっていたのだった。
“ま、確信の持てる話でもないし。この優しい、いや怪しい方々に話すまでもないな”
酔いもあってそれ以上考えるのを止めた平太は、前を行く四人に追いつこうとその歩みを速めた。
そしてふと
“明日の朝もケイちゃんの笑顔が見られるかな~”
脳天気で少し邪な思いが頭を過ぎり、その歩みがスキップに変わろうとしていた。
【 了 】
※本作の内容は虚構であり、歴史上の江戸とは異なる世界の出来事です。
よって、史実とは異なる事項や設定その他が記述されている場面のある事をご容赦願います。