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最後の祈り

「私以外に生物が存在しない場合、倫理学は存在しうるであろうか。」

    

 (ウィトゲンシュタイン 草稿 1914-1916)

 

 

 一人の男がいた。名前はどうでもいいだろう。その理由はいずれ明らかになる。

 白髪頭に、日焼けした顔。頑固そうな、気の利かなそうな、堅い表情をしている。軍隊で長い間生活してきて、一つの事、あるルーティンに閉じ込められた男に見える。頑な雰囲気。口元はきつく縛られている。その表情は長い間、驚いた事が一度もないかのようだ。新鮮な心の動きは失われ、ある大切な一事に心を奪われ、それを繰り返すだけが人生になった。そのような男に見える。

 男はミリタリーものの服を着ていた。…彼はかつて軍隊に所属していた。そこで、精神を殺されたと言えたかもしれないが、彼は自分自身を得たと思っていた。彼は軍隊に所属し、十年以上の歳月を過ごした。戦友もできたが、友は死ぬか、軍から抜ける時に別れたかのいずれかだった。友は軍にいる時だけの関係で、辞めれば、終わる関係だと彼は考えていた。時には引退した友から連絡が来る事もあったが、男は付き合いを拒否した。そういう友は必要ない、と感じていた。

 男は長い間、孤独だった。軍を辞めた後、偏執狂になった。軍隊生活を今も続けているかのようだった。彼は大きな怪我を理由に、軍を辞めざるを得なかった。その時も随分反抗した。「まだできる」と彼は何度も言った。「こんなのは軽傷だ。まだできる」 上官は聞き入れなかった。「君もほんとうは分かっているだろう」 彼は軍を去った。その時の屈辱から、未だ癒えていないと言えるかもしれない。

 偏執狂になった彼は、自宅の地下室に籠もって、巨大な地図の作成に取り掛かった。それは何年もかかる巨大なものだった。ある敵国の重要拠点の地図で、非常に広大な領域になる予定だった。航空写真は存在せず、そこは秘密の領域だった。彼は作戦でそこに潜り込んだ事があった。その記憶、それから手持ちの資料を元に、彼は地図を作っていった。資料は、引退前に密かに軍の資料を複写して持ってきたもので、もし見つかれば、どのような罰をくだされるかわからなかった。しかし、彼はそれがゆくゆくは国家の為になると信じていた。地図を完成して、軍に持って行けば、歓呼で迎えられだろうと彼は固く信じていた。彼は未だ、英雄になれると信じていた。

 地図は全く完成しなかった。地図完成の為に、二度と会うまいと決めていた上官と連絡を取ったりもした。それは屈辱だったが、やむを得なかった。しかし上官は、男と世間話しかしなかった。男が機密情報を漏らしてくれれば、こちらもそれ相応のお返しをできるとほのめかしたが、上官は知らんぷりをした。男は失望した。

 上官は別れ際に言った。

 「君はもう新しい人生に踏み出した方がいい。軍隊だけが世界じゃないんだ」

 男は頭を下げたが、そんな言葉は聞いていなかった。上官は振り返ってさっさと歩き出した。

 地図は完成しなかった。その前に、敵国が崩壊してしまった。クーデターが起こり、自由主義政権となった。件の拠点にも、航空機が入れるようになり、航空写真が公開され、全世界に正確な地図が公表された。男の地図は全くの無駄となってしまった。男は絶望した。

 もっとも、男が地図を完成させていたとして、それが本当に重要なものだったかどうかは怪しかった。地図の価値は、男の想像でしかなかったので、実際どうだったのかは闇の中である。いずれにしろ、男の希望はまたしても打ち砕かれる事になった。

 地図を失った彼は、次の依存先を求めた。男が見つけたのは宗教だった。キリスト教を始祖とする小さな分派の一つだった。何度か集会に参加した。秘儀的な会合が行われ、動物を殺して祭壇に供えるような事もたまにあった。男は信仰の熱心さで、集会で次第に存在感を発揮したが、ある時、忽然と姿を現さなくなった。

 男はどこへ行ったのだろう? …男は、会で買った子供の上半身くらいの像を、地下室に取り付けていた。そこに彼は自分だけの祭壇を作った。祭壇には聖像が中心となって、ろうそくや、聖書、小さな像などが並べられた。彼はそこでお祈りをした。祈りは時に長く、一時間にも渡る事があった。それは禅の瞑想にも似ていた。彼は座り、目を閉じ、手を組み合わせて祈った。彼は内側から神と交歓しようとした。光の帯が目の内側を走る事があり、それは何かのビジョンに繋がっていくようにも感じられた。

 彼は会合は生ぬるいと感じたのだった。今や、信仰ごっこは終わりにして、たった一人で神と正対しなければならない。彼はそう感じた。会合の連中は生ぬるかった。彼は、神を信じている証に、外の世界で犯罪まがいの事でも平気でやった。その行為(それはたった一度だったが)は、会のメンバーに動揺を起こした。男はたしなめられた。しかし、男は平然としていた。むしろ、他の連中の柔弱な様子が気に入らなかった。神を信じるのなら、あの程度の自己犠牲、他人を踏みつけにするなど当然ではないか。憤懣は高まったが、それはクーデターとはならず、孤立と祈りへと変わった。彼は本質的に孤独な人間だった。彼は、家で毎日お祈りをあげる隠れた信仰者となった。

 彼は毎日、聖像に祈りを捧げた。像はギリシャの少年像のような美しさを湛えていた。両の眼からは涙がこぼれていて、その涙は全人類の為に流された涙という話だった。彼はいつもその涙を見る度に、人類がこの涙を忘れて遊び呆けている事に憤った。人類は遊んでいた。神は泣いていたのに。彼はただ一人、神の味方だった。ただ一人、神の涙に共感する者だった。彼は自分をそう捉えていた。

 彼が必ず、祈り捧げるタイミングというのがあった。それはルーティンとして、生活に組み込まれていた。それは食事前だった。像に向かって両手を固く組み合わせ、目を瞑った。食物を取り、自分の生命を更新できる喜びを神に対して顕にした。祈りが終わると、食事を始めた。冷蔵庫は、一階にあったので、わざわざ地下に食べ物を運んで食べた。どういうわけか、一階では食べる気がしなかった。この習慣は軍を辞めて以来ずっとだった。

 そんな日々が続いた。世間とは没交渉で、友人も恋人もいない中、時だけが過ぎていった。彼はただ沈黙と瞑想の中にいた。生活費は軍人恩給で賄えた。浪費家でもなかったから、十分な額だった。

 頭には白髪が増え、顔にも皺が増えた。大きな病気はしなかったが、体力の衰えは漠然と感じていた。衰えを感じると、軍隊式のトレーニングを始めて、体力を戻すのに努めた。全体的には、同年齢の男性よりも遥かに頑健な体をしていた。

 そんな日々の中、事件が起こった。彼はその時、地下にいた。地下にいる時間は次第に長くなってきていた。ベッドを地下に備え付け、そこで眠る事もしばしばだった。それに呼応するように、ますます彼の精神は頑なに、外界に対して閉ざされていった。

 深夜だった。ドカン!と破裂音がして、眼を覚ました。周囲を見渡しても、何もない。破裂音は上の方でした。上で何か起こっているらしい。

 軍隊生活が長かった彼は、目覚めから意識がはっきりするまで迅速だった。そうしないといつ死ぬともわからない環境に長くいたのだ。彼はベッドの上で注意深く耳を澄ました。破裂音は一度きりだった。

 彼は部屋を明るくした。蛍光灯は古くなっているらしく、点滅しながら光を撒き散らした。(一体何だ…) 落ちつきかけた時、また巨大な破裂音がした。果物が破裂して飛び散る音のような、その音を何百倍にもでかくしたような音だった。彼は反射的にベッドの上で身構えた。

 破裂音は一度で収まらなかった。音は鳴り止まず、連続で何かが破裂し続けているようだった。彼はベッドの上で身を固くした。上で何かが起こっているのは確かだった。強盗かとも考えた。強盗が地下に気づかず、上の階を荒らし回っている。その過程で何かが間違って爆発したか、爆薬でも使ったか。…しかし爆弾を使う強盗などは、彼にも不自然なものだとわかっていた。

 自然災害の可能性も考えられたが、検討がつかなかった。噴火、洪水、雪崩…。山も川も遠い。変電所だって、近くにない。男の頭には何の可能性も思い浮かばなかった。

 破裂音は続いた。五分以上続いたろうか。あまりに長く続くので、尋常な状況ではないと彼は悟った。素早くベッドから降りて、扉の前にまで行った。扉の鍵がかかっているのを確認して、ホッと息を吐いた。扉に耳をくっつけて音を聴いてみると、破裂音がやや大きく聞こえた。何かが砕け散るような音が不気味に鳴り続けていた。彼は恐怖を感じていたが、同時にそれを相対化し、冷静に動ける術も身につけていた。彼はしばらく扉の前から動かなかった。彼はちらりと聖像を見た。像は何事もないかのように涙を流し続けていた。破裂音は続いた。

 破裂音が続く中で、電灯が消えた。点滅していた明かりは急に途絶えた。男は完全な闇の中にいた。彼は観念したように目を瞑り、とにかく音が鳴り止むまで待つしかないと思った。扉の前に座り込んで、耳をつけて爆発音を聞き続けた。いつまでもそれは鳴り止む気配がなかった。

 おそらく一時間も経った頃だろうか。あるいは、実際には三十分だったのかもしれないが、それは途方もなく長く感じられた。とにかく、彼にとって非常に長いと感じられるある時間が過ぎ去った時、音が途絶えた。爆発音はしなくなった。今度は逆に静寂が支配した。気味悪い静寂だった。

 男は五分ほどためらった後、ドアを開けた。もうここに籠城していても仕方ない、外に出てどうなるにせよ、外界の有様を見なければならない。彼はその時にはもうある程度、死を覚悟していた。一番の懸念は、ドアがそもそも開かない事だったが、鍵は正常に回り、ドアは空いた。

 おそるおそる彼は足を踏み出した。外は明るかった。普段よりもずっと明るいその光に、彼は面食らった。(どうして明るい?) 次の瞬間、風が顔に当たった。(風?) 彼は不思議に思った。地下と一階を繋ぐ階段に風など起こるはずがなかった。それなのに、風に顔を撫でられた。

 彼は顔を上げた。そこには青空が見えた。一階の家屋部分はめちゃくちゃに破壊され、残骸になっていた。柱の骨組みさえ残っていなかった。地下に降りる階段のコンクリートはしっかり残っていたが、一階から上の家屋部分は完全に破壊されていた。

 彼は放心状態のまま、地上に上がった。地上は…言葉にできない光景が広がっていた。洪水が全てをなぎ倒していった町、あるいはダムの底に沈んだ町が、水を抜いた後のような、破壊された光景が広がっていた。

 彼は今や原初の地上に立っていた。そこはまるで荒々しい神々が、人間を不快に思い踏み潰していったかのようだった。あらゆる家屋はなぎ倒され、残骸になっていた。電信柱も倒れていた。壮烈な光景が広がっていた。

 (何だこれは…) 言葉にならない思いを胸に、彼は二、三歩歩いた。彼は地上にいた。あらゆる建築物は残骸になり、至るところに波のような隆起を作っていた。しかし、その隆起はある高さを越えなかった。そこで彼が、一つの残骸の上に立って、周囲を見渡すと、実に遠くまで見渡せた。

 ふと、彼は考えた。(こんなに壊されて、よくも地下から地上までの出口が塞がれなかったものだ…) 彼は振り返った。そこには、自分が上がってきた階段が見えた。そこだけ、綺麗に穴が空いていた。それはどんなタイプの奇跡か、彼にも想像できなかった。

 残骸の上からは遠くまで見渡せた。太陽が昇っているのが見えた。午前らしかった。日の光は、何事もなかったかのように地上を照らしていた。地上では全てが無残に失われていたが、男はその光景を見て、胸をすくような感情を得た。一瞬だったとはいえ、爽快な気持ちが胸を占めた。人間達が苦心惨憺して作り上げた塔の如き建物、様々な立方体は全てぺしゃんこになっていた。残されたのは、原初の地球、自然の基本的な形だった。そこに彼は、バベルの塔が破壊されるのを見た預言者のようなーーそういう者がいたとしてーー爽快な気持ちを味わったのだった。

 男は周囲を見渡した。あらゆるものが残骸と化しており、木もなぎ倒され、平面になっていた。空気は濁っていない。むしろ澄んでいる。火事の気配もない。洪水でもなさそうだ。一体、何が通り過ぎていったのか、検討もつかなかった。(台風か…?) 彼は考えてみた。とてつもなく巨大で、強烈な台風が通り過ぎていったと考えると、まだ合点がいった。全てが風になぎ倒されたようだった。この晴天も、台風一過と考えればわからないでもなかった。だが、これが台風だとしたら、これまでの歴史に一度もなかった巨大な台風だろう。そんなものは果たして存在しうるのだろうか? …それは、彼の思考の容量を超えた事には違いなかった。もっとも、一度、現実がこうなった以上、それが宇宙人が成したものだろうと自然が成したものだろうと、結果に変わりはない。そうしてその結果はこれ以上、進む事も退く事もできない最後のものなのだ。

 彼は歩いてみた。残骸に足を突き刺されないように気をつけながら。柱が折れて散らばっていた。屋根瓦は粉々に砕けてカーペットのようになっていた。どのような神がこんな怒りをぶちまけたのか、彼には想像もつかなかった。彼は最初この光景を見た瞬間から、これが何かの懲罰であると考えていた。人類に対する神の怒り、ようやく最後の審判が来た。キリスト教が、遅れに遅らせていた審判の時。黙示録の止まった時。そういうものがやってきた。彼はそう感じていた。ただ、それが彼が信じる異端の神とどのように結びつくかはまだ想像外だった。

 人を探そう、と彼は思った。人がいなくなってはじめて人を求める。それは滑稽かもしれなかったが、彼が思いついたのはそれだった。自分以外の誰かが必要だ。事情を聴きたい。生存者がいるのか知りたい。あれほど遠ざけていた他人が今の彼には必要だった。

 彼は近くを彷徨い歩いた。帰る場所がわからないと困ると思って、残骸の中から鉄の棒を取り出し、その先に布切れをくくりつけて、立てた。残骸の高い所にそれを立てると、それは目印になった。今や、全てが平面となって終わった世界においては、旗は周囲に自分の存在を強く誇示していた。彼はそれが見える範囲で探索しようと考えた。

 彼は歩いた。だが、どこまで歩いても、人はいなかった。物音は瓦礫の崩れる音と、風の音だけだった。世界は振り出しに戻ったようだった。彼は歩いている内、怒れる神がこれをやったのではないかと本気で思い始めていた。

 しかし、怒れる神々はどこにも顔を見せなかった。人間が顔を見せなかったのと同じように。猫も犬も、小動物も見かけなかった。(彼らはどこへ行ったのだろう?) 男は考えた。(まさか、自分一人が生き残ったわけではあるまい) 彼は考えた。彼は、かつてを思い出した。軍人だった頃、敵地に一人、ポツンと放り出された事がある。その時と同じ、寂しい感情が込み上がってきた。だがそれと同時に、自分がやるしかないのだという力強い、熱い思いもこみ上げてきた。彼は足元に気をつけながら歩いた。平面となった世界は男に、どのような形での他者も見せようとしなかった。

 彼は途方に暮れた。何もない。瓦礫の山しかない。何もかもは滅茶苦茶だ。全てが壊れてしまった。生物もいない。世界は終わった。人類は潰えた。自分一人が何かのきっかけで残ってしまった。今や、自分一人しか残っていない。……いや、待て、そんな事があるだろうか?

 自問自答の果てに、くたびれてきた。喉が乾いてきた。地下室には飲み物も食べ物もなかった。一階の冷蔵庫にもろくなものは入っていなかった。ちょうど、買い物に行く直前で、災厄はやってきたのだった。彼は自分は餓死するのではなかろうか、と考えた。

 そうなると、もう人類の運命よりも、飲食物の方が遥かに重要に思えた。彼は一旦、旗の見える場所まで戻った。それから、かつてコンビニエンスストアがあった場所まで歩こうと思った。

 コンビニエンスストアは彼の住んでいた場所から、それほど遠くなかった。彼は山の位置を参考にして、大体このあたりと思われる場所まで歩いていった。彼は周辺を見渡した。何か食品はないだろうか。

 不思議な事だが、食品に類するもの、パック類とか、プラスチック包装のものは見当たらなかった。(柔らかいものは潰れてしまったか?) 彼は考えた。それでも、何か食べる物がないと飢えてしまう。彼は瓦礫の下、倒壊した板の下を探した。

 彼が見つけたのは缶詰だった。缶詰は二つ見つかった。一つは桃の缶詰で、もう一つは鯖の缶詰だった。見つけた時は嬉しかったが、見つかったのが二つだけだと知ると、嬉しさは消えてなくなっていた。

 それでも生きなければならない。缶詰をポケットに入れて、地下室に戻る事にした。どうして地下室だけが吹き飛ばされなかったのか、どうして自分だけが生き残ったのか、全ては謎だった。

 (俺は特別な人間なんだ) 彼は考えてみた。(俺は神に寵愛されている。昔からそうだった。軍にいた時でも、奇跡的に助かった。偉大な軍人は、戦火の最も激しい所に突っ立っても、銃弾は当たらない。それと同じだ…) 

 そんな風に自分を特別視してみたが、大して慰められもしなかった。というより、逆に、自分一人取り残されたのは苦行であるかもしれない、と彼の心は密かに囁いていた。もし彼一人残されるのが光栄な事態なら、神が出てきて彼を祝福すればいい…。だが実際には、荒野となった世界に風が吹いているだけだ。どうして一人だけが取り残されたのか。その問いに彼は全く答えられなかった。

 まだ、他の人間がいる可能性は十分あったはずだが、元々の人間嫌い、孤独癖がぶり返して、彼はこの世には自分一人しかいなくなったとみなし始めていた。(最初からそうだったじゃないか) 彼は過去を振り返った。思えば、彼は彼の自意識という牢獄の中で一人生きていた。世界とは便宜的な関係だけを保ちつつ。(これまでと何一つ変わっていない。元々、孤独な人間が『本当に』孤独になっただけだ。戦争は俺にとって、血を燃え立たせる為の手段に過ぎなかった。どんな政治闘争が行われてようが、それは俺一人が人生を燃焼させる為の道具に過ぎなかった。俺は戦場では生き生きしていた…) 彼はそんな事を考えながら歩いた。そうした思考は彼の人生上、初めて現れる反省的な思考だった。そんな風に自分を振り返った事はこれまでなかった。

 旗を目当てに地下室にたどり着いた。地下に入っても、扉を開け放したままにしておいた。そこから光が漏れて、地下室をぼんやりと照らし出していた。いつもと違う光に照らされた地下室は、いつもと違う光景に見えた。彼はやれやれとベッドに腰を降ろした。粗末なテーブルに、缶を二つ置いた。幸いにも、缶切りの必要としないタイプの缶だった。

 彼は途方に暮れた。…が、考えても仕方なかった。この先どうすればいいか。食事、水を手に入れる為にはどうすればいいか。このまま、誰とも出会わずに生き続けられるのか。どうして自分一人だけ残ったのか。謎はこの先、解けるだろうか? どうして地下室だけは被害がなかったのか? わからない事が多すぎた。未来には不安しかなかった。しかし考えても仕方ないというのが、これまでの経験から割り出された答えだった。迷った時、切り開くのは行動だけだ。戦場では、彼はそうしてきた。考えるのは時間のロスだった。それが致命的なミスに繋がるのを彼は知っていた。考えるのは作戦を立てる時だ。現地に降り立てば、瞬間瞬間と対話しつつ行動するしかない。

 とにかく食事にしよう、と彼は考えた。喉が乾いていたし、腹も減っていた。缶の中の水分で多少は、乾きは癒やされるだろう。缶を開け、食事にしようと考えた。

 (待て、待て。その前にーー)

 彼は考えた。彼は、食事前にはいつもそうしていたように祈りを捧げる事にした。部屋の隅の聖像の前に両膝をついて、両手を固く組み合わせた。目を瞑り、祈りを捧げようとした瞬間、思考が彼を襲った。

 (俺は何をしているんだ? …普段通りの祈りを捧げようとして。神はいない。…あるいは、怒れる神が世界を粉砕したのかもしれないが、だとすると、俺は何の神に祈っているんだ? 一体? …滑稽な。もう祈る事に、意味なんてありはしない。神は俺を見捨て、人間も俺を見捨てて、どこかへ去ってしまった。こんな風に祈る事に何の意味があるんだ? 祈った所で、絶望しかないじゃないか。食物も僅かしかない。いつ餓死するともしれない。物理的に死んでしまうその直前まで、俺はこうして祈りを捧げているのか。今まで、祈っていたのは何だったんだ? こんな事に意味がなかったからこそ、こんな風にある日、世界は突然、何者かによって破壊されたんじゃないのか? 俺は何をやっているんだ?)

 彼はそう考えて、両手をほどこうかと思った。祈るなどと馬鹿な事はやめようか、と。神はーーどうでもいい。人間もどうでもいい。というより、自分一人しか世界に存在していないのなら、何もかもどうでもいいではないか? 全ては無意味であり、残っているのは自分の僅かな生存本能だけ。それもきっと、そう長くは続かないだろう。

 彼は祈るのをやめよう、と思った。(もういい) …だが、手をほどこうとした時、思い直した。(待て、やろう。どうせなら最後までやろう。習慣なんだから。今までやってきたんだから。やろうがやるまいがーーいや、考えるのはやめだ。ただ、祈ろう。考える事なく。ずっと、そうしてきたんだから。ただそれだけの理由でいい。今までそうしてきた、ただそれだけの理由で)

 彼は目を瞑った。彼は祈った。深く祈った。これまでで一番強い想いで祈りを捧げた。彼の心は空っぽだった。何も考えていなかった。心は暗い空白となった。それでも彼はじっと祈り続けた。その内、どこからか明るい光が差してきた気がした。

 祈りながら、彼はその感覚だけを感じていた。自分の内面は空洞でしかないが、それを誰かが見ているーーその視線こそが光となって、彼の奥底に差しているのだ。彼は誰かの眼差しを感じた。それは違う誰かだった。「他人」だった。彼はその肉体を、空洞の心で感じた。いや、彼の心が空洞だったからこそ、それを感じられたのだろう。

 彼はその存在に暖かさを感じた。今、この世界に誰もいない。世界には自分一人しかいない。他には生物はいないーーにも関わらず、彼は自分が一人ではないというのを悟った。彼の心は、空虚は、温かい光で包まれた。

 そこで感じたものを、彼はとても言葉にできなかった。それは、そのような論理に押し込められない何かだった。だが、彼は確かに感じた。空白な心に誰かの温かい手が触れるのを感じた。その手は透明な手で、彼の中のイメージとしては光として現れたのだった。

 彼は目を開けた。薄く開けた目で世界を見る。その顔は、とてつもなく深い眠りから覚めたばかりのようだった。

 振り返ると、地下室の光景が見えた。階段の方から光が漏れている。暗がりにいた彼からは、光は極めて眩しいものに見えた。その外には荒野となった世界が広がっているはずだった。

 祈りを捧げて、心が落ち着いた彼は、いつものように食事をする事にした。(とにかく食べよう。とにかく) 椅子に座って、缶を開けた。棚に置いてあった古びたフォークを思い出し、ベッドの端で拭いて綺麗にした。フォークを使って、缶の中の鯖と桃を食べ始めた。

 彼は食べながら思った。(何も変わっていない。世界は何も、変わっていない。俺はこうしていつもの祈りをしてから、食事をしている。いつも通りだ) 男は考えながら、食事した。彼の心にはもはや孤独はなかった。あるのは漠としているが、満たされた心境だった。世界には大きな変更点はなかった、と彼は思った。それでも、現実は彼を苛み、やがて彼を死に至らしめるだろう。(別にそれでもかまわない) 彼は考えた。

 聖像をちらと見ると、像は男に向かって微笑んでいるように見えた。もちろん、彼の理性はそれが幻だと、十分理解していた。

 


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[一言] 伊藤計劃、藤子・F・不二雄の二人に共通するジュール・ヴェルヌや、P.J.ファーマー、タイム・トラベラー、ブルース・スターリング「ミラーグラスのモーツァルト」「ミラーシェード」、「クトゥルフ作…
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