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文豪


 寒い朝だった。珍しく早朝に起きた山田は、キッチンに行ってコーヒーを淹れた。タバコに火をつけて、吸い始めた。タバコとコーヒー。それは彼の起床の儀式だった。

 最近、山田は仕事をやめたばかりだった。アルバイトをクビになったのだった。

 いつもの揉め事が起こり、上司からさりげない「ここにいると他の人に迷惑がかかるから」の言葉をもらう。すぐに退職。山田はいつものように確認した。「最後に有休入れられますよね?」 上司は不機嫌な顔で「ああ」と吐き捨てるように言った。山田は別に気にしなかった。彼はエゴイストだった。

 山田はしばらく復職しないつもりだった。一年以上働いたので、雇用保険が効くはずだった。ほうぼうに借金していたが、返すつもりはなかった。それもまた、彼の身勝手振りを表していた。

 後で詳述されるだろうが、彼は自身を芸術家だと信じていた。ところが彼は世間に何の地位も占めていなかった。五年前に地方の小さなコンテストで入賞したが、大した意味はなかった。それを誇りにもしていなかった。

 彼は自分を「天才」だと規定していた。それは彼なりの厳密な審査を経てのものだったので、即座に他人が笑う事ができるものとも言い難かった。最も、彼は他人が笑うのを予測していたので、自身の事はあまり話したがらなかった。他人が笑う時には軽蔑を持って返した。彼からすれば、現代は凡人が多すぎる時代であり、凡人が覇権を握った時代だった。だから天才が世界から見捨てられてもやむを得ないと考えていた。

 山田はどのようなタイプの芸術家だったか? 彼は小説を書いたり、詩を書いたりしていた。要するに「作家」だった。作品は概ね難解な傾向にあって、自己告白である事は見て取れたが、どのような自己告白なのか、判断は難しかった。ただ世界に対する強烈な否定精神、自我への絶対的な信頼はどの行にも満ちていた。小説はストーリーを欠き、詩は形式の美を欠いていた。だがそれは深い沼地のようなもので、そこに入り込んだ少数の人はその作品を深く愛したり憎んだりしつつ、なかなかそこから出ていくのが難しかった。彼はそんな作品をポツポツと作って発表していた。

 彼はそうした作品をインターネット上に発表していた。フリーペーパーや、廃刊した雑誌に詩と評論が載った事があったが、言うに足るほどものではなかった。要するに彼は無名の作家だった。彼自身は傲然としていた。無名である事を何とも思っていなかった。「セザンヌだって無名だったじゃないか」 彼はそう言った。彼は自分の中にあるものを深く信頼していた。

 彼の作品はインターネットに載って、若干のファンを獲得していた。ファンの数は、精々、二十とか、三十だったろうか。あるいはそれも多すぎて、十程度だったかもしれない。いずれにしろ、少数のファンは彼の作品に心酔しきっていた。それは酩酊であって、現在の物質中心社会に対する、孤独な自我の逃避場所として受け取られていた。現実に生きづらさを感じていた文学好きのごく少数の人間が彼の作品に惹きつけて集合した。彼の作品には、世界に対する否認と、精神主義があった。精神は肉ーー物質に反するものとして捉えられていた。それ故に、世界に疎外されていると感じていたごく一部の人に、独自の場所を提供した。それは非常に小さな集まりだったが、集まりには違いなかった。

 傲慢な天才、時代に先行しすぎた「天才」たる彼にはもちろん、ファンは物の数ではなかった。彼は人間を軽蔑していた。同時代の愚民に受け入れられるはずがないと思っていたし、ファンがまるで自分を理解しきったかのような顔をするのに軽蔑の視線を投げかけた。最も、彼はファンから利益を得られる機会があればそれを余す所なく利用した。彼は物質を否定していたが、利用できる機会があれば平然と利用した。彼にはそれが精神主義と反していないという確信があった。ファンが「お金をあげましょう」と言ったならば、傲然と、礼の一つもせずにそれを受け取っただろう。「天才」にはそれくらいの崇拝は当然だと心得ていた。

 山田は傲慢だった為に、世界に受け入れられるのを拒絶していた。それは彼にとって取るべき当然の態度だった。しかし、彼は世界に、自分が世界を拒絶している様を見せつけたいという欲求があって、それが彼をインターネット上に投稿するという行為に至らせていた。彼自身は、否定という形においても、世界を必要としているという欲求があると、自身認めようとはしなかった。彼はあくまでも世界を見下ろしているつもりだった。彼は大衆から遊離した存在であり、それに並ぶものはない。自分はそれだけの研鑽を積んできたのだ。他の人間はクズの集まり。尊敬する人物は過去の歴史の中にだけいる。愚かな時代には自分に並ぶ者はいない。本気でそう信じていた。

 

 山田はコーヒーを飲み終えて、外に出た。普段は昼過ぎに起きて、夕方まで外に出ないから、早朝に外に出る事はなかった。なんとなく外の空気を吸いたくなって外に出た。

 扉を開け、廊下に出ると、胸一杯に空気を吸い込んだ。「心地よい朝」というものだったが、山田の目はどんよりと曇っていた。彼の表情はまるでこの世のなにものにも心動かされたくないといった風だった。彼は険しい顔で、廊下を歩いて階段を下りた。光に当たろうと思ったのだった。

 階下に下りると、彼は無意識的に郵便受けを開けた。いつもの癖だったから、何も考えていなかった。そこには分厚い封筒があった。思い当たるものは何もなかった。(なんだ?) 封筒を取り出すと、重たい。(役所からか?)と考えて封筒を見ると、差出人の名前が丸文字で書いてあった。

 

 小林沙織

 

 その名前を見た時、一瞬、それが誰だかわからなかった。すぐに思い出せなかったというのは、彼の冷酷さを示す証拠になるだろう。一瞬後、山田は思い出した。(ああ、あいつか…) 彼は思った。(今頃、何の用だ? …もう何の用もないはずだろうが) 彼の中に苛つきが生まれた。

 

 小林沙織は、山田が付き合っていた女だった。先々月に別れたところだった。山田は既に小林沙織をすっぱりと忘れていた。彼女からそんなものが届いたというのは意外でしかなかった。

 山田は一瞬、封筒を捨ててしまおうかと思った。そのまま、ゴミ袋に突っ込んでおこうか。そうしようかと考えたが、法律に関係するような事柄が書いてあって、自分が糾弾されるような事になれば面倒だ、と考え直した。はっきりとではないが、山田は沙織に色々問題の種になるような事をしたという自覚があった。彼は渋々、封筒を持って部屋に戻った。

 「せっかくの早朝が台無しだろ」

 山田はぶつくさ言ったが、実際、朝の心地よさなど大して感じていなかった。部屋に戻り、机の上に封筒を投げ出した。封筒の裏が表になっていて、『小林沙織』の文字が気になる位置にあった。山田はそう感じて嫌な気持ちになった。中身を開けなければならないだろう、と感じたものの、まだ先に置いておきたい気がした。キッチンから六畳の自室に戻り、本を読みだした。

 使い古した座椅子に座り、集中して本を読んでいるつもりだったが、意識の片隅に「小林沙織」の名前が何度か出てきた。(あいつ、今頃、何の用だ?…) 何度かそう思ったが、動かなかった。その思いが三度こみ上げてきた時、山田は諦めて、「クソッ」と短く言って立ち上がった。本を放り出して、キッチンに戻り、封筒を取り上げた。乱暴に封筒を引きちぎり、中を開けた。

 それは長い手紙だった。女らしい丸い字体で書かれていた。用紙が積み重なっていた。「おい、今どき、手紙なんて。あの馬鹿女…」 言いながらも、わざわざ手紙という様式で伝えようとしてきたという事は、何か重大な用件なのではないか、と思わざるを得なかった。山田は最初の行に目を走らせた。

 

 「拝啓

 

 …拝啓なんて今、書きましたけど、あなたはこういう飾り事は嫌いでしたね。あなたが、拝啓の文字だけを見て「くだらない女だ」と言っている姿が目に浮かびます。ですが、私は馬鹿な女として…そうです、私は馬鹿な女ですし、他の何者でもありません(この手紙で訴えたいのもその事です)。

 私は馬鹿な女です。それをこの手紙では言おうと思っています。もちろん、私はあなたのように文才に恵まれているわけじゃありません。だから言葉はたどたどしく、言いたい事も言えないし、この文章だって消しカスだらけの汚いものになるでしょう。ですが…いや、いいえ、どこから始めればいいのでしょうか。実を言うと、私もあなたに何を言いたいのか、はっきりわかっているわけじゃないんです。それでもあなたに何かを言わなければいけないという気持ちが募って、私を手紙という手段に走らせたのです(メールじゃ駄目)。

 私はあなたを憎んでいます。強く。だけど、あなたの言い分も間違いじゃないと感じています。だけど私は…なんというか…侮辱されたという感情を抱いているのです。その感情についてあなたに伝えなければ…そう思ったのです。これは一種の使命感です。そうです、ただ女の恨み辛みだけではなく、本当はもっと高尚な感情に根ざした行為であるように思います。だけど私は愚かだからそれがうまく言えません。」

 

 読みながら山田は、過去から硬い石のつぶてが飛んできたような、鋭い刃物が飛んできたような気がした。(くどくど…女はこれだから…どうせ自分の内面とやらにケリをつけられず、くどくどと俺に愚痴を言ってきているんだろう。よくある手だ。植物的な、粘着的なやり方だ。なんだ、これ今頃、手紙などと…。だいたい、お前との関係はもう切れているだろう。俺はお前とはもう無関係なんだ)

 山田はそう考えた。最も、彼がこんな風に考えたのには多少の注釈がいるだろう。

 実際、山田はもう小林沙織に何の未練も感じていなかった。沙織とは、インターネットを通じて出会った。沙織は二十歳そこそこで、山田は十五も年上だった。関係も、年齢に比例するかのように、山田が専制君主的な所を見せた。

 山田が吹っ切れていたのにはもうひとつ、違う理由があった。既に別の女を見つけていたのである。彼は手が早い方と言えたが、その気にならなければ何年も、いや、何十年も女とも男とも、誰とも付き合わずにいられただろう。しかし小林沙織と別れた後の彼は早かった。彼はネットを通じて、一人の女子高生と懇意になった。彼女は、学校と家庭で孤独を感じていた。知力が高く、ネット上に載った素人の小説などを見ている内に山田の作品に出会い、興味を持ったのだった。彼女もまた稚拙な詩を投稿したりしていて、双方のアカウントを通じて交流が行われた。その内、実際に会おうという話になって会う事になった。

 まだ一度会って、デートらしき事をした程度だったが、山田は、色々な話をまだ未熟な少女に吹き込んで、すっかり相手を自分の領域に入れ込んでしまっていた。女の方でも、(あの人は稀有な人物だ。「天才」かもしれない)と考えていた。山田は一度会っただけで、もうどうにでもなると思っていたものの、まだ二、三度は慎重に会わなければならないと考えていた。要するに、彼はこの手の事では功利的に動く事ができた。『最初は相手に合わせる。それからは俺の勝手』 それが女に対する方法だった。当然、そんな彼を嫌う女性もいたが、彼はそういう人間を無視した。

 相手はまだ女子高生だったから、行為にまで至れば条例違反になる可能性もあったが、山田は気にしていなかった。未成年だったから、相手の親も考慮に入れなければならなかったが、それもほとんど考えなかった。彼は倫理に反しているかどうかを気にしていなかった。

 彼においては、そうした誘惑行為は、彼の「高尚な」芸術とは分離されていた。少なくとも、彼は分離されていると考えた。その矛盾を彼は時代のせいにした。そうした矛盾は時代の過ちから、優れた人間に押し付けらけれたものである。バランスの取れた天才はバランスの取れた時代にしか出てこない。壊れた時代においては、自分のようにアンバランスな天才が出てこざるを得ない。そんな思考をくどくどと重ねていた。

 それに、彼自身がその矛盾から苦痛を得たとしても、作品がその苦痛を吸い取るようにできあがっていた。そうやって、作品は彼の内面を吸い取って成長していた。だから彼は矛盾から起こる苦痛をも、平然と自分の糧としていた。芸術に答えはない。だから、苦痛は無限循環を描く事になるが、同時に無限に救済され続ける事にもなる。彼は芸術に賭けていた。その為に、そこから起こる人生の欠陥に気づかないでいた。

 

 彼はそんな立場だったので、すっかり小林沙織を忘却していた。彼女は女神ミューズではなかったし(そう考えた事はなかった)、必要な異性ももう次に控えていた。そんな風に山田は考えていたからこそ、沙織からの手紙は意想外であり、邪魔なものに感じたのだった。

 (俺への恨み言を言って満足か? あの女?)

 彼はそう考えて、手紙を読み出した。実際は、読みながら、文学者としての彼にも手紙はどこか響くものがあって、彼の無意識はそれを感じたが意識はそれを否定した。……が、何より、手紙の先を示す方が話は早いだろう。

 手紙は次のように続いていた。

 

 ※

 

 「私は自分の感情を整理する為に、あなたと出会った所から始めましょう。私は、あなたを愛していました。もちろん、若い女の未熟な恋かもしれませんが、本気でした。…ですが、今になってみると、それは作家としてのあなたを愛していたのか、一人の人間としてのあなたを愛していたのか、どちらなのかどうしてもわからないのです。その事は私を苦しめました。私は何度も何度も考えました。考え続けました。遂には、あなたは、一人の人間ではなく、へんてこな、抽象的なわけのわからないものではないかという結論に至りました。あなたは、半人半馬のケンタウロス。そういう奇妙な生物なんじゃないかって思いました。ですがそんな結論だって、あなたにかかれば馬鹿な女の馬鹿な答えという事になるのでしょうね。

 ああ、また私は、結論から始めてしまったようですね。私は、あなたとの出会いから始めたいのです。こうして書く事、伝える事によって想いを整理したいのです。あなたはどうせ、私をすっかり整理しきってしまったんでしょうけど、私は整理できません。あなたにはこれから書く事の大半は無用でしょうから、読まずに飛ばしていただいても構いません。これは私自身の為に必要な事だから、記すんです。

 

 あなたとの出会いは、もちろん、あなたの書いた文章でした。短編小説でした。今思えば、それが不幸の源だったのかしら? もし、あなた自身と最初に会っていれば、私は決して恋などしなかったでしょう! …いえ、わからないわね。なにせ馬鹿な女だから。あなたの虜になったのかもしれない。これからだってなる可能性がないとは言えない。

 まあそんな事はいいです。あなたの短編小説。今も覚えています。素敵な小説でしたね。そこには孤独が封印されていました。それも、それぞれの人の悲しみに呼びかけるような、そんな不思議な文体でした。私はそこに自分自身を見つけたと思いました。人に言いたくて言えない感情が漏られている。そう感じてしまったんです。

 あの小説のラストの場面、短い小説でしたが、なんだかとても印象的でした。雨の降る中で主人公が自殺の考えから逃れられないという…私はそこに、自分自身の孤独を見出しました。

 それからです。あなたの事を追いかけるようになりました。あなたはインターネット上で、他にもアカウントを持っていて、日常の細々した事を呟いたりしていましたね。そうしたものも追いかけるようになりました。

 私は隠す事もない…そう、孤独でした。大学生でしたが、あまり友達ができませんでした。入学してサークルに入ったのですが、なんだかついていけなくて、やめてしまいました。ハンサムな先輩に口説かれたのですが、拒否しました。どうして拒否したのか、自分でもわかりません。先輩が嫌いではありませんでした。むしろ、ほのかに好意を持っていたぐらいでした。ですか、その先輩が私に好意を持って口説いてきたという事実が、何だか、私を幻滅させました。私は拒絶しました。その先輩は嫌いではなかったのに。

 サークルもそうですが、大学生活には何だか馴染めませんでした。陽気な、大学生らしいノリについていけなかったのです。その生活は、何だか大切なものをどこかに取り落してきたように感じていたのです。学業に邁進する事もできませんでした。努力不足と言われればそうかもしれませんが、何だかそれも、本当に大切なものとは違うような気がしていました。

 私は両親とも、兄とも、それほど仲が悪いわけではなかった。だけど、メールなんかしてると、(ああ、これは全部お芝居なんだな)と思う事があった。それはままごとのような人間関係。どうして私がそう思ったか、わからない。だけどふとそんな風に思う事があった。普段は仲の良い家族だったのに。

 そんな私の心の空洞に、あなたの小説はしっくりと収まった。いや、収まってしまった、というべきでしょうか。私はすっかりあなたの書いたものに入れ込んでしまったのです。

 それからあなたを追いかけました。あなたのファンになりました。あなたが発表する文章を残らず読みました。時々、難しくて理解できなかったけど、それでも、あなたの書いたものは何か「大切なもの」に触れているような気がした。

 それで運命のあの日、私はインターネットを通じて、メッセージを送りました。メッセージ自体は、単純なファンのメールでしかなかった。あなたもそれくらいは覚えているでしょう?

 …言いたくない事も、はっきり言いましょう。私はメッセージの最後に「私は二十一歳の女です」と書きました。自己紹介のフリをしていましたが、そこであなたのリアクションを期待していた私がいました。つまり、あなたが若い女性である私に興味を示すのではないかと。それは完全にプラトニックなものではありませんでした。つまり、結局は私は愚かな女で、ただ精神ではなく、肉体として愛される事にしか興味のない馬鹿なのかもしれません! 

 私はあなたに期待していました。期待を胸に秘めておこうと思っても、どうしても無理でした。あなたに会いたい、現実のあなたに会いたいという気持ちを抑えきれなかったのです。随分悩んだけれど、自分の気持に抗いきれなかったわ。私は意を決して、メッセージを送りました。それがどれほどの決断だったか…ああ、あなたには生涯わからないのでしょうね!

 メッセージを送った後、私が何を考えたか、わかりますか? 私はあなたがその箇所を無視するのを期待していました。私が若い女である事など、全く気にしないあなたを望んでいました。だけどその下では、密かに、興味を示さないだろうかとじりじりしていました。私は自分の容姿にはそれほど自信を持っていませんでした。ですが、「普通の若い娘」に見られるくらいの外見は備えていると思っていました。

 あなたはメッセージをくれましたね。だけど、それはとっても素っ気ないメッセージだった。あなたは、礼を述べた後「今、自分は退屈しているところだから、もしよければどこかで会う事はできないか」との事でした。

 私がどれほど有頂天になったでしょう! 私が、憧れの人からそんな風に言われてどれほど嬉しかった事か! ですが、その嬉しさが私をその後、どんな残酷さに突き落とした事か! …いえ、私は今も、その残酷さの中にいます。私は残酷な境地に落ち込んでしまいました。それは高い峰の上から逆さに落とされるようなもので、私自身が巻いた種とも言えましょう。ですが、その時の歓びは純粋なものだった! ああ、あの時、なんと嬉しかった事でしょう!

 私は天にも舞い上がらん気持ちでした。こんな通俗な比喩を用いたら「天才」のあなたは笑うのでしょうね! ああ、天才なんてもううんざりだわ! …とにかく、嬉しかった。あなたに会う事になって嬉しかった。幸い、すぐ会える距離だった。あなたのスケジュールに合わせて、Y駅近くの喫茶店で待ち合わせた。

 私は指折り数えて、その日を待っていました。だけど、同時に怖かった。ものすごく怖い髭もじゃの男が出てくるんじゃないかと思った。難解な哲学ばかり言う恐ろしい男が出てきて、いきなり私のような小娘を叱り飛ばすんじゃないかと、怖かった。あなたが怖かった。

 私はぶるぶると震えていた。私は…あなたに希望を賭けていた。私にとって、あなたは一つの出口だった。光だった。私を暗闇から連れ去って、光のあたる場所に置いてくれるんじゃないかって。その時には「あなた」も一緒にいてくれるんじゃないかって…。ああ、なんて馬鹿な考えなのかしらね! 今から考えれば。あなたと会いさえすれば、何か変わるんじゃないかって本気で信じていたわ。

 それもこれもあなたの作品の魔力のせいだわ。ああ、作家なんてものとは作品だけと付き合えばそれでいい。一流の作家は作品に全てを吐き出しているから、生活は適当だ、なんて話を聞いた事がある。あなたに会う前にその話を聞いておけばね! …いや、聞いても無駄だったかしら?

 当日が来て、私は念入りに化粧して…もうこんな事をくどくど話すのはやめましょう。どうせわかっている事ですしね。私は五分遅れて喫茶店に行きました。それは実は策略だったの。何の策略だったかって? …ああ、聞かないで! とにかく、私は五分遅れて行った。古びた喫茶店でしたね。曇り空だった。高級そうな店内で、あなたはこんな所ばかり来ているのだろうかと思いました。あなたは私を見つけ(前日に服装を連絡しておいたのだったわね)、手を振りました。あなたは、髭を生やしていなかった。大男でもなかった。ごく普通の、ぼんやりした青年だった。どこにでもいそうな青年だった。私は近づきながら考えたわ。(この人が本当に山田さんかしら? 本当かしら?)

 「はじめまして。山田です」

 あなたは座ったまま、軽く頭を下げた。私はあなたをじっと見ていました。本当に、目の前の人があの山田さんか信じられなかった。こんな普通の人のはずはない、とどこかで考えていました。

 あなたはパーカーにジーンズでラフな格好でした。髪は長くて、引きこもりの青年という感じでした。私が予想していた恐ろしい、野太い声とは逆で、高い声をしていた。繊細そうな人だなあと思った。あなたは何故か、目線を合わせようとしませんでした。私は立ったまま、深々頭を下げました。

 「小林沙織です。はじめまして」

 あなたは私の口のあたりを見て、やっぱり視線を合わせなかった。

 「沙織さん。どうぞ、お座りください」

 あなたは最初に、下の名前を呼んだ。違和感のようなものを感じたけれど、はっきりとは意識しなかった。私は言われた通り座った。あなたはコーヒーを飲んでいた。もう半分くらい減っていた。

 「沙織さん、何か食べました?」

 「え?」

 「お腹減っていたら、何か注文されたらどうですか? 僕は何か頼もうと思います」

 あなたはそんな風に言った。お腹は減っていなかったけど、フレンチトーストを頼んだ。あなたは本当にお腹が減っていたみたいで、オムライスとサラダを頼んだ。私はそれを見て何だか奇妙に感じたの。何が奇妙だったのか、言われてもわからないけれど。

 …あなたはとても優しかった。私はなんだか感動したけれど、同時に、どこか期待していた(恐れていた)ものとは違うのだとも感じていた。恐怖は消えていったけれど、同時に、期待も消えていった。

 「私、あなたのファンなんです」

 私は話の途中に突然言った。あなたは覚えていないかもしれないけど。あなたはサラダを頬張っていた。

 「あなたの、太宰治について書いた評論が好きで。あれに、感動しました」

 「そう」

 あなたは素っ気ない顔をしたわね。急に冷たい態度になった。あの時は気が付かなかったけれど、あれは予兆だったのね。

 「まああれは…適当に書いたんだけどね。でも、太宰治なんて人はみんなはもう理解したと思っているだろうけれど、天才というのはそういうものではないんだ」

 「…どういう事ですか?」

 「天才は大きな山のようなもので、みんなは麓でウロウロしているだけなんだ。麓でウロウロしているだけなのに、『わかった』『理解した』と言っている馬鹿が多いけれど、彼らは山を登った事がない。山というのは実際に自分の足で登った人だけにしかわからない。山上の風景だってそうさ。自分の足で登り通さないと見えてこない。普通の人には、決してわかりっこない。彼らは登れないからね。天才はだから天才で、山はだから山なんだ。でもまあこんな話はやめましょう…」

 あなたは俯いて、訥々と話した。興味深い話だったけど、あなたは恥じるようにすぐに打ち切ってしまった。

 

 あの日をきっかけに私達は親しくなって、付き合うようになった。その経緯については詳しく言う必要はないでしょう。

 あなたの話は面白かった。私には知らない色々な事を教えてくれた。二、三度目までのデートは楽しかった。私の知らない世界をこの人は知っているのだ、と思った。その時は勘違いしていたけれど、この人は私より遥かに人生経験が豊富で、教養もあるんだと感じたわ。

 何よりも、あなたには大学仲間とは違う魅力があった。大学の女子はみんなジャニーズファンだった。テレビとスマホだけ見て、流行りのものについて話すだけ。男子も同じようなものだった。私ね、あなたと会う前に、ある人とデートした事があるの。バイト先で知り合った他大学の先輩だった。彼はインテリで、色々な事を知っている人だと私は思っていた。色々な本や映画を知っている風でね。それでバイト帰りに誘われた時にOKしたの。

 だけどレストランで喋った時に、ふいにこの人は全くの俗物だとわかったの。その人は色々な哲学者や作家の名前を知っていたけれど、一つも読んだ事がなかった。それがわかったの。だけどその人は全部知っているような顔をしていた。

 「もう哲学には飽きたよ。あれは若者のやるものだよ」

 彼はしたり顔で言っていた。彼は大学四年生で、まだ二十二歳だったのに『若者のやるもの』だなんてバカバカしい! あの人が『哲学』の何を知ってるって言うの? 私、吹き出しちゃったわ。

 …でも、あなたはそういう偽物じゃなかった。メッキではなかった。あなたは本当に『考える人』だった。それは言っておかなければならないでしょう。私が見たあなたは、確かに私を感動させた文章を書いたその人だと思った。それは事実。

 だけどあなたはそうした事を話すのを嫌がっていたわね。それはよく覚えている。話すと熱中して一通り喋ってしまうけど、すぐに黙り込んで『こんな事は他人に話すもんじゃない』とボソッと言う。そんなあなたを何度も見た。

 それと、これも言っておかなければならない事だけど、あなたはデートのお金を私に支払わせたわね。『今、持ち合わせがなくて…』と頭を掻きながらあなたは言った。『だったら私が出します』 私はそう言ったけど、おかしいなと思っていた。あなたがいくらアマチュア作家だと言っても、あなたは社会人で私は学生ですものね。でも、そんな大した額でもなかったし、最初は気が付かなかった。私は騙されていたのね。あの時から。

 

 あなたは最初は優しかったわね。色々質問しても、答えてくれた。もちろん、さっき言ったように、話したがらない素振りを見せた事もあったけど、最初はそれは薄かった。でも付き合いが深くなるほど、ますますあなたは話したがらなくなったわね。あなたは私を「話すに足らない女」と見ていた。それが、私には辛かった。

 …それでも、最初は楽しかったの。あなたが世界を見ている目が豊かなもので、辛辣な視線のその背後に大きな視点が動いているのが感じられたから。だから最初は楽しかった。

 ねえ、私が一番最初に何に幻滅したか、あなたにはわかりますか? …いいえ、あなたは決して、決してわからないでしょうね。あなたには「わからない」という事が宿命なんです。どうしても私にはそう思われます。というのは、あなたにとって私なんてなんでもないからです。

 正直に言いましょう。最初に体を重ねた事がありましたね。くどくどと言いません。最初の時です。その時…私はひどく傷つきました。あまりにひどく傷つきました。女としての悦びなんてなかった。帰り道、私は歩きながら一人で泣いたんです。「こんなはずはない、こんなはずはない」って一人呟きながら。

 ここまで書いてもあなたは私が何に傷ついたか、わからないんでしょうね! ああ、作家って奴は!

 私はあなたが、私を人間としてではなく、物として扱った事にひどく傷つきました。私は物として、動物的に取り扱われました。私は自分が欲情の対象である事を素直に喜べるような人間ではありません。何より、作家として尊敬していたあなたが全く劣情の虜になっている事に、私は驚き、苦しみました。

 もちろんそんなものは偽善だとあなたは言われるでしょう! お前だって何かを期待していたんだろうとあなたは言うのでしょう! そうです、確かにそれはそうです。だけど、私はあなたが、あまりにも私を人として見ていない、ただの物として扱うのにひどく辛い気持ちを味わったのです。

 あなたがもっと人間的に、優しくしてくれればあれほど苦しみはしなかったでしょう。あるいは私が『男』をよく知らないうぶな女だから何も知らなかっただけだ、とあなたは切り捨てるつもりですか?

 ですが、私にはどうしても解けない事が一つあるのです。それがこの長たらしい手紙を動機でもあります。あなたはあんな素晴らしい作品を創った人ではないですか? あんなに私を感動させた人ではないですか? そこには、女を動物的に扱うというような資質は盛られていなかったはずです。少なくとも、そんなものは私の目には全く映らなかった。

 それとも何ですか? 私達、いえ、これは女に限らないですが、私達凡俗の人間は、あなた方天才の為の養分になれという事ですか? 時々の気晴らしの為に、凡人を適当に扱ったとしても、天才一人が生まれる為には仕方ないというのでしょうか? 私達に犠牲になれと?

 …あなたのおかげで、こうした議論も少しはできるようになったみたいですね。以前ならこんな事は想像もできなかった…。いいですか、あなたの大好きな、あなたの神であるシェイクスピアが傑作を書く為には、少女を一人、生贄に捧げなければならない。そんな状況があったとしたら、あなたはどうします? 天才崇拝のあなたは平気で少女を捧げるのでしょうね? 「天才の為ならやむを得ないだろう」と不機嫌そうに言いつつ。あなたは自分を天才の側だと自認しているのですから、そういう決定を平気でするのでしょう。あなたは永遠にあっち側にいて、こっちに降りてくる事などないのでしょうね?

 あなたはサマセット・モームの『月と六ペンス』を褒め称えていましたね。「あれこそ本当の人生だ」 何度もそう言っていましたね。だとすると、あの画家一人をこしらえる為に犠牲になったまわりの人間はどうなるのでしょう? 凡人だから仕方ないと言うのでしょうか?

 そうですね。きっと、あなたの方が正しいんでしょう。あなたの方が正しいんだと思います。あなたは天才で、才能は埋もれているだけで、未来に向けて輝きを貯めている段階。今はまだ無名だけど、やがては歴史に残る人。そうなのかもしれません。だけどそんな「天才」に傷つけられた魂は、何の価値もないのだと、完全に正しい真理とか法則が目の前に現れて告げたとしても、私はどうしても納得できません。私だって一人の人間です。私はあなたの天才よりも、自分の魂の痛みを取りたい馬鹿な女なのです。

 

 どうやらまた先走ってしまったようですね。話を戻しましょう。

 あなたに物のように扱われて、私はひどく傷つきました。ですが、まだその時には、私はあなたを信頼していました。いや、信頼しようとしていた。

 私はあなたを愛そうとしていたのです。それも、心からではなく、頭であなたを愛そうとしていた。頭で愛するなんて、今から考えると異常な、愚かな事に見えます。それでも私はそうすべきだと思っていました。

 あなたと付き合えば付き合うほど、あなたは私から遠くなっていった。あなたは冷酷さをどんどんと出してきて、私はいつもあなたの後を追いかけて小走りしたわ。

 ねえ、覚えてる? 二人で歩く時、あなたは大股で、私の歩幅を考えずに歩いたわね。だけどあなたは決して、こっちを気にしたりはしなかった。私はいつも、距離が開くと小走りして、あなたを追いかけた。だけどあなたは(早く来いよ)と振り返って見るばかり。私はあなたを追いかけて、いつも必死だった。その情景が今も浮かぶの。あなたはいつも一歩先を行っている。私ばかりが遅れる。

 私はあなたと度々会った。普通のデートらしい事をする時もあった。でも、ほとんど支払いは私だった。あなたは私とおしゃべりするのをだんだん嫌がるようになって、ただ私の肉体を求める事もあった。いきなりホテルに向かう事もあった。私がどれほど尊厳を傷つけられたか、あなたは少しも考えはしなかったでしょうね。

 私は、天才の礎になりたかった。あなたとの辛い付き合いの中で、いつしか自分を悲劇のヒロインだと思うようになっていた。そう思わなければ、辛くてやっていけなかった。私は、孤高の天才を密かに支える影の女だと、そう思おうとした。あなたはエドガー・アラン・ポーの奥さんの母親の話もしてくれたわね。

 「彼女は天使だった。貧窮の中にいたポーの詩を、ほうぼうの出版社に持ち込んでは断られていた。その時にはポーの若い妻は既に亡くなっていた。ポーの妻の母は、今もその名前をとどめている。それは彼女が天才の為に自分を捧げたからだ。この世界において彼女は犠牲を強いられたかもしれないが、遥かな歴史的時間の中では彼女の名前は永遠に留まるんだ」

 あなたはそう言って私の髪を優しく撫でてくれたわね。私にそうなれという事だったんでしょう。私もそう思おうとした。だけど無理だった。あなたに一匙の優しさがあれば、人間味があれば、私はあなたを誰よりも愛したでしょう。だけど、いつしか私はボロボロになっていったの。

 ねえ、私は疲れたの。だから別れた。あなたは私が別れを切り出した時、ショックなような表情を見せたわよね。私ね、実はあの時もまだ期待していたの。別れを切り出したら、あなたは優しくしてくれるんじゃないかって。それも、最初に私に見せた偽物の優しさじゃなく、目的のための優しさじゃなく、私を一人の人間と認めてくれた上での本物の優しさなんじゃないかって。別れを切り出したらあなたはショックを受けて、目を覚ますんじゃないかって。私を一人の人間として認め、優しくなって、本当に、本当に魂で和解できるんじゃないかって! ああ、そうなっていたらねえ!

 でも、あなたはそうじゃなかった。全然違った。あなたの目に光が宿る事はなかった。あなたは私に色々聞いて、作家にはそぐわない紋切り型の「ちょっと待ってくれ」というような下手なセリフで引き止めようとした。その引き止めも、全然本気なものじゃなかった。あなたが私を、自分の利益の為に引き留めようとするのが、はっきりわかった。あなたの口調、表情からそれが見えた。私はあなたの言葉を聞きながら、心の中でため息をついたの。あなたの目は覚めなかった。私は何でもなかった。

 それで別れたわけだけど、あなたは、最後のお別れの時にも、悲しみを見せようとしなかった。いや、あなたには真の悲しみなんてないのだわ。私ね、あなたと付き合ってそれを確信したの。あなたの中にあるのは、作家としての悲しみだけ。作品に書くためにあなたは悲しんだり、愛したり、傷ついたりする。だけど、その先に生きた人間は存在しない。あなた自身を含めてーーあなたが自分を犠牲にしているのは誰よりも感じたーー人間というものは全て作品のための手段でしかないと、あなたと出会って、付き合って、理解したわ。私はそれを裏側から、間違った風に理解したのね。こんな素晴らしい作品を作る人ならば、どれほど温かい感情を持っているんだろう? そう思ったけど、間違いだった。あなたは人間らしい感情を作品の中に全て曝け出して、あなた自身は抜け殻だった。そう、あなたは抜け殻だった。そうして残った金銭の支払いや、欲情の捌け口を都合のいい女…『私』に向けただけ。あなたとの付き合いを精算して、私はそう考えたの。

 それでも、あなたの目に光が宿る時はあったわね。覚えてる? その時も、いえ、いつもそうだったけれど、あなたは決して私を見ていなかった。自分も見ていなかった。というより、この世界のどこも見ていなかった、という風だった。あなたは遠い目をして、何かわけのわからない話をした。ゲーテはどうの、エンテレヒーはどうのという話をしていたわね。私に『ゲーテとの対話』を読むよう勧めてくれた事もあった。あの時のあなたは、あなただけは本当だったんでしょうね。

 「これは素晴らしい本なんだ。この本に全てが書いてある、と言っても過言じゃない。現代人は科学しか知らない。科学は、神が創った宇宙という体系の外面でしかない。彼らは本質を知らないんだ。狭き門から入るべきだよ。この本には全て、いや、全て以上の事が書いてある。というのは、ゲーテという人間が美しい自己完成を成し遂げた一つの宇宙だったからだ」

 そんな話を夢のように語った。あなたは『私』に語ったわけじゃなかった。他の誰か、全然未知な誰かに向けて語っていた。だけど、その話を聞く『誰か』は側に必要だった。…ねえ、そうでしょう?

 

 でも、こんな長たらしい愚痴を綴るのはもうやめにしましょう。あなたと別れて、私はあなたとの関係を一生懸命考えた(あなたは「考える事」の重要性も教えてくれたわね!)。あなたは一体、なんだったのか。私はどんな風に「使われた」のか。それを考えようとした。それで、考えて、整理して、あなたに話して、すっきりしようとしたの。だけどその結果はこれ…ただ汚らしい愚痴の連続になっちゃった。それでも、少しはせいせいしているところもある。

 あなたはどうせ忘れちゃっただろうけどね、あなたは五十万以上、借金しているの。それも、一緒に払った食事代なんかは抜いてよ。あなたがお金を貸して、とか、千円だけくれとか、今手持ちがないとか、そんな事の積み重ねでね、それだけの額になったの。どうせ覚えてないでしょうけど。

 私は返して欲しいなんて野暮な事は言いません。だけど、お金だって、あなたが軽蔑しているお金や物だって、この世界の一部分なのよ。そうでしょう? 私はそれで辛い気持ちになったり、苦しんだりもした。それでもあなたは気にしないんでしょうね。お金は返してとは言いません…。ただ、あなたは、精神の荒野で一人で、飢えて乾いて死ぬんでしょうね。私、その時にあなたの付添いの看護婦になるなんてごめんだわ。誰か、別の人に頼んで。お願い。

 ねえ、私があなたの一番傲慢に感じた部分はどこか、わかるかしら? それはね、あなたが自分の事を「孤独」だと言った時。あなたは言ったわね。

 「僕は孤独だった。誰からも理解された事はないし、これからも誰からも理解されないだろう」

 あなたはそう言った。私ね、その時はあなたを愛していた。いえ、あなたを愛そうとしていた。思い込んでいたのよ。あなたを愛して、側にいて、あなたの好きなようにさせて、あなたを孤独の淵から救おうって。そんな風に思っていた。私は自分を天使だと勘違いしていたのかもしれないわね。馬鹿な女。でも、あなたは自分を「孤独」だと言い切った。私は、あなたの孤独を救う事はできないし、誰もあなたを救う事はできない。あなたは孤独でありたいけれど、同時に他人も必要な、傲慢な人。それを強く感じたの。あなたの「孤独」は他人を無視したものだった。あなたは自分で作った穴に閉じこもって、世を嘆いてみせる。だけど、穴を作ったのはあなた自身だったのよ。他人がそこに入ろうとしても、あなたは拒絶した。完璧に拒絶した。

 あなたと別れて、一人になって、私は自由になったわ。せいせいした。あー、すっきり。ほんとにね。不思議な風が目の前を通り過ぎたわ。大学に戻って、みんなと話していても、何かふわふわしている。あなたという監獄から逃れられたという気持ちと、ここは空気が薄くって、なんだか頼りない場所だという気持ちと。あなたと一緒にいた時は地獄だった。だけど、あなたがそこに耐えているんだと思うと、そこは違う場所に感じられた。

 だけどね、私はそこに戻るのはもう嫌。私には無理なの。私は平凡な、馬鹿な女なのよ! そう、私が言いたかったのはこの事! 平凡で馬鹿な女だって、生きているのよ! 生きている!

 

 まあ、いいわ。さようなら、未来の文豪さん。隠れた天才さん。あなたの才能は本物だと思うわ。今も、あなたの創った作品は変わっていない。だけどそれを昔と違う目で見続けるのは私には無理。私は看護婦じゃない。私は自分の愚かさを取りたいの。あなたが天才だとして、私があなたを理解できなかった、支えられなかった人間だとしても、それでもいい。私には天才は無理。

 あなたの言うように、この世界は濁って、腐っていて、天才は世界の裏側に隠れてしまったのかもしれない。それでも私には世界の果てまで冒険する事はできなかった。さようなら、天才さん。あなたの作品は未来永劫、歴史の中で残るかもしれない。だけどね、私には長く続く作品よりも今を刹那的に生きる私自身の方が大事なの。そう、私はもうあなたを振り切ったの。精算したの。あなたの事は終わった。あなたは過去の、そして未来の天才。私には何にもない。だけど、私は幸福になるの。あなたには絶対になれっこない幸福を掴む。そうだわ、私は結婚して、子供をボンボン産んで、幸福な人生を歩むわ。あなたとの関係はただ若い頃の遊びとして精算されるでしょう。私ね、今はもうスッキリしているの。あなたといた頃とは違う。大学生活も悪くないしね。就職活動もやって、これからはまっとうに生きていきましょう。自称天才さんとはお別れして。

 さようなら、私の天才さん。私が愛そうとして、愛せなかった人。私、今でも夢を見るの。私の先を歩くあなたの後ろ姿を。私はあなたに追いすがろうとして小走りする。あなたの肩に手をかける。あなたがこっちに振り向く。…その瞬間、夢は覚める。あなたの顔はいつも見えない。そこから、現実が始まるの。私は大抵、涙を流しているわ。だけど、悲しいから泣いているんじゃない。…たぶんね。でも、もう、夢を見る事もないでしょう。これからは自分の人生を生きていきます。楽しい、平凡な、幸福な人生。天才も文豪も、人生を変える作品も決して現れる事のない人生。

 返信は必要ありません。言っても、しないんでしょうけど。もう、十分。それじゃあ、さようなら、未来の文豪さん。隠れた天才さん。あなたが得たものを私は手に入れる事はできなかった。でも、それでもいいの。私は馬鹿だから。

 

 さようなら 天才さん ただの『山田』さん」

 

 ※

 

 山田が手紙を読み終えた時、彼はまだ朝の中にいた。手紙を読むのに二時間はかかったと思って時計を見たが、実際には一時間だった。時刻は八時半だった。世界はまだ寝ぼけていた。

 山田は、文章を読むのは早い方だったが、今度ばかりはゆっくりと読んだ。読んでいる最中、小林と一緒にいた時の様々な情景が浮かんできて仕方がなかった。彼は何度も空中で手を掻くような仕草をした。それは目の前にちらつく思い出を追い払おうとするかのようだった。

 彼は手紙を読みながら、二つの感情を自分の中に抱いた。手紙の内容が彼にそれを促した。

 一つには苛立ちの感情だった。整理されたはずの過去が自己主張を始めた事に、苛つきを感じないわけにはいかなかった。その癖、手紙を読むのをやめる事はできなかった。

 もう一つは驚嘆だった。それは、否定し難い感情だった。山田は一人の作家として、率直な気持ちで、平凡な女だとみなしていた一人の人間に、独自の精神と、更にはそれを言葉で伝える手腕を感じたのだった。

 山田は手紙を読みながら何度も、彼女の姿を振り返ってみた。彼は彼女を軽蔑していた。深い論理の話はできない相手。それは山田自身、よく知っていたはずだ。基本的に、小林沙織は従順な女性だった。時に怒ったりもしたが、間歇的に噴き出すヒステリー的なもので、すぐに収まる類のものと思われた。要するに、山田は小林沙織を対等な人間と見ていなかった。

 ところが、その彼女が、こんな手紙を寄越すとは、自分の賢さを信じていた彼には予想外だった。小林がこんな風に、自分の内面を吐露し、鋭く、精神の牙城に迫ってくるなどとは考えられない事だった。

 手紙を読みながら、山田の中にその二つの相反する感情が大きく育っていった。だが、最終的には、苛立ちが驚嘆を押さえつけた。彼は世界に対する侮蔑を捨てられなかった。

 (あの女、こんな馬鹿な手紙寄越しやがって…。精々、せいせいしたろうさ。ああ、これだけ吐き出せばな。俺がこの馬鹿女に言う事など一つもない。だいたい、自分で馬鹿だとわかっているじゃないか…)

 彼は、小林沙織の姿を思い浮かべた。ところが、彼が実際付き合った女と、手紙の中に現れた彼女との間には相違があった。その差異は彼にとっては謎だったが、彼の軽蔑はその謎を解く事を許さなかった。彼はただ小林沙織という人間を、手紙をゴミ箱に捨て去る動作と一緒に、自分の意識から消し去ってしまいたかった。

 山田は手紙を読み終えた後、一分ほど宙を見て放心していた。その時ふと、彼女の香りを感じた気がした。彼はむず痒いような表情をした。次の瞬間、立ち上がった。手には手紙を持っていた。彼は手紙をくしゃくしゃにして、手近のゴミ箱に放り込んだ。放り込むだけでは飽き足らず、それをゴミ袋の奥に押し込んだ。

 そうしながらも小林沙織を思い出さないわけには行かなかった。今や、彼が自分の感情をなだめる番だった。(あいつは何の創造もできない…) 彼は考えた。

 (あいつが言っているのは、とどのつまり愚痴だ。どれだけ高等ぶったものとしても…そうだ、それだけは認めなきゃいけない。あいつはただの馬鹿女ではなかった。本人はそう言っているが、それはあの女が馬鹿じゃないからだ。…馬鹿じゃなくなったから、自分の馬鹿さを認識したとも言える。だがな…沙織、お前は間違っているぞ。お前は俺を傷つけて、勝ち誇った気持ちでいるだろうが、どう足掻いても、お前のした事はただの愚痴に過ぎない。愚痴からは何も生まれない。人は愛しもし、傷つきもし、色々あるだろう。要するに人は生きるわけだが、生は作品ではない。作品? そんなものはくだらないと言っても、流れていく生の中で残るものは何一つないだろう。ましてや、こんな世界ではな。あの女は俺と付き合って、俺に捨てられ、賢くなったのかもしれん。だがそんな賢さはどうでもいい。現に、あの女はその賢さを俺への憎悪としてぶつける事しかできないじゃないか。そうだ、あいつは『創造』を知らん。結局、あれの言うのは全て愚痴なんだ。馬鹿な女だ。そうやって、吐き出して、それで終わりだ。どこにも行く事はできない。俺は違う。俺には未来がある。俺は別の世界への扉の鍵を握っている。俺はあいつとは違う…。そうだ、そうだな。そうだよな。奴が自覚している通り、あいつは馬鹿だ。馬鹿な女なんだ。結局は、な。付き合っている間も馬鹿な女だと思っていたが、やっぱりあいつは馬鹿な女だ。そうだ。馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ…)

 山田はぶつぶつと独り言を言いながら部屋の中をぐるぐると回った。これ以上神経をかき乱されるのに耐えられなかった。彼は、過去から飛んできた刃物をどこかに片付ける必要があった。女の手紙を、意識の内からも排除する必要があった。

 

 落ち着いてきた頃、山田はタバコを吸う事にした。ベランダで吸おうと思って、灰皿を持って、外に出た。

 外は朝の日差しだった。空は青く、彼の位置から斜交いに、駅に向かう人々が見えた。部屋は三階で、彼は毎日、三階まで昇らなければいけない自分の身分を呪っていた。

 山田はタバコを気持ち良さそうに吸った。忌野清志郎の「トランジスタ・ラジオ」という曲を思い出した。不良少年が屋上でトランジスタ・ラジオを聴きながら、タバコを吸う曲だ。少年は学校という狭い場所から、ラジオに流れるロックミュージックを通じて大きな場所に抜け出そうとする。忌野清志郎自身にそういう経験があったのは想像に難くない。

 (俺もまた「トランジスタ・ラジオ」を持っている)

 彼はそんな風に考えてみた。駅に向かう人は、みな足早だった。彼らは正しい目的を持って、正しい場所に歩んでいた。山田は一度もその列に加わった事はない。少なくとも、意識の上ではいつもそうだった。

 彼は心地よくタバコを吸っていると頭では思っていた。珍しく出くわした朝の風景と、洗われた空と、昇っていく煙は感情に調和した良いものだと考えていた。そうであるはずだった。

 しかし、彼の無意識を底からチクチクと突くものがあった。彼は意図的に気づかない振りをした。彼は心地よさに浸ろうとした。

 「私は幸福になるの」

 ふいに、小林の声が聞こえたような気がした。「なれっこないさ」 山田は言った。「なれるわけがない」 もう一度言った。

 山田はタバコを消し、道を見た。人は見えなかった。このままずっと人が見えなければいいのに。世界が終わればいいのに、とふと考えた。

 彼は自分自身に内在する後ろ暗い運命の予感が、捨てたはずの女の手紙という形を伴ってやってきた事を理解していた。だが『天才』たる彼には、それがどうしても認められなかった。彼にとって最悪な事は、彼の作品に何の価値もないという事だった。彼が軽蔑している女と自分も同列かもしれない、というのが最大の恐怖だった。そうして女の手紙は、そうした事を山田に突きつけているかのようだった。

 山田は急に不機嫌な気持ちになり、部屋に戻った。窓を閉め、カーテンも閉めた。もう二度と通勤の風景を見たくないという風だった。

 その時、彼が見るのをやめた通りに、サラリーマンが一人現れた。彼は何かに引っかかってつまずいて、こけそうになった。しかしすぐ体勢を立て直し、膝のあたりを払って、また歩き出した。彼は(ほんのちょっとしたトラブルに出会った)と、一瞬苦笑を見せたが、すぐに前を向いて歩き出した。サラリーマンの顔は、自信と期待に満ちていた。彼はまだ若く、大学を出たばかりの、希望を持って生きる『新入社員』の一人であった。

 

 

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