初恋
児島省吾は寝ぼけ眼で階段を降りてきた。日曜日で仕事は休みだった。時刻は十時過ぎだった。
リビングの扉を開けると、妻はテーブルに座って本を読んでいた。妻ーー綾子は本を置いて顔を上げた。
「あら、今起きたの。ねぼすけさんね」
その言葉はからかうようだったが、甘えるようでもあった。省吾はぼんやりした目で綾子を見た。彼女は微笑していた。
省吾は席についた。頭がぼうっとしていた。「コーヒー飲む?」 綾子が聞いて、省吾は頷いた。綾子は立ち上がってコーヒーを淹れに行った。省吾は綾子の後ろ姿に声を掛けた。
「あ、濃いのを頼む」
「はいはい」
綾子はコーヒーを淹れた。お湯は既に沸騰していたものらしい。すぐにコーヒーの香りがキッチンから漂ってきた。
児島省吾と児島綾子は仲の良い夫婦と言えた。喧嘩もほとんどなかった。綾子は、省吾という人間のツボを抑えていて、省吾に要求を通したい時、あるいは彼をなだめる時にどういう風な態度、どういうタイミングがいいのか知悉していた。一方で省吾は妻からの要求に寛大に答えてあげているという首長的な姿勢を取っていた。省吾は自らが寛容であると感じ、綾子は自分が省吾をコントロールしていると思っていた。
経済的には省吾の稼ぎの方が大きかった。綾子は週4日でパートに出ていた。子供を作ろうかという話も出ていたが、今の所は保留状態だつた。綾子は子供が欲しかったが、省吾の方はそこまででもなかった。そこに微妙な差異があり、かすかな不和をもたらす事もあった。
綾子は省吾の方が社会的にも大きな地位を占めていて、時に省吾が「男だから」「家長だから」という態度を見せるのを優しく受け止めていた。彼女は彼をそんな風に受け止める事が自分の力であり、能力であって、これがなければ男は駄目になってしまうと密かに感じていた。彼女はそんな感情を誇りに思っていた。一方、省吾の方は彼女の「誇り」には気が付かなかった。彼は自分の主張は当然の権利だと考えていた。
ただ、二人の関係は概してうまく行っていると言って良かった。二人は自分達の生活に満足していた。それは、彼らがいまだまどろみの中にいた事を意味していたかもしれなかった。まどろみの中にいる人々は幸福であり、何かが欠けているという印象がある。二人は自分と相手に、そして世界に満足して生きていた。だが、同時に眠っているようでもあった。
省吾はコーヒーを飲みながらぼんやりとテレビを見ていた。テレビでは星座占いをやっていた。綾子も席についていた。
「パン、食べる?」
省吾は朝食にはいつもパンを食べる事にしていた。綾子は既に一人で朝食を済ませたものらしい。省吾は寝ぼけた頭のまま綾子の顔を見た。彼女は微笑していた。
省吾はふと考えた。今、自分は彼女を一人の妻として、ごく親しい存在として見ている。ところが、さっき夢の中、あるいは起きた直後には彼女を全然見知らぬ人間として見たかもしれない。どこか面影を知っているが自分には遠い人物として眺められたかもしれない。
きっと頭のボケた老人などは、長年連れ添った妻や夫をそんな風に他人と眺めるのだろう。しかし、頭のボケた老人の方が間違っているとする根拠はどこにあるか? ある日、突然、妻の顔が見知らぬ何かに変貌する事もありうるのではないか? 今こうして親しい存在だと感じられているとしても、それらは経験の累積として今に続いていくものとして認識されているが…その線が切断される事だってあるのではないだろうか? 彼女は一個の「他者」である。そんな事だってないとも限らないだろう?
省吾は珍しく形而上的な問題に頭を悩ませた。…そんな事を知らない綾子は微笑しながらも、夫の視線に不安を感じ、茶化すように「私の顔に何かついてる?」と聞いた。省吾は「いや」と言って顔を背けた。綾子は、機嫌が悪いのかと思ったが、省吾がパンを食べながら「これ、おいしいね」と言ったのを聞いて(機嫌が悪いわけじゃなさそう)と考えた。
「それね、いつものパン屋の新商品。気になったから買ってみたの」
綾子が言うと省吾は「そうなんだ」と言いつつ、パンをぺろりと平らげた。綾子は同じパンをまた買ってこようと思った。
綾子は夕方からパートだったが、それまでは暇だった。省吾は休日に出歩かない方だった。綾子が「お昼どうする? 外で食べる?」と聞いた時、省吾が気乗りしない返事をしたので、何か作ろうと思った。省吾はぼんやり新聞をめくったりテレビを見たりしていた。
昼食はパスタだった。綾子がトマトソースのパスタを作った。夫は肉が入ってないと不平を漏らすとわかっていたので、彼の分だけ生ハムとルッコラを乗せた。夫はぼんやりした感じで昼食を平らげた。省吾は元々無口な方だったがその日はとりわけぼんやりしているように見えた。省吾の頭にはとりとめもない考えが巡っていた。緊張する仕事が続いていたので、その為の弛緩だったかもしれない。
夫婦は食後にソファに座ってテレビを見ていた。省吾は手元に本を置いてパラパラ眺めていたが内容は頭に入っていなかった。妻はテレビを見ていた。テレビでは最近出てきたタレントが初恋のエピソードを披露していた。省吾はテレビをちらと見て、そのタレントが綾子のお気に入りだったと思い出した。機知と小綺麗な見た目で出てきた、若い男だった。
綾子はじっとテレビを見ていた。彼女はふと省吾の方を見て「ねえ、あなた」と声を掛けた。省吾は綾子を見た。
「あなたは何か、初恋のエピソードある?」
綾子はからかうような調子だった。彼女は元気のなさそうな夫を元気づけようとしていた。省吾はそうした意図には気づかなかった。初恋、と言われて、彼の思考は記憶の隘路に入っていった。
綾子の言葉に触発されて、彼は「初恋」の記憶に辿り着いた。それは一人の少女を巡っての回想だったが、彼の中で変形された記憶となっていたので、生の経験の原型ははっきりとわからなかった。それは改ざんされていたかもしれず、省吾自身も指摘されたら否定できなかったかもしれない。だが経験の核心部分については、決して、時間が毀損したりはしなかったという確信があった。それはいわば、作家が現実にあったエピソードを作品に使うにあたって、エピソードの核にあたる部分は保存したまま細部を変更する、そうした作業に似ていた。
省吾は初恋の相手を思い出した。松田さん、という名前の普通の女の子だったが、今の彼、そうして当時の彼からすると独特の存在…つまり、この世に一人しかいない貴重な存在、それ以上世界のどこにも探しようのない女神であるように感じられていた。それが錯覚なのは事実だったが、ロマンチスト的気質を保存していた彼は錯覚を錯覚のまま保存しておきたいという願望を持っていた。
ここで言っておかねばならない事は、今さっき、妻に指摘されて始めて「初恋」の話が出たにも関わらず、省吾は初恋の相手、「松田さん」がその前に現れていた気がした事だ。それは久しく、彼が考えねばならない事、思い当たらねばならない事だったにも関わらず、その宿題は放り出したままになっていた。省吾は妻に初恋の話をされた時、そんな風に感じた。
省吾は、今朝の夢の中で「松田さん」を見たような気がしたのだった。それは過去の遠い幻影として今の彼の脳髄を叩いた…。しかし、ここでも夢の中の「松田さん」は茫漠としていた。松田さんの姿を夢の中ではっきりと見たというわけではない。そもそも夢自体が漠然としていて、ある甘い胸の痛みを包摂していたという事以外は何一つはっきりとしていなかった。彼はそこに松田さんが出てきたような気がしたのだった。夢の中に松田さんが出てきたのは、省吾の創作かもしれなかった。彼はある甘い気分と、初恋の相手とを自由連想法のように勝手に結びつけたのかもしれなかった。
ただ、彼はそんな風に感じた。要するに、松田さんの像、そのエピソードは、妻に言われて思い立った時、運命的なものに感じられたのだ。それは過去から今を貫く自分の本質の投影のように感じられた。省吾は、綾子から軽い感じで「初恋のエピソードある?」と問われた時、自分の中を駆け巡るそうしたイメージに圧倒されて、言葉に詰まった。
「初恋? その話、した事なかったっけ?」
省吾はごまかそうとした。その気配を綾子は敏感に察知したのか、やや意地悪い表情に変わった。
「いいえ。した事はないわよ。…わたしは聞いた事ないなあ。そんな話は」
そう言いつつ、何気なしに初恋の話を振った綾子だったが、彼女の中には既に嫉妬の感情が現れていた。しかし綾子はそうした感情を直接言葉にしたりはしなかった。綾子は夫に忠実であろうとしていた。夫を愛していたが、彼の底にあるものを疑っている彼女もまた存在した。
「そう? まあ、でも、しても楽しい話でもないよ。それに…その…昔の話だし。中学の頃だよ。…なんて事ない話だよ」
「中学? 初恋は中学だったの?」
「うん、まあ。中学の、同じクラスの子にちょっと想いを寄せていた。松田さんって言ったけど…」
「へえ、そうなんだ。で、その子とは付き合ったの?」
綾子の目がキラリと光った。(たとえあなたが付き合っていようと(どこまで行っていようと)私は気にしないわ)という風だった。
「付き合うわけないよ。そんなわけはない。君は、中学男子がどれくらいうぶなものか知らないんだ。中学男子なんて妄想だけで生きているのさ。僕は引っ込み思案だったし、付き合うなんて、夢のような話だったよ」
「そう。でも、付き合っている子だっていたんじゃない?」
「そりゃあいたけど。でも、それは随分進んでいる奴だった。チャラチャラしているというかね。…まあ、僕らが引っ込み思案のオタクだっただけだけど。僕らは夢想の中に生きていたんだ」
「その夢想の中にその…松田さんが?」
「まあね。そうさ」
省吾はそれ以上、その話をしたくなかった。一方、綾子は夫が嘘をついていなかどうか、また「松田さん」が夫の中でどんな存在を占めているのか、考えていた。綾子はほんの冗談のつもりで話を振ったのだが、今は省吾の初恋の話を詳しく聞きたがっていた。
「…付き合わなかったって言っても、何か一つくらいはエピソードがあったんじゃない? 告白したとか、されたとか」
そう言われた時、省吾の中で一つの情景がはっきりと浮かんだ。松田さんが教室の手すりに寄りかかって外を眺めている場面だった。省吾はそこに偶然、通りかかった。彼は彼女の黄昏れている背中を見て、苦しいほどの胸の痛みを感じた。
省吾はその事を、綾子に話そうかどうか迷ったが、結局、話した。とはいえ、彼は意図的に彼自身の内面の経歴を省いた。事実として隠蔽した事はなかったが、彼自身、大切な、あまりに大切な思い出として保存していた事(その事に今気づいた)は言わなかった。妻の態度から、それを言うと機嫌が悪くなるのが目に見えていた。だから省吾は松田さんの話を、簡潔に話した。
しかし今ここでその経験を立ち入って説明するにあたって、省吾の説明をそのまま記す事はあまりにも読者に対する親切を欠いたという事になるだろう。
※
児島省吾は極めて凡庸な少年だった。それに関しては全く言うべき事はないほどだ。彼はごく普通の少年だった。
中学生の彼は彼の言う通り、おくてで、オタク気質で、前髪を長く垂らした友人達とゲームの話をするばかりだった。下ネタの話をする時も、経験談として話す事はなく、ほとんどがフィクションだった。最も、その頃、彼らは自慰行為を覚え出したので、そうした話をする事もあった。ただそれらの会話はいかにも中学生男子然とした、馬鹿馬鹿しくも、くだらない雰囲気の中で行われた。
中学生の省吾は密かに、自意識が目覚め始めていた時期と言っていいかもしれない。最も、彼はほとんど眠るように生きていた。教師、友人、親らは、若年の者達を寝かしつけるように注意していた。彼らが目覚める事は即ち「反抗」であると取られた。学生は学校に行き真面目に勉強をする。大人は会社に行き真面目に仕事をする。世界は平衡を保っていると思われていた。その中で人々は世界に溶けて生きていくのを奨励されていた。
省吾に「反抗」の気配があるはずがなかった。何故なら、何も知らなかったから。ただ、彼の中で何かが疼いて、彼をして学校生活の『外側』に向かわせる事もあった。それは極めて漠然とした少年の志とでも言うべきものだった。それは例えば、休日に自転車に乗って闇雲に市外まで漕いでみるだとか、電車に乗って下りた事のない駅に下りてみるとだとかいうものだった。
だがなんといっても重要だったのは読書だった。彼は学校の図書室に通うようになった。ここにアドレッセンスの岐路、人生の分かれ道があるのかもしれない。省吾はまず国語の教科書に影響を受けた。その中にある文豪、太宰治や芥川龍之介の短編だとか言うものを読んで、内的な秘境の匂いを嗅ぎ取った。それは彼からすると秘密の場所であり、友人とも親とも教師とも分かち合う事のできないある内的な場所を指し示しているように感じられた。省吾はそうしたものに惹きつけられた。
後から考えれば、彼は無意識の内にそうした感覚を性的なものと結びつけていた。なぜそんな風になったのだろうか? おそらくは、誰かに密かに寄せる恋心は、文学に対する傾斜と同じく、他人と素直に分かち合えるものではないという共通項があったためだったろう。どちらも「秘め事」に分類される。あるいは自意識の発生が性の目覚めとも連関しているのかもしれない。彼の中で、世界に対する微かな抵抗と、自意識の発生、性の目覚めはみな同時期に起こった。
彼の中で内的なものが目覚めた。それが中学生期だった。彼が恋をしたのは、同じクラスの「松田さん」だった。「松田さん」は小柄な、笑うとにゅっと八重歯が出る可愛らしい子だった。どんなきっかけだったかは覚えていないが、いつからか、省吾は松田さんと廊下ですれ違う時などに、胸の高まりを覚えるようになった。ただ彼はそれを誰にも話さなかった。彼はただ悶々とした。
松田さんがどういう人物か、まるで知らなかった。ただ笑顔が可愛い、女子友達と楽しそうに談笑している所しか知らなかった。性格は良さそうな感じだったが、どういう人物か考えてもみなかった。性的な事に対する想像力もさほど伸びなかった。松田さんと手を繋いで歩いている自分を想像しただけでも、禁忌に触れているかのような感覚を彼は味わった。
省吾の家は言ってみれば、「公務員的家族」と言えた。謹厳で柔軟性を欠いた父親がいて、そうした空気が家を支配していた。性的な話はタブーであり、この事は後々まで彼を苦しめた。母は父に服従していた。そうした空気の中で、自分の性について考えるのは、闇の中に手を伸ばす事を意味していた。彼が悶々としたのも無理はない。それは外側に出てはならないという結論が最初から出ていた。答えは隠されていなければならなかった。彼は自分の中にあるものが間違いだと感じる習性を身に着けてすらいた。
そんな彼が「初恋」の感情を三年間も秘めたまま、ただ悶々としていたのも無理はなかった。三年間! 思えば長い期間だったが、彼にとってそれはそれほど長いとも言えなかった。…というより、そうした秘められた感情は彼の生活とは別の次元に存在し、別の時間を送っているかのようだった。その場所においては気づいたら三年間経っている、という風だった。
しかし三年目、高校入試も終わり、卒業式が近づいてきた時に彼の感情を揺らがさせる事柄が起こった。
きっかけとなったのは友人の村上だった。お調子者で、自分でもお調子者を演じているのを得意にしている節があった。(俺はみんなのためにあえて道化をやっているんだ)と村上は密かに思っていたが、まわりは気にしていなかった。彼を単なる道化と捉えていた。
省吾は村上とは別段、仲が良いわけではなかった。それでも、村上が省吾にとって運命の分かれ目になったのは、村上のトリックスター的な性格のためだったろう。省吾の仲の良い友人達はおとなしい、ボソボソ喋る男子ばかりだった。村上はそういうタイプではなかった。
省吾は村上と二人きりになる機会があった。移動教室で、二人してそこに向かっていた時だった。どうして二人で行動したのか、省吾は覚えていなかった。ただ、彼は村上と並んで歩く時に違和感を感じていた。(どうして、今日は村上と一緒なんだろう?)という疑問が胸をかすめた。
村上は陽気だった。その日、何かあったのかもしれない。理由はわからなかったが、とにかく上機嫌だった。省吾は村上とポツポツ学校に関する話をしていたが、村上が急に話を変えた。
「そう言えばさ、児島って好きな子っているの?」
学生によくある質問だった。普段だったら省吾は「いない」と答えて、それで話は大抵終わった。その時も「別に…いないよ」と言った。村上は、しつこかった。単に村上の性分・気分だったのだろうが、省吾はその気分にも後から考えると意味があった気がした。
「いいじゃん。教えてよ。誰なんだよ。誰? …同じクラス?」
しつこく聞かれても省吾は答えなかった。だが、省吾の口を開かせたのは次の一言だった。
「いいじゃないかよー。隠す事でもないだろ。だって、もうすぐ卒業だぜ? そしたら、意味なくなるだろ? 関係なくなるじゃん。誰が好きとかさー。言ってみろよ。言えよー」
『卒業』というワードが、省吾の心を叩いた。(そうか、卒業か…)と彼は考えた。彼は何故か、この気持もこの状態も永遠に続くような気がしていた。(卒業か…) 二度考えた彼は、重い口を開いた。彼の口からは「松田さん」の言葉が飛び出し、それは省吾にとってはあまりに重い一言だったが、村上には全く軽い言葉だった。「ははあ、そうか。松田さんか。マジかー」 村上のニヤニヤ笑いを見て、省吾はすぐにも後悔し始めたが、もう遅かった。
それから一週間は何もなかった。省吾は松田さんを見ると顔が紅潮したが、それは自分の想いを他人に話してしまったのを思い出した為だった。村上とはそれから話す機会もなく、村上は省吾を全く気にしていないように見えた。省吾の方でも、村上に話した事を忘れかけていたが、その頃に村上がまた近づいてきた。省吾が話してから一週間後の事だった。
村上は休み時間に省吾の席に近づいてきた。村上は間髪を入れずに次のように言った。
「松田さんにお前の事を言ったよ。そしたら、向こうでもお前が好きなんだって」
省吾はその言葉を聞いて唖然とした。何も考えられず、ぽかんと口を開けていた。
「…でもさ、満更でもなさそうだったよ。いや、ほんとに。『ああ、そう…』とか言って。嫌がってたわけじゃなかったよ。良かったなあ」
村上はポンと省吾の肩を叩いた。省吾は何か言いたかったが、言えなかった。村上は席を去ろうとしていた。その背中がゆっくりと、スローモーションのように見えて、何か言おうと焦ったが、やはり言えなかった。村上は席を去って省吾はそこに取り残された。
それから省吾は松田さんをまともに見れなかった。廊下ですれ違うと、うつむいて、顔を赤くしていた。気になって、休み時間などに無意識的にそちらの方を見ると一瞬目が合う事があったが、電光石火で目を反らした。時には、恥ずかしさのあまり立ち上がって教室を出て行った事もあった。
後から考えるなら、松田さんが実際にどう思っていたのかは全くわからなかった。冷静になってみると、(松田さんは自分を全く気にしていなかった)という結論に至るのだが、しかし次の瞬間には(いや、もしかすると…)という希望的観測が頭をよぎった。そんな状態が何年か続いた。今現在の省吾が振り返るのであれば、彼女は全然彼を気にしていなかったという結論になる。両想いなんて事はなかっただろう。
村上はいい加減な人間であるし、彼の言う事は信用できなかった。彼の言葉も、彼女の態度を明確に伝えていなかった。村上はいい加減な嘘をついたのだろう。何かドラマチックな、滑稽な芝居が起こりそうなカマをかけたのだろう…そう考えるのが自然だった。ただその時の彼はそんな風には感じられなかった。それに、実際の事は本人に確かめる他どうしようもないのだ。
…最も、問題は彼自身だった。今の彼からすれば、思い出だけが問題だった。ここで他者の問題は消え、省吾の内なる想いの問題だけが残る。彼は相変わらず…中学生のうぶさを残したまま、その思い出を秘められた場所として大切に保存し続けていた。それは三十歳になる「今」の彼の感慨だった。
卒業まではあっという間だった。高校入試も終わり、合格通知が来て、次の進路は決まった。卒業式は近づいていた。省吾は学校にいつものように通いながらも、松田さんが気になって仕方なかった。彼は生来の臆病さから、(相手から声を掛けてくれないかな)と思ったりもした。そうしたなら…全ての答えが出るだろう。彼自身も、何度も声を掛けようか迷った。
「あの…村上が変な事を言ったって聞いたけど…」
そういう風に話しかけよう。今日は話しかけよう。今日は駄目だった。よし、明日話しかけよう。省吾はそんな風に悶々とした。話しかけて、仲良くなる事はできるはずだ。そう思ったが、口も手も全く動かなかった。ただ中学生男子らしい葛藤の中にいた。
何故話しかけなかったのか? 後から考えても答えは出ない。怖かったのか。怖かったのだろう。だがそれが全てではない。フラれるのを恐れていたのか? そうかもしれない。だが、心の底にはそれだけではない何かがあった。それが何か、彼にははっきりわからなかった。
時の経った今、あえてそれに言葉を与えるなら、『幸福を恐れる気持ち』と言えたかもしれない。もし、本当に願望が成就すれば…しかし、人は不幸よりもより幸福を恐れる。人は幸福を思い描く。心の中で、思い描かれた幸福の像は次第に膨らんでくる。それは巨大になり、現実では支えきれなくなる。本当に現実になったらどうしよう…と恐怖する。
思えば、省吾はあまりに長い間、片恋を温め続けてきた。そのイメージは彼の中で巨大に膨らんでしまった。彼が心の奥底で慄いたのは「これが本当になったらどうしよう?」という事だった。彼ははっきりと言葉にできなかった。心の中の恐怖は隠されていた。彼女に話し掛けようか掛けまいか、迷っては落ち込み、話しかけられなかった自分を責め、(明日になったら話しかけよう!)と決意する。その繰り返しだった。
彼はそうした意識の中にいた。そのまま卒業式がやってきてしまった。いつの間にか、時は過ぎ去っていた。そうして、卒業式当日、彼はある光景を自分の中に封印する羽目になった。その光景は今も彼の中に大切なものとして保存されている。
卒業式は心地よい春の中で行われた。桜が咲き誇っていて、晴れた日差しで、理想的な気候だった。式も滞りなく行われた。
省吾は万感の思いだった。これから自分は新しい世界に出ていくという健やかな気持ちと、過去の世界を放擲していくという寂しさに満ちていた。それは普通の学生の感慨だった。友人らと軽くいつものような談笑をしても、ふと急に胸に寂しさが兆したりした。
松田さんの事も忘れていなかった。それは未練だった。彼は、その日、これで松田さんに対する想いを断ち切れると考えていた。これで、悪夢ともおさらばだ、と。自分の夢想は決して現実にならずに済む。それは過去のエピソードで終わるだろう。今日という日さえ乗り越えれば、全ては健やかな「思い出」に変わっていくだろう。過ぎ去れば、もう大して気にならない何かになるだろう。なにせ、自分の前に未来は存在し、道は開かれている。自分の前途は、春の美しい陽気で祝福されている。そうじゃないか? 何もまだ始まっていないじゃないか?
体育館に集められて、花道をくぐり、着席する。挨拶があり、卒業証書が授与され、他にもいくつかのイベントが行われ、式が終わった。教室に戻って、最後のホームルームが始まった。担任は涙ぐんで話をした。省吾は、窓の外を見ていた。外には桜の花が舞っていて、昼の光に照らされて、特別な空間にいるような気がした。彼はその時、魔術的な空間にいるように感じたし、式に参加した誰もがそう感じていた。この魔術が一体何に支えられているのか。それについて考える人間は一人もいなかった。彼らは平和の中にいた。
彼を捉えた魔術の最高潮はまだその先にあった。ホームルームも終わり、各々が帰る段になっていた。すぐ帰る人は稀で、仲のいい生徒同士は最後の別れを惜しんでおり、仲のいい親同士も話し込んでいた。省吾は、仲の良い生徒と何人かと話した。他のクラスにも友達がいたので、思い出し、挨拶していこうと教室を出て廊下を歩いた。
その道中だった。省吾は通りがかりの空き教室で、手すりにもたれてぼんやりと窓の外を見ている松田さんを発見した。彼は立ち止まって、彼女を見た。
今になってみれば、彼女がどんな理由でそこにいたかはわからない。おおよそ、彼女は一人静かに、学校生活への別れを告げていたのだろう。感慨に浸っていたのだろう。その時の省吾には、そんな事を想像する余裕もなかった。省吾からのアングルでは、後ろ姿が見えた。松田さんは窓を開け、外を見ていた。ポニーテールの髪が風に揺れていて、外にはピンクの桜があった。映画の光景のようだった。省吾は立ち止まり、放心して、後ろ姿を眺めた。彼には、その華奢な背中は誰かに声を掛けてもらいたがっているようにすら感じられた。
その風景は彼の視界に今も焼き付いている。胸の高まりを感じた。声を掛けようかと思った。色々な事が一瞬で頭を巡った。今までの想いが頭を駆け巡り、全身が熱くなった。(今こそ、今こそ…。チャンスは今しかない。この時を逃せば…逃せば…最後の…今…今だ…今、声を掛けなければ永遠に後悔するぞ。僕は死ぬまで後悔するぞ…今しかないぞ…) 彼は激しく逡巡した。
正直な思いを言えば、彼はそこで永遠に逡巡していたかった。そこにずっと立ち止まっていたかった。さて彼はどうしたか? しばしの逡巡の後、彼は立ち去った。その場を立ち去った。省吾は自分に言い訳するのも忘れなかった。(きっと声を掛けてもうまくいかないさ。こんな卒業式の土壇場で…。どうせ離れ離れになるんだし、無駄な事さ…。そうだ、無駄だよ…。後悔なんてしやしないさ…僕は…どうせ駄目なんだ…嘘だ…恋愛なんて…クソッ…) 唇を噛みつつ、自分を罵り罵り、どしどし廊下を歩いた。頭の中には今見た光景が焼き付いていた。彼はその光景は自分を一生縛り続けるだろうという強い予感を感じた。
省吾は逃げるように走り去った。もう振り返らなかった。彼は、友人への挨拶も忘れて、とっとと家に帰った。逃げ帰るようだった。それでその日は終わった。彼は卒業し、松田さんがどうなったかはわからなかった。わかりたくなかった。
省吾はその光景を一種の悔恨としてその先を生きてきた。それでも、時間は思い出を薄れさせた。思い出は時間に押し流されていった。思い出は、思い出として過去の彼方に凝固し始めた。彼はそれを時間の中で感じた。高校では凡庸な学生として過ごした。片思いはあったが、淡い思いだけで消え去っていった。大学生になって始めて彼女ができた。その子とは二ヶ月で別れた。四年生の時に二人目の彼女ができた。それが綾子だった。卒業後に、彼女と結婚した。その事は、過去の初恋とは何の関係もなかった。悔恨は悔恨ではなく、いつしか初恋は、ただ綺麗に丸く切り取られた思い出に変わっていた。
※
それはただの思い出だった。省吾にとって、あの瞬間、松田さんが外を眺めている姿、その光景は強烈に胸に焼き付いていた。それは彼自身の臆病さを表すシーンだったが、同時に、そこを去った事に一抹の安堵もあった。…いや、それだけではなく、自分は良心に照らし合わせて「正答な行為」をしたという自覚が後から芽生えてきた。
省吾は綾子に初恋の話を教えた。しかし、彼は内面の部分を意図的に取り除いた。その光景そのものが、今の生活よりももっと大切な、強烈な光として彼の胸に萌している事…それについては一言も触れなかった。…彼は、綾子に事実だけを話しつつ、その時に、あの光景が今も自分の胸に息づいていると知ったのだった。松田さんが手すりにもたれかけて、外を見ている風景、その風景について話している時、胸が熱くなるのを再び感じた。が、彼はその感情を隠した。
綾子は省吾の初恋のエピソードを、平凡な男子が辿る通過儀礼的なものとして聞いた。(男の子ってそうなんだ)という感想だった。
綾子は省吾に質問した。それは当然の質問と言えた。
「どうしてあなたはその時に、声を掛けなかったの?」
省吾は一瞬考えて(考える振りをして)次のように答えた。
「…いや、声を掛けなくて、良かったと僕は思っているよ。あの時、声を掛けなくて…それで『今』があるんだから」
それは質問に対する答えに全くなっていなかった。だが綾子は微笑して、うなずいた。彼女はそれを『あの時、松田さんに声を掛けなかったからこそ、自分(綾子)に会えたのだ。今の幸福があるのだ』と解釈した。それは綾子の自尊心を十分満足させるものだった。綾子は微笑んでうなずいたきりだった。
省吾は自分の言葉から相手にもたらした効果を計量しなかった。そのつもりもなかった。ただ、彼は自分の中にある微妙なものについて触れようとしていたのだった。
それは思い出の持つ価値、今もあの時の光景が光景として響いている事、もしあの時、声を掛けたらあの瞬間、あの風景、あの思い出自体がガラスのように壊れてしまう事が想起されたからこそ、先のように答えたのだった。思い出は思い出として存在するからこそ、『今』がそれとは別様のものとしてある。言い換えれば、『今』が過去と断線しているからこそ、過去は一つの理想として眺めうるものとなる。過去という一つの形を取る事ができる。『今』もまた過去とは違うものとして存在できる。
あの時には、(声を掛けなかければ生涯後悔するだろう)と思ったが、その感情は時間と共に変化した。彼は時間の中でそれを感じた。あの光景の意味も転じてきた。彼の臆病さを示すエピソードから、何か違うものへと変わっていった。
初恋の思い出、少女の後ろ姿は、彼の胸の中に光の粒として存在していた。それが変化した光景の『意味』だった。それはこれからも彼の中にあり続けるだろうと、彼は深く感じた。それは今目の前にいる妻を侮辱するものだったかもしれない。ところが彼はその心情を隠した。彼はそれを彼女に対する背反とは感じなかった。初恋の思い出は、もう恋という名でくくれない別の感情へと変化していたからだ。
目の前の女は…満足そうな表情をしていた。省吾は妻の顔を見ていなかった。どこか違う時空を見ていた。彼は照れ隠しのように、次のように言った。
「食後のコーヒーを淹れようか?」
「あら、淹れてくれるの?」
綾子は意識を生活に立ち返らせながら、言った。省吾は綾子の顔を見ないように立ち上がり、キッチンに行き、湯を沸かしコーヒーを作り始めた。
「濃いのをお願いね!」
綾子は上機嫌を示すように言った。省吾は笑ってうなずいた。綾子は省吾も上機嫌だと思っていた。それは自分の感情の反射だったが、綾子は気づかなかった。
省吾はコーヒーを作りながら、自分の胸の中の淡い光景を思い出していた。こうして話してみて、あの時の光景が今も自分の中に確かに存在している事を知った。それはおそらく、松田さんという実在の人物以上に大切なものに変わってしまっていただろう。省吾はその存在を感じた。過去の一刹那を今、はっきりした実在として感じた。
彼はコーヒーの粉を取り出して、ペーパーフィルターに注いだ。結果から言えば、粉を入れすぎてしまった。その為にコーヒーを四人分ほど作るはめになってしまった。
省吾はコーヒー粉をスプーンを使って、さらさらとペーパーフィルターに入れた。彼は考え事をしていた。粉から立ち上がる香りや、粉がさらさらとフィルターに堆積していく様は、何かを象徴しているように感じた。それは過去から今へと、川の流れのようなものがさらさらと滑り落ち、今に至るまで続いているというイメージだった。
そんな想いに浸っていたので、粉を入れすぎた。
「粉を入れすぎたよ!」
綾子に言うと「じゃあ…多めに作って置いとけば?」と答えが返ってきた。省吾はそうしようと思った。彼は沸いた湯をフィルターに注ぎ入れた。
湯気とコーヒーの香りに包まれながら、省吾はぼんやりしていた。ぼんやりした甘い夢想の中にいた。そうする中で、彼の魂はいつしか過去の一時期に戻ってしまったのだろうか? 彼はそんな風に、茫洋とした気持ちに浸る事で、『今この時』の秩序に亀裂が入るのに気づかなかった。彼はただ、古く甘い夢想が、コーヒーの湯気のように過去から立ち上がってくるのを感じていただけだった。光の帯のようなものが、胸の底から『今』に対して放射されていた。
彼は、十五年前、彼自身が教室の戸口に立って、初恋の少女の背中を見つめていた時のように、いつまでもコーヒーの湯気の中で曖昧に逡巡していたかった。その気分の中に耽溺していたかった。だが心の奥底では、それは決して叶わない願いだという事も十分理解していた。