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エミリー・ブロンテの幽霊

 教室

 

 中島はうとうととしていた。前方では英文学の教師が授業をしていた。中島は気持ち良さそうに机に寝そべりながらも、耳では講師の言葉を聞いていた。

 「エミリー・ブロンテは、十九世紀の英文学を代表する作家だ。作品は『嵐が丘』と若干の詩だけが残っている。姉のシャーロット・ブロンテも有名な作家で、もう一人のアンも小説を書いたから、文才に恵まれた姉妹と言えただろう。エミリー・ブロンテの才能は異質なもので、同時代には正当な評価を受けなかった。エミリーが後に評価される時には、文学というものの考え方そのものに時代的な変化が加わったからだが、それについては後述する。いずれにしても、エミリーが十九世紀英文学では最も重要な作家と言っても間違いはない。しかし、エミリーは誰よりも孤独で、他人に自分の内面を見せなかった」

 中島は講師の話を耳で聞きながらも、ぼんやりとエミリー・ブロンテの姿をイメージしていた。中島はまどろみの中にいて、その中では、エミリーの姿ははっきりした形を取っていた。彼女はヒースの野を孤独に歩いていた。

 

 中島は大学二年生だった。二十歳だった。N大学の文学部に所属していた。

 彼は既にエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を読んでいた。大学一年生の時に読んだ。授業とは関係のない読書だった。元々、彼は小説を読むのが好きという漠然とした感情と、偏差値の都合だけでN大の文学部に入ったのだが、入ってみて、まわりが自分よりも本を読んでいないという事実に後から気づいた。彼は、殊勝な気持ちで(文学なんてよくわかっていない自分が文学部に入っていいのだろうか? 馬鹿にされないだろうか?)と心配していたが、杞憂だったとわかった。彼はむしろ、文学に触れているタイプの学生だった。

 彼が『嵐が丘』を読んだきっかけは些細なものだった。『嵐が丘』は、サマセット・モームの『世界の十大小説』の中の一つに入っている。中島は十の小説名をインターネットで見ていて、『嵐が丘』というタイトルが印象的でぼんやりと頭に残っていた。ある日、大学からの帰りに寄った書店で『嵐が丘』を見つけた。読んでみるかと思って、買って帰った。ちなみに、彼は世界の十大小説の他の作品はまだ読んでいない。

 『嵐が丘』は随分と読みにくい小説ではあった。話者が間接的なので、どういう事が起こっていて、どういう人物関係なのか、わかりにくかった。また、二人出てくるキャサリンという女性キャラクター(二人は親子関係である)は描きわけられてないように感じた。

 しかし、主人公のヒースクリフの暗い情念ははっきりと伝わってきた。その暗い、一筋の思いが作者の描き出したかった事だと感じた。読みながら、病弱で痩せぎすで、気の強いイギリス女をイメージしていた。中島はエミリー・ブロンテの人となりを、ウィキペディアなどで調べていた。イギリス北部の厳格なプロテスタントの家に閉じ込められた若い女が想像力で自分の情念を一筋に描いている姿が、読んでいる間中、脳中に浮かんでいた。

 特に印象に残ったのは『嵐が丘』の最後の部分だった。悪行の果てに死んだヒースクリフは、得ようとして得られなかったキャサリンの側に埋葬される。二人の魂は、ヒースに昇華される。二人は死後、魂として野に解放される。その土俗的とも言える宗教的昇華としての結末は、中島の心の奥深くに強い印象を刻み込んだ。

 中島が調べた情報では、エミリー・ブロンテはヒースを歩くのが好きだったという。教会の牧師は何度となく、エミリーが犬を連れて、ヒースに出向くのを見たらしい。中島はその事を知って、想像してみたのだった。抑圧された生の中にいた若い女がヒースを歩いて、「せいせい」とした気持ちになっているのを。荒野、晴天の下で彼女の魂は解放されたのだろうか? …少なくとも作品にはその情景が刻印されているではないか? …作者の経験は、作品にはっきりと表現されている。そんな風に中島は『嵐が丘』を読んでいた。それはいつしか、彼にとって大切な作品となっていた。

 

 …中島はうとうとしながらも、頭の中にはヒースを歩くエミリー・ブロンテの姿が描かれていた。エミリーは、執筆仲間だった姉妹にも自分の本音を明かさなかった。彼女が秘められた魂を吐露したのはヒースに対してではなかったか? 彼女は歩きながら、文学作品の中にのみ自分を封じ込めたように、ヒースに、風に、空に己を告白しなかっただろうか? 抑圧された魂は自然と交歓することによって、わずかに安らぎを見出したのではないか? 中島の頭に執拗に浮かぶのはそうした問いだったが、エミリーがヒースを歩いていくその姿が問いに対する答えになっていた。もう過去からは、それ以上のいかなる答えも引き出しようがなかった。残っているのはわずかな資料と、作品のみ。文学者がやっと文学作品の中に、自らが呼吸できる空間を見出したとして、それを百年後の異国の読者が同じように『呼吸できる場所』とみなして悪いわけがあるだろうか? …中島にとって『嵐が丘』が大切な作品となっていたのは、そのような意味においてだった。最も、彼自身はそこまで意識していたわけではなかったが。

 

 英文学の授業は単調に進んで行った。生徒達は単なる義務として、講師もまた職業としてそれを行っていたので、そこに精神的な火花が散るはずもなかった。そうした事態に、大学という制度そのものが馴れきっていた。中島はその全体に微かな違和感を感じつつも、なんとなく順応していた。やがてチャイムが鳴り、九十分の長い授業が終わった。中島は出席票を教卓の上に置くと、他の生徒と共に教室から出た。

 

 外は晴天だった。N大学の校舎は、郊外にあった。最近の大学の傾向として、金のかからない田舎の土地に大きな校舎を建てるというものがあった。その流れで、中島も埼玉にある校舎に通っていた。校舎はだだっ広く、まわりは野原が広がり、田畑があり、田舎といっていいほどだった。春の陽気の中、空はあくまでも青く切れ目なく続いていた。都内では密生する建物によって空は鋭く切り取られるが、そこではそんな事はなかった。中島は空を眺めながら歩いていた。空の広さ、大きさは彼の中で、大学生活の伸びやかさとどこかイメージとして地続きだった。こうした空をエミリー・ブロンテも見ただろうか?と彼は考えつつ、教棟に向かっていた。

 

 研究室

 

 彼はゼミの講師の研究室に向かっていた。前回のゼミに休んで貰い損ねたプリントを受け取る為だった。彼は講師に好感を持っていた。石田という講師は文芸誌に評論や小説をたまに寄稿していた。四十過ぎだったが、若々しく見えた。爽やかな外見の男で、女子学生からも人気があった。

 教棟の二階に研究室はあった。扉をノックすると、「ああ、入って」と声がした。「失礼します」と言って中島は中に入った。石田は回転椅子に座ってパソコンを覗き込んでいた。中島は後ろに立った。研究室は狭かった。壁には本棚があり、洋書や全集が並んでいた。

 「ああ、なんだっけ?」

 石田はふらりと椅子を回して中島の方を見た。石田は崩したジャケットの着こなしをしていた。昔の『文士』とは全く違う洒落たタイプだった。

 「先週、プリント忘れて、取りに来ました。…わざわざメールしてすみません」

 「ああ、そうだったな」

 石田は引き出しの中をゴソゴソと掻き回して、プリントを二枚、中島に渡した。中島はプリントを受け取って、リュックに入れた。

 「課題はもう知ってるよね」

 石田が言って、中島はうなずいた。…それで用事は済んだはずだったが、中島は気にかかった事があったので、去りかねた。中島が立ったままなのを見て、石田は何か言ったほうがいいかと声を掛けた。

 「…先週は、風邪でも引いたの?」

 「ええ。ちょっと風邪で。熱が出まして」

 「そうか。お大事に。最近は寒暖差があるからな」

 石田は『一声掛ける』という教師としての役割も済んだと思い、すぐにでも中島は出ていくだろう見ていた。石田は椅子を回して再びパソコンに向かおうとした。背後から「失礼しました」と一声あるだろうと想定していたが、声はしなかった。沈黙の後、背後の男は別の事を言った。

 「…先生、この間、ご著書を出されましたよね?」

 「…ああ…うん…」

 石田は椅子を回して再び中島を見た。中島は棒立ちしていた。(こいつ、私と話したいらしい) 石田は考えた。忙しい彼からすると、特色のない男子学生との対話は嬉しいものではなかった。

 「よく知ってるね。ありがとう。確かに、そうだよ。本を出したな」

 「タイトルは、『上村冬樹とマルセル』でしたっけ。そんなタイトルだったような…」

 「そう。よく覚えているね」

 石田は心の中で舌打ちした。その話にはあまり触れて欲しくないという気持ちがあった。というのは、中島は、授業の時からそうだったが、文学の話になると突っ込んだ質問をする癖があったからだ。石田からするとスマートな態度とは言えなかった。

 「ええ。読ませてもらいました。…本当の事を言うと、大きな書店で立ち読みしました。ざっくり読んだだけです。買ってません」

 「なんだよ。買ってくれよな」

 石田は微笑を見せた。中島も笑みを見せていた。

 「だって…先生、貧乏学生には三千円は高いですよ。あれを教科書に使ったりするんですか?」

 「いや…そんな事はない…」

 石田は答えた。実際、その予定はなかったが、来年から教科書に使うのも視野に入れていたので、あまり触れられたくない部分ではあった。

 「そうですか。…それで、先生は上村とマルセルを比較して、似ている部分を列挙されていましたけど…正直に言って、僕にはあまり似ているとは思えません。文体の優雅な所は多少似ているかもしれませんが…。上村は今の日本の作家で、マルセルは十九世紀末のフランスの作家です。普通に考えて、かなり違いがあります。もちろん似ている所も探せばあるでしょうが、誰だって似ている部分はあるし、無理やり近づけるのは牽強付会かと…」

 「君は、私よりも文学を知っていると言うのかね?」

 石田の鋭い声が飛んだ。中島は一瞬固まった。

 「いえ、ただその、僕は上村冬樹とマルセルが似ているとは思えなかっただけです…。先生、邪推ですが、上村が日本の人気作家だから、それと、昔の外国の大家が似ていると示す事が、今の文壇に…その…受け入れられるように気を遣ったところもあったのではないかと思うのですが。僕の浅見ですが、それは文学的誠実さとは違うのではないかと思います。僕の言いたかったのはそういう事で、決して先生を誹謗するつもりはなく…」

 「ふうん。君は、僕よりも賢いみたいだね。確かに、上村とマルセルは似ていないかもしれん。しかし、どうしてそう言い切れるかね? 上村の中にも良いものがある。それも君は認めないのかい?」

 「いえ。そんな事はないです。決してそんな…」

 「君はこちらの事情を知らないな。そうだろ? 君は何にも知らないだろう? 知らなくてよくそんな事が言えるね…。あのね、大人というのは色々大変なんだよ。まだ、君くらいじゃわからないだろうけど」

 石田はすっかり不機嫌になっていた。

 「大変なんだ。僕達は、大変なんだ。…というか、文学なんてそもそも喰っていけるものじゃなくなってるしね。はっきり言って。内情は火の車さ。それでも我々は…この国の文化面を支えているんだ。…そう思わないかい? 少しくらい、色目を使った作品や評論を書いたとしても、我々は今の日本の、文化の壊滅状況を支えようとしているんだ。そうだ。…芥川賞だって、色々文句を言われているけど、あれがなくなったらどうなる? 作家志望は夢を失ってしまうんじゃないか? 希望が消えてしまうだろう? 純文学なんて誰もやらなくなるよ。今以上に日の目を見なくなる。大体、大学の文学部だっていらない、と世間からは言われているしね。今は過渡期なんだよ。難しい時期なんだ。それでも、我々はなんとかやっていかなければならない。…私も、少しは文学を齧った身だ。君の言いたい事…若者らしい、そうした主張はわからないでもない。だけどね、大人は守るべきものを守る為に、やりたくない事をやらなければならない時だってあるんだ。君にはまだわからないかもしれんがね。…私は私のしている事を正々堂々と擁護するよ。…もちろん、文学的誠実さなどという雲をつかむような話ではなく、現実に文学を守る為の活動としてね。その為には泥を被る必要もあるさ。上村冬樹だって、大した作家だ。そうだ、上村は大した作家だよ。…それに、たとえそうでないとしても、そう言う事には意味がある。いいかね、意味はあるんだ。意味が。学生の言う気楽な話ではなく、現実に文壇に身を置いて活動する者として、そういう者としての責任と意味があるんだ。君はまだ、そうした事がわからんだろうが」

 中島は石田の言い訳をじっと聞いていた。中島は、尚、言い返そうかと思ったが、これ以上言ったなら、石田との関係は壊れてしまうだろうと思った。中島は、相手に徹底的に言えないという弱さを持っていて、それが他人からは優しさと取られる事もあった。中島は口を噤んだ。…また、彼の中に、関係が悪化すると単位を貰えなくなるかもしれないという功利的な動機があったのも事実だった。

 「…そうですね。大人の事情、というやつですか、結局は…。今は…文学は…」

 「もう行っていいよ」

 石田は素っ気なく言った。中島は顔を上げた。

 「もう行っていいよ。行っても」

 石田は顎でドアの方を指した。石田は相当不愉快になっているようだった。中島は辞去する事にした。

 振り返って歩き出した。ドアの前でくるりと振り返り、石田の方を見た。石田はパソコンに向かっていて、背中しか見えなかった。中島は声を掛けた。

 「先生、エミリー・ブロンテは好きですか?」

 「何?」

 「エミリー・ブロンテはお好きですか?」

 「エミリー・ブロンテ? …あまり好きじゃないな。冗長すぎるよ。技術的にも拙劣だしな」

 (マルセルはもっと冗長だろ)と中島は思ったが、何も言わずにドアを開けた。外に出ると、ほっと息を吐いた。新鮮な空気の場所に出てきたように思った。

 

 部室

 

 中島は部室に向かう事にした。その日はそれ以上授業はなかった。

 彼は歩きつつ、石田との会話を反芻していた。(そりゃ事情があるのは誰だってそうだろうけど…) しかし、彼の考はそれ以上進まなかった。ただ、大学生活に対する違和感が増したのを感じただけだった。

 中島はサークルに入っていた。山岳部だったが、山に登るのは年に二回で、後はただ駄弁っているだけの集まりだった。内部では恋愛関係も進んでいたが、中島は誰とも付き合っていなかった。

 部室のドアを開ける前で、中島は中に人がいる気配を感じた。ドアを開けると、一年生二人と、二年生一人がいた。一年生は女の子二人で、二年生は男だった。一年生の女子は高橋と鍵谷と言った。二年生の男は米本と言った。

 「よう」

 米本が言った。中島は軽く手を上げた。中に入って、ソファに座った。高橋と鍵谷が「先輩、おはよーございます」と声を揃えて言った。二人は綺麗に並べられたぬいぐるみ二つのように寄り添っていた。中島が「おはようって、もう昼過ぎだよ」と言ったら、鍵谷が「もう、先輩ったら、ひねくれてるんだから」と言った。高橋が「先輩はひねくれてるよねー」と言った。中島は苦笑しつつ、米本を見た。米本と目が合った。

 中島は米本に付随するいくつかの噂を思い出した。それは彼が年下の女の子にフラれたとか、英語の教授と喧嘩したとか、そうした些末なものだった。中島は生活世界ではそれらの事に重大な意味が付されているのがわかっていた。

 「なあナカジ、聞いた? 今朝の事?」

 米本は言った。「何が?」 中島は反射的に尋ねた。米本は女子二人を見て「大変だったよなあ」と言った。二人は一瞬キョトンとしていたが、鍵谷の方が何を言われているのか思い出したらしく「そうそう」と言った。中島には何の事かわからなかった。

 「先輩、今朝、大変だったんですよ。電車が止まっちゃって。ここ来るの大変でした」

 「へえ。そうなんだ」

 中島は三人の顔を見回した。三人共、その件はよく知っているようだった。

 「そうなんだよ。ナカジは自転車だから知らないだろうけど。俺達、電車が止まっちゃってさ。飛び込み事故があったんだよ。大航空駅で。丁度、朝の通勤ラッシュの時間で。ひどかったよ。全く、ひどい事をする奴もいるもんだなー」

 「私達も、一限の授業あったんで。丁度、米本先輩と同じ電車に乗ってたんです。マリも一緒で。一回、電車降ろされたんですよ。大航空駅の手前で。満員のホームで、米本先輩と偶然合って。『偶然だね、大変な事になったね』って言って。ほんとに大変でした」

 「そうだったんだ」

 中島は言った。彼は自転車で学校まで来ていたから、全く知らなかった。

 「飛び込んだのは女子高生だったんですよね」

 高橋が声を潜めて言った。米本と鍵谷が高橋を見て「そうなの?」と言った。その件に関しては二人も知らないらしかった。

 「近所の女子高生だったらしいですよ。なんでも、義父に性暴力を振るわれていたらしいです。過激なロックバンドの『ヤンデレちゃん』のファンだったらしいくて、『ヤンデレちゃん』のPVで、飛び込み自殺をするシーンがあるんですけど、それを真似たんじゃないかってネットでは言われてます。映像と死ぬ様がそっくりだったらしいんです」

 「よく知ってるね」

 中島は言った。高橋の話は残り二人も知らないらしかった。

 「…授業中、スマートフォンで検索してました。自殺した子のツイッターアカウントがまだ残ってて、見れるんですよ。…それで、その子は配信してたんですよね」

 「配信?」

 米本が聞いた。三人は高橋の話を真面目に聞く姿勢になっていた。

 「そうです。いわゆる自殺配信ってやつですね。動画に残ってて、今も見れるんですけど…見ますか?」

 「マリ、それってグロいやつ?」

 心配そうに鍵谷が聞いた。高橋は首を横に振った。

 「ううん。グロはない。飛び込む所だけで映されてて、死体は映ってないから」

 そう言って高橋はスマートフォンをいじくって、動画を出した。四人は高橋の操作するスマートフォンに注目した。

 動画はごく短いものだった。三十秒ほどだった。場所は駅のホームで、向かいのホームが奥に見える。手前にはカメラを持っている本人の姿がチラと映る。顔は見えないが、女子の制服の端がちらちらカメラの中に入る。電車が駅構内に入るアナウンスが流れると、女子高生は、カメラをベンチの上に置く。視界が固定された。

 「あ、このベンチ、俺、座った事ある!」

 米本が声をあげたが、三人は無言だった。女子高生はホームに立って、カメラには背中を向けている。彼女はタイミングを見計らっているような様子を見せる。電車が入ってくる音がすると、女子高生はさっと、線路に向かって飛び込んだ。水泳の飛び込みのような感じであまりにもあっさりとした飛び込みだった。直後、電車がホームに入ってきて、同時に急ブレーキの大きな音がした。悲鳴などはなく、ただ異変は急ブレーキの大きな音のみだった。それと共に動画も終わった。一人の人間が死んだというのに、あまりにも静謐、女子高生はごく自然な動作で飛び込んだので、拍子抜けのような感じすらあった。

 「うわあ、すごいね」

 鍵谷が顔を上げて言った。

 「ここさあ、俺、たまに座る所だよ。そこにスマホ置いて自殺配信してたとか…もう次から座れないかも」

 米本が言った。

 「この動画もきっと、すぐに消えちゃうはずだよ。しばらくは見られるだろうけど。これで私達は遅れたんだよね」

 高橋が言った。中島は何も言わなかった。

 中島は、内心ショックだった。一人の人間が死ぬという当たり前の事実が、こんなにも赤裸々な出来事として目の前に現れたのが衝撃だった。

 しかし、彼の心の内部に入ってみれば、もう少し違う動機があったと言えるかもしれない。彼は、一人の人間の死に際して、驚かねばならないと、倫理的に考えている部分があった。彼は心中ではどこか生真面目な所があり、それは彼に、一人の人間の実存の重さを間違えてはならないと厳命していた。そこで、彼は彼がショックであった以上に、そうだったと思い込もうとした。

 逆に言えば、それはいかようにでも人間の命は軽く見られるという事だった。実際、自殺配信のような異様な事柄、戦争をカメラ越しに映し出すような事は非日常を日常の次元に接続する作用があった。そこで死は、傍観者にとってはただの映像以外の何も意味しないものになる。傍観になれた人々は、あらゆる事柄を享受すると共に、心底驚いたり感動したりする能力を失っていた。ほとんどアパシーに近い状態に人々は陥っていた。

 「でもさあこんな風に死ぬのって迷惑だよな」

 沈黙を破るように米本が言った。彼は何かを恐れている風でもあった。

 「こんな風に、人に迷惑かけて死ぬのは勘弁して欲しいよなー。死ぬんだったら勝手に死ねよ、って俺はいつも思うんだけどさ。最後に電車に飛び込んで、配信で伝説になりたいなんて。迷惑だよ」

 「あれ、賠償金取られるんですよね」

 鍵谷が言った。中島は二人を交互に見た。

 「結構、取られるみたいですよ。親は大変だよね。まあ、辛い事があったのかもしれないけど、でもあんな死に方は…私達も実際、迷惑被ったわけだし」

 「困りもんだよな。ああいうのは良くないよ」

 米本はいい事を言った、とでもいうようだった。高橋はスマートフォンをいじっていた。中島はどこか呆然としていた。一人の人間の死はこのような常識的な言葉で全て片付けられるのか? そんな疑問が湧いたが、もちろん、見ず知らずの人間の自殺に精神を同調させていたら、身が持たない。日常生活は自分自身に集中する事で成立する。中島は苦笑いしながら、話を変えようとした。

 「ところで、この間、部長がトレーニングするって言ってたじゃん。あれってどういうメニューなの?」

 あからさまに話題を変えようと発せられた言葉だったが、残り三人はあっさりとその話題に載ってきた。あるいは、みなが見ず知らずの人間の自殺についてはこれ以上話したくなかったのかもしれない。

 

 野

 

 しばらく世間話を続けた。サークル内の話。誰と誰が仲が悪いとか、誰々が急に髪型を変えたのは彼氏ができたからではないかとか、学食のメニューは何がおいしいかなど…。

 話は弾んでいるように見えた。中島は薄笑いを浮かべながら、ちょくちょく話をしていたが、自分の心の中に重い金属が沈殿しているのを感じないわけにはいかなかった。

 「あのさあ」と米本が新たな話題を始めようと(それも自信満々で話そうと)した瞬間、中島は立ち上がった。三人が中島を見えた。

 「ごめん、次、授業あったわ。…今からじゃ間に合わないかもしれないけど、行くわ」

 中島は青白い顔をしていたが、それを見た者はいなかった。三人は「またなー」「じゃあねー」と手を振った。中島はそそくさとリュックを背負って部室を出た。部室のドアを開けると、再び談笑が始まったのが聞こえた。中島は寂しいような、仲間はずれのような気持ちと、ほっとした気持ちを同時に感じた。彼は歩き出した。行きたい場所は決まっていた。

 

 彼は暗い気持ちになっていた。先の談笑が何故かしら、彼の心を重くしていたのだった。

 中島は普通の大学生だった。彼は一人暮らしをしていた。両親が金を出してくれて、関東の大学にも行かせててくれた。両親は、大学を卒業すれば就職して正社員になるのだろうと思っていた。その後、結婚もするだろう、子供もできるだろうと漠然と考えていた。それが彼らの希望だった。

 中島もそうした希望を微かに自分の中に持っていた。だが実際、大学に通い出すと、彼が思い描いていたのとは異なっていると気づかざるを得なかった。先の石田の態度もそうだった…。だが、それら全ては、中島が勝手に世界に対して何らかの思いを持っていたが為に、裏切られたと後から思ったに過ぎなかった。普通の学生は現実に面した時、精神の方を現実に沿わせていく。精神の方を曲げていく。そうしていく事で誰しもが大人になっていく。その可塑性は真に驚くべきものがあった。普通人の持っているこの可塑性は想像を絶する巨大な力を日々発揮していた。だから今日も昨日も世界は同じなのだった。この可塑力が働いている限り、ハムレットの慟哭のように世界が壊れる事は決してない。

 彼は憂愁の思いを胸に秘めて歩いた。世界には自分ひとりしかいないようだった。ふと、ホームから飛び降りた女子高生の姿が目の前をかすめた。サークルの仲間は、自殺者を「他人事」と見ていた。あちら側で勝手に自殺する哀れな存在と捉えていた。彼らは常識人だった。しかし中島は、他人事とは思えず、何も言う事ができなかったのだった。

 彼は歩いて大学を出た。自転車置場にも向かわずふらりと校門を出て、角を曲がった。

 

 中島が向かったのは学校の裏手にある野っ原だった。校舎は郊外に建っていたので、人気のない場所がそこここにあった。

 憂愁の想いに駆られた時、中島はしばしばその場所に向かった。そこで自分と同じ境遇の人間とも、自分と関わりのある人間とも会わずに済むのが有り難かった。彼はなんとなく世界に閉塞感を感じていたが、それが何に由来するのか、はっきり言葉にする事はできなかった。ただ何かが違っているのだった。「世界の鎖が外れている!」と、大仰には言えなかった。ただぼんやりとした違和感があるのみだった。

 野っ原に向かう途中、住宅がポツポツ建っている道を歩いた。それらの全てに人がいて、家族がいて、生活がある。それは今の彼にはなんだかゾッとする事に思えた。というのは、ひたすら些末な事に追いやられている蟻の群れのようなものを想像したからだ。もちろん彼は彼自身が蟻の一匹だとよく知っていた。それこそが真にゾッとする事だった…。

 野っ原に着くと、視界が開けた。春の、日差しのよく当たった、なんてことない野っ原だった。子供が遊んでいる事も時々あったが、その時は誰もいなかった。そこは妙にだだっ広い野原だった。ベンチが一つ置いてあるきりで、遊具はなかった。

 中島はふらふらした足取りでベンチに向かった。ベンチにゆっくりと腰掛けた。目の前には空と、草むらがあった。二つが世界を切断していた。奥には住宅が見えていたが、遠く、霞んでいるようだった。

 中島は目前の金色の光景(そう感じた)を見ながら、心の深い憂愁との対比に浸っていた。心の暗さは、目の前の光景の明るさ、開明さとは真逆だったのに、そこには妙に相通じるものがあった。間に夾雑物はなく、その二つはシンクロしていた。中島に夾雑物と感じられたのは人だった。彼にとって厄介なのは人間だった。人間は何かの利益に負われ、一定の目的、方向性を持って運動している。それに疑問を呈する事はそこから排除される事だ。今は人は存在していない。

 陽はただ照っていた。風は穏やかに吹いていた。草むらには無数の生命のざわめきがあり、それはそれ自体、大きな世界に向かって開かれているようであった。彼はさっき部室で感じた息詰まるような感覚がなくなっていると気づいていた。

 その時に彼の目の前を通り過ぎたのはエミリー・ブロンテだった。いわば、彼はエミリーの幽霊を見たのだった。彼は「嵐が丘」のラストを再び思い出した。

 

 「穏やかな夜空の下、僕は墓石のまわりを去りがてに歩きまわり、ヒースや釣鐘草ブルーベルの間を飛び交う蛾を眺め、草にそよぐかすかな風に道を傾けた。そして、このような静かな大地の下に眠る者に静かならぬ眠りがあろうとは、いったい誰に想像できようかと思うのだった。」

 

 エミリー・ブロンテは作者としては、キャサリンやヒースクリフの鎮魂を行った。だが今はただヒースの野に、エミリー・ブロンテの魂は解き放たれている。中島はそんな風に考えた。

 中島はそういう事を少し考えた事があった。唯物論的に、デカルト的に考えれば、我が死ぬという事は一巻の終わりである。それで終わり。ジエンド。その後には何もない。

 だが、果たしてそうだろうか? 彼は考えてみた事があった。それは人間の理性部分が勝手に考えだした事ではないか? 自然研究をすれば、人間が自然と連続性がある事がわかるだろう。自分が宇宙の中の実存ではなく、宇宙と地続きなのがわかるだろう。だがそれは西欧的な「考える人」的な思考方法とは違うものだ。それは、もっと東洋的な…自然観という事になるだろう。

 エミリーが立っていたのは、むしろ東洋的な場所ではなかったか? …もちろん、あの人間の実存の描き方は、西欧近代文学にしかないものだが…。彼はそんな事を考えていた。風は…一つ方向に緩やかに吹きつつ、彼の答えをも吹き流していた。彼の目にはもうエミリーの幽霊は見えなかったが、空想の中でエミリー・ブロンテが歩いている様を目の前に描き出した。エミリーは犬を連れてよくヒースの野を歩いたと言う。イギリス北部の、特徴的な丈の低い草が生える野とは空間的に大きな距離がある。エミリー・ブロンテその人とも時間的な距離がある。彼は…東洋の島国の、それも二十一世紀という空虚な時代に生きるなんでもない大学生だ。だがその程度の時間・空間の差異がなんであろう? 彼は、彼の空想の中ではあらゆる文豪となかよしだった。それが文学の素晴らしい所だと考えていた。しかし、教授や小説家志望らには、文豪は遠く、近くに見えるのは手近な新人賞や、今生きている実際に見られる人達だった。

 中島は気持ちが楽になっているのに気づいた。こんな風に楽になっていいのか? 彼は自問してみた。自然は彼を包んでいた。彼は遥かな気持ちになった。空は世界に続いていた。世界は宇宙に続いていた。時間は途切れがなかった。空間もおそらく途切れがないだろう。宇宙の外側にはまた何かがあるだろう。パスカルの言うように、そこには理性には捉えられない何物かがあるはずだ。…そこには一匹の虫がいて、この宇宙を、繭を作るように作っているのかもしれない。めんどくさそうに、糸を吐き出し、吐き出ししつつ。

 中島は鬱屈した気持ちが外側に出ていくのを感じた。彼の目に再び、エミリー・ブロンテの幽霊が見え(彼女はヒースに、ヒースクリフやキャサリンの霊を見たのだ)と改めて思った。

 と、その時、彼は急に思い出した。さっきの話に出てきた自殺した少女を。無機質な列車、ホーム、電光掲示板、通勤人らに囲まれて、鬱屈した自意識を爆発させ、せめてもの最後の一瞬を人々に見せびらかさなければ死ねないと考えていた少女を。彼女はさっと線路に飛び込んだ。まるで水泳選手が美しい飛び込みをするように。そんな風に彼女は「死」に向かって飛び込んだ。

 世界はコンクリートの無機質さに彩られており、全てはフィクション化され、映像化された何物かに変わっていた。少女はその中で窒息するような気持ちで死んでいっただろう。中島は、少女について考えた。(彼女はこんな風な野を持たなかったに違いない) 中島はそう考えてみた。そう考えても別に気が休まるわけではなかったが、とにかく考えてみた。

 彼はその後もしばらく野っぱらを歩いた。彼の姿は次第に霊的になり、幽霊的なものに近づいていたが、それを自分で知る事ができなかった。彼は自殺した少女の幽霊を見なかった。ただ彼女を思い出しただけだった。彼女は自分がそうしたように、スマートフォンの中の映像に閉じ込められていた。映像の中で生き、映像の中で死んでいった。哀れにも彼女はそれが生の証明だと考えたのだった。世界につけたただ一つの足跡だと思おうとした。彼女の世界は、映像化され、無機質な歩みの人々に囲まれた、灰色なそれだった。その中で彼女は死んだ。中島は彼女を思い出しはしたが、その霊をどこにも認めなかった。彼はただ野っ原を歩いていた。一種、霊的な歩みで。

 彼が見たのはエミリー・ブロンテの霊であった。彼に親しいのは今を生きる同じ人々ではなかった。親しかったのは二百年前の、イギリス北部の野を歩く、痩せっぽちの、後に文豪の一人に称せられる、肺病持ちの少女だった。中島が空想の中で共に歩いたのは、二百年前の見ず知らずの少女であり、今を生きる人間ではなかった。彼の中に同情はなく、魂の共鳴があるのみだった。彼はゆっくりと、実にゆっくりと野っ原を歩いた。


 

  (「嵐が丘」の引用は河野一郎訳)


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― 新着の感想 ―
[一言] エミリーブロンテはなぜ医療を拒んで死んだのでしょう。小説に熱が入りすぎておかしくなったのでしょうか、それとも当時の医療が絶望的だったからか、感染した経緯が許せなかったのか、死を受け入れていた…
[気になる点] “魂の共鳴”とは何であるかの記述が充分に為されていないように思う、伊藤計劃のように、もう既に死んでしまった、を前提にすべきではないか、この作でいうところの「救い」はエミリーの幽霊を前提…
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