夏の帰省
その夏、私は一人で帰省する事になった。二十歳だった。
毎年、帰省は一家四人で行っていた。父、母、姉、私の四人だ。父の夏休みに合わせて、母方の祖父母の家に帰省していた。山深い田舎で、避暑にちょうどよく、気分転換を兼ねていた。祖父母は七十台後半で、まだ元気だった。祖父の方がボケ始めていたが、支障が出るほどでもなかった。その頃の私達は平穏で幸福な一家だったと、外面的には言えたかもしれない。
その年だけ私が一人で行ったのには次のような理由があった。私は父母と一緒に暮らしていた。父と母は葬儀の為に出られなくなり、姉は大学卒業して、新入社員になって、忙しくて行けないのだった。父と母は大学で知り合って結婚したのだが、その頃の共通の友人が病で亡くなったので葬儀への出席が突然決まった。姉は今年は無理だろうと春頃から言っていたが、実際その通りになった。姉は春から一人暮らしを始めていた。
一家で話し合い、私一人で帰省するのが決まった。祖父母も寂しいだろうからあなただけでも顔を出してあげなさいという話になった。父方の祖父母は、長男一家と一緒に暮らしていたので(父は次男だった)、たまに顔を見せる程度で十分という事になっていた。
そうした理由でその夏、私は一人で帰省した。祖父母の家は名古屋から電車で一時間半、更に絵那という麓の街から山に昇るようにして、バスで三十分かかる。下矢作という町で、麓の絵那よりもずっと小さく、人口は二千人足らずだった。住人は大半が老人で、山深い、秘境とも言える場所だった。様々な因習もまだ残っていて、一人で行くのが決まった時、私の中に多少の冒険心が起こったのを否定はできない。
予定していた日が来ると、私はいそいそと荷造りを始めた。どうしてあんなにうきうきしていたのだろう? 思えば、一人旅などというのは始めてだったからだろう。二十歳といえど、まだ私は子供だった。そんな私を見透かすように、父も母も心配そうな眼差しを向けてきた。「一人で大丈夫?」 母が聞いた時には思わず「僕ももう二十歳ですよ」と返した。母は「いつまでたっても子供は子供だから」と言った。
私は大学二年生だった。一年生の時に文化系のサークルに入ったが、二年になってやめてしまった。大学の友人がいるにはいたが、今ひとつ、大学生の「ノリ」についていけなかった。彼らの享楽性、人生の春は今だと言わんばかりの態度に困惑と疑念を抱いていた。それは単に私が引っ込み思案だったからかもしれない。あるいは人生に対する悲観的な見方がどこかで染み付いていたからかもしれない。いずれしろ、どこか彼らと馬が合わない感覚を抱いていた。帰省はそんな中で行われた。
名古屋駅までは順調だった。登山用の大きなリュックを背負い、京都駅のホームから新幹線に乗った。切符を買って乗り込む。ただそれだけの事で、問題はない。ーーそもそも現代においては簡便さが神であるので、問題があろうはずがない。指定席の切符を握りしめて車両に乗った。予定通り窓際の席に座ると、汗を拭きながら荷物を棚に置いた。窓の外には無機質な、ロボットのような京都駅が見えた。私は隣には誰もいない事に微かな安堵を覚えていた。父や母、姉の存在は安心感に繋がっていたが、同時にある拘束を心の中に投げかけているのを否定しえなかった。
新幹線は空いていた。どうしてあれほど空いていたのだろう? …記憶を辿ると非常に不可思議な気持ちに襲われる。時期はお盆で、新幹線は混んでいたはずだ。にも関わらず、私の車両は空いていた。指定席だったから? …トイレに行く時、自由席の中をチラと覗いたが、そこもガラガラだったのを覚えている。どうして空いているのだろう? そんな疑問も抱いたが、すぐに忘れてしまった。しかし振り返ると、そんな些細な事も何か大事な運命の符合と思われない事もない。
名古屋駅まで、窓外の風景を眺めて時を過ごした。耳にはイヤフォンを入れて、音楽を聴いていた。目の前の風景が次々動いていくのは愉悦だった。じっと外を眺めながら、私は何かを考えていたのだろうか。私には子供の時からしばしばそういう時があった。瞑想しているような、じっと考え込んでいるような。そういう時というのは、他人から見ればぼうっとしているだけだが、私にとっては心の奥底にある静かな音楽を聴く時間であり、大切な時間だと密かにみなしていた。最も、それを他人に話した事はなかった。
名古屋駅に着いた。新幹線を下り、深呼吸していると携帯電話が鳴った。ベンチに座って携帯電話を見ると、母からだった。
「真一、もう名古屋についた?」
「ああ、今丁度ついた所」
「そう。大丈夫そうね。良かった。…じゃあ、気をつけてね。おじいちゃんとおばあちゃんも、真一が来るのを待ってるからって。今朝電話があったわ。心配してたわよ。一人で来れるかしら、って」
「ああ、そう。でも、大丈夫だから」
「そうね。それじゃあ。また」
「うん、わかった」
電話を切ると、携帯をポケットにしまい、歩き出した。おじいちゃんとおばあちゃんが心配してるって? …心配のしすぎだよ。そんな事を考えた。なんてことのない、普通の帰省になるはずだった。
絵那までは順調だった。といっても、乗り換えの電車に乗って、ただ座っているだけの事だ。
絵那は岐阜県なので、電車は県をまたいだ。名古屋から徐々に離れていく。離れていくほどに風景が田舎に変わっていき、背の高い建物は減少する。背の低い建物、自然と共生している建物が増えていく。畑や田んぼが増え、山が現れ、トンネルを通る回数も増えていった。私は、窓外の景色をじっと見ていた。様々なものは背後に去っていった。私はそれに心を止めなかった。私の目は次に現れるものに期待していた。
絵那についた。絵那は田舎にある大きな駅という感じでロータリーは大きく、道路も幅広く、縦横に走っている。大きなスーパーやパチンコ店、飲食店などがあるが、駅を離れると店はほとんど消える。周囲の人は絵那に車で来て買い物をして、自分の家に帰っていく。
私は絵那駅のプラットホームに下りた時、一瞬めまいを感じた、という事を報告しておく必要があるだろう。それは些細なもので、(ずっと同じ姿勢で座りすぎていたかな)と思っただけだったが、後から考えるとそれにも意味があったのだな、と感じた。私はすぐに気を取り直して歩き出した。未だ、一人旅の愉快さの中にいた。
異変を感じたのは駅員に質問したあたりからだった。改札を抜けて、前方を見ると広いロータリーがある。去年来たのと変わらない風景だったはずが、どこかに違和感を感じた。間違い探しの二つの絵柄のような、どこか違うのに何が違うのかわからないーーそんな感覚を抱いたが、(一人で来たからな)と思い、それは一人で旅しているのに伴う当然の感覚だと解釈した。
バス停の場所はぼんやり覚えていたものの、駅員に聞いてみようと考えた。改札の駅員に近づいて、尋ねた。若い男だった。
「すいません。下矢作へのバスはどこから乗ればいいですか?」
「え?」
虚を突かれた人のように駅員は声を出した。(よく聞こえなかったか?)と考えた。こんな質問は駅員は日常茶飯なはずで、聞き慣れていないはずがない。
「あーその、下矢作行きのですね、バスはどこから乗ればいいですか?」
駅員は体をこちらに乗り出して、更に(聞こえない)という態勢を取った。さすがに不審を覚えた。帽子を目深に被っていたので、目のあたりは見えなかった。その時(どうしてこんな帽子を目深に被っているんだろう?)と不思議に思ったのを覚えている。
「すいません。もう一度、どこ行きか教えてもらっていいですか?」
駅員は言った。私はリュックを下に置いて、窓口に手を置いた。
「し・も・や・は・ぎ。…しもやはぎです」
(さては新人だろう)と思った。(こんなに若いしな…知らないんだろう。配属されたばっかりとか、そんなのだろう) 私は考えて、苛立つまいとした。
「しもやはぎ。…はあ」
駅員は釈然としない顔をしていた。(やっぱり知らないか。新人なんだな) 私は思った。駅員は奥に行き、もう一人の駅員を連れてきた。年配の女性らしかったが、どういうわけか、彼女も帽子を目深に被っていた。
二人は私の目の前でやり取りを始めた。それはあたかも、私に対して見せる不条理劇のようだった。男が聞いた。
「佐藤さん。しもやはぎ、って知ってます?」
「さあ…しもやはぎ?…知らないわ…」
「バス停があるらしいんですが…」
「バス停はあるけど、しもやはぎ行きのバスっていうのは聞いた事がないわね」
私は唖然と二人のやり取りを見ていた。女の駅員の方が近づいてきて、声をかけた。
「申し訳ないですけど、しもやはぎってどんな漢字を書くのか、ここに書いてもらえますか?」
メモ帳とペンを渡された。私は唖然としたままだった。顔を上げて声を発した。
「いや、そんな辺鄙な所じゃないんです。なにせ僕は毎年、そこに帰省しているんですから。今年だっていつものように来ただけです。下矢作がわからないなんて、そんな訳はないでしょう?」
懇願の口調になっていた。女の駅員は私の顔を見つめていたが、やはり彼女の目は見えなかった。口元の皺で年配だと察しはついたが、口元は緩まなかった。
「そうですか。まあ、このあたりは統廃合が多いですから。申し訳ないですが、町名を書いてもらえますか?」
女性駅員は丁寧な言葉遣いだったが、その裏には密かな威厳を感じさせた。私はなおも何か言いたかったが、思い直してペンを手に取った。
『下矢作』
書き終わって、メモ帳を渡そうとした時、めまいがした。プラットホームに下りた時と同じめまい。視界が揺らいで、地面が揺れた気がした。私の視線は自分の書いた『下矢作』に注がれていたのだが、その文字が何だか文字に見えなかった。ただのインクの染みというか、何の意味もない、ミミズがのたくった記号というか。誰かが何の思慮もなく、乱雑に線を引いただけというか…。馴染みのあるはずの言葉が全く意味のない、自分とは関係のない、この世界に存在するはずのない言葉に思えた。文字は文字ではなくなっていた。
錯乱から逃れようとするかのように、メモ帳とペンを押し返した。幸い、駅員が私の態度に気づいた様子がなかった。駅員はメモ帳を見て「ちょっと調べてみますね」と言って、奥に引っ込んだ。男の駅員はいつの間にか消えていた。
私は待たされた。不思議な気持ちだった。(そんな事があるか?) 疑問は尽きなかった。女の駅員はベテラン風だった。「下矢作」を知らないなんて事があるだろうか?
私は振り向いて、ロータリーを眺めた。祖父母と買い物をした大きなスーパーが遠くに見えた。店名はなんだったろう?田舎のだだっ広いロータリーが目の前に広がっていた。人は少ない。車も少ない。それでもここは、ここらの人達にとっては買い物をしにくる場所であり、「遊び」にくる場所でもある。都会の人間から見れば何もないが、山奥に住んでいる人達からすれば、色々な機能を備えた重要な場所だ。
果たしてこの風景は本当に見覚えがあるだろうか? 私は変な事を考えた。下矢作なんて存在しただろうか? 私は祖父母の家に本当にここから行っただろうか? …いや、間違いない。私はここから行った。その時は両親も姉もいた。これは何かの間違いだ。間違いなんだ。そうだ、あの駅員がたまたま知らないだけだ。こんなはずはない。物理法則がねじ曲がっているような…そんなはずはない。
祖父母と買い物をしたスーパーは目の先に見えていたが、ふと、店名を思い出そうとした。なんだっけ? チェーン店ではなかった。だから…その店だけの名前だったな。ブ……ベ……濁音がつく言葉が頭にあった気がする。カタカナだったな。祖母の顔が浮かんだ。「今日は〇〇に行くよ」 よく言っていた。なんだっけ? 空欄に入る文字は。ブ……ベ……ボ……。
「お待たせしました」
後ろから声がして、我に帰った。振り向くと女性駅員がこちらを見ていた。
「今、調べたんですが、下矢作に停まるバスはないみたいですね。ちょっとうちでは見つかりませんでした。もしかしたら何か勘違いしていらっしゃるのでは…」
「そんな事はありません!!」
私は思わず怒声を上げた。「そんな事はありません」 自分に言い聞かせるようにもう一度言った。
「もういいです。自分で探します。あります。下矢作の町はあるんです。僕は…そこにずっと帰省していた。祖父母もいる。ないわけがない。こんな侮辱…もういいです。自分の足で歩きます。這ってでも帰ります!」
リュックを持って、歩き出した。女性駅員はあっけに取られていた。私は気にせずずんずん歩き出した。あの二人はすぐにでもこう言うだろう。「あいつ、頭おかしいですよ」 「そうね…。時々いるのよ。ああいう変なお客さん」 頭の中でそんな図が浮かんだが、歩き続けた。バス停の位置は大体覚えている。自分の足で行けば文句はないだろう? 私は苛立っていた。
バス停はロータリーの端にあった。バス停……標識柱とベンチがあるだけだが、その二つが見えて私は安堵した。それは見慣れた物のはずだった。私はそこでバスを待っていた事があるのを思い出し、記憶に間違いがないと確信しようとしていた。
標識の前まで来た。バスを待っている人は誰もいなかった。(下矢作…あるはずだ)自分を落ち着かせるように心の中でつぶやいた。標識は表に時刻表、裏には路線図が張られている。裏に回って路線図を見た。バス停の一つに「下矢作」とあるはずだった。
下矢作のバス停は、祖父母の家近くのガソリンスタンドの横だった。そこでバスを下りたのを覚えている。バスを下りて見える風景…川と森、青い屋根の民家、古くからある吊り橋が見えたはずだ。私は記憶を探り出し、自分を励まそうとしていた。
…停留所の名前を一つ一つ読み上げていったが、「下矢作」の名前はなかった。そんな馬鹿な…。体の力が抜けたが、見落としかもしれないともう一度最初から辿っていった。…繰り返した所で、「下矢作」の名前はなかった。何度見返してもなかった。
私は近くの汚いベンチに座り、リュックを下ろした。がっくりとうなだれた。世界に一人取り残されたような気持ちだった。地球では壮大なドッキリが行われていて、みんなが私を騙す為に裏で動いているんじゃないか? …あらぬ妄想が頭をよぎった。
その時ふと、携帯電話を思い出した。そうだ。電話をかければいい。どうして思いつかなかったんだ。自分を罵りながらリュックから携帯電話を取り出した。祖父母に掛けてもいいし、両親に掛けてもいい。
両親に電話をかけた。実家の備え付き電話。コール音を緊張と共に聞く。(早く出てくれ)と心の中で祈っていた。こんな馬鹿げた事…あるはずのものがないなんて…コール音は虚しく響き渡るだけだった。いつまでもコール音は虚空に響いていた。そこは虚ろな空間のようだった。
「どうして出ないんだ? ふたりとも出かけちゃったか?」
私はそう言って、電話が繋がらないのは不可解な理由ではないのだと自分に言い聞かせようとしていた。
両親は諦め、祖父母に電話をかけた。結果は同じだった。コール音が虚しく響くばかり。一体、どこに掛けているんだ? 電話会社は? 地獄にでも、天国にでも掛けているのか? 祖父母は家にいるはずだった。私が来るのを待っているはずだ。祖父母の家には古い電話機が備え付けられている。それが…鳴るはずだ。
鳴らなかった。電話は鳴らない。私は苛立ちを最高潮に募らせて「なんだよ!」と叫んだ。その言葉は田舎の大きな駅にガランと響いた。…その時、私は奇妙な事に気づいた。
考えてみれば、人がいなさすぎる。いくら、田舎の駅といえども、もう少し、人がいるはずだ。家族と帰省した時には、一緒に電車から下りた乗客、駅を歩いている人がいた。いくらなんでもガランとしすぎている。電車から下りた時、私は一人だった。私はその事を怪しみもしなかったのだ。
私は考えた。どうして怪しみもしなかったのだろう? どうして一人ぼっちで駅に下りて、普通に改札まで出てきたんだ? ベンチに座りながら途方に暮れた。
目の前にはだだっ広いロータリーが広がっていた。それは無人…私以外誰も使っている人間はいない。こんな話があるか? これは現実か? 夢を見ているんじゃないか? 私は次第に全てが疑わしいものに思えてきた。「下矢作」なんてなかったのか? 思い出してみる。祖父母と一緒の自分を。姉と私と、祖父母に両親。六人でテレビを見たではないか。一緒に飯を食ったではないか。嘘ではない。本当だ。本当のはずだ。自分の記憶…それが信じられるのならば、私は確固とした地盤の上にいるはずだった。……しかしそれは揺らいでいた。
無人のベンチに座りながら、足元が揺れている錯覚を得ていた。全ては嘘だったのではないか? …そんな事が頭に浮かぶ。何もかも、最初から嘘だったのか? …そんな馬鹿な。馬鹿な事が。
ドラマの主人公にはそういう事はあるかもしれない。一人だけ、特異な状況に放り込まれて、苦悩する。そんなシーンだってあるかもしれない。しかし、現実にそうなったらどうだ? 現実の私? …こんなに惨めではないか。惨め。それが私だ。今の私。私は惨めでどうしようもない…ドラマの主人公はいい。彼にはスポットライトが当たるから。苦しんでいても、辛くても、それが意味になる。見ている人がいるから、それは意味となる。伝達されて、価値になる。同情がある。ハラハラがある。だけど現実になってしまえば、ただ素っ頓狂な男がいるだけだ。…いや待て。自分をドラマの主人公になぞらえる、そんな考え方はやめよう。比較して、悦に入るのはやめよう。私は本当に狂人なのかもしれない。私の世界だけ、どこかに異常が生じ、精密な世界の歯車が狂ってしまったのかもしれない。私はもしかしたら、本当に狂人かもしれないぞ。
さっきの駅員二人の対応が思い出された。あの二人からすれば、私は紛れもなく狂人だった。…何もしていないぞ、と私は弁解する。ただ「下矢作はある」と言っていただけだ。あるものをあると言って何が悪い!……だが、それは心の中の虚しい抗弁に過ぎなかった。
私は次第に眠くなってきた。全てがぼんやりした陽炎に包まれ、靄の中でゆっくりと安らごうとしていた。それは私の魂を優しく揺さぶってきた。さあ、眠れ、と言わんばかりだった。夏、日陰とはいえ、まだ汗が出るくらいなのにどうしてそんなに眠くなったのだろう? ただ、私には眠りへの誘いは極めて心地よいものに感じられた。そうだ…これは良い眠りだ。この世界が嘘であるのを証明する、この世界が夢であると明かしてくれる、そのための眠りなのだ…。そんな事を考えた。ぐっすり眠って目を覚ませば、下矢作が存在する世界にジャンプできる。嘘の世界から本当の世界に帰る事ができる。私はなぜだか間違った世界に紛れ込んだのだ。そんな気がした。深い眠りに陥ろうとしていた。眠る寸前だった。その時、本当に眠り込んでいたら、私は一体どうなっていたのか、それは後からは想像もつかない。
……ぼやけた意識に、向こうから黒い車がやってくるのが見えた。タクシーだと気づくのに、二、三秒かかったろうか。最初はただ黒い動く物体にしか見えなかった。黒い塊が蠢いているだけだった。それが次第に輪郭を取って形となり、「タクシー」になった。タクシーは私に近づいてきた。眠りかけの目を少しずつ押し開けた。
タクシーは目の前に止まった。助手席の窓が開いて、運転手が顔を出した。白髪が混じっていたが、精悍な顔立ちをしていた。年輪を感じさせる浅黒い顔は、使い込まれても尚現役の、職人の道具を思い起こさせた。その顔を見て私は不思議に安堵の気持ちに包まれたのを、今でも覚えている。
「兄ちゃん、どうかしたか?」
運転手は言った。私は相手の顔をぼうっと見ていて、一瞬言葉の意味がわからなかった。「兄ちゃん」が自分だと気づくまで間があった。
「あ、ああ…」
私は上体を起こした。改めて相手を見て、タクシーであり、運転手であると認識した。
「いや、ちょっと、ぼうっとして…」
「そうか。熱中症か? 大丈夫か?」
相手の言葉が『親切』から為されているのだと気づくのに、また間を必要とした。そうだ、これは田舎の人の親切。普通の事だ。この裏には作為はないに違いない…。意識は未だはっきりしていなかった。
「いえ、大丈夫です」
そう言った時、藁にもすがる思いが私の中で芽生えた。腐りかけている木の根につかまる気持ちとでもいうか。私は言葉を発した。
「すいません。『下矢作』って知ってますか?」
「ああ。知ってるよ」
耳を疑った。今、なんと言った?
「知ってますか? 本当に? 下矢作ですよ。下矢作。そういう町があるんです。本当に…知ってるんですか?」
「ああ。知ってるさ」
運転手は苦笑いを浮かべた。私はそれどころではなかった。心の中で驚喜した。慌てて立ち上がった。
「知ってる? 本当に? …ああ、そこに連れて行ってください! お願いです。僕をそこに…連れて行ってください!」
「いいけど…ちょっと遠いよ。四千円くらいかかるよ」
運転手はそう言いつつ、後部座席のドアを開けてくれた。私は慌てて乗り込んだ。
「いいです。お金は出します。だから…そこに連れて行ってください! お願いです! 下矢作の町まで。お願いします!」
「いいけど…まあ、こっちはありがたいけどね。それじゃあ…行こうか」
運転手は車を発進させた。嬉しくて仕方なかった。車はロータリーをぐるっと回り、山の方に向かって走り出した。私は窓に顔を近づけて、駅の改札を見た。改札にいる二人の駅員を見たかったのだ。…しかし、二人は見当たらなかった。駅は無人だった。(彼らはどこへ行っただろう?) 考えが頭をよぎったが、一刻も早くここを去りたかった。その願望の方が強かった。タクシーは私の願望を聞き入れたように走り、あっという間に駅は見えなくなった。私はふっと安堵した。助かった、と思った。
タクシーは街路を進んでいった。私は子供のように窓に顔を近づけて、外を見ていた。
外には人がいた。対向車も存在したし、大きなスーパーから出てくる買い物かごを押している家族連れも見かけた。さっきの無人の駅は何だったのだろう? 街は普通の光景を呈していて、さっきまでの私は、夢を見ていたかのようだ。…しかし、まだ油断はできない。
「お客さん、どうかしたの?」
運転手は前方を見たまま話しかけてきた。私の異常な様子が気になったのだろう。私としてはそれどころではなかった。
「いや、まあ…」
「熱中症か何か? 本当に大丈夫?」
車は信号待ちの為に停車した。信号を抜ければ、店は減り、建物そのものも減って、田舎道になる。私はそれを覚えていた。
「大丈夫です。ところで、本当に下矢作の町を知っているんですか?」
「…変な事を聞くねえ。もちろん、知ってるよ。ここから山を一つ上った先さ。あそこに知り合いもいるよ」
「そうですか」
信号は青になり、車は走り出した。運転手の答えはごく自然なものだった。私の記憶は間違いではなかった。だったら…さっきのは何だったのだろう?
「お客さん、何しにあんな所まで行くの?」
運転手は話しかけてきた。風貌からすれば、それほど気さくなタイプにも見えなかったが、意外にも積極的だった。
「おじいちゃん、おばあちゃんでもいるの? お盆だから、帰省かね? …山奥だからねえ。遊びに行くような所じゃないよ」
「そうです。帰省です」
私は言った。ミラー越しに、運転手の目が見えた。
「帰省です。本当は両親と一緒のはずだったんですが、用事でこれなくなったんです。それで一人で来る事になりました」
「そうか。大変だね」
運転手はさほど興味もない、ビジネストークという雰囲気で受け答えしていた。私はちょっと逡巡した。さっきの事を言おうか、言うまいか…。しかし、悪い人ではなさそうだと思い、話そうと思った。
「あの…さっき、実は変な事があって…」
「変な事?」
運転手はミラー越しにちらりとこちらを見た。私は自分の身に起こった事を説明した。駅を下りて、下矢作について駅員に聞いたら知らなかった事。標識にも「下矢作」がなかった事。呆然としている時に、タクシーが来てくれた事。自分の心情まで含めて話した。
正直、運転手が良い反応を示すとは期待していなかった。一笑に付されるだろうと思っていた。しかしそれでも構わないと思っていた。とにかく誰かに話す事によって気持ちが収まるのを期待していたから。
「…へえ。狐にでもつままれたのかね?」
運転手は真面目な顔で言った。タクシーはだだっ広い田んぼの真ん中を走っていた。
「本当にいるんですか?」
「え?」
「本当に狐はいるんですか? 狐につままれる事があるんですか? このへんでは?」
「……やだなあ。例えだよ。ものの例えさ。狐や狸に化かされるのも、長年生きてればあるかもしれんよ」
私は、一瞬、ここらでは本当に狐につままれる事があるのだと言ってくれたのだと考えたが、言っているのは一般論だとわかって、がっかりした。それと同時に、自分は正気を失いつつあるのかもしれないとちらと考えた。
「しかし、それは変わった経験をしたねえ」
半信半疑という態で運転手は言った。私は、全部話してしまったので、多少気持ちが落ち着いていた。
「ええ。まあ」
「でも、安心しな。下矢作の町はあるから。俺達はそこに向かってるんだ」
「ええ」
私は窓の外を見た。田んぼが続き、奥に城垣のようなものが見えた。そういえばこのあたりに城があったっけ? 私は関係ない事を考えていた。
一分ほどの沈黙があった。運転手は車を走らせ、私は窓の外を見ていた。夏の日差しが、緑色の風景全体をピカピカと光らせていた。まるですべてが光であるようだった。その時の私はそう感じた。…つい、その逆の、駅員二人が帽子を目深に被っていた光景を思い出した。二人共不自然なほどに帽子を深く被っていた。おかげで目の辺りに濃い影ができて、目が全く見えなかった。そこには暗い闇が堆積しているようだった。夏の光の風景に比して、私は急にその闇の深さを思い出した…。
「すべてが信じられない事」
その言葉をいきなり発したのは運転手だった。最初、私はそれが何の言葉なのか、一体何の話なのか、まるでわからなかった。運転手は前を見たまま言葉を続けた。
「すべてが信じられくなる事…そういう事っていうのは、俺の経験上も、なくはないだろうなって思う。いや、きっと、あるだろうよ。世の中、そんなものだろうよ。そうじゃないかな?」
運転手はミラー越しにこちらをちらと見た。私は困惑していた。
「何の話ですか?」
「さっきのあんたの話だよ。下矢作の町を知っている人がいなかったっていう…。そういう事はあるだろうよ、って言ってるんだ。そういう事はきっとある。何もかもが信じられない…あるいはみんな夢を見てるのかもしれんぞ。奇妙な夢をさ。それで、あんたはさっきの一瞬、目覚めたんだよ。きっとそっちの世界の方が本当だったんだよ。下矢作なんて町は本当はないんだ。本当はな。俺やあんたは今…夢を見てるのさ。このタクシーも実は幻影で、そういう夢を見させられているのかもしれん。火星人か何かによってな」
急に運転手が奇妙な事を言い出して、私は二つの疑いを抱いた。一つは、運転手がからかっているのではないかという事。もう一つは、さっきの奇妙な空間は続いていて、彼も何かの役を演じているのではないかという事。つまり、今も狐につままれているのではないかという事。
「一体何が言いたいんですか?」
「ちょっと思い出したんだよ。そういう事をさ。何もかもが、嘘になっちまった事態をさ。………俺の親父は戦争経験者でな」
車はなだらかな曲道を進んで行った。車速が落とされた。田んぼが減り、林が増えた。
「親父はいつもその話をしてた。俺は親父に百篇も千篇も聞かされたよ。戦争の話を。俺はまだ子供だったけどな。でもそのおかげで、すっかり親父の不信仰が身についちまった。不信仰…わかるか? 信じられない事だよ。人は信じない事を信じて生きる事もできるんだ。俺は…そう思うな。そう言えば、あの夏もこんな夏だった。…いや、もちろん俺は戦争は経験してないよ。だけどな、親父の話を聞いている内に、すっかり自分の中の光景に変わっちまったんだ。自分の中でビデオが流れるんだよ。映像が流れる。泣いてる親父の顔がな、浮かぶんだ。…いや、親父は泣くこともできなかった、って言ってたっけ。最初はただ呆然としたって言ってたな。涙は後から流れるんだ。その時には流れない。ただただ驚いたんだってよ。日本が負けたって事にな。親父はそれ以来、すっかり人が変わっちまった。…もちろん、俺もそれまでの親父がどんなだったかは知らないけどな。でも、死んだ年寄共はみんな言ってたよ。親父はあんな子じゃなかった。朗らかで元気な子だった。それが、あの夏を境にすっかり変わっちまったんだって」
私は運転手が急に話し出した意味がわからなかった。内容もよくわからなかった。戦争が何の関係がある? 疑問を口に出した。
「すいません。その話は、僕とどう関係あるんですか? 下矢作の町とは…」
「まあ、黙って聞きなって。すぐにわかる」
運転手は気楽そうだった。私は聞くしかなかった。
「…それで、どこまで言ったっけ? …そうそう、親父がすっかり変わっちまったって所だったな。親父はさ、元々、元気な子だったんだよ。それが敗戦をきっかけにすっかり変わっちまった。そういう話さ。夏…ちょうどこんな夏でな。暑い夏だったらしいよ。みんなで玉音放送聞いてな…。おい、若いの。玉音放送って知ってるか?」
「ええ、知ってます」
天皇陛下が敗戦を国民に知らせたラジオ放送…授業でやったな。
「そうか。その放送をみんなで聞いてな、すっかり参っちまったんだって。ラジオは音も悪いし、何を言っているのかわからなかったけど、いつもの放送とトーンが違う。いつもは…戦争だから、もっと気持ちを高めるような感じだったって。それが、トーンが違うんだな。親父はその時、まだやっと18だったよ。なんにもわからない子供だったんだ。それでも、子供ながらに戦争を信じてたんだよ。勝つ戦争だとも信じてたし、日本が神の国で、正しい事をしてるってのも信じてた。それが…裏切られたってな」
タクシーは順調に進んでいた。私は確かに下矢作に向かっているんだろうな、と若干疑問を抱いた。
「玉音放送はいつもとトーンが違ったらしい。まわりの大人の反応も違って、いつもと雰囲気が違ったんだってな。それで、大人の一人に質問して、返ってきた答えでわかったらしい。日本は負けたって。だけど、親父は信じられなかった。嘘じゃないかって思ったって。…そもそも、負けるはずがなかったんだ。いいか、負けは存在しなかった。親父の頭の中には負けはなかった。戦争の歴史なんか知らなかったし、聖戦だと思っていた。親父は信じてたんだ。信じて、自分も戦っていると思っていた。それが負けたって。最初は訳がわからなかったって言ってたけどな。親父の口ぶりじゃあ、今もわかってないって感じだったよ…今って随分前の話だけどな。親父ももう死んでるから。親父はもうとっくにあの世に行ったよ」
私は窓外の風景を見ながら、教科書に載っていた戦争に関する黒白の写真を思い出していた。
「親父はその頃、学生でな。友人はみんな徴兵に取られけど、親父は行かずに済んだ。なんでも理系だったかららしい。理系だと何故、徴兵に取られずに済んだのか。俺もはっきりとは知らないけど、なんでも理系は本土に残って作業をする事になってたそうだ。親父は東北の工場に行って、作業してたらしい。田舎だったけど、まわりは田んぼと畑だから、東京と違って、食うものがあって嬉しかったって言ってたな。腹一杯食える事がこんなに嬉しいとは思わなかったって。…ああ、親父は東京育ちだったのさ。後で、こっちに越してきたけど。それで親父は同学年の仲間と一緒に工場で何かを作ってたらしい。なんだったかよく覚えてないが…飛行機の部品の組み立てとか溶接とか、そういうもんだったかな。確かに、親父は手先が器用だった。俺の本棚を作ってくれたし、勉強机も作ってくれた。木材を買ってきてな。そりゃあ手際は良かったよ…」
私はじっと聞いていた。話が横道に反れても黙っていた。
「親父はそんな風にして毎日を暮らしてた。…親父がよく言ってたのが『戦争は楽しい』って事だ。まあ、実際戦地に行かなかったからそう感じたのかもしれないが、戦争は楽しいんだって言ってたな。そういうのも包み隠さずに言っていたよ。それに戦争はかっこいいしな。男心をくすぐる所がある。軍歌をよく歌ったって言ってたよ。日本は勝つと思ってたからな。戦争が始まった当初は、解放感があったとも言ってた。その頃はまだまだ子供だったろうけど、まわりの大人の顔色が明るくなったって。暗さが消えて、みんなが一つの方向に向かって走り出す、そういう解放感や嬉しさが溢れていたって。戦争が深まるにつれて、陰鬱な空気も出てきたけれど、みんなはあくまでも国を信じていた。一つの事を信じて戦い抜ける、それに嬉しさを感じていたって。親父は…普通の少年だったんだ。親父は夢を見ていたんだ。前線に送られなかったからこそ、そう考えられたのかもしれんが。親父は普通の少年だったよ。とにかく。もちろん、少年の頃は知らないけどな。だけど爺婆連中はみんなそう言ってた」
私は話を聞きながら、考えていた。戦争の話が、一体今の自分と何の関係があるのだろう?と。私にとって戦争は遠かった。あまりにも遠かった。
「親父は信じていた。この国を信じていたし、神の国だというのを信じていた。負けるはずがなかった。みんな命を懸けて戦っていた。そこに美しいものがあった、それは嘘じゃなかった、と親父は言っていた。戦争のすべてが悪いわけじゃないとも言っていた。そんな普通の少年が、だ。あの日に出くわした。敗戦だよ。負けたと急に宣告されちまった。親父はショックで、何が何だかわからなかったって。呆然として、それでも放送の後、いつものように工場に戻ったんだって。いつもの面子と顔を合わせてな。ところが、上の人間から『今日はもう帰っていい』って言われたそうだ。もう作業しなくていいって。その口調がいつもと違って優しくて、不思議に印象に残ったと言っていた。帰り道、親父は親友と一緒に川べりを歩いていた。暑い夏の日で、川の水に日が当たってキラキラ光っていた。友達と会話しながらどこか体が宙に浮いたみたいで落ち着かない。川の水が光って、とても綺麗に見えた。いままでにないくらい美しく見えて、チラチラとそっちを見ていたって言ってた。それで…下宿に帰った。まだ、何にもわかんなかったとよ」
「下宿先に帰ったら、よっぽど暗い顔をしてたからか、下宿のおばさんに言われたらしい。『あんた、どうかしたの?』って。その時に、親父は言われて、玉音放送を思い出して、一筋涙がこぼれたらしい。だけど涙を見せるのは恥ずかしいと思っていたから、顔を拭いて部屋に入って、布団に寝転がってしばらく泣いたんだって。だけど、涙の意味もまだよくわかっていなかったらしい。負けたって事もわかってなかった。でも涙が出てきてどうしようもなかった。親父はどうしようもなく泣いた。泣きはらしたとよ。翌日もまた、工場に行ったら…今度は、自分達が作ったものを壊すように命令されたって。もう要らなくなったからって、昨日まで自分達が作っていた物を全部壊せって。それを作る為の器械も壊せって。親父は悲しい気持ちよりも、滑稽というか、奇妙な気持ちだったらしい。友達と言い合ったそうだ。『俺達のしていた事は一体なんだったろうな』『そうだな。でもまあこれを壊さないと。…おい、向こう持ってくれ』 そんな会話をしたらしい」
「全てを奪われた親父は無気力だった。ぼうっとしていたらしい。アメリカが乗り込んでくるんじゃないか、どうするどうする、って噂話も出てたらしいけど、親父はとにかくやる気がなかったって。命を懸けていたはずのものが、まるごとなくなっちまったから。あると思ってたはずのものが消えてしまって、もうどうにもできなかった。だけど食うもんはあったから、生きられた。上からの命令も、器械を壊した後は、なかった。待機だって。何を待機するんだ、一体どうすればいいんだ。頭の中でずうっと質問がぐるぐる回ってた。それで、友達と一緒に喋ってて、はしゃぐ事もあって、笑ったり、ふざけたり…でもその瞬間にふいにどうでもいい気持ちになって、一体、なんだこれはって気持ちになって笑いが収まる。何か悲しい気持ちがどこからかやってきて『ああ、日本は負けたんだ』って思い出す。そんな無気力状態だったらしい。」
「親父のいた所は海が近かったんだよ。近くに砂浜があって、そこで泳げた。ぼうっとしてやる事もなくて、親父はよく海に出たらしい。裸になって海にただプカプカ浮かぶ。それでぼうっとして…どうにも無気力な状態だった。それで、親父は考えたんだな。夏の日差しの中で。人間のやる事なんて全部こんなもんだ。人間っていうのはこんな風にして、悲しくて滑稽な生き物なんだって。…このまま海に沈んで死んでしまいたいと思った時もあったらしいけど、いかんせん体が元気だ。まだ十八だったからな。人生はまだこれからだったんだよ」
「親父はよくその光景について話した。しょっちゅう話したよ。海の美しさについてな。夏の日差しがピカピカ水面にあたって綺麗だ。ぼうっとして、次第にここが現実ではない気がしてきたって。親父は海に出て、陸をぼうっと見ている。その時に思ったらしいよ。陸地でやっている事は全部嘘だ。全部嘘。人間ってちっぽけな生き物は、水から出て、陸に上がってきた。…それぐらいの知識はあったんだな。それで、どうしてこんな馬鹿は水から出てきたんだろう? 魚から両生類、人間になって、わざわざ。こうやって今の自分みたいにプカプカしとけばよかったのに。クラゲみたいにさ。ただプカプカしとけばよかったんだ。それが、陸に上がって馬鹿騒ぎをして。信じていたものが裏切られたから、おかしくなってたんだろうな。親父はそんな事をとめどもなく考えたって。それで海の、波のリズム。それだけは信じられたって言ってた。人間は信じられない。昨日まで戦争だ、神の国だって言っていたのが間違いだって事になった。こいつらは、自分も含めて信じられない。だったら何が信じられるか…そうやってぼうっとしていたらしい。もっと年を取ってたら自殺してたかもしれない、と言っていたよ。いや、本当は死ぬべきだったのに死ねなかったとも言ってたな。それが生き残ってしまった。だけど、後悔していない。なぜなら、俺はクラゲみたいなもんだからだ。ただ水中をなんにも考えずプカプカ浮いているだけだ。ただ生きていた。それで…いいじゃないか。笑って言っていた」
「親父は生き延びた。親父は生き残ったんだ。理系でなけりゃ、死んでたのかもしれんな。親父は生き残って、結婚して、俺を生んだ。俺の所は三人兄弟で、兄貴と姉貴も生まれた。おふくろの伝手でこっちで仕事をする事になったんだ。このあたりに住んで、死ぬまでいたよ。だけどそんなのは、親父からすればどうでもいい事だったんだな。親父の話を聞いていると、わかるんだよ。親父の中では全てが八月十五日で止まってしまってるって。親父は未だに18のガキのまま、夏の海にプカプカ浮かんでるんだ。それだけなんだ。クラゲみたいにな。親父はよく言っていたよ。戦争に負けた後、日本は平和国家になったろ? 平和国家に生まれ変わって、経済で世界に貢献するってなったろ? それぐらいは知ってるだろ? 若い兄さんも? だけど、親父はさ、それにも懐疑的だったな。『昨日まで戦争だと言っていたのが嘘だった。だったら明日の平和だって嘘にならないわけがない。こいつらはまた嘘ついてやがんだ。みんなで芝居してるんだ。俺は国を信じない。体制を信じない。騙されたからな。嘘つかれたからな。勝つって言って負けた。負けを認めた。神の国は神の国じゃなかった。人の国だった。次に何が来ようが、俺は信じない。信じない権利だってあるだろう? 俺は騙されたんだ。…騙さなかったのは、海だけだ。太陽だけだ。あの風景が、あの風景だけが俺なんだ。そうだ。未だに、俺はあそこに浮かんでいる。……誰にも何にも言わせねえぞ』 親父はそれはすごい形相で睨んでいたよ。まだガキの俺を睨みつけていた…。親父はそんな理由で、戦後になっても何も信じられなかった。明日ひっくり返るかもしれない世界をどうして信じられるんだってな。よっぽど、応えたんだな。全てが嘘だったって事に。戦争に負けちまった事に。…親父の頭の中ではまだ、あの日の海、太陽がキラキラ光っているんだ。太陽と波のリズムだけが本当で、それ以外は人間が勝手にやってる馬鹿騒ぎだったんだ。親父はそういう人だったよ」
運転手が長い話を終えた時、奇しくも…いや、当然の事として、外は日差しを受けた緑の風景だった。暑い夏。私は話を聞きながら、窓外を見ていた。そこには運転手の「親父」が彷彿と浮かんでくるかのようだった。
「だから、あるんじゃねえか」
しばしの沈黙の後、運転手は言った。私は、すっかり話に聞き入っていたので(何が「ある」んだろう?)と思った。
「下矢作の町が『なくなっちまう』って事だってな。それぐらいの事はあるだろうよ。なにせ、なにもかもなくなっちまう事があったわけだからなあ。そんなに不思議でもないかもしれんよ」
「そうですね…」
私は相手に説得されてしまったのか、自分の経験した事がなんでもない事のように思えた。色々な事がありうるに違いない。狐につままれる事も、狸に化かされる事もあるかもしれない。…いやいや、いくらなんでもそれはない、あれは理不尽すぎる。後になれば、そうも思ったろうが、その時は、運転手の気分に同化させられてしまっていた。
「運転手さんは下矢作の町出身なんですか?」
「そうさ」
運転手はあっさり言った。そうだったのか。
「あそこで生まれ育った。だから、そこがない所にされちゃあ、俺も困るのよ。ないはずはないんだ。あるんだ…」
タクシーは長いトンネルに入った。トンネルを抜ければ、もうそこは下矢作の町のはずだった。トンネル抜けてすぐ右に「ようこそ 下矢作町へ」という標識があるはずだ。タクシーは確かに目的の地に向かっているようだった。
「俺は親父を尊敬していた」
トンネルの真ん中でふいに運転手が言った。トンネルの中は暗く、オレンジ色のランプが等間隔で点いていた。そのオレンジ色は、幼児の記憶のせいか、どこか不安な印象を起こさせた。ミラー越しに運転手の顔を見たが、顔が見えなかった。顔は帽子の下の闇に没していた。
「俺は親父が好きだったんだ。親父を尊敬していた。…そんな親父でもな」
トンネルの中に車はなかった。たった一台のタクシーが闇の中を疾走していた。
「俺は親父の話を真に受けちまったのかもしれんな。真に受けすぎたのかもしれんよ。親父が好きだったからな」
運転手は一瞬黙った。沈黙の後、決意したように口を開いた。
「俺は独身なんだ。そう、独り身だ。生まれたのもここで、ここでこうやって死んでいく。ただのタクシー運転手としてな。他の仕事もいくつかした。仕事に情熱を燃やした時期もあった。女と付き合った事もある。だけど、物にならなかったよ。何故って言えば…言ってみれば、親父の不信仰が身に沁みていたからかもな。親父の言葉を真に受けすぎてしまったのかもしれん。親父が好きだったからな。どこかで親父の悲しい瞳が俺を見ていたんだよ。それが俺を縛っていた」
「…後悔していますか? その事を? 束縛から抜けられなかったのを?」
私は思わず質問した。
「…わからん。わからないさ。ただ一つ、わかるのは俺は親父が好きだったって事だ。言ってみりゃ…信じない事を信じたという事かもな。どっちにしても、徒労だったよ。俺の人生は。俺は俺で。徒労だった。駄目だった。なんにもできやしなかった。…だとしたら、俺もあの日、あの夏の日、海に浮かんでいる親父の姿から一歩も進んでいないのかもな」
運転手はふっと笑った。私は慄然として、黙った。トンネルの切れ目が近づいてきて、タクシーは光の中に放り出された。
標識は存在した。「ようこそ 下矢作町へ」 私はそれを見て、ほっと息を吐いた。
町に入った。それでも町の中心地ーーといっても、住宅と商店がわずかにあるだけだがーーまでは三分ほど走った。運転手が「どこに止める?」と聞いてきたので、「ガソリンスタンドの横にお願いします」と言った。運転手は「はいよ」と気安く答えた。
私は運転手の語った事について考えを巡らせていた。それと共に、目の前の見覚えのある風景がさっきまで「不在」だったという事を考えていた。その二つのイメージが一つになって、目の前の風景に具現化されているような気がした。林道や、道の端に置いてある砂山。時折現れる単独の小屋とも家ともつかない建物。それら全ては、次の瞬間には消え去るかもしれないという存在の恐怖に打ち震えているように感じた。
ガソリンスタンドについた。ドアが開いた。メーターは四千六百円ほどだったが、運転手は「四千でいいよ」と言った。「四千で着くって言ったもんな」 私は、「いえ、ここまで連れてきてもらって感謝していますので五千円払います」と言った。些細な金額のやり取りが行われたが、結局、メーター通りの額を払う事で話はついた。
外に出ると、田舎の澄んだ空気が広がっていて、心地よかった。涼しかった。リュックを背負い直し、風景を堪能していると、ドアが開いて運転手が出てきた。彼は私に近づいてきて「悪かったな」と言った。
「悪かったな。長々といらん話をして。…でも、いい経験ができただろう? 狐につままれたり、狸に化かされたりな。そんな不思議な事もあるかもしれんよ」
「いや。…いい経験だなんて」
私は苦笑した。心の中ではある事を言おうかどうか迷っていた。
ぼやぼやしていると運転手が去ってしまいそうだったので言う事にした。
「そういえば、運転手さんは、自分の人生はなんでもないとおっしゃっていましたけど、僕はそんな事ないと思います」
唐突な言葉に運転手は戸惑いを見せたが、すぐ答えが返ってきた。
「やめてくれよ。月並みな慰めなんて。そんなもの聞きたくはない」
「いや。だって僕をあそこから救ってくれました。ここに連れてきてくれました。それだけでも…感謝しています。少なくとも、僕にとっては救世主でした。本当に、困っていたんです。変な空間に紛れ込んだみたいで…辛かったんです。右も左もわからなくて、ぼんやりして、どうにもならなかった。それを、ここまで連れてきてくれた。助けてくれました。運転手さんが救ってくれたんです」
「…あんた、それが『救い』だってなんで言えるかね?」
運転手は私の顔をじっと見た。そこには厳しい刺々しさがあった。そうしてそれが、彼が生涯を掛けて蓄えてきた棘だったと、鈍感な私にも感じるものがあった。
しばしの沈黙の後、何も言わないのを見て取ってか、諦めたように「まあいいか」と言った。
「まあいいか。そういう事にしとこう。俺はあんたを救ってここまで連れてきたと…。実を言うとな、俺はあんたの話を疑ってたんだよ。今も疑ってる。変な夢でも見たんじゃないかってな。あんた、ベンチで眠そうにしてただろ? 俺は、あんたがただ夢を見ただけじゃないかと今でも…疑っている。だけど、もういいや。こうなったら、あんたの見たのが夢だろうと夢でなかろうと、どっちでもいいやね。とにかく、俺はあんたをここに連れてきた。変な場所から救い出してきて。そういう事にしとこうか。…あんたの感謝をありがたく受けとくよ。俺にとっては、ただ客を一人拾っただけだけどな。だけどそれにも何かしらの意味はあるかもしれん。でも…まあいい。あんたはまだ若いんだから、人生はこれからだよ。俺と違ってな。気をつけてな」
「運転手さんこそ、お気をつけて」
「おう。それじゃあな。今日は…面白かったよ。…妙な客を拾ったって、話の種にはなるだろう。まあ、俺も妙な奴だってまわりには思われてるけど。とにかく、兄ちゃん、今日はありがとう。それじゃあな」
「ええ、ありがとうございました」
運転手は笑顔を見せると、タクシーに乗り込み、走り去った。私は立ち尽くしたままだった。タクシーが最後まで去っていくのを見送った。彼の車の行く先はどこなのだろう?と奇妙な問いを心の中に浮かべていた。
ガソリンスタンドの横のバス停はいつものように存在した。「下矢作町入口」という名前だった。私は標識を愛でるように撫でさすった。そんなものが懐かしく思えるなんて思わなかった。
そこからは民家の青い屋根も、吊り橋も見えた。記憶には間違いないようだった。ふと思い出して、携帯電話を取り出して、実家に掛けた。何度目かのコール音の後、母親の声がした。
「あ、真一? おじいちゃんの家についた?」
「うん。ついたよ」
「そう。思ったより時間が掛かったのね」
私は、自分の身にあった事を話そうかと思った。経験した事全てを語ろうか、と。
だが、気持ちは盛り上がらなかった。運転手に話した時と同じには行かなかった。それに私には…さっきの、運転手との秘密の共有というか、世界から外された感覚の共有を失いたくないと思った。そんな我儘な思いがこみ上げてきた。
「まあね。バスに一本、乗り遅れて」
「そう。まあ、でもついてよかった。おじいちゃんおばあちゃんによろしくね。私達はこれからお葬式だから。実はもう向かってる所なの」
「ああ、そう。じゃあもう切るね」
「うん」
電話は切れた。私は祖父母の家に向かって歩き出した。ただ歩くだけなのに、一歩一歩、地上を踏みしめるような気持ちだった。私は天地に一人呼吸しているような気がした。…去っていくタクシーの姿が頭に浮かび、彼はどこに行くのだろう?と考えた。祖父母の家はもう目の前だった。田舎の家だから、戸に鍵が掛かっていないのを私は知っていた。私は勢いよく戸を開けた。
「ただいま!」