ブラックバード
一人の青年が雑居ビルの屋上に立っていた。へりに立って、ぼんやり下を眺めていた。
夜だった。春の美しい夜で、星が光っていた。最も、それは都市から噴き出すガスによって弱められていた。それでも靄を突き破って光は地表に届いていた。青年は上を見上げると、星の姿を認めた。しかしそれは彼にはただの物体だった。物でしかなかった。月も見えた。三日月だったが、何の感興も呼び起こさなかった。電灯と同じで、ただの光源の一つに過ぎなかった。
青年の名前を鈴木と言った。平凡な名前。その名前にふさわしい過去を彼は持っていた。つまり、現代に生きる人間として持つ普通の過去という意味である。
鈴木は自殺するつもりだった。それで、雑居ビルの屋上にまで上ってきた。そこは、以前彼が勤めていた会社だった。雑居ビルは管理が適当で、屋上への扉が開いているのも経験から知っていた。夜の十時を過ぎればビルには誰もいなくなるのも知っていた。飛び降りるには好都合だった。
鈴木の頬を下から巻き起こる風が撫でていた。彼は不思議に心地よく感じた。彼は何も考えなかった。放心して、地面を見た。地面は目の先だったが、暗い沼地か何かに見えた。暗淵が口を開いていた。
(ここから落ちれば死ねるかな…)
鈴木は考えてみた。屋上は八階だった。運が良ければ生き残るかもしれない。それが彼には一番恐ろしい事だった。死ねば終わるものが、生きたままで終わらない事。それが彼の恐怖だった。彼にとって生は耐えざる痛苦だった。そこからの逃避が死だった。要するに、彼はありきたりの動機で自殺をしようとしていた。
鈴木の自殺に至る過程は平凡なものでしかない。それを逐一説明する事に大した意味があるとは思われない。しかし、大雑把には話す必要があるだろう。
鈴木は年齢は二十六だった。二ヶ月前に、付き合っていた女と別れていた。
別れの理由も平凡なものだった。金で揉めたのだった。
鈴木は半年前に会社をやめていた。前の会社に対する待遇の不満から、より良い待遇を求めて新会社に入った。そこは一年で一千万稼げると謳っていたものの、実際はそんな額には遠く及ばず、サービス残業が当たり前のいわゆる「ブラック企業」だった。鈴木は一年我慢して働いた。上司からは洗脳まがいの叱責を毎日のように喰らい、精神を病み、体調を崩した。耳が聴こえなくなり、それを上司に報告した時、「お前がたるんでるからだ!」と怒鳴られ、みんなの前で腹を蹴られた。その時にようやく仕事をやめる決心がついた。
それが半年前の事だった。仕事を辞めた直後は、女は鈴木に対して同情的で親切だった。が、一ヶ月、二ヶ月過ぎても、新しい仕事先を見つけようとしない鈴木に、次第に苛立ちを感じるようになっていった。やがて口論が増え、諍いは絶えなくなった。女から別れ話が切り出された。鈴木は大した執着も見せなかった。二人は別れた。
女は鈴木が仕事を辞めてからは、度々、鈴木に金銭的な支援を行っていた。二人で食事をする時は女が出してやった。最初は同情心からだったが、鈴木の感謝のない態度に内心腹を立てていた。金も貸していて、総額で百万を越えていた。負債は返却されなかった。
女は鈴木を意気地なしだと考えていたが、鈴木は自分を犠牲者だと考えていた。一年間、怒鳴られ、殴られ、徹底的に人間性を排除するような労働を強いられていたので、何をするにも恐怖を感じ、能動的に行動できないようになっていた。彼は女の愛情も優しさも感じる事がなかった。それを受け取ったという自覚もなかった。女が離れていった時、微かに苦い感覚が走ったが、その感覚を咀嚼し、噛みしめる事もできなかった。
女は消え、彼は一人になった。彼は全てを失った気がした。女が離れていって、女は大切な存在だった、と朧気に思ったが、その思いを突き詰める事は自分の過去を非難する事になるので、それもできなかった。彼はただ憤った。女は弱っていた自分を見捨てたのだ、と考えた。会社は自分を虐げて、女も、彼を見捨てた。そんな風に彼は世界を捉えた。そうなると、悪いのは世界で、彼ではなかった。彼はそうした考えに走ったが、怒りの表現が犯罪には至る事はなかった。犯罪に向かうほどの能動性も断たれていたのである。意気消沈して、一週間ほど酒を飲み続けた挙げ句、死ぬ事に決めた。そこで浮かび上がってきたのが、彼が立っている雑居ビル…五年前に働いてた職場のビルだった。
ビルの非常階段を昇る時、彼はどんな事を考えていたろう……?
鈴木は一段一段足を踏みしめて歩いた。非常階段は鉄製で螺旋を描いていた。階段を昇りつつ、肌寒い事、それから以前にこのビルで働いていた時の事を思い出した。大した思い出ではなかったが、何故かあの頃は良かったような気がした。やっていたのは事務作業で、掃除のおばさんと冗談を言い合って笑いあった情景が思い出された。どうという事のない生活の中の一コマだったが、死に近づいている彼には美しい夢想花に見えた。
階段を登りきり、扉を開けると、空を仰いだ。星が光っていたが、一瞥くれただけだった。ぼんやりした意識のままに、へりに近づいた。こわごわと下を覗き込むと、闇があった。そこから落ちれば確実に死ねるのかという疑問が頭に浮かんだ。へりに立って、広がる風景を眺めた。ほとんどの建物は、屋上より低く、自分を苦しめてきた世界が足元に広がっているような錯覚を彼は抱いた。
(これで死ねるだろうか…)
頭の中で考えてみて、その瞬間、これまでの人生が足元から自分を襲ってきた気がした。過去が大挙して、自身を闇に引きずり込んでいくようだった。彼は反射的に二、三歩後ずさった。その時、聴こえたのはメロディーだった。誰かが遠くで口笛を吹いたような感じだった。風の音に紛れて誰かが……。
鈴木は振り返った。誰もいなかった。彼は恐れおののいた。再び前を向いた。もう一度メロディーが聴こえ、瞬間、そのメロディーが何だったのかを思い出した。
それはビートルズの「Blackbird」だった。音の意味を理解すると共に、曲にまつわる思い出が目の前に一挙に噴出した。それはかつての彼自身だった。学生時代の自分の姿。遠く海の底に沈めていた思い出が、メロディーと共に蘇ってきた。彼は彼自身の姿を幻視した。
鈴木にも若い時があった。…それは当然の事だろうが、人は過去というものを大抵、断片的にしか覚えていない。それに、現在から見た視点で過去を歪めてしまっている。それでも記憶は身体のどこかに保存されており、今は鈴木の身体の奥底から埋蔵されていた過去が噴出してきたと言っていいのだろう。
彼が見たのは、中学生の彼だった。彼は思い出したのだった。中学二年生の春、試験終わりに自転車で駆けている彼自身を。中学生の鈴木は若々しかった。今の彼は二十六だったが、人生に擦れた顔をしていた。顔に影のようなものが差していた。利害に明け暮れている人間の小汚さがあった。
あの頃、鈴木はビートルズに惚れ込んでいた。男子生徒の間でビートルズが流行っていたのだった。中学生男子としてはごく普通の事と言えるだろう。ベストアルバムが再販され、それがきっかけになって広まった。
それまで鈴木は日本のポップアーティストしか知らなかった。クラスの誰もが聞いている流行りの曲を、自分も同じように聴いていた。それで満足だった。しかし、ビートルズを友人に勧められて聴いた時、大きな衝撃を感じた。そこには生命の爆発があって、「ロック」というジャンルを彼は始めて知った。
男子生徒は熱病に憑かれたように、みんなしてロックを聴いた。そういう年頃だった。鈴木も、音楽プレーヤーにロックミュージックを入れて聴いていた。
そこで彼が聴いていたのはある感覚だった。言いようのない何か、つまり、他人には言えないような何かを別の誰かが歌っているという感覚だった。自分だけの内的な秘密が、他の誰かによってはっきり形にされている。その感動を、鈴木は朧気ながらに感じていた。彼はすっかりロックの虜になった。
とはいえ、自分で音楽を始めようなどとは思わなかった。それは周囲の人間も同じだった。学校には軽音楽部はなかったし、自分達でやってみようという話は誰の口の端にも上らなかった。それは想像外の話だった。
やがてロックは、生徒らの間で廃れた。短い春だった。男子生徒は、短期間何かに熱中するとすぐに飽きて、別の何かに移行する。ロックの次にみんなが向かったのはスポーツ…サッカーだった。
しかし鈴木はどこにも行かなかった。彼の中には依然として、ビートルズが、特に「ホワイト・アルバム」が心に残っていた。その独特の、秘めた陰鬱さを感じさせる楽曲が、心中を的確に表現しているように感じられたのだった。その頃の彼は、後の彼のようにぺらぺらと喋ったりしなかった。控えめで、言い淀む事もしばしばだった。
それは一学期の中間試験終了時だった。彼は試験が終わるのを心待ちにしていた。試験は彼にはただ重荷にしか感じられなかった。最後のチャイムが鳴るのを首をすくめて待っていた。
チャイムが鳴った。それと共に、鳥籠から飛び出る鳥のような気持ちで、校舎から外に出た。晴れており、柔らかい日差しが世界を包んでいた。雲一つなかった。爽やかな青空。あまりにも急いで出てきたので、生徒は彼の他には一人もいなかった。自転車置場に向かいながら、まるで自分が世界を占有したように感じた。手はポケットをまさぐり、音楽プレーヤーを取り出すと、イヤフォンを耳に入れた。
再生ボタンを押して流れてきた曲は「Blackbird」だった。なぜ「While My Guitar Gently Weeps」や「Happiness Is A Warm Gun」ではなかったのか。後から考えてもわからなかった。よく聴いていたのはその二曲の方だったのに。再生ボタンを押して流れてきたのは「Blackbird」だった。彼は曲に耳を傾けた。
それは黒い鳥が光に向かって飛び立つ歌だった。彼はその時まで英語の歌詞を、ただ音の連なりとしてしか聴いていなかった。自転車を漕ぎ出した時、突如として、それまで意味のわからなかった音声に照明が当たったように感じた。関係のない音が意味になり、イメージとなって、飛び出そうとする鳥の姿が彷彿とした。「You were only waiting for this moment to arise…」 それは今まさに自転車を漕ぎ出そうとする自分自身と全く同じだ、と彼は直感した。
鈴木はわけのわからない浮遊感、解放感に背中を押されて自転車を漕ぎ出した。立ちながらペダルをぐっと踏み込んで、校門の外に出て行った。生徒らはまだいなかった。余程早く、校舎を出てきたのだろうか?……。次の瞬間には、もう校門を後ろにしていた。田舎の昼間の道は車も歩行者も少ない。浮かれた気持ちのまま、楽々と自転車を漕いだ。風が心地よかった。風そのものになったような気さえした。
彼は曲を口ずさんだ。わからない英単語の箇所には、滅茶苦茶な音を入れて出鱈目に歌った。角を曲がり、田んぼ道を愉快な気持ちで進んでいった。体が軽く、もうどこへも帰る必要がないような気がした。その解放感…その時の彼にとってはあまりにも平凡で、生活の連鎖の中に消えていったほんの一コマでしかないある感覚はしかし、その後の彼の生活には決して現れる事がないものだった。彼はその後、まともに空も見上げる事さえなかった。彼は次第に、利害が支配する世界の住人になっていった。
鈴木はその記憶をすっかり忘れていた。その記憶を思い出した事はこれまで一度もなかった。
しかし今、屋上に立ち、死に向かっている彼に、あのメロディーが他人の音として聴こえた。彼は混乱した。(何の曲だ?) 自分の中で問を発した次の瞬間には、記憶を包んでいたカプセルが氷解し、思い出が、イメージが溢れ出てきた。自転車を漕いでいた時の、田んぼの匂いまで蘇ってくるようだった。
彼は中学生の時の自分を眼前に見た。その自分は、今の彼のように疲れてもいなかった。汚れてもいなかった。清新な自分の姿が、確固たる運命の皮肉として目の前に現れてきた気がした。
「ビートルズ」の事もまた思い出した。ここ数年、あの時のように愉快な気持ちで、真に『音楽的な』気持ちで音楽を聴いた事があったろうか? 彼はただ、彼女に勧められた流行りの曲を聴いたり、みんなが聴いている曲を漠然と聴いてみたり、そんな事しかしていなかった。音楽は彼には関係のないものになっていた。しかし、彼には音楽そのものの愉悦を感じていた一時期があったのだった。
彼は狼狽した。死の一瞬前に、その記憶が蘇ってきた意味がわからなかった。その愉悦、音楽が魂と交歓して立てる音の響き、そうしたものは今の彼には遠かった。何か異質な、今までとは違うイメージが目の前に現れてきたように思われた。やがて少年の鈴木は、鈴木の目の前を駆け抜けて去って、そのまま消失してしまった。
それでも頭の中で音楽はまだ鳴り響いていた。鳥が飛び出すイメージと共に、ポール・マッカトニーの歌声が聴こえていた。それは耳鳴りのように、海鳴りのように、頭にこびりついて離れない何ものかとして存在していた。
彼はただ傍観者だった。過去の自分自身、音楽の中に全く入れない彼がそこにいた。彼は、舌打ちした。(どうしてこんな昔の事が…) それは今の彼を糾弾しているかのようだった。
その時、音楽が彼の琴線に触れようとする刹那が生じた。それは危険な瞬間だった。何かが彼の心を捉えようとした。旋律が彼自身を奪い去っていくような感覚があって、鈴木はあたかもそれから逃げようとするように身をよじらせて、後ずさった。
(何だよ、これ…)
彼はそう思ったが、もう何も考えない事にした。自分の近い過去、即ち、死ななければならない理由をざっと思い出し、早い所、身を投げるに越した事はないと思った。空を見上げると、月が怪しく光っていた。月は紅く、悪魔が笑っているように見えた。彼は、自身意識していなかったが、反射的に、微笑を浮かべた。それは月の笑みの模倣だった。頭の中には音楽が鳴り続けていたが、お構いなしに前方に突進していった。
鈴木は屋上から身を投げた。体が空中に投げ出された瞬間、全身を激しい痛みが襲った。しかし痛みを実感する間もなく意識を失った。65キロの肉体はコンクリートの地面に向かって落下していった。すぐ、肉体は地面に激突した。強い衝撃音。肉体は裂け、血がばら撒かれ、四肢はねじれた。彼の命は一瞬で消えた。轟音が鳴り止むと、そこには肉塊が転がるばかりだった。
鈴木はそうして死んだ。彼の記憶も、あの時聴いた曲の手触りも消失した。肉体の消失と共に。音楽は鳴り止んだ。死んだのは夜で、人通りのない道だったので、発見は朝まで待つ他なかった。朝が来るまで死体は誰の目にも触れる事がなかった。
日が昇り、朝が来ると、冷たく乾いた死体に光が差し、その表面を微かに温め始めた。六時過ぎ、サラリーマンが通りがかって死体を発見した。サラリーマンはアッと叫び声を上げて、警察に通報した。その時、鈴木は単なる物質であったが、その上に日は輝かしく昇り、清新な光を四方にばら撒いていた。太陽は昨日と同じ一日を、今日もまた繰り返すつもりであった。