雪の使徒
呼び出しのベルが鳴った時、僕がどんな事を考えていたのか、もう覚えていない。
深い眠りから覚めるようにしてベッドから起き上がり、ダイニングに出て、インターホンの受話器を取った。「はい」 寝ぼけた声を出すと、きびきびした声が返ってきた。
「はじめまして。私、正田というものです。お時間少しだけ…ほんの五分、いいえ三分でいいので、よろしいでしょうか?」
僕はすぐにピンと来た。日曜日の昼間にやってきて、用件も言わず、ただお時間を…と言う。何かの営業か、宗教の勧誘だろう。すぐにそう考えた。
「用件はなんですか?」
「それは、玄関口でお話します。もしよろしければ、ドアを開けていただければ、ほんの少し、お話しするだけで……」
「ただお話する為に来たわけじゃないでしょう? 用件を言ってください」
「できれば、玄関口で……」
しつこいタイプだと見た。女の柔らかな声だが、強硬派らしい。やりての勧誘員、営業というところだろうか。僕はめんどくさくなって、受話器を置いて、玄関に向かった。怒り気味でドアを開けた。
…そこには想像通りの姿があった。もっとも、年齢が思ったよりも若かったが。二十代くらいの若い女。カジュアルな服装で、清潔感がある。ハンドバッグを持っている。ハンドバッグの口が開いており、クリアファイルが微かに見えた。中には資料がつまっていて、すぐにこちらに差し出せるようになっていた。
「お手数かけてすみません。わざわざ、玄関口まで。申し訳ありません。お時間…ほんの五分ほどですから」
女は頭を下げた。頭を上げる時、素早く髪をかき分けた。いつもやる動作なのだろうと思った。
僕といえば、起きたばかりだったのでパジャマ姿だったが、なんとも思わなかった。髪も寝癖がついていたろうが、どうでも良かった。そんな事に頓着する僕ではない…とにかく、僕は目の前の女を親の仇ででもあるかのように眺めた。
「どうせ五分では済まないでしょう。ところで、用件はなんですか?」
女はおずおずと懇願するような様子で、こちらを見た。それからできるだけ深刻な調子でーーそう聞こえたーー次のような言葉を厳かに発した。
「失礼ですが、あなた様は、世界が終わっている最中なのをご存知ですか?」
僕は思わず失笑しそうになった。ほら来たよ。心の中で苦笑いした。そう思っているうち、女はクリアファイルを取り出し、パンフレットを渡してきた。
粗末なパンフレットだった。カラー刷りではない。緑色の紙の上に大仰な言葉が書き連ねてあった。左上には「終末救済の会」とある。何かの冗談にしか思えなかった。
一瞥して、台の上に紙を置いた。(それで?)と挑発するような目線を向けた。僕は女がどんな口上を述べるのかに関心があった。どんな終末論を聞かしてくれるのだろうか?
「あなた様……佐藤様、ですよね? 佐藤様は、世界が終わっている最中なのをご存知ですか?」
表札を見たのか、苗字を言ってきた。「ああ、佐藤です」 冷たい声を発した。次のようにも言った。
「世界が終わる? …僕はそんな話は聞いた事はないですね。世界は、終わらないんじゃないでしょうか? 終末論っていつの時代もあったし。その割には全然…世界は終わらなかったし」
「そうではないんですよ」
女はにっこりと微笑んだ。女は、どこにでもいる普通の感じだったが、その顔にはわずかばかりの狂気が射し込んでいた。
「今、どんな事が起こっているのか、ご存知ですよね。世界を謎のウイルスが駆け回っています。多くの人が病気にかかって、体を蝕まれていって、死者も沢山出ています。しかし政治家は無能で、何もできません。何もできない。やろうとしないんです」
「それで? その…あなたの会に入れって事ですか?」
「…いいえ。まずは私の話をお聞きください。話はそれからで構いません。世界が終わろうとしています。…それはご存知ですね?」
また最初に戻ったか。僕は考えた。この女はこんな話をしていて、疲れないのか。前の宅でもやったのだろう。僕はパンフレットを手に取り、それを手のひらで軽く叩いてみせた。
「ご存知ったって…現に世界はまだ存在するじゃないですか?」
「いいえ。あなたはご存知ないからそういう事を言うのです。…いいですか、世界は今、終わろうとしています。それで我々『終末救済の会』は動いているのです。元は、仏教系の会でしたけれど。…世界は今、危機に瀕しています。終わろうとしています。例えば、スマートフォン。佐藤様もスマートフォンは持っているでしょう?」
「持ってます」
僕はうなずいた。
「そうでしょう。いいですか、スマートフォンは洗脳装置なんですよ。洗脳装置。人類は、自分達で自分達を破滅させようとしている。そういう一派がいるんです。世界は戦争によっては滅びませんでしたが、平和によって、人々の耽溺によって十分滅びます。テレビ…これが洗脳装置の第一号として猛威を奮って、随分と世界を破壊したのですが、つまり人心を破壊したという事ですが…彼らは、これだけでは足りないと知って、もっと強力な手段を用意したのです。それがスマートフォンです。みんなが、スマートフォンを見て、色々な行動を決定していますよね? 愚にもつかない事を覗き見て、喜んでいる。これ、全て、世界の滅亡の兆候なのです」
「ちょっと待ってください。『彼ら』とは誰です?」
「『彼ら』とは人類を破滅させようとする集団です。それが『彼ら』です。彼らは人々を洗脳し、人間を機械にするのを目論んでいます。それが彼らの目的なのです。その為に、スマートフォンが一人一台、配られたのです。おまけに、そこから金を吸い取って、更に人々の心を破壊する為の道具を作っている。つまり、世界は破滅のサイクルにはまっているのです…」
「ちょっと待ってください。ちょっと待って」
僕は我知らず、相手との『討論』という罠にはまっていた。
「世界を破滅させるって…それだったら物理的に破壊した方が早いでしょう? どうしてスマートフォンで洗脳するだなんて、そんな面倒な過程を踏むんです? 世界を破滅させたいのなら、原子爆弾でも落とせばいいでしょう?」
「…そこに彼らの邪悪な意図があるんですよ」
女は微笑して、射抜くような目でこちらを見た。その表情は自信満々だった。
「いいですか。彼らは…世界を破滅させるにあたって、最も邪悪な方法を取ろうと決めたんです。世界を物理的に破壊させたとしても、ただ人間が消え去るだけですから、それだけでは足りない。もっと邪悪な…徹底的な破壊を彼らは目論んだんです。それが人間の機械化であり、動物化です。人間は今、猿以下の生物になろうとしています。動物には、本能を抑制する装置がついていますが、人間にはありません。意識的に抑制するしかない。ですが、それを解き放ってしまえば、まさしく世界は破滅する。人間の心が世界を構成しているのだから、心が壊れれば世界は壊れるのです。それが今、起こっている事です」
女の話には妙な説得力があった。僕は尋ねた。
「それで? それでどうなるというのです?」
「ですから、それが今ですよ。スマートフォンを一人一台持って、恐ろしいほどくだらない事への関心で日々が占領されています。これほどくだらない事で人生の時間が占められていた事はかつてありませんでした。どんな歴史にも、これほどまでに人間が腐った時代はなかったのです。人間は今、腐敗しています。田村隆一という詩人をご存知ですか?」
「知らないですね」
僕は言った。はじめて聞いた名前だった。
「彼は『腐敗性物質』という詩を書いています。田村は戦争の悲惨さを目撃して、人間を腐敗する物質に例えたんです。しかし、最も腐敗の激しいものは人間の心です。内面です。これが腐るとおしまいです。それで実際に腐っているわけです。いいですか、目を開いて見てください」
女は手を広げて、まるでここが世界を見下ろせる山の頂点だとでもいう風な素振りをした。
「世界は破滅に瀕しているのです。…見てください。目を閉じずに。誰も彼もが、自分の事しか考えていません。恋愛という名前をつけながらも、それぞれに自分の為に相手に何かさせようと取っ組み合っているだけです。昔はこうした人間を『鬼』と呼んで避けて通りました。それが今や普通になりました。セックスの問題は、あからさまに口に出すものではなかった。それが今ではどこでもけばけばしく話されています。セックスの内実について、誰しもが当たり前のように話しています。年がら年中、発情している。これは人間が動物になったという事です。動物は発情期という形で区切りがつけられて、性衝動が機械的に抑制されていますが、人間はそうではない。人間は理性によって主体的に欲望を制御しなければならない存在ですが、資本主義はそれを解放してしまった。これは人間は動物以下の存在になったという事です。テクノロジーというのは単なる手段ですから、テクノロジーという最先端の道具を使って人は動物以下の、猿以下の、単細胞以下の生物に成り下がったのです。昔はこうしたものを鬼とか餓鬼とか呼んで戒めていましたが、今や、この餓鬼共が人類の全てになろうとしている。世界は今や腐っているのです」
「世界が腐っている。それはいいとして…どうしてそれではいけないんですか?」
僕は聞いてみた。言いながら、心の中には不安の種が生まれているのに気づいていた。
「どうして? …不思議な事を聞きますね。あなた自身もわかっていらっしゃるでしょう? このままではいけないという事が。いいえ、顔を見ればわかります」
女は僕の顔を覗き込んできた。僕は視線を反らせた。
「でも…たとえ、世界が腐っているにせよ、そうだとしても、僕らは満足しているじゃないですか。スマートフォンだって、みんな楽しくて持っているんでしょう。仮に腐っていたとしても、別に他人にとやかく言われる必要はない。それでいいとも言えますよね? 僕もスマートフォンは持ってます。そこには一定の意味があるような気がしますが」
女はフフフと笑った。僕は気味悪く感じた。
「…わかりますよ。佐藤様が、思ってもみない事を言っているというのが。でもいいでしょう。答えましょう。腐敗がいけないのは、何故か。それは『救われない』からです。救われないのですよ、それでは。救われる事が決してない。いつまでも、餓鬼のままです。修羅道というようなもの、地獄の底がずっと続いているようなものです。私は世界が破滅に瀕していると言いましたが、破滅とは、永遠の輪廻なのです。終わるのであれば、また始める事ができます。しかし、腐って滞留してしまえば、始める事もできません。もし死というものがなければ…地上は、死にきれないゾンビ達が徘徊する世界となるでしょう。今がそうです。今は、ゾンビ達が徘徊しているのですよ。みんな、奇妙な端末に顔を埋めて、俯いて歩いているでしょう?…。こうした世界はおぞましい。いいですか、『おぞましい』のです。あなたにこの意味がわかりますか? おぞましい、という言葉の意味が? おぞましいという事は、おぞましいという事なんです! ええ! だから!」
女は引きつった笑顔で、自分の腿をパンと打った。僕は呆然と見ていた。
「救済される必要があるのです。救済、です。その為に、私達の会があるのです。私達は正当な…仏教の継承者です。あなたも入れば、わかりますよ。この世界は汚れている。だから、修行をして解脱する必要があるのです。…未だに、あなたは疑っているのですか? あなたは自分の常識を信じておられるのですか? 見てくださいよ! あなたのいる世界を! 一体、何があります? スマートフォンに一ヶ月一万円も取られて、くだらないニュース、馬鹿なタレント、阿呆なテレビ番組、腐った政治家。現世に何があるというのです? あなたが未練だと思っているのは、ただそこにいる期間が長いからです。ただそれだけの理由です。この世界はほんの小さな快楽を与えて、その代わりに佐藤様の魂を地獄に落とすのです! それが世界の本質ですよ! 一体、何を迷う必要があるんですか? 解脱する為には、我々の会に入ればいいんですよ。そうでしょう!?」
僕は言われて考えた。…確かにそうかもしれない。自分の生活を振り返って、そこになにか大切なものがあるだろうか? 僕は自分に自信があるだろうか? こんな生活に意味はあるだろうか?
本当に世界は破滅しているのではないだろうか? …僕は考えた。本当か…本当か?…。かなり迷ったのは、確かだ。
「それで…あなたの会に入れば救われるんですか?」
「もちろんです!」
力強く女は言った。最初の、普通の表情は消えていた。鬼気迫る、といったものになっていた。
「もちろん! 私達の会に入って、修行をすれば救われます。あなたは…まだ現世にいたいのですか? 腐っていますよ、ここは。誰しもが我欲に取り憑かれて、それを肯定する事が『近代的』と言われる始末です。世界が本当に破滅してしまえば、警告する人間もいなくなります。そのような存在は、存在できなくなるので。これが最後のチャンスなのです。いいですか、これが最後のチャンスです。キリスト教でもあるでしょう。ノアの方舟の逸話が。あれは全て本当の事なのです。神は人間を滅ぼそうとしたのです。そこまで腐ってしまえば、滅するしかない。だけど、今は人が神となって、ただ腐敗を促進させて、世界を破滅に導いている…。神がもたらす、再生の為の破滅ではなく、破滅の為の破滅。自分達が一体何をしているのか知らないのだから、当然です。彼らは本気で滅ぼすつもりですよ! あなたは、まだ泥舟に掴まっているつもりなのですか!?」
…僕の気持ちはぐらついた。女はもう一枚パンフレットを取り出し、渡してきた。前と全く同じパンフレットだった。女も興奮していたのだろう。
「さあ」
女は言った。僕はパンフレットを台の上に置いた。同じ紙が二枚、重なった。
「五分、時間をくれませんか」
僕は言った。なぜ五分なのか。その五分で何ができると言うのか。だけど、その言葉が口をついて出た。
「五分、時間をください。奥で考えます。それで結論を出します」
その時、女の顔に一瞬迷いが現れたのを僕の目は見逃さなかった。(時間を与えて考え直されたらどうしよう?)という表情だった。しかしすぐ表情は消えて、微笑が浮かんだ。
「わかりました。五分、お待ちします」
…なんだか形勢は逆転していた。追い込まれているのは僕だった。部屋に戻り、ドアを閉め、ベッドに寝転がった。大切な、本当に大切な五分間だった。
※
闇の中から暗いものが這ってきていた。黄土色の、気持ち悪い百足のような化け物だった。頭に牙が二本生えていて、クワガタムシのようにぱかっと横に開いていた。そいつは今しも僕を喰おうとしていた。
それが目を瞑った時に感じたイメージだった。僕は目を開けた。
…確かに、女の言う通りだった。未練はなかった。この世界に、何の未練があろう。今更、何の未練があるだろうか。
どこを見渡してもヘドの出る現実しかない。僕自身は空だ。空無だ。それでも生きたいと願うなら…「終末救済の会」に入るしかないだろう。女の言う通り。
仮に、騙されたとしても、それがなんだというだろう。これ以上の地獄はない。…俗世の人間、つまり僕らは、人間を餌で釣ってきた。ここ何十年もずっとそうだった。だが、それが一体なんだろう?
タレントになれる可能性。商品を購買できる可能性。セックスできる可能性。ガチャを引ける可能性。その他にも色々な可能性があった。だが、それら可能性という名の餌を拒否すればこの世には何もない。
僕は、見てきた。堕落していった人達を。消失された友人達を。才能のある人がいた。センスのある人、努力している人。色々いた。彼らは順番に消えていった。闇の中に消えていった。何故か? 彼らは世の論理に従ったのだ。駄目になって成功する、つまり世界に順応して適当にやっていくか、順応できずに無視され、消えていくか。どちらかしか答えはなかった。
馬鹿が支配している世界じゃないか…。女の言う通りだった。もうずっと以前から感じてきた事だ。そうだ。間違いない。女の言う通りだ。「終末救済の会」…いいじゃないか。救われよう。人は、どこにも行く所がなくても、どこかへ行かなくてはならない。行くんだ。救済へ。それが存在しないのはわかっている。詐欺かもしれない。嘘かもしれない。…いや、きっと嘘だろう。だけど、それでも構わないではないか。既に詐欺にあっているじゃないか。この世界そのものが一つの詐欺なのだから。偽でしかない世界で、もう一つ偽を重ねれば裏返って…真になるかもしれないではないか?
様々の事が頭に浮かんだ。絆…人と人との絆は、僕をこの世につなぎとめるのに役立たなかった。むしろ逆だった。連中と縁を切る為なら、どんな苦行だって耐えられるほどだった。
僕は決心した。よし。終末救済の会に入ろう。入ろう。入ってやろう。そう決めた時の僕は、肩の重荷が取り払われたように感じた。それほど自由を感じ、心地よかった。
起き上がった。時計を見ると、部屋に入った時から六分過ぎていた。一分長かったか。玄関では物音一つしない。女は何をしているのだろうか。僕は、決断を告げる為に、部屋を出た。
※
決断というのは、人が思っているよりも脆くも崩れ去る。というのは人生は不可測事に満ちているからだ。量子力学の…自然科学の段階から、世界は確定できない事柄で満ちている。ましてや、人間の心など…。
しかし、僕が固い決意をしていたのは確かだ。そこには嘘はない。少なくとも、自分ではそう思っていた。
ドアを開け、玄関に向かった時、女が壁に寄りかかって、靴の片方を手にしている姿が見えた。こちらには気づいていなかった。女は片手を壁に添え、空いた手でパンプスの片方を覗き込んでいた。靴の中のゴミを取り除く仕草だった。女はパンプスに手を突っ込んで、ゴミを取ると、土間に落とした。
その姿を見た時、僕の中で何かが崩れた。そんな日常的な姿を、新手の預言者から見せられるとは思っていなかった。僕の中でいつの間にか、女は絶対的な存在になっていた。新しい世界、深淵に誘う水先案内人となっていた。神秘性を相手に付与していた。それが、一気に崩れ去った。女は普通の人だった。それがその光景が僕に与えた教訓だった。
僕は微笑を浮かべて、女に近づいた。女はハッと顔を上げたが、慌てて靴を足元に戻し履き直した。顔が赤くなっているのが目に入り、僕は『ますます』微笑した。
「決めました」
にこやかに言った。女はその一言を聞くと、同じように笑った。普通の、若い女の笑みだった。笑い方に、僕が会に入るだろうという確信が現れていた。
「入りません」
そう言った時の女の失望の表情は見事なものだった。演技の可能性を考えたほど、典型的なものだった。笑みが止んで、眉間に皺が寄った。
「僕は、会には入りません。やめておきます。僕には…向いていない」
「どうしてですか?」
女は引きつった顔になった。さっきまでとは違う誰かになった。
「どうして? このままでは救われないのですよ? まだ、この世界に未練があるのですか? あなたも話を聞いて、うなずかれていたではないですか? 救われないですよ? このままでは? 輪廻は続きます。輪廻という名の地獄が。俗世にいる限り、人は破滅し続けるのです。どこまでも下に降りていく。歴史は時間と共に向上しているというのは嘘で、今は末法の世。下に下に降りていっています。今が最低点です。そんな所に留まりたいのですか? まだ執着があなたを支配しているのですね?」
僕は首を横に振った。
「いえ、そうじゃないです。ただ……なんとなく嫌気が差しただけです。ただ、なんとなく。なんとなく嫌になっただけですよ。……ねえ。『なんとなく』に独自の価値を与えたって…いいじゃないですか? あなたばっかり喋って、あなたの正しい論理を聞かされて、それできっと…うんざりしたんです。僕は…そうですね。救われたくないんです。そう、救われたくない。救いなんていいじゃないですか。それはそちらの論理でしかない。僕の気分にだって、一抹の意味があってもいいでしょう? 少なくとも、僕自身の破滅がその背後にはあるし、僕が僕の気分と心中したって…構わないでしょう? 末法の世だって、末法なりの生き方があるんじゃないですか?」
僕はぶちまけた。
「間違っています。間違っています」
女は首を横にぶるぶると振った。
「いいですか。あなたは今、逃げているんです。あなたはただ、後ろ髪引かれる思いで、その思いに足を捉えられているだけなんです。あんなに目を輝かせて話を聞いていたではないですか? あれほどまでに理解していたじゃないですか? …奥で考え直したのが間違いだったんですよ。今あるのは、ただの気の迷いです。あなたの悩みも、しがらみも、全て断ってしまいなさい。あなたは精進して一歩進む手前にいるんです。弱気になっているだけですよ。現世に未練がある、そう感じているだけです。決断するのには勇気が必要です。佐藤様ならできます。さっきまでは、良いお顔をされていたのに…。未練があるのは誰だってそうです。そうでしょう? …ですが、それを断ち切ってこその救いなんです。救済なんです。今は弱気になって逃げているだけです。自分に、どうぞ、打ち勝ってください」
「違いますよ」
僕は言った。女と視線が交錯する。女の目は、狂気を含んでいた。昔、アジアに布教に来た修道士はこんな目をしていたのだろうと思った。
「違います。僕はあなたの言う通り…あなたの言う事はほんとうに正しい…あなたの言う通り、俗世にうんざりしています。そこに戻るつもりはない。融和して、楽しく生きるつもりはない。後ろ髪引かれている? …いや、後ろ髪引かれているのはそちらの方になんですよ。あなたの会に入りたい欲望がある…いや、さっきまではあった。あなたが感じているようにね。…だけど、僕はどっちも嫌なんです。嫌になったんです。いいですか、僕はどちらも、嫌なんです。あなたの会に入って救われるのも嫌なら、この世界で楽しく生きるのも嫌なんです」
「ならどうするというんです? 一体、どうします?」
女は睨みつけてきた。
「自殺でもするんですか?」
「…それも一つの手ですね。だけど僕は生きていたい…ああ、生きていたいんです! 死にたくない! まだね! 僕はまだ死にたくない。あなたの会にも入りたくなければ、群衆と仲良くする気もない。どちらもうんざりだ」
「ならどうしますか?」
「僕は…馬鹿げた答えかもしれませんが、一個の矛盾でありたい。そうです。矛盾でありたいんです。間違った存在、存在ではない存在…そういうものの方がマシだと思いますね。孤独? もちろん、孤独でしょう。ですが、孤独がなんです? 誰だって孤独だ。ただ、誰もそれを直視しないだけだ。僕は救われたくもないし、楽しくやりたくもない。ただ一個の自分自身でいたいんですよ。…とにかく、僕は入りません」
女はフッと失笑した。宣教師が、蛮族のつまらぬ論理を聞かされ笑う笑いに見えた。
「そんなものは長続きしませんよ。予言します。あなたはすぐに耐えられなくなって、私達の元に電話をかけてくるでしょう。無理ですよ、無理。一人で意地を張っても、無理な話です。あなたには素質があります。私達の会に入って、努力をする才能があります。今日お話して、あなたほどに物のわかる人はいない、と感じました。間違いないです。それなのに意地を張って、無理をして…。無駄ですよ。あなたは叫びだします。『助けてくれ』と。情けない声でね。我々に助けを求めます。必ず、そうなります。無理ですよ。あなたでは。…でも安心してください。我々の会はいつでも、そう、いつでもあなたを迎える用意があります。だから大丈夫です。困ったらパンフレットを見てください。そこに電話番号が書いてあります」
「親切にどうも。ですが僕の決意は固い。固い。…いや、ただ固い気がするだけかもしれませんが。でもなんだか…そんな気がするなあ。僕はね、あなた達に救われるくらいなら、自分に従って死んだ方がマシだと思うのです。そう思うのは罪ですか? …いや、いいです。もう、おかえりください。今日のところは。疲れました。僕は、こんなに話したのは久しぶりだ。あなたと話せて、なんだか嬉しかった気さえします。だけど今日のところはお帰りください。僕も疲れました」
女はじっと僕の顔を見ていた。僕は薄ら笑いを浮かべて耐えていた。女はポツリと言った。
「後悔しますよ」
僕は考えた。きっと、そうだろうな。そりゃそうだろう。でも、まあいいや。
「そうかもしれませんね。でもお帰りください」
女は微笑して、じっとこっちを見た。僕の顔を強い眼力で見た。表情から何かを読み取ろうとしていたようだった。そう感じたから、仮面の微笑を顔に貼り付けたままにしておいた。そこには見えない闘いがあった。透明な剣が触れ合う空間があった。
…女は僕の顔から何もポジティブなものを引き出す事ができなかったらしい。一分にも満たない時間だったが、異様に長く感じた。女は、小さな笑いを漏らし、視線を反らした。僕はほっと息を吐いた。
女は頭を下げた。顔には笑みが浮かんでいて、未来の勝利に対する疑いは見られなかった。ハンドバッグの口を閉めると、次のように言った。
「お邪魔しました」
僕は何も言わなかった。女は振り返ってドアを開けると、出て行った。てっきり、大きな音を立ててドアを閉めるのかと思ったが、最後まで丁寧にドアを閉めた。ドアがカチャリと静かな音を立てた。僕は内側から鍵を閉めた。そうして女は消えた。
女と喋って…謎の女、終末救済の会の勧誘員と喋って、せいせいした気持ちになった。この世界にもあんな風に真摯に「救い」を求める人間がいるだなんて、なんて素晴らしい事だ、と思った。ああ、なんて素晴らしいんだ…。素晴らしい…。
ダイニングに戻って、コップに水を入れて一口飲んだ。椅子に座って、ぼんやりとした。自分の中に、さっきの会話が反芻されていた。剣戟の試合のように激しい闘い。それが自分の中に音響として広がっていた。
…あの女の言っていた事は全て正しかった。僕はそう思っていた。そう思ったからこそ、会に入ろうと、一時的とはいえ決意を固めたのだ。今やそこから落伍してしまった。これで救済の可能性はなくなってしまった。僕は思い出して…玄関に引き返した。台の上の二枚の紙切れを手に取り、勢いよく破いた。紙は細切れになり、用をなさないものになった。破いた紙切れを、ダイニングに戻って捨てた。これで電話もかけられなくなった。
さて、と僕は思った。これから、どうしよう。
椅子に座って、窓から外を見ていると、白いものが微かに降り出した。雨かと思って近づいて見ると、雪だった。
「雪か」
つぶやくと、また椅子に座った。雪。そうか、今は冬だったんだな。僕はごく当たり前の事を思い出した。そうして勧誘員の女を思った。あの女はこの寒い中にわざわざここまで来て話していったんだな、と思った。悪い事をしたなあ、と思った。それから女が、次の宅へ向かう足取りをイメージした。カメラは上方から女を捉える。女は雪の中を一人、歩いていく。女の足跡が、自然に残した人の跡として形作られる。
女は救済された存在だ。この現代にあって、奇跡的に救済された存在。そうして救済の女神でもある。次から次に宅に寄っては、人を神の世界へと誘って行く。現代のキリスト。現代のブッダ。その高弟。高弟共。
このまま行くと雪が積もるだろうと僕は思った。女はそれでも勧誘を止めないだろう。救済の女神に幸あれ。僕は勝手な事を考えながら、祝杯をあげるかのように、コップに水を入れてぐいっと飲んだ。水を飲んだ男は、救済から漏れた落伍者だった。僕はこの先自殺するだろうーー背中に薄ら寒い予感が走るのを、僕は止める事ができなかった。