3 答え合わせ・下
「あなたが高校三年生のとき、いわれのない罪で停学になったことがあったでしょう?」
「あ、あったけど……え、いや、それは象潟が――」
「もしかして、象潟さんがいきなり何の理由もなくあなたを陥れたと思っているの?」
当時は、いち早く大学に合格したから恨まれたのだと思っていた。だが、そんな人間ほかにもいたし、わざわざ俺を停学に追い込むほどの動機になったとは考え難い。
「合成写真を作ったのも、象潟さんにそれを公開させたのも、あなたの大学合格を台無しにしたのも、全部韮沢瀬名なのよ」
みたきは朗々と語る。瀬名がこれまで行ってきたことを。
悪評を陰で広めたり、古典文学同好会を内部崩壊させるために暗躍したり、俺を貶めるために、ありとあらゆる手を尽くしていたことを。
「すごいわね、彼女。やりたい放題だもの。ついでのように、口封じのために夜来さんと象潟さんも消してるし」
そのふたりが行方不明なのは、知っていた。でも、まさか瀬名が関わっていたなんて……。
「まともじゃないのよ、彼女。人を殺すことに何の躊躇いも持っていないし、人倫なんて歯牙にも掛けていない。有り体に言って頭がおかしいわ」
みたきの話していることが真実なら、瀬名の行動は狂人と言うほかなかった。十人近く――いや、みたきの話では十人以上もの人間を消し、平然と続行するなんて。
こんなに悪意に満ちた人間が存在するのか。
……いや、瀬名が、そんな人間であるはずがない。
「決定的な証拠がないじゃないか。怪しい要素はあるけど、偶然が重なっているだけというのもあり得るし……。いくらなんでも、そこまで瀬名が常軌を逸していたら、気づく」
全てが荒唐無稽な話だ。
俺と七年近くも親しく接していて、ひとつ屋根の下で一年以上暮らしておきながら、一切気取られないなんてことが可能なのだろうか。
やっぱり、信じられなかった。
「……仕方ないわね。美しくないけど、最後の手段を使いましょう」
みたきは再度人差し指を振って、また別の光景を映し出す。
そこには、象潟と瀬名の姿があった。
「象潟さん、この写真を見てほしいんですが……」
聞き慣れた、細く澄んだかわいらしい声。その声が、事実無根の嘘を並べていく。
「え、これって……まさか、鴇野が……」
瀬名が見せているのは、忘れるはずもない、俺を停学に導いた偽の写真。
これは、今の光景ではない。過去にあった出来事の――
「世界の狭間は、全ての世界と隣合わせなのよ。だから、過去を映し出すこともできる。さすがに未来はできないけど」
景色は、次々と変わっていく。
瀬名が同級生に俺の不名誉な噂を広めたり、夜来なずなと同好会に軋轢をもたらす作戦会議をしたり、夜中に俺の携帯電話を盗み見ていたり、俺の鞄に盗聴器を縫い込んでいたり。
彼女の、表情が欠落した顔は、いつか夜臼坂学園で見たものと同じだった。
そして、多くの人を殺す瀬名の姿が。
映し出された。
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「…………」
俺は、言葉を失っていた。これは、どうしようもない証拠だった。捏造や加工だったら、あまりにも大掛かりすぎて逆に驚く。
韮沢瀬名は、大量殺人者だった。それが、真実だった。
いつも俺に笑顔を向けていたのに。そこに一切の嘘偽りは感じられなかったのに。
その裏で、ここまで罪過を重ねていたなんて。
瀬名は何を考えているんだ?
何もかもが理解できない。
俺が知っている韮沢瀬名とは別人のようだった。
なんだろう、今胸に広がるこの感情は。
悲しみ? 怒り? いや、そのどれでもない。
感情すら全て置き去りにして、ただ虚脱感だけが広がっている。
――たとえほかの誰が裏切ったとしても、わたしは先輩のことを裏切りません。
今から思えば、反吐が出るような台詞だ。この世で、彼女以上に俺を裏切った人間などいない。こんな、底のない害意を向けてきた人間なんて。
一体人の生命をなんだと思っているんだろう。
人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなんだ。
誰もが、自分なりの人生を自分なりに頑張って生きている。みだりに踏みにじっていいものでは、決してない。
彼女は、知っていたはずだ。大学合格が、どれだけ大きな意味を持つか。もちろんふつうの人にとってもそうだし、俺にとっては夢への大きな一歩になったのに。
……こんなふうに、他人の人生を滅茶苦茶にするなんて。
みたきは俺の顔を見て目を細める。
「孝太郎くん、ずっと一緒にここで暮らしましょうよ。この、時間も何も関係のない場所で」
「え?」
「あなたの人生は韮沢瀬名に滅茶苦茶にされてしまったけど、ここでなら話は別だわ。あなたは自由を取り戻せるのよ。こんなに素晴らしいことはないでしょう?」
ここで、暮らす? みたきと?
「あんな気の狂った女に目をつけられてしまった以上、あなたはもう逃げられないわ。家だって知られているし……あの女は、どこまでも孝太郎くんを追ってくるはずよ。元の世界に、逃げ場はない」
確かに、あの途方もない悪意はどこまでも追い縋って来るだろう。今だって、家に帰る気力はない。
「あなたは、きっともう誰のことも信じられないわ。そりゃ、そうよねえ? あんなとんでもない女に目をつけられてしまったんだから。これから出会う人全員、韮沢瀬名のように見えてしまうことでしょう。それじゃきっと、誰のことも愛せないわよ。私以外は。そんなの可哀想で見てられないわ」
「…………」
「元の世界に戻ったって辛いだけよ。ねえ、一緒にいましょう、ここで。韮沢瀬名の被害者同士、傷をなめ合いましょう? それが私たちの、一番の幸福よ」
「俺は……」
ここで頷いたら、どうなるのだろう。何も考えなくて済むし、現実から逃れられるはずだ。
世界から隔絶された場所で、みたきと一緒に、暮らす。きっと生ぬるく停滞した時間だ。永遠にも等しいような、生き方。
――あなたも、自分の時間をめいっぱい生きてね。
ふと、朝霧の言葉が脳裏をよぎった。
ここで世界の狭間に閉じこもるのは、生を全うしたと言えるだろうか。
――それは、君の残り数日の人生――あるいは、残り数十年の人生で、考えてみるんだ。
随分昔に聞いた言葉が、どうしてだか思い出された。俺は、まだ見つけられていなかった。だから、こんなところで投げ出すわけにはいかない。
しかも、情報の濁流に、平静を欠いていることは否めないのだ。今は重要な決断をするべきではない。
「……ごめん、少し考えさせてくれないか? ここじゃ落ち着かないし、一旦元の世界に戻りたい」
「世界の狭間には、簡単に戻って来られないわよ? それでもいいの?」
「ああ……悪いけど」
「そう」
みたきは特に表情を変えない。
「戻りたいというのなら止めないけど……孝太郎くん、それなら私の代わりに韮沢瀬名に復讐してくれるわよね?」
「復讐……?」
「あんな異常者、まさか放っておくの? このままじゃ、あと何人殺すかわからないわよ。既に世界には相当ガタが来ているのに、これ以上あんな凶行を繰り返していたら、いよいよ世界は崩壊するわ。彼女をなんとかしなければ、あなたに未来はないの」
みたきの赤い瞳は、真っ直ぐこちらを射抜いていた。
「あの醜く壊れた少女を消してくれる?」
▶ ▶
周囲の風景は、次第にグランドホテルの廊下に戻っていく。自分が本当に世界の狭間なんて非現実な場所にいたとは思えない。
……そう、全て嘘ならよかったんだ。
――彼女はラネットのことを知らない。消されれば消えるわ。私みたいに防ぐことなんてできない。
尾上たち民俗学研究会は、連続失踪事件の犯人であった不破を消したらしい。
――あそこまでおかしくなった人間を止めるには、もう消すしかない。
ラネットを使った殺人は、法では裁けない。
触れただけで人間を消せるような危険人物、拘束するのも拘置するのも大変だ。最悪、次なる犠牲者が生まれる可能性もある。
でも、瀬名を消すなんて、いきなり言われたって――俺は、どうすればいいのだろう。
みたきの話を、聞くべきではなかったのだろうか。いや、それは真実から目を背けて問題を先送りにするだけだ。
一体どこで間違えたのだろう。
彼女を押し倒してしまったときか、古典文学同好会に連れて行ったときか。
それとも、初めて会ったときだろうか。
携帯電話を見ると、すっかり深夜と言っていい時間になっていた。
世界の狭間にいても、世界ではしっかり時間が進んでいたらしい。
瀬名からのメールが一件だけ届いていた。
「先輩、帰りが遅いみたいですが、何かあったんですか? とても心配です」
俺は、今から帰ると返信をした。