お返しの贈り物
令和二○年春、県立大学の寮。食堂。昼下がり三限目の授業の時間、寮生の集会にも使われるその場所は広く、人影はまばら。テーブル席に武緒は座っていた。
寮の電気は節電モードにされているようで、あたりは薄暗く、窓から差す春の光がうっすら眩しく見えるくらいだった。三年前のプロジェクトが始まってから導入されたらしく、先輩は不満を言っていたが、二年生の武緒にとってはこれが日常だった。
かけているメガネの前に手のひらをかざして、親指を中指に触れ合わせる。スマートグラスの画面起動ジェスチャーだ。人差し指を動かしてグラス画面上のアプリを起動すると、グラスに表示された訪問を伝えるメッセージを見返す。
『大切な話があるから十九日の昼すぎに行くって』
わざわざ間を空けて。
『荷物まとめておいた方がいいかもね』
叔母のメッセージの後には、それが冗談であることを示すカワイイスタンプがつけられていた。平成世代のセンスがカンに触る。
子供の頃から顔を会わせる度にいちいち武緒の分際を伝えようとしてくる叔母は、自分の息子がこの県大に落ちた時からますます風当たりが強い。
叔母は祖父と同居していないが、スマホの利用に乗り遅れた祖父はスマホがすでに時代遅れになってきた時代でも次の技術にも全く対応できていないので、叔母が代わりにメッセージを送ってきていた。
なんであれ、ここに祖父が来る。孫娘の武緒は祖父に育ててもらったのに、無口なあの人と他愛もない世間話をした記憶がまったくない。
武緒はため息をついた。
「ここ、いいですか?」
俯き加減だった武緒が視線を上げると、席の少し前に同年代の女性が立っていた。
「もちろん」
親しみやすさを感じさせる顔立ちに栗色の髪の毛はセミロングで、手入れし続けないと維持できないような、ふわっとした内巻。服装はシルクの長袖ブラウスに足首丈のロングスカート。学内に一定数いる県内の郷士の子弟グループのような姿をしていて、その姿は武緒の無造作のショートヘアでTシャツにジーンズ姿とは対称的だ。誰もこの二人が同じグループだとは思わないだろう。
けれどここ一年ほど彼女とよく顔を合わせていた武緒にはわかる。彼女がそうやって手首から足首まで隠れる服装をしているときは、ボディーの不調を隠すときだ。おそらくは服の下でいくつかの外装が剥がされている。
「こんな時間に珍しいですね。休講ですか?」
まゆが話しかけてくる。武緒は学年ごとに複数名いる彼女の友達役なので、自分がナーバスだろうと彼女の相手はしなければならない。
「自主休講」
「それはそれは」
もともとまゆの運動能力は健康な成人よりはるかに劣りジャンプすらできないが、今日はさらに歩くのが遅かった。
「パーツ破損?」
「少し」
「おじいちゃんみたい」
「そうですか?」
怪訝そうなまゆの表情。
「ああ、見たことないか」
まゆの本体は専用のガスタービン・コジェネレーターを五台使いながらさらに大学の電力も使用するスーパーコンピューターだ。彼女はこの大学とその中にある発電設備に依存しているため基本的に外出できない。ボディーを外出させるだけでも一定間隔で中継器を必要とする。
武緒はまゆが市内の最高ランクホテルでの県財界のイベントに出席する時に、大学からホテルまでの道々、他の友達役と一緒にポールコーンのような中継器を置いて回ったこともある。––––ちなみにまゆがイベント出席中に中継器に異常がないように武緒達はその一本一本に張り付いており、武緒は寒空の下、中継器の前に立って輝かしいホテルを見上げながら単位が出なきゃ絶対こんなことしないと思っていた––––彼女が外に出るためにはそれくらいの手間暇がかかるし、日帰りしかできない。そんな調子なので、まゆが見たことがある高齢者の中に引退した人間はいないのだろう。
いわゆるおじいちゃんを説明しようとして、武緒の眉根が寄る。そういえば武緒の祖父も八◯歳を超えるが、歩くのは武緒より早いくらいだ。
「ま、ステレオタイプも良くないよね。昨日は農学部の実習に参加したの?」
「そんなところです」
大方農具を持ち上げた時にパーツを破損させたのだろうし、今寮が節電状態になっているのは、通常とは違う状態のボディーの処理にいつもより演算負荷がかかっているからだろう。まゆはその立場上、大学にマイナスになるようなことは口にしない。どちらにせよ大したことではなかった。
まゆは武緒の前の席に着く時も、ゆっくりと椅子を引き、座る。ふわりと暖かな空気が武緒の顔を撫ぜた。その空気に乗ってまゆのほんのりとした香水の香りがする。マルベリーの香水というものがあることを武緒は彼女と会うようになってから知った。まゆという名前もマルベリーの香水もこの地域でかつて養蚕業が盛んだったことにちなんで選ばれた彼女のブランド付けの一環である。
彼女はこの人口激減時代に大学の生き残りをかけた広告塔兼実証実験中のAIだ。この大学のことを一般的なネットで調べると九割型はまゆのことで占められている。
香水は農学部生命科学科で香りの研究をしている平山教授の製作。まゆという名前の由来は郷土史の佐藤准教授。それらを喧伝しているのは広告代理店の支社長を定年して広告学のポストに収まった増田教授。
顔とボディのデザインに関しては繊細な議論を回避するため、学生の平均値を取った後に幾分かの親しみやすさを添加して作られたそうだ。
まゆの製作運用はこの県で唯一の総合大学である、この大学の全学部が関わっているのであり、彼女のバックは県大の全てだ。
「そういえば投資の調子はどう?」
「現状を見ますか?」
まゆが少し指を動かすと、武緒のグラスに投資の情報が届いた。ちなみにまゆはグラスはしていない。指先を動かして見せたのも、人間に『して見せている』だけの動きだ。
一応友人である武緒がまゆを誘ってやっている投資ということになるので、その投資で稼いだ金額は武緒の懐にも入る。
武緒が少し見ただけで、まゆの投資成績は武緒よりも悪いことがわかった。武緒も小遣い程度の稼ぎしかなかったのだが。
いかにも流行らなそうな介護系ハードウェアベンチャーの株を買ったかと思えば、大規模リストラ中の国産医療大手の孫会社の株を買い、その次は少し前に飢饉が起こったアフリカの小国の国債を買う。買い方に脈絡がない。
「やっぱりこんなものか」
「ご期待に添えなかったようで」
「んー、そんな期待はしてなかった」
「ああ、やっぱり。人は期待が外れたときは激しく怒りますからね」
まゆが珍しく人を評する発言をした。武緒は苦笑した。
「トーンが変わったね」
まゆが浮かべているのは興味深げな表情だ。初めてのシチュエーションに入ったまゆは好奇心をむき出しに質問をし始める。まゆの実証実験の一つにAIに人が理解できるのか、というものがあり、その動機がある以上まゆは基本的に人間の理解に努めようとする。急に人がお金を欲しがるようになるというシチュエーションはまゆにとって初めて目にするものなのだろう。
「武緒さんは急にお金を欲しがるようになりましたよね、何か欲しいものでもできましたか?」
「こういうのさ、お人形に愚痴を言うみたいで嫌なんだけど––––」
「いえそんな、友達じゃないですか」
「友達役ね。ま、友達に愚痴を言ったこともないけどさ」
こういった『人間を見せる』ことは武緒達の仕事だった。そういった教授陣へのささやかな点数稼ぎも全て水泡に帰しそうだったが。
「欲しいのは学費。祖父の機嫌を取らなくても学校に通えるくらいのお金が欲しいの」
「なるほど、お爺様の経済的支援が失われたとしても、武緒さんはこの大学にいたいんですね」
武緒は首を振る。
「少し違う。正直この大学にはそんなに興味ないよ。県内の農学部しか進学させてもらえなかったから、その中では一番良かっただけ。遺伝子を選んだのも実習で畑に出たくなかったからだし、留学とかしたいよ」
まゆが珍しく複雑そうな表情をする。県大生まれ県大育ち中のアンドロイドとしてはそんなことを言われたら微妙だろう。
「首席入学者の本性がこんなのでがっかりした?」
「いえいえ、でもそれなら大学を辞めることになっても別にいいのでは?」
「あそこに帰るのだけは絶対に嫌だから」
「おうちですか? 伝統的な古民家って感じで素敵な所じゃないですか」
まゆはストリートビューで武緒の家を見たのだろう。
「ソーラーパネル」
「ソーラーパネル?」
「実家に帰ろうとしたらバスに乗った後、二十キロもソーラーパネルに囲まれた道を進むのよ。で、そのソーラーパネルに囲まれた土地に家と畑がポツンとあるの」
まわりの人間がみんなもうあの土地を諦めているのに、祖父だけが一人でずっと畑をしている。かつてのマイホームを購入した多数の日本人が参加した、土地の価値が上がれば勝ち、下がれば負けという不動産投資に県全域が敗北しているため、もうどうしようもない光景だった。少子高齢化で傾いたもうすぐ消滅する田舎。それ以上でも以下でもない。
「まるで墓石に囲まれているみたいな光景よ……私は絶対あそこから出る」
「きっと出られますよ」
まゆは安請け合いした。
「だといいけれど。あなたという実証実験を手伝えるのも今日までかもね」
「だいじょうぶですよ」
ふわっと、まゆが笑った。
そりゃ、あなたは大丈夫でしょうよ。とは武緒は言わなかった。
「あなたが羨ましい」
ふと、武緒自身思いもよらない言葉が口からついて出た。
「わたしがですか?」
「なにも煩わしいこともなく学び続けられるから」
まゆがなにか言いかけた時、食堂の入り口あたりで、留学生のはしゃいだ声が上がる。
「ワァーオ、サムライ。ソゥクール」
そちらを見ると、祖父が入ってきていた。その姿を見て思わず武緒は呟く。
「嘘でしょ?」
祖父は着物を着ていた。しかも紋付袴。
「……まさか本当に許婚を決めてきたとかいうつもり?」
危機感無さそうにまゆが言う。
「まさか昭和じゃないんですから」
「あの人昭和生まれでしょ」
さっきまでまゆが座っていた席に着いた祖父は和装鞄から紙の成績通知書を取り出した。
「通知表は届いてる。頑張ってるな」
祖父の家に送られた紙の成績通知書。一年で八◯単位を取った武緒の成績が書かれていた。
「はい」
沈黙が流れた。祖父は無口だし、武緒の方からも口を開かない。
「渡しておきたいものがある」
祖父はもう一度鞄に手を入れる。武緒は息を飲み、身構えた。
鞄から取り出されたのは古い紙の小さな冊子。祖父はそのまま武緒にそれを手渡した。見てみれば『藤森武』と名前が書いてある。顔も覚えていない父親の名前の銀行通帳だった。
「俺の相続分も後見人分も、あと保険金も、武の遺した金は全部お前に渡す」
武緒は呆気にとられた。
「……なんで?」
「なんでって、そりゃあ……」
祖父は説明しようとしたが、うまく言葉が出てこないようだった。重ねて武緒が聞く。
「お爺ちゃん、私が嫌いじゃなかったの?」
祖父が珍しく驚いた顔をした。
「お前が嫌いじゃなかったのか?」
武緒も驚いた顔をした。
しばらく沈黙が続いた。
んん、と祖父が咳払いをした。
「あー」
祖父はもう一度咳払いをした。
「成人おめでとう」
「あ……ありがとう」
武緒はテーブルの木目に目を落として言った。自分の誕生日すら忘れていたことに今更ながら気がつく。
「お爺ちゃんは私に家を継げって言いにきたのかと思った」
「言わんよ。俺が畑を続けるのは俺が決めたことだ。お前は勉強がしたいんだろう。好きなだけしたらいい。お金が足りないなら出してやれる」
また沈黙が降りた。思いもしなかった展開に武緒は何も言えなかった。祖父が聞く。
「勉強、好きなんだろう」
「……うん、すごく。一つ学ぶとそれだけで世界が広がっていくみたい」
「それでいいんだ」
祖父は深く頷いた。またしばらく沈黙が降りる。
「あの子、ずっとこっちを見ているな」
武緒が振り返ると後ろの方の席に座ったまゆがこちらを見ていた。
「いい友達じゃないか」
「よく友達だってわかったね」
「ん……まぁな」
祖父はまた咳払いをした。
祖父がタクシーに乗るのを見送り寮の食堂まで戻ってくると、さっきまでの席にまゆが座っていた。武緒もまた同じ席に着く。
心が晴れてみれば、いろいろなことが明瞭だった。
「思い出したけれど、昨日は農学の実地なかったよね?」
「さすが武緒さん、全コマ履修者だけあってシラバスにもお詳しいですね」
「私の実家に行ったんでしょう。で、うちのお爺ちゃんに野良仕事を手伝わされた。それでボディーを破損したんでしょ、違う?」
まゆはふわっと笑った。
「手伝ったのは自分の意思です」
「お節介焼きね。誰が協力したの?」
まゆが首を横に振る。
「誰も」
「嘘でしょう、中継器は?」
「バスですよ。旅行鞄に中継器を詰めてバスに乗って、進んでは途中下車して中継器を置いて、またバスに乗って。帰りはその逆です。便が少ないから時間の管理が大変でした」
「中継器が壊される可能性もあったでしょう」
「勝算はありましたよ。まず一、二本の故障はカバーできる配置にしていたことですね。それからバス停の柱とか電信柱の影に大学の名前と実証実験と書かれた機器が置いてあったら、一日くらい放置していてくれるでしょうし。中継器に書かれた電話番号に電話をかけると出るの私ですし。すいません落とし物だから自分たちで回収します、という話になるだけです。バスの後歩いていったソーラーパネルに囲まれている道は大型の獣が出ないように管理もされていますから、誰もいませんでしたけれど、むしろ安全でした」
「なるほどね……」
「意外と私一人でもやれるんですよ」
まゆは得意げだった。
「お爺ちゃんとはどこで知り合ったの?」
「少し前にお祖父様が電話をかけて来られたんですよ。面会するために大学を訪ねたいと。その時の電話を取ったのが私だったのでご縁ができまして」
「本当になんでもするのね」
「人と関わることは全て実験ですから。友達の保護者ならまだ関わっていい範囲でしたし」
まゆはしれっと言った。
「全部事情をお話しした方がいいのかもしれないと思ったんですが、お祖父様の様子から私が仲介に出て来ない方がいいと思いまして」
「そうね。直接話せて、本当に良かった。ありがとう」
「本当は色々伝えたかったんですよ? お祖父様のご両親は自分たちで切り開いた満州から命からがら引き上げて来られたんですって。そんなご両親がまた日本の何もない土地を開かれるのを見て育ったそうなんですよ。それでお爺様は自分も––––」
武緒は手を振って話を遮った。
「待って、その話は自分で聞くから。次の休みに帰るし」
「それはそれは。良かったです」
まゆはしみじみと言った。それから話題を変える。
「そういえば武緒さんとお祖父様って、よく似ていますよね」
「どこが?」
「徹底的に頑張る所ですかねぇ……あと頑固なところとか、よほどのことがない限り何も話さないところとか、イマイチ人の話を聞いていないところとか。無口さはお祖父さまの方が数段上ですけれど」
武緒は渋い顔をしてまゆを見た。
「私のことなんだと思ってるの?」
「妹のような友達だと思っていますよ」
「三歳児のくせに」
武緒とまゆは笑った。笑いが収まると、武緒がまゆに聞く。
「でもなんでこんなことをしたの?」
「私なりのお礼ですよ」
「なにそれ?」
まゆはごく自然にいつものふわっとした雰囲気のまま言った。
「私はここでしか生きられませんから、ここで関わった全ての人に幸せになっていただこうと思いまして」
「大きく出たね」
「やりがいのある、私なりの生きる理由です」