第8話
総督邸は、ポート・ロイヤルで最も優美な砦といわれている。国王の命を受け、ジャマイカの行政を担う総督は、敵も多い。ジャマイカの領有権を奪われ、常に海賊の脅威にさらされているスペインは、何度も抗議と警告の意味で密使を送り込んでいる。薄いグリーンがかかったコロニアル様式の屋敷は美しいが、広大な敷地は高い塀と鉄柵に囲われ、見張りの兵士が所々に立っていた。
琉香の乗るウォールデン家の馬車は、門の前で兵に止められたが、すぐに門を開けて通された。ファビアンが同乗していることを確認したためだろう。馬車は門を通って総督邸の玄関口にあるポーチの下で止まった。
やれやれ、やっと降りられる。
琉香は安堵のため息をついた。慣れない馬車は乗り心地が悪かった。馬車が揺れる度に座席にぶつけたお尻が痛い。そのうえ、ファビアンと二人きりという新手の拷問も受けねばならなかった。狭い密室にいたも関わらず、二人は一言も口をきかなかった。ファビアンは腕組みをしながらひどく不機嫌そうに押し黙っているし、琉香もあえて口を開く気にはならなかったのだ。
御者が馬車の扉を開けてくれると、ファビアンが先に降りた。琉香も続こうとすると、先に降りたファビアンが手を差し伸べていることに気づいた。どうやら琉香が降りるのを支えてくれるつもりらしい。
琉香は仰天した。思わずファビアンの顔をまじまじと見る。琉香の視線に気づいた彼は、青い目に苛立ちを滲ませた。
「早くしろ。私の忍耐を試しているのか」
やれやれ。こういう男は苦手。
再度ため息をつくと、琉香は差し出された手を握り、ドレスの裾をつまんで馬車から地面へ降り立った。触れたファビアンの手は琉香のものより体温が高く、琉香を驚かせた。冷血男だから体温も低いと思っていたのだ。ファビアンは琉香が完全に着地したことを見届けると、ごく自然に手を離した。傍からみれば、完璧にレディをエスコートする紳士である。
さすがは貴族、内心では琉香を劣等民族だと侮っていても、いくらでも品よく振舞えるというわけだ。琉香は少し感心した。さらに自分でも思いがけないことだが、琉香は手が離れたことが名残惜しかった。自分の手を包み込むほど大きく力強い手の温かさが、冷たく完璧に思える彼の存在を、身近に感じさせたのだ。
「グレイ少佐。閣下達は奥の部屋にいらっしゃいます。どうぞ中へお入りください」
玄関で彼らを出迎えていた使用人に案内され、二人は屋敷の中を進んだ。途中で出会う使用人達は、ファビアンの手前礼儀正しくお辞儀をしたが、みな琉香に好奇の目を向けた。二人が通り過ぎると、使用人同士で囁きあう声も聞こえる。
屋敷の奥にある部屋の扉の前で、使用人は足を止めた。彼が扉をノックすると、中から男の声が聞こえた。
「入れ」
扉を開けた使用人に促され、ファビアンと琉香は部屋の中へ足を踏み入れた。
部屋はイギリス風の客間で、高い天井には金とクリスタルでできたシャンデリアが下がり、床には赤い絨毯が敷き詰められていた。壁にも細かな装飾が施され、肖像画がいくつも飾られている。総督自身と、美しい女性が描かれたものは総督の家族の肖像画だろうか。
部屋の中央には、よく磨きこまれた木製のテーブルと二つの大きなソファがあり、二人の男が待ち構えていた。クリーム色の生地に細かな金の刺繍が施された服を着た男が片方のソファに腰かけ、濃紺の軍服を着た男は傍に立っていた。
「よく来てくれた。君が噂の――――東洋のレディか」
ソファに座っている男は、二人が入ってくるとにこにことして出迎えた。
この人が総督か。優しそうな人みたい。
総督は、丸顔で恰幅のよい壮年の男だった。琉香は見るからに人の好さそうな総督を見て、緊張の糸を緩めた。
「ルカ、こちらが国王陛下よりジャマイカ総督に任ぜられたジェームズ・ボーフォート総督だ」
総督の傍に立っている軍服姿の男―――――アレックスは、琉香に総督を紹介した。
「初めまして。ウォールデン大佐にお世話になっている琉香と申します」
一応、膝を曲げて礼儀正しくお辞儀をしてみる。
「なるほど。言葉も完璧のようだな。私の想像していた東洋人とはずいぶん違う。独特の雰囲気があるね。神秘的で異国的とでもいおうか――――君が傍に置いておくのも納得だよ」
「お戯れを」
アレックスは総督の言葉に苦笑したが、琉香に顔を向けて微笑んだ。そして琉香の全身を眺め、満足げに頷く。
「そのドレス、よく似合っているよ。とても綺麗だ。君なら着こなせると思っていた」
「そう? ありがとう。まだ慣れないんだけどね」
アレックスの視線を受け、琉香は思わず目を伏せた。照れくささや恥ずかしさが入り混じり、顔に血が昇るのを感じる。もじもじしながら、手の平の汗をドレスで拭う。
琉香が着ているのは、ロイヤルブルーのドレスで、シンプルながら上質のものだ。光沢のある生地で、上半身にぴたりと張り付き、ウエストから下はふわりとした線を描いている。コルセットを着せようとするジェマに断固拒否の意思表示をした結果、それは免れた。しかしその代わりボディスをきつく紐で締められ、広い襟ぐりからは胸の谷間が露わにされ、ウエストも強調されている。いつもはそのままか、結わえるだけのセミロングの髪は、ジェマが器用にまとめ、アップにしてくれた。
実は着替え終わった後に鏡を見て、琉香自身も仕上がりには満足していた。身長やスタイルも、欧米人には及ばずとも貧相ではないつもりである。総督が想像していた東洋人がどのようなものか知らないが――――小汚い野蛮人だったらショックだ――――身なりで軽んじられたくなかった。
とはいえ、人前で胸をこれほどさらけ出した経験はなく、アレックスの視線を必要以上に感じてしまい恥ずかしい。
「少佐もご苦労だった。私の代わりに、ルカを無事に届けてくれて感謝する。もう下がってくれていい」
ファビアンは総督とアレックスに無言で敬礼して踵を返そうとしたが、その前に琉香にちらりと視線を寄越した。
どうしよう。私も送ってくれたお礼を言うべき?
互いに目を合わせたまま、琉香はしばし逡巡した。数秒間のはずが数分間のように感じた。しかし、先にファビアンが視線を外し、礼を言う間もなく彼はその場から退出していった。
アレックスは、ファビアンの背を見送っていた視線を琉香へ戻した。
「すまなかったね。急な仕事で手が離せず、やむなく少佐に君を迎えに行くよう頼んだのだ。彼は、私が最も信頼を置く者の一人だから。優秀な軍人・政治家を輩出してきたグレイ一族の中でも指折りの切れ者だよ。きちんとエスコートしてくれただろう?」
「そ、そうですね・・・」
まあ形式上は、と内心で付け加える。
「ウォールデン大佐とグレイ少佐がいてくれなければ、私もジャマイカの総督などやってられんよ。二人のように有能で、家柄も教養も優れた部下を送り出してくれた本国に感謝せねばならないな。このポート・ロイヤルは、植民地の中でも一筋縄ではいかん町だ。――――さあ、遠慮せず座りたまえ」
総督は、立ったままの二人に、テーブルを挟んだ反対側のソファに座るよう促した。琉香がアレックスの顔を伺うと、彼は頷いた。総督の真正面を避けてソファに腰かけると、アレックスも隣に座った。
「さて――――彼女は読み書きもできるのかね」
「もちろんです。よく私の本を読み漁っているので。シェイクスピアはあまり好きではないようですが」
「一体どこで覚えたのだろう? 前の主人が戯れに教えたか」
「閣下、ルカは奴隷ではないのです。今は私の元にいますが、それ以前に誰かの物だったこともない。これほど我々の言葉を理解し、読み書きできるのであれば、幼い頃にイギリス人に買われたのではないかと私も思いましたが、それは違う。ご覧ください、彼女の手を」
アレックスは、膝の上に重ねるようにして置かれた琉香の両手を取り、総督に手の平が見えるように広げた。そして、ゆっくりと優しく彼女の手の平から指先までを撫でていく。
「これは労働を知らない手です。炊事女や洗濯女がするような水仕事も、農園でサトウキビの収穫をしたこともないのです。とても滑らかで、肌触りがいい。これは間違っても奴隷ではありません」
やだ、何なのこの手は!
琉香は再び頬に血が昇るのを感じた。頼むから、撫でるのをやめてほしい。くすぐったいし、妙な気分にさせられる。奴隷ではないことを証言してくれることへの嬉しさはそっちのけで、琉香の意識は両手に集中した。だがアレックスの顔はと見ると、真面目そのものだった。彼にとってはごく自然な、無意識の行動のようだ。
なるほど、こうやって女性を籠絡しているのか。このプレイボーイめ!
「振る舞いも自由で堂々としていて、奴隷によくみられる怯えや卑屈さは一切ありません。むしろ奔放すぎるところはありますが」
奔放って、何か変なことをしたかな?
琉香の動揺を知ってか知らずか、彼は指先をくすぐるように撫でた。
もうやめてってば・・・!
確信犯としか思えない。これが無意識だとしたら、罪深さ故に天罰が下るだろう。琉香は唇をかみしめ、怒り笑いとでもいうべき声を出さないように耐えた。アレックスは、平静を保った声で話を続ける。
「そのうえ、彼女は音楽の嗜みもあるのですよ。チェンバロを弾くのです」
総督は、感嘆の声を上げ、ソファから身を乗り出して琉香を興味深げに見つめた。
「チェンバロとはな! 全くもって不思議だ。我々の言葉を理解し、教養もある東洋人の娘か。奴隷ではないのなら、東洋の姫君だとでもいうのかね。いや、東洋の貴族の一員だとしても、娘一人で来るはずがない。ジャマイカに東洋人の船が来たという話も聞かん。とすると残る可能性は―――――スペインの密偵かね」
「スペインの密偵――――?」
それまで黙って成り行きを見守っていた琉香は、突然降って沸いた濡れ衣にぽかんと口を開けた。
奴隷じゃないと認めてもらえたかと思えば、今度はスパイ扱いですか。どうしてこう、ヨーロッパ人って自分達に都合の良い解釈をするんだろう。
総督の顔から柔和な表情は消え、驚くほど鋭い眼差しで琉香を検分する。
「ポルトガルは東洋人の子供を攫って主にヨーロッパで売買しているだろう。その中からスペイン人に買われ、密偵として教育を受けたのがこの娘ではないのかね」
「その可能性は低いと思います」
アレックスは、首を振って総督の問いかけを否定した。
「密偵として使うには、ルカは――――東洋人の娘は目立ちすぎます。偶然私が通りかからなければ、奴隷として売られていたでしょう。私に拾われ、総督にお目通りできるという幸運に頼るほど、スペインは楽観的ではないはずです」
「ふむ・・・それもそうだな。疑ってすまなかった」
総督の顔に、元の柔和な表情が戻る。
「どうやら彼女は本当に偶然ジャマイカに流れ着いただけのようですよ。私も詳しくは聞いていませんが、学問を求める船旅の途中だったとか」
やれやれ。琉香は安堵のため息をついた。総督に自分に会いたがっていたのは、単なる好奇心だけではなく、スペインに送り込まれた密偵ではないかを疑っていたからか。新世界の利権を求めて争うヨーロッパ諸国の抗争の火の粉が、まさか自分に降りかかってくるとは夢にも思わなかった。
無事に疑惑も晴れたことだし、これでお役御免かしら。
隣のアレックスを見ると、彼女の手を解放してくれると同時に、意味ありげな微笑みを浮かべた。
「どうでしょう、閣下。例の件をルカに任せてみてはいかがですか。彼女なら適任だと思うのですが」
「そうだな。やってみて損はあるまい」
「かしこまりました」
琉香は背筋をぴんと伸ばし、一体何を言われるのかと身構えた。ここからがどうやら本番のようだ。
アレックスの目を覗き込み、瞳の奥にある真意を読み取ろうとする。いつものようにそれは微笑のベールに覆われているだろうと思ったのだが、今回ばかりは違った。彼の目には、固い決意が浮かんでいた。
「――――ルカ、実は君に『仕事』を頼みたい。私を手伝うと思って引き受けてくれないか」