第5話
アレクサンダー――――琉香はアレックスと呼ぶことを許された――――と出会ってからのこの一か月、彼は完全に琉香の保護者と化していた。彼は琉香の身を救ってくれたばかりか、怪しい東洋人の琉香を問いただすことなく彼の屋敷へ連れて帰り、様々なことを教えてくれた。今は17世紀末であること。ここは英国領ポート・ロイヤルで、英国がスペイン領カリブ諸島の中核だったこのジャマイカ島の支配権を奪い取ったのち、新世界で最も繁栄している町であること――――そして同時に最も堕落した町でもあること。
「堕落した町ってどういうこと?」と琉香が尋ねると、アレックスは困ったように笑った。「ここは、海賊にとっての天国なんだ」
海賊! 冒険心をくすぐる単語ではあるが、海賊といえばならず者の集団で、見せしめに吊るし首にされるイメージが強い。映画や漫画ではヒーローとして描かれていることが多いが、あれはあくまでフィクションだ。琉香が海賊への思いを馳せていると、アレックスは次のような説明をしてくれた。
カリブ海を含め新世界での利権争いに出遅れてしまった英国は、私掠船を使ってスペイン船を襲うようになった。私掠船とは、いわば国王に認められた海賊で、財宝を積んだ船から商船、奴隷船までとにかくスペイン船とみれば略奪してかかり、お咎めどころか英雄視された海賊もいたようだ。スペイン船を相手とした略奪であれば、どのような残虐非道なやり方であっても処罰はされなかった。この海賊行為のおかげで、英国の懐はかなり豊かになり、スペインの国力を削ぐことにもなったのだという。この話を聞いた時、英国のずるがしこさに呆れと怒りを感じ、そしてスペインに同情を禁じえなかったのだが、アレックスの前で表情を取り繕うことができたかについて、正直なところ自信はない。
ポート・ロイヤルは、そんな海賊にとって理想的な基地だった。500隻の船が停泊できる広大な港、カリブの海運ルートの中央に位置するという理想的な地の利。総督をはじめ英国本国から派遣された役人は、植民地の確立の邪魔となるスペインを悩ます海賊に非常に友好的だった。町は海賊とその略奪品――――金銀の延べ棒や金塊、金貨、銀貨、宝飾品、真珠など――――で溢れかえり、彼らのまき散らす金を求めて商人が集まり、賭博場、居酒屋、売春宿が数えきれないほど出現したのだ。役人は見て見ぬふりどころか、こうした店の上得意だったし、財宝の横流しも当然受け取っていた。まさに「海賊の天国」である。
ジョンだけが下劣な軍人じゃなかったんだ。ポート・ロイヤルに漂着した自分を売春宿に売り飛ばそうとした兵士を思い出して、琉香は怒りよりも脱力感に襲われた。この町にいる人間は全て海賊だと思ったほうがいい。
しかし、海賊に友好的だからといって、総督と王立海軍が非力かというと、そうでもないようだ。海賊達がスペイン船以外――――例えば英国の商船――――を襲えば反逆者として処罰の対象としたし、町で暴動が起きれば鎮圧する。植民地の独立すなわち国王への反乱の兆しがないか、厳しく目を光らせてもいる。半年前に本国から派遣されたアレックスは、これまで何度も反逆者を捕らえ、暴動鎮圧の指揮も執った経験があり、切れ者で腕も立つということで総督や海軍内部だけでなく海賊達にも一目置かれる存在のようだ。
ちょうど琉香を助けてくれた時も、異変がないか街中を見回っていたのだという。
以来ずっと面倒をみてくれている彼には、本当に感謝してもしきれない。悲しいかな、この17世紀末のポート・ロイヤルにおいて、東洋人である琉香を西洋人と同等に扱ってくれる人はいない。あのときアレックスが助けてくれなかったらどうなっていたことか――――琉香は思わず身震いし、改めて自分の幸運に感謝した。
「どうした。寒いのか?」
身震いした琉香の様子に、寒さが原因だと勘違いしたのか、アレックスは心配そうに声をかけた。夕日はいつの間にか沈み、2人を照らすのは燭台にともされた蝋燭の炎のみとなった。開いた窓から湿り気のある風が流れ込み、蝋燭の炎が揺れる。カリブ海といえど、日が沈んだ後の風は涼しい。
「大丈夫。ただ、私は本当に――――アレックスに感謝していて、あなたのために何かしたいと思ってる。もちろん屋敷の中でってことだけど」
本当は屋敷から出て、街中を歩き回りたい。もう屋敷の中にカンヅメなのはうんざり! 琉香は喉元まで出かかった言葉を呑み込み、本心を悟られないように俯いた。屋敷から出られないのは、仕方のないことだとはわかっている。屋敷から一歩出たら、自分を守ってくれる者はいない。また捕まって売り飛ばされる可能性が高い。とはいえ、恩人であるアレックスのために、何か貢献できることはないかとここ一か月考えているのも事実だ。恩返しもできて、退屈を紛らわせる無難な方法といえば――――。
「アレックスのお仕事を手伝うのは無理だけど、掃除とか洗濯なら私にもできると思うの。屋敷の外に出なくてもいいし」
タダで屋敷に居候させてもらっている身としては、やはり家事を手伝うべきだと思う。琉香は顔を上げて、アレックスの顔を見た。
しかし、アレックスは首を振った。その目には面白がるような色が浮かんでいる。
「駄目だよ、ルカ。そんな使用人の仕事をさせるわけにはいかない。――――君は、私の大切な客だからね」
やっぱりそうきたか。
実はこの手のやり取りは何度か繰り返しているのだが、その度にアレックスに「君は客だから」と断られているのだった。
この謎の「お客様扱い」が気になるんだよね・・・。
彼は、琉香が何者なのか、あまり問いただそうとはしなかった。まさか21世紀から来ましたとはいえず、「日本という東洋の島国の出身で、西洋の知識を学びに行く途中の船が嵐に遭って遭難しました」程度の説明しかしていないのだが、とても納得してもらえたとは思えない。しかし、アレックスは育ちの良さ故か、生来の性格か、それとも琉香の身の上やどこから来たのかについてさほど興味がないのか、深く追及しようとしたことは一度もない。興味がないわけではないだろう。よく彼の視線を感じるし、観察されている気もする。
琉香は、アレックスの目をじっと覗き込んだ。頭ひとつぶん高い位置にある彼の瞳は、相変わらず面白がるような色を浮かべて琉香を見下ろしている。だが、面白がるような色の背後に、別の感情が隠れているような気がするのだ。琉香の正体を探っているのか、観察しているのか・・・もっとも、探られて困るような正体ではないが。とにかく、彼は威厳と気品を備えながらも穏やかな印象を与えるが、何を考えているのかはわかりにくい男だった。
いつも何を考えているんだろう。なぜ得体のしれない私を客として丁重に扱ってくれるんだろう。本当ならジョンや他の人達みたいに、私を売り飛ばしたり奴隷として扱っても何の不思議はないのに―――――。
そこまで考えて、琉香は他人の好意を素直に受け取ることができない自分が嫌になった。この時代に来てからすっかり人間不信になってしまった。仕方のないことだけど、せめてアレックスの優しさは素直に本物だと受け取ろう。
「君の気持ちだけもらっておこう」
彼の真意を読もうとしたつもりが、逆に自分自身の内心の不安や葛藤を見抜かれてしまったらしい。アレックスの目から面白がるような色は消えて、真剣な眼差しで琉香を見ていた。
「何も心配することはない。私の保護下にある限り、誰も君に手出しはできないよ」
「ありがとう」
――――――自分はアレックスがいなければ、ここで生きていくことはできないのだ。