第4話
マダム・トンプソンの館は、騒がしい街の中心部にあった。琉香は200メートル先の館を眺めた。黒ずんだ木造の建物で、窓はほとんど閉められている。しかし真昼間から人の出入りは多いようだ。開いている窓から、女がしどけなく窓枠に寄りかかって通りを眺めている。
街の様子は、さながら大規模な映画のセットのようだった。ほとんどが木造の建物で、通りを挟むように並んでいる。通りは人で溢れており、騒がしいが活気に満ちていた。白人や黒人、混血など様々な人種が行きかっている。時折馬車が通るために人々は道の端へよけるが、通り過ぎると道はまた人で埋まるのだった。
強い日差しと高い湿度の中、両手を縛られたまま歩かされて、琉香は疲労の限界だった。そのうえ裸足なので、足の裏が痛い。きっと傷だらけに違いない。ビーチサンダルは海に攫われたときに失くしたようだ。琉香は俯きながら足を動かした。疲れているという理由だけではない。通りを闊歩する馬の落とし物を踏まないようにするためだ。さっきも馬が歩きながら用を足す瞬間を目撃してしまったばかりである。もっとも、馬糞にまみれていれば、奴隷として娼館に売られることは免れるかもしれないけど。
疲れきって投げやりになっていたが、琉香は男達に連行される道中で、ある結論を導き出していた。信じがたいことではあるが、自分は洞窟で溺れた際に、時空を超えて数百年前のカリブ海の島に流れ着いたらしい。正確な年代や場所はまだわからないが、街や人々の様子、服装などから概ね推測できた。おそらく17世紀か18世紀。イギリスやスペインなどのヨーロッパ諸国が富と覇権を求めてしのぎを削っていた新世界。海賊船が黄金を狙い海上を横行している時代。そして、アフリカ大陸から奴隷船で運ばれた黒人たちが強制労働させられる時代。小耳に挟んだジョン達の話によると、東洋人の奴隷も、数は少ないが売買されているらしい。だがそのほとんどはヨーロッパで取引され、特に女性をカリブ海で見たものはいないという内容だった。
――――黒真珠よりも貴重だぜ。
そう言ってにやけたジョンの顔を頭突きしたい衝動を琉香は必死で抑えた。今の自分の状況では、暴れても得にはならない。
内心でジョン外3名と奴隷制度に呪いの言葉を吐いていると、通りを進む彼らに一人の男が声をかけてきた。これまでも散々希少動物かのごとく好奇の目や侮蔑、なかには嫌悪の目で琉香を見る者もいたが、声をかけられるのは初めてだった。
「ミラー伍長。その娘をマダム・トンプソンに売るつもりで?」
声をかけてきたのは体格のいいひげ面の男で、両脇には黒人の大男を従えていた。琉香は一瞬、天の助けか!?と喜びそうになったが、脂ぎったひげ面の男のぎらついた目を見て、再び気が沈んだ。この男はおそらく奴隷商人だ。
「そのつもりだが」
ジョンが答えると、男は大げさに首を振ってため息をついた。
「マダムに渡すなんて勿体ない。あの婆さんはケチなのはあんたも知っているだろう。よければ俺に売ってくれんかね。マダムの三倍は出すぜ」
「羽振りがいいな。よほど高値で買い取ってくれる上客がいるとみえる」
ジョンは思案顔で、奴隷商人と琉香を交互に見た。奴隷商人のほうは、琉香の全身に値踏みする視線を送っていた。
「その上客の名前を教えろ」
「何だって?」
「俺達が直接その客と取り引きする。儲けの十分の一はお前にやろう。損はないだろ?」
ジョンがにやにや笑うと、奴隷商人の顔が怒りで赤くなった。
「下手に出てりゃ足元見やがって・・・!」
商人の合図で、両脇に控える二人の大男が腰から剣を抜いた。それと同時に、ジョン以外の三人の兵士も剣を構える。いつの間にか琉香達を取り囲むように野次馬の人垣ができており、「やっちまえ!」とかなんとか囃し立てている。
二人の大男は、俊敏で力強かった。あっという間に三人の兵士を片付けると、ジョンと琉香に向き直った。
「娘をよこせ」
勝利を確信した奴隷商人は、満足げに言い放った。大男二人が、近づいてくる。
ジョンは舌打ちし、自らも剣を抜いた。だがその剣先は、琉香に向けられた。
「それ以上近づくな。近づけば、こいつを殺す」
「ええ!?」
琉香は思わず叫んだ。仰天する彼女を無視して、ジョンは続けた。
「殺しちまえば、価値はなくなる。俺もお前も、何も手に入らないぜ。俺のおこぼれにあずかるか、無かだ」
何て下劣な野郎なのだ。軍人のくせに自分を娼館を売り飛ばそうとするどころか、欲に目がくらんで命をも奪おうとするとは――――! 性根が腐りきっている。
琉香の怒りが頂点に達したところで、思いがけないことが起こった。ジョンの背後にいた野次馬の一人が、彼にとびかかって剣を地面に叩き落したのだ。すると、それを合図にしたかのように、乱闘が始まった。群衆が押し寄せてきたのである。数人がジョンに襲いかかり、ジョンの手から琉香を縛る縄が離れた。これ幸い、と思う暇もなく、次は琉香の奪い合いが始まった。みな高値で売れることを知っているのだ。
「痛い・・・! やめて!」
琉香は乱闘を続ける群衆にもみくちゃにされ、誰かに髪を思い切り引っ張られて悲鳴を上げた。さらに、足を取られてバランスを崩したが、満員電車と同じ原理で誰かにもたれかかる形で辛うじて転倒することは免れた。でもこのままじゃ、いつか地面に倒れこんで踏まれる・・・!
そう思った瞬間、通りに二発の銃声が鳴り響いた。
突然響き渡る銃声に、群衆は一瞬静まり返ったが、互いに顔を見合わせてざわめき始めた。
さらに二発の銃声が響く。
「一体何の騒ぎだ」
よく通る男の声が聞こえた。
誰?
琉香は、声の主を見ようと首をあちこちに動かしたが、人の頭が垣根のように視界を邪魔している。しかし、急に琉香の周りにいた人々が後ずさった。ようやく群衆から解放され、彼女は安堵してその場にへたりこんだ。顔を上げると、モーセが杖を振りかざしたかのように、人の海が割れていく。その先にいたのは、見事な青鹿毛の馬にまたがる濃紺の軍服を着た男だった。手には拳銃が握られている。背後には、部下と思われる兵士が十数人控えていた。
男は、馬から降りると、まっすぐ琉香に向って近づいてきた。精悍で男らしい魅力と自信にみなぎっている。彼は琉香の前で立ち止まると、地面に座り込んだ彼女に手を差し伸べた。琉香は男の顔を見上げ、その美しい青灰色の瞳に目を奪われた。
――――それがアレクサンダー・ウォールデンとの出会いだった。