第2話
ポート・ロイヤルの一角にある邸宅街は、夕暮れ時を迎えようとしていた。遠くから街中の喧騒が聞こえるものの、「堕落の町」の異名をとるここポート・ロイヤルの中でも、このあたりの区画は静かなものだった。総督府や王立海軍の関係者が住まう邸宅が立ち並び、日が沈む前に邸宅内に明かりを灯そうと忙しく立ち回る使用人の姿も見受けられた。
そんな静かな邸宅街を進んで行くと、カリブ海を一望できる高台に見事な邸宅があった。白を基調とした優雅なコロニアル様式の屋敷で、所有者の身分を否応なくを推測させる。庭園も美しく管理され、南国の植物らしい濃密な花の香りがあたりに漂う。
屋敷の裏側、海に面する部屋のひとつからはやや風変わりなチェンバロの音色が流れていた。
琉香は、鍵盤を弾きながら、つくづくピアノのために作られた曲はチェンバロには似合わないなと思った。この時代、ピアノは生まれたばかりの赤ん坊のようなものでほとんど普及していない。モーツァルトもベートーヴェンも生まれておらず、当然ピアノのための曲など存在しない。だがチェンバロ曲などほとんど弾いたことのない琉香は、ベートーヴェンやショパンをチェンバロで弾くしかないのだ。
バッハをもっと練習しておくべきだったなあ。
ベートーヴェンのピアノソナタを弾き終えてから、琉香は思わず嘆息した。音の強弱のつけられないチェンバロではなんと弾きにくいことか。
「相変わらず変わった曲だな」
振り返ると、部屋の入口近くの壁に長身の男がもたれかかるように立っていた。
「ロンドンの貴婦人達なら顔をしかめそうなメロディーだ。ウィーンで流行していると聞けば話は別だが」
「アレックス。おかえりなさい」
琉香は椅子から立ち上がり仕事を終え帰ってきたこの屋敷の主に向き合った。
アレクサンダー・ウォールデンはとにかく人目を惹く男だった。均整のとれたしなやかな体躯に、ダークブロンドと美しい青灰色の瞳。長い睫毛に囲われた瞳は荒れ狂う海のようにも、穏やかな海のようにも、様々に色を変える。初めて彼の目を覗き込んだとき、その美しさに目を奪われたものだ。どこか甘さを残しながらも男らしい端整な顔立ちで、ポート・ロイヤルどころかロンドン中の女性達を虜にしたという噂もあながち嘘とは思えない。その恵まれた容姿に加えて、彼はイングランドの名門貴族出身の海軍大佐でもあった。先に着替えたのか、今朝も着ていた濃紺に金モールの刺繍があしらわれた王立海軍の上着は着ていなかったが、白い襟シャツと細身の黒いズボンに膝丈までのブーツというシンプルないで立ちが彼の魅力を一層引き立てている。
「そのうちに必ず流行るもん」
琉香は口を尖らせたが、今後の西洋音楽の発展についてそれ以上語る気はなかった。
「そうか」
アレックスは微笑んだが、立ち上がった彼女の足元から頭の先まで視線をめぐらせると、片眉を上げた。
「またそんな格好をしているのか。まさか街に行ったんじゃないだろうな」
「このほうが涼しいし動きやすいの。ドレスなんて暑いし動きにくいし。コルセットなんて着てる人達の気が知れないよ」
琉香が身に着けているのは、襟ぐりの広いブラウスに青いボディスと男物のキュロットである。この時代、スカート丈は床につくくらい長く、幾重にも布が重なっているため重くて通気性に乏しいうえ、裾を踏んで転びそうになるのだ。かといって裁断された短い丈のスカートなど履こうものなら娼婦を見るような非難の目つきで見られてしまうだろう。それならば多少奇妙に思われても男物を着たほうがよい。どうせ琉香を見る者などこの屋敷の者しかいないのだから。
「初めて会ったときに着ていた服よりはましだな。あれは忘れられない。しかし」
いつの間にか琉香の背後に回り込んだアレックスは、彼女の耳元に囁いた。
「屋敷の外は出歩くなよ。特にその恰好では目立つ。奴隷として売り飛ばされたくないだろう?」
琉香は思わず鳥肌を立てて身震いした。「奴隷」という言葉のせいか、彼に耳元で囁かれたせいか―――。
「わかってる。十分気をつけるよ。ここはポート・ロイヤルだもの」
後に続く言葉は、心の中で付け加えた。
―――それになんといっても17世紀末だしね。