第1話
『ここから出して・・・誰かお願い・・・』
扉の向こうから女のすすり泣く声が聞こえる。しばらくすれば止むだろう。ここに来たばかりの頃のように喚き続けることはなくなった。今は日に数回、思い出したかのように哀願するだけだ。
ラファエルは助けを求める声を無視して、教会の裏にある泉へ向かった。泉は二十歩も進めば現れる距離にあるが、それでも鬱蒼とした植物を掻き分けていかねばならない。この地からスペインが撤退して以降、教会は荒れ果てる一方だった。もっとも、彼には好都合だった。ここならば先住民も近寄らないし、誰にも邪魔されることはない。
泉にたどり着くと、彼は水面を覗き込んだ。そこには、背後から満月の光を受け、妖しいまでの美貌を誇る青年の姿が映っている。長いプラチナブロンドは月光から紡ぎだされた絹糸の滑らかさ。翡翠のように美しい瞳は長い睫毛に縁取られている。頬骨は高く、引き結ばれた唇はややふっくらとしている。かつて、その名の通り大天使ラファエルの加護を受けてこの世に生を受けた美しさと称えられた時と、何一つ変わっていない。だがその瞳の奥には、暗い陰りが潜み、彼の心の闇―――憎悪か悲しみか―――をうかがわせた。
―――――時は満ちた。
ラファエルは泉に映る己自身に語りかけるように呟くと、懐から短剣を取り出した。そして左の掌をゆっくりと切りつける。すぐに鮮やかな血が切り口から滲み出た。彼は掌を傾け、ゆっくりと血が滴るのを待った。ようやく1滴、血の雫が水面に落ちる。
その瞬間、突き上げるような地面の衝撃と共に、泉は泡立ち始めた。泉は数十秒ほど、鍋に沸かした湯のように湯気を上げて沸騰していたが、突然元の穏やかな状態に戻った。数歩下がって湯気がおさまるのを待っていた彼は、再度泉を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、彼の姿ではなく、ひとりの娘だった。
「そこにいたのか」
ラファエルは微笑んだ。月の光を受けて佇む彼の姿は圧倒的な美しさであったが、その美しさとは裏腹に彼は瞳は狂気に満ちていた。翡翠の瞳に映し出されるのは、ただ一つのみ。
「必ずお前を迎えに行くよ―――アンジェリカ」
彼は呟き、恍惚とした表情で夜空を見上げた。その異様な光景は誰にも知られることはなく、ただ満月だけが行く末を懸念したかのように厚い闇雲の下に隠れてしまった。