終わりの始まり
その日の海は、奇妙なほど穏やかだった。
嵐の前の静けさというのは、まさに今のこの時を表現するにふさわしい。
琉香は茫然としながら、視界の先に広がる光景を眺めていた。紺碧の海はただ水平線に続くのみで、周囲に島々や船の姿を捉えることはできない。その圧倒的な絶景は美しくもあり、同時に自分という存在をちっぽけで孤独に感じさせる。
照りつける強い日差しに眩暈を起こし、琉香は現在自分が置かれている状況に渋々意識を戻した。琉香がいるのは船上だが、両手は後ろ手に縄で括られ、肩幅ほどの板の上に立たされている。その板は船の甲板から海面に投げ出されるように置かれているのであった。
後ろに立つ男に背中をつつかれ、琉香はよろめきながらも落下しないように必死でバランスをとり、板の上を前進した。あまり厚みのない板は、琉香の体重を受けて揺れ、しなっている。板の中央まで進んだところで、琉香は肩越しに振り返り、背後に立つ男と、先ほどから甲板で騒いでいる男達を睨みつけた。
「呪われた魔女め!」
「異教徒!」
「海で朽ち果てろ!」
口々に罵声を浴びせていた彼らは、琉香に睨みつけられると、途端に静まり返って一歩下がった。彼らの顔に浮かぶ表情は嫌悪や恐怖など様々で、中には胸の前で十字を切る者までいる。
しかし、琉香の視線は男達の集団を通り越し、ただ一人の男に向けられていた。
その男は傍目にも目立つ存在だった。すらりとした長身で、堂々たる風格と気品を身にまとい、琉香の視線にも全く怯む様子はない。彼は眉間に皺を寄せ、微かに嘆息した。その整った顔は、眉間に皺を寄せたくらいではその魅力を損ねることはなかった。彼は琉香をじっと見つめ、首を振った。
「残念だ。こんな結果を望んではいなかったよ、ルカ」
何度も自分の心をざわめかせた、深みのある声と嵐の海の色をした瞳。琉香は怒りと悲しみ、そして屈辱に震えながらも、男の瞳に魅入られて凍り付いたように動くことができなかった。こんな状況でさえ、自分の心は惑わされているのだ―――――。
しかし、琉香は唇をきつく噛みしめ、男から視線を引きはがした。そして毅然と前を向き、頭を掲げて一歩ずつ板の上を進んで行く。あたりは静まり返ったままで、水の音と、船体が軋む音がやけに大きく響いた。これ以上進んだら落ちるという所で琉香は足を踏みしめ、再度背後を振り返った。そして、男の顔をきつく見据え、絞り出すように言葉を吐いた。
「絶対許さない」
見開かれた彼の目と視線を合わせたまま、琉香は海面に身を投げた。