愛時彩
会いたかった、会えて良かった。
目の前にいる青年の姿を目に映す〈トト〉の溢れる想いだった。
青年の名は、ミリオン=ワン。
ミリオン=ワンが差し出した右手を〈トト〉は両手でやさしく、やわらかく包み込む。
「《長》貴方が言う“志し”が同じ……。でも、私はーー」
「ミカド、ふたりの前で場を壊すようなことを言うのは、止すのだ」
《長》は、ミカドの言葉を遮る。
「お茶の用意を致します」
駆け足をして、ミカドが行ったーー。
***
しばらくして、ミカドが人数分の茶を運んで来た。
〔来賓の間〕では、待っている者たちが各々の話で場が和んで弾んでいるだろうと、ミカドは想像をしていた。
「どうされたのですか、皆さん揃って浮かない顔ですよ」
部屋に入るなり、空気が冷たい。と、ミカドは直感を言葉にした。
「ミカドがちっとも来ないと《長》がやきもきしていたからよ」
「これこれ〈トト〉よ、出鱈目を言うのではない」
〈トト〉が左隣に座る《長》に言うと《長》は、軽く咳払いをした。
「では『証人』に訊く」
ミカドが指名したのは、ミリオン=ワン。
「私はたった今、腰をおろしたのだ。双方が何を話されていたなんて、聴こえない場所にいた」
ミリオン=ワンは『証拠』として、掻き痕で赤く腫れている右の二の腕と左の脛を、ミカドに見せた。
「訊いた私がいけなかった」
無愛想にするミカドは、ミリオン=ワンに淹れたお茶の器を差し出した。
「ミカドが淹れるお茶は、何時いただいても安らぎを覚えますわ。ミカドが丹念に育てた香草の茶葉でお茶を楽しまれるのは、特別な方のみ。そう、今回のように《長》に招かれた方に淹れる。そうですよね、ミカド」
《長》の次にお茶を差し出された〈トト〉は器の茶を一口啜り、微笑んでいた。
「ミカド。先ずは、心を静かにして今の時を過ごすことをするのだ。先をよむのは、詠む。焦りは、褪せる」
《長》は器の中身をゆっくりと飲む。
《長》の左隣に座るミリオン=ワンは、器の中身を空にしていた。空になった器を両手で握りしめたまま《長》の語りを聴いていた。
「《長》に招かれたお客よ。失礼だが、此処にはどんな理由で訪れたのかを、訊きたい」
「申し遅れた。私は、ミリオン=ワン。そなたが警戒するお気持ちは、察する。こんな身なりで連日、私の行動に不審に思う住人がいることも、そちらの女性が忠告をされた」
ミカドの質疑に応対したミリオン=ワンは、床に置かれている茶の道具をはさんで正面に座る〈トト〉と目を合わせた。
「その件に於いては、先程の『余興』で解っておる。ミカド、ワシがたった今言ったことを守れないのならばーー」
《長》が口調だけではなく、顔つきまで厳つくさせていた。
「お客さまの前で、争い事はお止めください」
不穏な情況に〈トト〉が涙ぐむ。
ミカドは「ぐっ」と、喉をつまらせるような声を出して前髪を強く右手で握りしめた。
「〈トト〉が哀しむことはない。ミカド、お、おま、え……はーー」
《長》の右手は震えていた。飲みかけの茶を溢さないようにと、左手で抑えていた。
虚しくも、器は《長》の両手からすり抜けて《長》の膝に茶の飛沫を浴びせ、床に落ちると転がるをした。
《長》は左胸を右手で押さえて、息を吸っては吐いてを何度もする。
《長》の異変に傍にいたミリオン=ワンが気付くが、支えようと伸ばした腕だけではなく、まさに全身が突風で飛ばされたような状態となった。
「大丈夫ですか」
〈トト〉が、床から起きあがるミリオン=ワンの傍に来て言うと「心配をする相手を間違えてますよ」と、ミリオン=ワンの冗談混じりの言葉に〈トト〉の顔は、真っ赤になる。
「ミリオン=ワン殿のいう通りだ。もとい、ミリオン=ワン殿を心配する〈トト〉は間違ってはいない」
ミカドは《長》を床に寝かせて、腰に着ける麻布地の袋から親指程の長さと大きさの竹筒を取り出した。
「ミカド」
〈トト〉は、ミカドが《長》を介抱する様子に名を呼ぶのがやっとだった。
「《長》にお薬を飲ませるのを忘れていた。他の使いに目撃をされていたら、あっという間にこの状況が広まっていただろう」
ミカドが竹筒から右の掌に溢した一粒の赤い塊を《長》の口の隙間に押し込んだ。
「……。ミカド、ワシの先は長くはない。いつかは来ると、覚悟をしておる。残して、託すをするのがワシの役目だ。ワシが見たかった時に行くを止めるは、もう、止すのだ」
《長》は、床に仰向けになったままで呼吸を調えていた。
「《長》よ、私はあなたたち“幻人”から“真人”に学ばせたい『歴史』の種を探して掘るをしていた。偶然ともいえる《長》に会えたことは、直接『歴史』を学べると、勝ってに解釈をした。だが、今のあなたに『歴史』を学びたいと申し出るのは、無理だと。いや、撤回することに致します。どうか、お身体を大切にしてこれからもお過ごししてください」
ミリオン=ワンは〔来賓の間〕から出ようと、翻して部屋の出入口に向かって行こうとしていた。
「待ってください、ミリオン=ワン。そんな重要なご事情を抱えておられた。あなたの住まわれている地にそのまま戻られるのは、あなたにとっては酷なものです」
〈トト〉は、ミリオン=ワンの後ろ姿を追い掛けて追いつくと、ミリオン=ワンの背中に額をつけて、腕で胴体を抱えるをした。
「“幻人”と“真人”が再び、手を取り合う……。最初の一歩を踏みしめたのは、あのふたりだ。それに、われわれが生きる大地も【国】の大地の一部だ。吹く風、息吹く草木、照らす陽と月の光も同じ大地を基盤にしておる。ミカド、おまえもわかっている筈だ。ふたりが共鳴しあっているを、大気が呼び掛けていると……。な」
《長》は息を「ふう」と、吐いて目蓋を綴じた。
「夜も更けている。ミリオン=ワン殿、客室にご案内致すから今夜は脚を伸ばしてゆっくりと過ごすのだ」
ミカドは、寝息を吹く《長》の傍を離れると、ミリオン=ワンにくっついて離れない〈トト〉の肩を抱えて言う。
「私も、ミリオン=ワンと一緒に泊まります」
〈トト〉のひと言は、ミカドだけでなくミリオン=ワンまでが衝撃を受けたような感覚となった。
「〈トト〉待つのだ、私は《長》の客をもてなす意味でお泊めさせるだけであって……。えーと、ミリオン=ワン殿も何か申すのだ」
「ミカド様、私も戸惑っているのです。でも、口下手ですからうっかりと〈トト〉を傷つけるようなことはしたくないと、申し上げます」
「いや、ここはミリオン=ワン殿がびっしりと言うのが賢明です」
「駄目です、ミカド様。私にそんな権利はありません」
ーーいや、いや、ミリオン=ワン殿。
ーー駄目です、駄目です、駄目です、ミカド様。
ーーいや、いや、いや、いや。
ーー駄目です、駄目です、駄目です、駄目です、駄目です、駄目です、駄目です、駄目です。
ミカドとミリオン=ワンの『押しつけ合い』とも呼べる口論が続く。
「《長》ご自分のお部屋でおやすみされてください」
「ああ、そうさせてもらう〈トト〉よ、おまえも予備の部屋でゆっくりと就眠するのだ」
「ありがとうございます。では、お部屋にわたしがお送り致します」
目を覚ます《長》は〈トト〉に支えられて床から起き上がり、石の灯籠が淡い橙色の炎を瞬かせる庭が見渡せる縁側を通路にして部屋へと向かって行った。
ーー私の言った『いや』は、通算181回に達しておる。観念するのだ、ミリオン=ワン殿。
ーー合間に『〈トト〉と添い寝するのは私だ』と『〈トト〉を汚すな』が入っていた。ミカド様は〈トト〉様を……。と、想像をしてしまいましたよ。
満面の笑みのミリオン=ワン。耳まで真紅に染めた顔のミカド。
『コケコッコー』と、赤い鶏冠と白い羽の鶏の鳴き声が、夜明けを知らせたーー。