鯉と金魚
なんだか相変わらずの急展開です(笑)そして短い
初夏の風が吹いた。火照った身体を冷やす風。
美咲はただ、歩いていた。何もしていないときっと期待してしまうから。鳴らなくていいはずの電話を待ってしまうから。
美咲は今朝、一通のメールを送った。ただ、「別れよう」と「さようなら」を書いただけのメールだ。それを送った瞬間に電源を落としたので、瑛人が何を思ったのかわからない。もしかしたら電話をしてくれたのかもしれないし、まだメールを見ていないのかもしれない。
けれど、もう美咲にはどうだったいいことだった。いや、どうだっていいことにしなければならないことだった。
美咲は従業員が10名の小さな会社で働くOLだ。毎日そこに行き、伝票の処理をし、電話に出て、定時には帰る。やりたいこともなければ、夢もない。ただ、規則正しい毎日を送っているだけだ。それで美咲は満足だった。
けれど瑛人は違った。いつかは自分で起業したいという夢を持っていた。今、勤めているところも大手の会社である。毎日ブランドのスーツを着込み、商談に行く。その姿は格好良くて、とても遠い存在だった。
そして最近になって急に浮上した瑛人のアメリカ派遣。瑛人の能力を買った上司から、近いうちにアメリカに行ってもらうかもしれないと打診されたのだ。それは、瑛人の夢を叶えるためのチャンスでもあった。
美咲と瑛人は同い年の28歳だ。そして海外派遣は3年。28歳の美咲に、3年は長すぎる。けれど、アメリカに一緒についていく自信もなかった。
「…暑いな」
朝の早い時間は涼しい。けれど、長い時間歩いていたせいか、額に汗が浮かんでいた。特に何も持っていたなかっため、汗を腕で拭い取る。
「瑛人、どう思ったかな」
思わず出た独り言。それに美咲は首を横に振った。瑛人が何を思っても、しょうがないのだ。いずれは離れなければならない2人だった。海外派遣の話がなくてもいつかは。美咲と瑛人はあまりに違い過ぎる。
大きな鯉には、大きな池がよく似合う。小さな水槽ではだめなのだ。たとえもし、瑛人が美咲と一緒にいることを望んでくれたとしても、一緒になどいられない。起業をするならなおさらパートナーの支えが大切だ。美咲は自分では、瑛人を支えられないことがわかっていた。もっと見栄えのある女性をパートナーにしなければならない。
たとえ、もしも瑛人が美咲と歩む道を選んだとしても、きっとすぐに飽きてしまう。瑛人がいる世界はもっともっと広いから。大きな鯉に小さな金魚鉢で過ごせといっても無理なのと同じだ。金魚の世界は、鯉には小さすぎる。そこにどんな愛があっても、そこにどんな幸せがあっても、瑛人のいる場所と美咲がいる場所では違い過ぎた。だから美咲は告げたのだ。「さようなら」と。
「…幸せだったな」
美咲は上を見上げた。そうしなければ、涙が落ちてきてしまうから。どうして自分はこんなにちっぽけなんだろうと美咲は思う。やりたいこともない。したいこともない。ただ、平穏な毎日を過ごせればそれでいいなんて。なんて平凡なんだろう。どうして、そんな人間なんだろう。そんな人間では、瑛人の傍にいたらいけないのに。
「傍にいたかったな…」
どうして瑛人は立派なんだろう。夢を持って、目標を持って、それに突き進んで。大きな仕事を取ってくるたび、嬉しくなって、けれど怖くなった。夢を聞かされるたび、叶ってほしいという気持ちと叶わなければいいのにという気持ちが混在した。どんどん離されていく距離が怖くて、必死になりたいのに、何に必死になればいいのかわからなかった。自分の中の感情がどんどん醜くなることがわかって、やっぱり、瑛人の傍にはいられないと思った。
「…幸せをいっぱいもらった。それだけでいいって思わなくっちゃ」
もらった指輪や写真を捨てないことくらい許されるだろうか。
「いっぱい歩きすぎたな…。もう、帰ろう」
声に出さないと苦しくて、一人なのに、作り笑いを浮かべていた。ばかだなと思う。こんなにも好きなのに。瑛人に別れを切り出されるまで、もがいたってよかったのかもしれない。けれど、と美咲は思った。きっと、あと一日でも一緒にいたら、離れたくなくて仕方がなかったはずだ。離れられるぎりぎりがきっと昨日だったのだ。
美咲は涙をふき取り、頬を軽く2回叩いた。腕を振って、大きく足を開き、家に帰る。
部屋のカギを片手に、アパートの階段を登ると、ドンドンと扉を叩く音が耳に入った。顔を上げると、美咲の部屋の前に瑛人が立っていた。呼び鈴を鳴らし、扉を叩いて、必死で「美咲」と呼んでいる。
離れなければいけない。そう思うのに、足が動かなかった。まだ、朝の早い時間だ。きっと、昨日だって仕事で遅かったに違いない。それでも、メールを開いてすぐにここに来てくれたのだ。嬉しいなんて思ったらいけないのに、必死に扉を叩く瑛人の姿が嬉しかった。涙が頬を伝う。鼻をすすった。その音に気付いたのか、瑛人と目が合った。目を見開いた瑛人は一拍遅れて美咲の方に歩みを進めた。美咲は何もできず、ただ、近づいてくる瑛人の顔を見ていた。
瑛人は美咲の手を掴む。部屋のカギを取り、美咲を連れて中に入った。
「…これ、何?」
メール画面を見せながら瑛人が問う。
「…俺の事、嫌いになったの?」
美咲は首を横に振った。
「じゃあ!…なんで?別れようって何?」
「だって、無理だもん」
「え?」
「これ以上一緒にいたら、離れられなくなるの。今、別れなかったら、一生離せない」
「離れなくていいよ!」
「だって!…だって、瑛人と私は違うじゃない」
「どこが?」
「全部だよ」
美咲はまっすぐ瑛人を見た。
「全部違うよ。住むところも、目標も、何もかも。大きな鯉と小さな金魚は一緒にいられないんだよ?大きな鯉には水槽は小さすぎるし、小さな金魚に池は大きすぎるから」
「俺が鯉で、美咲が金魚?」
瑛人の言葉に美咲は頷いた。
「瑛人が得られるはずだった幸せを私が奪ってしまうのが怖いの。私は、2年も瑛人と一緒にいられてすごく幸せだったから、もういいの」
美咲は両頬を無理に持ち上げた。そんな美咲に瑛人はイラついたように声を荒げる。
「何が、もういいだよ!」
その声に肩が上がる。
「勝手に決めつけるなよ!自分だけ、傷ついてるような顔するなよ。…ちゃんと、言いたいことがあるなら、言えよ。…美咲、俺は、お前とずっと一緒にいたいよ」
「……私が傍にいたら、瑛人の迷惑になる」
「迷惑?」
「私は平凡な今の生活が好きなの。それ以上は、望んでない。でも、瑛人は違う。もっとずっと上を目指している。…きっと私は、瑛人の足を止めちゃうよ。瑛人のこと、引っ張って邪魔しちゃう。だから、さよなら、なの」
「……」
瑛人は俯いた美咲の腕を引いた。瑛人の腕が美咲の背中に回る。
「俺の事、嫌いになったわけじゃ、ないんだよね?」
「…」
「じゃあ、諦めない。どんなことがあっても、離さない」
「…瑛人、無理だよ。住む世界が違い過ぎる」
「美咲、きっと、鯉は小さな水槽でもちゃんと幸せだと思うし、大きな池に行くなら、金魚を全力で守ると思うよ」
「…」
「周りの目とか、住む世界とかそう言うことじゃなくて、美咲と俺がどうしたいかじゃないかな?」
「…」
「美咲は、俺の事、好き?」
「…」
「俺と一緒にいたい?」
「……」
「俺は、美咲の事好きだし、ずっと美咲と一緒にいたいと思ってるよ。いつか起業したい。もっと大きな仕事がしたい。それは確かに俺の夢だよ。でも、美咲と素敵な家庭を築くことも俺の夢なんだ」
「え?」
「俺は両方夢を叶えるよ。欲張りだから」
「…瑛人」
「だから、離れないで。勝手に、俺の未来を決めないで。…俺のいないところで泣いたりするな」
顔を覗きこみながら瑛人はそう言った。
「結婚しよう」
「え?」
美咲は思わず顔を上げた。瑛人と目が合う。優しい笑みを浮かべていた。
「一緒にアメリカに来てほしい。迷惑をかけるかもしれないけど、美咲が不便しないように全力で支えるから。だから、あっちで俺の事支えてくれないか?」
「で、でも、私なんかと一緒じゃあ、瑛人の評判が下がっちゃうよ」
美咲の言葉に瑛人はゆっくりと首を横に振った。
「俺が頑張れるのは、美咲が隣にいてくれるから。だから頑張れるんだ。今の俺の評判がいいって言うなら、それは美咲がいてくれるからだよ」
「瑛人…」
「美咲が俺のことを好きでいてくれるなら、傍にいてほしい」
「私は瑛人の足を引っ張るかもしれないのに?」
「言っただろ?美咲が隣にいてくれるから頑張れるんだって。活力になることはあっても、引っ張るなんてことないよ」
「……私で、いいの?」
「美咲がいいんだ」
笑顔を浮かべる瑛人に美咲は涙を浮かべ、頷いた。
「よろしくお願いします」
頭を下げた美咲に、瑛人は嬉しそうに笑った。回している腕に力を込める。
「ありがとう、美咲。愛してる」
住む世界が違って、考え方も違うのに、それでも互いに必要だと思えているのなら、それってすごく最強なことなのかもしれないね。美咲はそう言って小さく笑った。そんなこと知っていたよと、瑛人も再び笑う。
「美咲、愛してる」
瑛人はゆっくりと顔を近づけ、誓いのキスを送った。
なんだか切ない話を書きたくて、ただ、悲しい話を書くはずが、なぜかハッピーエンドで結婚って!
思ったとおりにはならないものですね(笑)
ここまで読んでいただいてありがとうございました。




