使命
もう春だというのに、雨は流れるように降りしきっていた。屋敷の屋根の瓦に打ち付けられた雨滴は一度音を立てて跳ねる。跳ねられた水滴は溝に集まって流れを作る。そして、そのまま溝の終着点で滝を作って地面に叩きつけられていく。
何とも言えない風情がそこにあった。
遥か天空の雨雲から押し出された雫が地上に舞い降りる。その幾筋もの雫が凝縮され一つの川を作る。
一連の現象が風情の訳を教えてくれた。
――そう、水の循環なのだ。
地球上で終始絶えることなく続いている当たり前の行為が頭上の屋根の向こうで行われていた。まるで縮尺された地図を見て現地を夢想するかのように、世界を行き交う水の様子が頭の中に雪崩れ込んできた。
また、元を質せば生命の根源なのだ。水の循環によって世界ができ、そしては生命もまた誕生したのだ。
そんなことを考えながら、女は屋敷の縁側をスタスタと足音を発てずに進んでいく。
暗くて姿ははっきりと見えなかったが、姿勢が良く気品さを感じられた。縁側を控えめに足早で進んでいく様は、仕者を彷彿させる。
いや、まさに誰かに仕えているのである。
女はとある襖の前で片膝を突くと「すみません。遅れました」と言っ たのだ。
部屋の中に女が仕えている御主人が居るのであろう。女は片膝を突いたまま顔を下げ、主人からの返事を待つ。
だが、すぐには返事が返ってこなかった。
私事でもしているのであろう――と、女は黙って待つことにする。しかし、幾ら待っても何の返事もなかった。ただ、雨滴が叩く音と雨水が滴り落ちる音が物淋しい二重奏を演じているだけである。
女がもう一声掛けようと顔を上げた時、襖の向こうから女性の声が返ってきた。
「雨に濡れるわ。早く入りなさい」
女は安心したのかフッと笑いを漏らすと、座した姿勢のまま襖を静かに開ける。開かれた襖の先も外の雨闇と同じくらいに暗かった。そんな蝋燭一つすら点っていない暗闇の中央に座布団がぽつんと置いてある。
突如、闇の彼方の主人が言った。
「屋根から落ちた水は何処に行くのかしらね」
女は言葉を返さずに黙り込む。驚くことに心を読まれたようである。さっきまで自分が考えていたことと被るのだ。
滝の先の地面は海を表しているのかもしれない――と、女はそう頭に思い浮かべる。
「まあ、そこに座りなさい」
はっ――と、威勢良く返事をすると、その姿勢のまま摺り足で座布団に進んでいった。
「穀雨とは言えない雨足だけど、これはこれで一興ね」
闇の向こうの主人が雨音に紛らせて言った事だった。
「ええ。春雨の緩やかな降水とは違い、何か物珍しさを感じさせてくれますね」
女が相槌を入れると、主人は憂いを込めたように返した。
「日常とは違う視点を見させてくれるのよ。雨音一つ一つが促してくれるように。特に――今日のような星降る日にはね」
間を空けて、女は切り出す。
「今日限りで止むだそうです」
そう――とだけ主人は言った。
表情は全く窺い知れない。
「ところで、あなたは何を感じたかしら?」
主人の問いに、さっきまで考えていたことが頭を過ぎる。
「地上で行われる水の循環のようだと思いました」
闇の中で主人はふふっと笑った。
「それもまた良いわね」
それだけ言って、後は押し黙る。
沈黙の間も雨は降りしきる――空の妖星を暗雲で遮りながらも。
主人が再び話し始めるまでの間、女はじっとその音に耳を澄ませていた。
「私は時の流れだと思うのよ」
大きな滴がボトッと屋根をついたかと思うと、主人がぽつりと言っていた。
主人の一言では意味が知れなかった。
「すみませんが、時の流れと言いますと?」
「時にも水にも流れ はある。あなたが水の流れに見立てたのと同じよ。私はそれを時の流れに見立てた」
そうは言われても、女には全く察しがつかなかった。
それに感づいたのか、主人は補足する。
「一滴一滴を個々の人間とするわ。それが集まって世界という名の川を作る。そして、川の流れは時の流れを表してるわ。人と出会い、世界が出来、流れとして時を動かす――まるで人生のようね」
「『人生は川の如し』と言った感じですかね?」
女は自分に分かりやすく置き換えた。それに従い、主人も話を続ける。
「そうね。山の上から流れるのを忘れては駄目ね。終わりなき海には流れ込む」
「雨滴が屋根を叩くのが山に湧くこと、屋根から落ちるのが無限の海に広がること――合ってますか?」
その問いかけに、主人は一回だけ躊躇をした。沈黙の後、主人は悟った風に言う。
「そう。そして、それが人間の生と死――人生の序幕と終幕」
女が目を丸くする。そこに透かさず主人の弁解が入る。
「終わりは決して悪いことじゃないわ。限りなく広がること、それが嘆きや恨み辛みを和らげてくれる」
「あの子は今――」
女の呟きに主人はキツく言い放った。
「その話は禁止。本当に次言ったら殺すわよ」