(5) 銀雪の狼
・・・
「追っ手が迫ってくる…という気配は無いな?」
「はい。何人かの者で一定間隔に展開して、気配を探りました」
ジン程の風の使い手が居ないのは痛手だが、我が従者隊の全員で気配を読んで見逃すということはあるまい。
私は、従者たちに引き続き適当な距離を保って警戒を続けるように指示し、自らが跨がる雪石竜子の腹を蹴って、姫様の元へと戻った。
再び舞い始めた雪の落ちてくるのを、静かな表情で見上げている姫様。その視線の先に想うのは…祖国白暮の石塔国か…それとも、異世界で離ればなれになってしまったご自分の守護者…マモル殿のお姿か…。
私の乗った雪石竜子の接近に気づき、その愁いに満ちた顔を、いつもの毅然とした表情へと切り替える姫様。気性が荒いと言われる雪石竜子を見事に乗りこなし、その首元を優しく撫でながら体の向きを変えさせる。
白銀の氷原に、舞い散る白い雪…その中で、姫様の唇だけが鮮やかに赤く存在感を主張していた。その唇が、言葉を紡ぐ。
「…雪が…追っ手から私たちを隠してくれているようだな…」
「はい。それに、姫様のご英断で譲り受けた…この雪石竜子たちの足の速さも…追っ手に追跡を諦めさせるのに大きく役立ったと考えます。さすがですな、姫様」
「ふ。ラサはいつも褒めてくれるのだな…それも、ラサが放った惑乱用の気配を罠としたからこそ…。と、互いに褒め合っていても意味はないかな?」
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不幸にして、基盤の反対側の果てに帰還してしまった我々ではあるが、現在のところは碧色の森泉国の追っ手と遭遇することもなく、祖国への帰還を図ることができている。デルタ村から「極めて平和的」に強奪した雪石竜子たちの足は期待以上の速度で、その癖のある乗り心地に慣れるまでは一苦労だったが、この極寒の地で高速な移動手段があるという幸運は、何物にも代えがたき命綱であると言えた。
「さて。今後の進路をどう取るか…中々に難しい選択だが…どうする?ラサ」
「はい。現在、我々は第一象限小外回廊の内縁付近におります。…つまり、世界の一番外周に沿って進んでいるわけです」
「うむ。一刻も早く帰還したい…という我々の心理を、追っ手が読んで最短距離か、それに近いコースを追走してくる…その裏をかくために…敢えて遠回りをしたのだな?」
「そうですね。また、外苑部は、不思議と要素の流れが『重い』傾向にありますから、気配を読まれにくい…その効果を期待した…ということでもあります」
「なるほど。だが、当面、追っ手のことは気にせずとも良くなったのではないか?」
「えぇ。このまま外周に沿って進もうにも…さすがに第一象限外苑荒野へと迷い込むわけにはいきませんから、内周方面へと進路を取らざるを得ません」
「ここから、最短距離を取るなら…第一象限第二階回廊を抜けて…第一象限主生産区へと出ることになってしまうのだが…ラサ?」
「…そうなんですよね。…首都では無いものの…銀雪の氷原国の主要都市が密集する地域です。氷原国の主要な従者隊が各所に配置されていると考えるべきでしょう」
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「上手くいけば…氷原国の軍に保護され、一気に祖国まで送ってもらえるかもしれないぞ?」
「魅力的な案ではありますが…どうでしょう?…今回は中立を表明している氷原国ですが…姫様が森泉国のファーマス殿下にとって特別な人物である…というのは、各国に広まってしまっていますから…その辺り、知略を得意として基盤最大の森泉国と対等以上に渡り合っている氷原国の王が…どう判断するか…」
「…うぅ。ふぁ、ファーマス様のお、お気持ちは有り難いが…わ、私にはマ…ま、まだ正室に納まる気は無いのだ。ここで、氷原国に捕まり、政治の材料として森泉国へと引き渡される…というのは、避けたい…な」
私は、姫様が「マ」という一字だけで言いよどんだ…その先に続く名前に…少しだけ嫉妬の心を覚えながら…だが、直ぐに自分と姫様との年齢差を思い出し、苦笑する。何を馬鹿なことを…私の姫様への想いは、そうでは無いだろう…可能ならば守護者として一生お側にお仕えしたい…それが叶わぬまでも、このまま筆頭従者として、命尽きるまでお支え申し上げるだけだ。
「では…多少の迂回となることは覚悟して…短軸正域境界の中立外回廊へと一旦戻り、中立大平原を縦断して…中立内回廊まで進む?」
「う………うむぅ」
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姫様は、中立大平原…という地域名を聞いた途端に、目を細めて何かを思い出そうという表情をされる。無意識であろうが…姫様の美しい黒髪に隠れて、規則的に並んだいくつかの赤い房のうちの一房を、指で摘まんで弄びながらしばらく黙考なさっている。
「…ラサ。お前は聴いたことが無いか?…氷原国の伝説を…」
「…伝説…ですか?」
「うむ。お伽噺のようなものだから…お前に笑われてしまうかもしれぬが…狼という言葉を聞いたことはないか?」
「狼…ですか?…それは…ありますが…架空の生物だったと記憶していますが…子どもの頃に祖父母から聞かされた話しに…大人の言うことをきかない悪い子どもは、夜中に銀色の獣毛に覆われた巨大な悪魔…『狼』に…食べられてしまう…というような?」
「そうだ。その狼だよ。今、この基盤世界には『神』への信仰というものが遺されていないが…一説によると、最大最悪の巨大狼が…太古にこの世界を創った…といわれる神々を、一人残らず食べてしまったからだ…と伝承されているんだよ」
姫様の顔を、私はジッと観察する。やや不敬にあたるかもしれないぐらい注視してしまったが…普段から透き通るように白いその顔色を、さらに青ざめさせて必死に「狼」の恐ろしさを訴えている。…なんだ?…姫様は、どうなされたのだ?
「知らないのか?ラサ…各地に残っている『狼』の伝承…その全てが、ここ…銀雪の氷原国の…それも中立大平原を『狼』の住み処として記述しているという…恐ろしい事実を!」
・・・
一瞬…訪れた沈黙。
辺りを凍らせた静寂の後、思い出したかのように風が吹き荒れ、銀色の氷原に薄く積もっていた雪が舞い上がり、視界を白く染める。
デルタ村の村長の妻から譲り受けた防寒具に小柄な体を包まれてはいるものの、あまりの風の冷たさに姫様は自らの体を抱くように縮こまる。
「………あの。…まさか…信じていらっしゃる…ので?」
「う、疑う根拠が、どこにあると言うのだ!?」
私も、この年齢になるまで姫様だけに使えてきたわけではない。入隊した当初は、姫様の父王の…、そして父王亡き後は兄王にも使えた。しかし、末姫の知識と聡明さは、失礼ながら、そのお二人を遙かに超える素晴らしいものだ。…だから…、まさか…姫様がお伽噺や伝説の中にしか存在しない生物…「狼」を本気で怖がるとは…。
私は、笑ってはいけない…そう必死で自分に言い聞かせながら…優しく姫様を諭した。
「ふっ…だ、大丈夫ですよ。姫様。もし、仮に『狼』が現れたとしても、我々従者隊が、かならず姫様のことをお守りいたしますから」
「ほ、本当か?…い、いや、お前たちの強さを疑っているわけではないのだ。すまぬ…し、しかし…しかし、あの『狼』だぞ?…その強さは、基盤世界で最強最悪の猛獣と言われている、あの竜石竜子を遙かに超えるのだぞ!?」
・・・
姫様の狼講座は続く。
「狼の恐ろしさは、1個体ですら最強と言って間違いないのに、その習性として、十数匹で群をなして襲い来る…という大規模災害並みの暴虐さであるとされているんだ。…個体としての強さで既に最強レベルなのに…我々の人数と同数程度の群で襲ってくる可能性があるんだぞ?」
うむ…。私は、伝説の生物「狼」の存在については、全く信じていないのだが…姫様のあまりにも必死な訴えに、少しだけ思案する。
確かに…「狼」であるかどうかは別として…ジンとクアという主力の従者を二名も欠いている今の我が従者隊に、群をなして…というか多勢をもって攻め込まれたら非常にマズイ状態であることは間違いない。
せめて…今のように分散して情報収集にあたるなどしなくても…私がいち早く危機を察することができれば…。私は、思わず禁句のハズの一言を口にしてしまう。
「私が…守護者であったなら…」
その瞬間、姫様の表情が苦悩に変わる。私は、口にした瞬間から深い後悔をする。
「すまない…」
「いえ。私こそ…。姫様のご決断に、意を唱えているわけではありません。ただ…、守護者としての驚異的な危機察知能力が…私にも備わっておればと…ただ…それだけで。言っても、しょうがないことですね。も、申し訳ありませんでした」
・・・
姫様は、既に生涯において一度だけと定められている守護者選定の儀を終えられている。そして、その栄えある守護者は…今は…この世界に居ない。姫様が新たな守護者を従える…ということは、この世界の定めの中では有り得ないことなのだ。
だが…。私も、姫様も…実は、違和感を覚えてはいるのだ。
確かに、守護者となったマモル殿には、姫様との間に強い繋がりの力が働いていた。それは、聞き及んでいたとおりの驚異的な危機察知能力が実際に発揮され、病院と倉庫の二度にわたり暗殺集団の襲撃をいち早く察知できたことかも明らかだ。
それだけでは無い。そのような能力的な変化だけでなく、お二人の間には、間違いなく強い要素の流れがあった。要素の流れなどというものは、よほど訓練を積み熟達した従者か、やはり熟練の詠唱者でなければも感じ取ることは難しいものだが…おぼろげながらも、私にはその結びつきを感じ取ることができた。
その、結びつきが…あの倉庫の襲撃以降…感じられなくなっていた。
そして、過去にこのような例があったとは思えないが…詠唱者である姫様は、この世界に帰還し…その守護者となったマモル殿は、異世界へと残された。
果たして「世界の定め」という…以前までの私たちなら疑うこともしなかった絶対的な摂理が…今回のような場合でも働くのか?
実際、私は過去に守護者を死別により失った詠唱者を何人か目にしているが…その場合でも、守護者の残した遺品などに残された要素の残滓との間に…何らかの結びつきが残り…新たな守護者の選定が不可能であることを感じさせていた。
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遺品…ではないが…姫様の携行品の中には、マモル殿から預かった物品が幾つかあるはずだ。あの夕方…お二人は、何かを話し合い…そして、マモル殿から姫様は何かを手渡されていたのを…私は目にしている。
しかし、姫様とその携行品との間に…守護者との結びつきを思わせるような要素の流れは感じられない。ひょっとすると…姫様は、新たな守護者を得ることが可能なのではないのか?…そのような思いが…私と姫様、二人の間に気まずい空気を生み出す。
「すまない…ラサ。しかし…私は…」
「いえ。何も仰らないで下さい。姫様の気持ちをお察しできずに…失礼を申し上げました」
狼の伝説に怯えていたはずの姫様は、皮肉にも、私の言ってはならない一言で落ち着きを取り戻していた。
「…狼は…せ、政治的な取引で、私をファーマス様のところへ引き渡すようなことはないだろう…な」
「そうですね。もし、狼と遭遇しても…怒らせないようにして…やり過ごしましょう。狼に、私たちをどうしても捕まえなければならない…理由はないはずですから」
もはや、狼の実存を信じ切っている姫様を笑うことなど、従者である私にできるはずもなく…私は、狼との遭遇をも想定に含めた上での行動指針を提案する。
ほどなく、私たちの進路は、中立外回廊へ一旦戻り、中立大平原を経て、中立内回廊まで進む…とりあえず、そう決まった。
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雪石竜子は疾走する。
この銀色に光る氷原をしっかりと掴み取り後方へと強く蹴り送れる前足と…それによって得られた前方への加速を殺さずに、なめらかな氷原を滑る雪車のように特殊な形状に発達した後ろ足による滑走する。
石竜子族の中でも雪石竜子だけが持つ特徴的な走りは、前足による定期的な加速時に大きく揺れる縦波を、如何に上手く体で吸収してその後の滑走へと移れるか…それがコツであった。
私は、時々、姫様の横顔をうかがい見る。
艶やかな黒髪を風になびかせ、前を見つめる姫様。まるで雪石竜子の体の一部であるかのように、見事に縦波を吸収して速度に乗っている。
相当に訓練を積んだ従者に勝るとも劣らない身体能力に、私は歓喜の念を隠せない。素晴らしい、今はまだ無名に近い姫様だが…いつか、ファーマス殿下を始めとする列強の王たちと比肩される名君となられることだろう。
だからこそ…姫様には守護者が必要なのだ。つい、そう考えてしまって…苦笑しながら私は首を振る。無駄なことを考えるのはやめよう。風の中で、自らの呟きが誰にも聞こえぬことを確認してから、私は思いを吐き出した。
「マモル殿…待っているぞ。必ず、この世界へと赴き…あなたが姫様の守護者として再び………」
後半は、自分の耳にすら届くことはなく…風の唸りの中に吹かれて消えた…
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中立大平原。銀雪の氷原国の領域内でも3番目に広大な面積を持つ平原。
実際のところ銀雪の氷原国は、その領土内の大半が氷原…すなわち平原状であるから、この区域を殊更に「平原」と氷原するのには違和感があるかもしれない。
しかし、古来より基盤世界では、短軸上と長軸上に位置する計4カ所の広大な区域を「中立大平原」と呼ぶのが慣わしだ。幼少時に、世界の地理を学習する際に、素朴な疑問として違和感を口にすることはあっても、大人になってまで違和感を持ち続ける者は皆無だ。
この世界は、そのように出来ている。
例えば、何故、この世界の中心には絶対不可侵の広大な空間が横たわっているのか?
例えば、何故、この世界は短軸と長軸により4区分された、奇妙に対称性をもった地形となっているのか?
例えば、何故、外苑荒野に囲まれた限られた範囲内にしか人々は暮らせないのか?
そして、何故、区域と区域を結ぶ通路が…上部空間…すなわち天蓋と同じような光に塗り込められた門によって隔てられているのか?
何よりも、高く高く登りつめ…天蓋を越えたその果てが、その時の天蓋の光の色に対応した別の場所の泉の中…なのか?
それを疑問に思うことが皆無だとは言わないが…それは学者どもの考えることだ。
そもそも、世界とは何か?…人とは…生命とは何か?それと同じで答えなどない。
・・・
広大な平原をひたすらに滑走する。
狼どころか、氷原国の軍兵や民にすら遭遇することなくすんでいるため、私は、柄にもない哲学的な思索に耽ってしまっていた。
だから…遅れてしまった。迫り来る脅威への反応が…
【っっっつつづづづどぅどぅどぅどぅどぅどぅずずずずがぁぁあああん!】
その脅威が、直接に姫様を目掛けたものでは無かったことも、反応の遅れた原因だ。言い訳にすらならないが…私は、姫様に停止するよう声を張り上げながら、内心で舌打ちをする。
「姫様!…左後方!…いや、右…止まってください…囲まれています!」
雪石竜子の首を無理矢理ねじ曲げて、後ろ足を横滑りさせながら緊急停止させる。
姫様も、銀色の雪煙を弾けさせながら、見事に雪石竜子をコントロールして停止させた。
もちろん狙って位置取りをしたのだが、私の雪石竜子は、姫様の雪石竜子にピッタリと寄り添うように並んで停止した。
取りあえず、風の因子の能力を発動させて、遠距離からの攻撃への防御膜を張る。
「ラサ!…従者の気配が…」
そう。今の異音の後…信じたくはないが…我が従者隊のうち2名の気配が消失した。
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異世界にあっても、一人も欠けることなく生き抜いてきた我が従者隊。全員が絶対的な忠誠心を姫様に寄せ…姫様も全員に絶大な信頼を寄せていた。
それが…今の一瞬で、あっけないほどに…
「ラサ!…ラサ、ラサラサ!…ラサ!…何故だ!…これは、いったい何だ!」
姫様の声に悲鳴のような…嗚咽のような濡れた色が混ざる。
私の油断が原因だ。姫様が…せっかく「狼」の伝承を持って、警戒を怠らないようにとの忠告をしてくださっていたのに…
第二撃、第三撃に備えて、私は周囲に気を張り巡らせる。姫様をお守りしなければならない以上、各従者の安全は、それぞれの従者で確保してもらうより他はない。くそぅっ…ジンか、せめてクアのいずれかが居てくれたなら…
「あぁん?…おい。嘘だろう?…かなり手加減をして、脅かしただけだったんだが…なんか消えちまった奴がいるぞ?」
人を食ったような声。だが、嘲る色はなく、本当に危害を加える気がなかった…という驚きを含んだ声が。それが、突如として前方に現れた。
一人?…いや、複数だ。いや、そもそも人なのか?…人だろう…人語を話した。
私は、混乱しながら、それでも姫様だけは死守する…その決意の元に戦闘態勢を取る。
・・・
「おぉ。驚いたな…ん…でも、一人?…いや、こっちの娘も…。なかなか、隙の無い構えをしてるぜ?」
別の方角から現れた声が、最初の声に応える。
声の言う「娘」とは姫様のことか。突然の従者の喪失に、取り乱しながらも…私がお教えした「脱力の構え」を取ることは忘れないでいてくださっているようだ。
雪煙に視界をふさがれて確認できなかった声の主たちだったが、一陣の風が吹き抜けて急に辺りの視界が明瞭になる。
銀色の体毛。全身を包むそれを風になびかせながら、自然体で立つ十数の影。
「お…狼?」
姫様の呼吸を飲む声がした。いや、そんな馬鹿な。それは伝承に過ぎないハズだ。
しかも…さすがに人語を解する「狼」についての伝承は…いや、神を呑み込んだという悪魔としての「狼」は、神と敵対していたと聞く。ならば…
「あれれ?…娘さん。俺たちの隠し名を…あっさり言い当てるとは…」
「うむむ。ただ者では、無いな?」
「おぅ…こりゃぁ、命の削り合いを、覚悟しなくちゃ、なんねぇかな?」
「ひょうひょう!…こ、興奮しちゃうぜぇ!…そりゃ、ホントかよ!」
・・・
「隠し名?」
その瞬間。私の脳裏に、衝撃が走った。そんな、まさか。
銀雪の氷原国が、なぜ基盤世界において、碧色の森泉国に次ぐ2番目の大国となっているのか。過去、デルタ村を含む両国の国境付近において、幾度となく領土争奪戦を繰り返しながら、森泉国に遅れをとることなく国力を保っている…その理由。
私は、情報としては、その知識を持っていたのに…今、この危機を迎えるまで祖国から最も離れた他国の情報として失念してしまっていた…それを思い出す。
銀雪の氷原国は、過去、幾度にも及んだ碧色の森泉国からの侵略をことごとくはね除けてきた。時には、失った領土を逆に奪い返したこともある。特に、近年では、森泉国に最強の守護者である「青き炎のマルルィア」が現れ、単純な戦術レベルでの優位を絶対のものとしているにも関わらず…。
その理由は、銀雪の氷原国にも、マルルィアに対抗しうる戦力が存在するということに他ならない。他の軍事行動には一切かかわらず、ただ、森泉国からの侵略への対抗戦力として、通常の指揮系統からは外された特殊傭兵部隊。
その部隊の隠し名が、「狼」。
私は、自分の不覚を強く恥じた。姫様が、折角、思い出す鍵となる言葉を示してくださっていたのに…。そこで、警戒レベルを上げておくべきだったものを…。
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特殊傭兵部隊「狼」。
彼らは、その「狼」という名に恥じることない、各隊員が最強レベルの術者で構成されており、しかも、伝承にある「狼」同様に、群、即ち高度な連携による戦闘を得意としている。
森泉国のマルルィアが最強と呼ばれるようになったのは、実は、この「狼」を相手にして、たった一人で互角に渡り合った…その時の凄まじい戦い振りが、森泉国だけでなく氷原国の兵からも口伝えで広められたからである。
だが…その噂には、マルルィアを最強とする話とは別に、もう一つの恐ろしい内容のものも併存している。
マルルィアとの互角の戦い…だが、そこには特殊傭兵部隊の長、最強の男の不在というオマケの話が付く。「狼」の伝承にある「神」をも喰らうほどの真の最強術者が、現在、何らかの理由で不在であるために、マルルィアが互角に戦えたのだ…と。
碧色の森泉国以外の民や、マルルィアのことを快く思わない者たちの間では、このもう一つの噂話を引き合いに、マルルィアの最強伝説は「条件付き」だ…と揶揄されることもあるのだ。彼女は決して最強などではない。不在の「狼」の長から、最強の座を一時的に譲られているだけだ…と。
実際には、守護者でない「狼」の長と、守護者となったマルルィアでは、守護者側に絶対的なアドヴァンテージが存在する。しかし、それで尚互角かもしれないと噂されるほど、「狼」の長の実力は計り知れない。
その噂話は…あまりにも誇張に過ぎると…今の今まで、私は思っていた。
マルルィアだろうと、「狼」の長だろうと…自分とどれほどの差があるものか…と。
・・・
しかし、目の前に…実際「狼」たちを目にして…
私は噂が、噂ではなかったのだと知った。
相手が一人であれば…。いや。単純な戦闘で勝ち負けを競うだけであれば、4人か…5人ぐらいまでであれば、私一人でも勝ちを掴むことができるだろう。私も、伊達に石塔国の歴代の王たちを守る重責を負ってきたのではない。それ相応の経験と能力があると自負している。現に、今回、連合との協議へ赴く姫様の警護に任じられたのも、その実績と能力あってのことだ。
だが、姫様を守りながら…どれだけ戦えるか?
私が、最後まで無事立っていたとしても…姫様を失っていたら何の意味も無い。今から始まる戦いは、そういう戦いだ。
逆に、自分の命が果てようとも、姫様を無事に安全な場所まで逃すことができれば…私の勝ちだ。
しかし…安全な場所とは?…そんな場所、どこにある?
私は、先ほど封印した思いを…また心の中に蘇らせずにはいられない。
…私が、守護者であったなら。
思わず見つめたその先に…静かな怒りをたたえた瞳で「狼」たちを睨みつける姫様が、口を真っ直ぐに引き結んでいた。
・・・
次回…「氷上の死闘(仮題)」へ続く…