(11) 世界の境界
・・・
「ひゃぁうんっ…あはぁあぁぁ……」
緋宮家の寝室に、女性の甘く悶えるような喘ぎ声が響く。
この緋宮家には、もともと男親とその息子二人しか住んでおらず…今は、訳あって父親と弟が不在で兄しか居ない。本来なら、喘ぎ声どころか女性の声もしないハズなのだが…。
「……ぁぁぁぁああああぁぁぁ………はぁぁあん…」
波が押し寄せるように高鳴り、そして引いていくように静まっていく…突然のその喘ぎ声に…慌てて駆けつける足音が重なる。
寝室のドアが、音を立てて開かれ…怒ったような顔で室内に顔をのぞかせたのは、緋宮家の現時点での主、明。つまり、俺だ。
「…貴様等…。人の家の寝室で…何をしてくれてる?」
目線の先には、全身を掻き毟るようにして悶絶している青年…ファーマスと、その横で今はすやすやと寝息をたてている美しい妙齢の女性…マルルィアがいた。
「?…どうしたんだ?………想像したような破廉恥な行為に及んでいたワケではないようだが?」
・・・
まだ、マモルとクアさんが玄関を出てから、15分程度しか経過していない。
見た目以上に肉体的・精神的なダメージを負っていたファーマスとマルルィアを寝室で休ませて、俺は台所で今後の方針を考えながら茶を呑んでいたのだが、そのとき、近所中に響きわたる甘い喘ぎ声が聞こえてきたのである。
世間体を気にする俺ではないが…クアさんの耳に…変な誤解された噂が届くのは困る。
「………ぜぃ…ぜぃ…はぁ………はぁ…。アキラ。お前の弟は、たった今、転移術式を発動したぞ。あの野郎、またしても俺とマルルィアの中にある術式の情報を勝手にいじりまわしやがった…」
「ふむ。何を言っているか分からんな。だが、面白そうな情報だ。詳しく説明しろ」
俺の問いに、ファーマスは一瞬、「しまった…」という顔をして舌打ちをする。
なるほど。つまりは、その「体の中の術式」とやらの話は、本当は俺には聞かせたくなかったということか。俺ほどではないが、そこそこに頭の切れるファーマスが…うっかり情報漏洩…などというケアレスミスをするとは…想像以上に体に負ったダメージの影響が大きいようだ。
「ふむ。そうか…あまり話したくはない…そんな顔だな」
「・・・」
「いいだろう。俺は、親父とは違って、温かい血も流れているし…こう見えて、案外と人情モノの映画などには涙もろい方なんだ。言いたくなければ…それでいい」
意外そうな顔で俺を見つめるファーマスを無視して、俺は部屋の外へ出る。
・・・
「対等に渡り合える相手とでなければ、駆け引きをするにしても張り合いがない。まぁ、さっきの喘ぎ声のことは気にしないでおいてやるから…ゆっくり眠るんだな。目覚めた時に、話したければ…話してくれればいい」
そう室内に向けて言い、俺は扉を閉める。
別に、ファーマスの口から直接に事情を聞かずとも、ある程度の推測は可能だ。マモルはどうやらクアさんの故郷へと旅立つことに成功したようだな。
「転移術式」とやらの「発動」というのがどんな行為なのかは知らないが…それは、おそらくファーマスの体内に記録されている何らかのプログラムのようなものを、実行することなのだろう。
マモルは、その「術式」とやらに別の場所から無理矢理アクセスし…異世界への「扉」を開くための儀式とやらを行ったのだ。
ふむ…。さしずめ…遠隔操作が可能な端末扱いだな…ファーマスは。ぷくくくく。気障ったらしい男だが、こうなっては形無しだな。ははは。
しかし…ファーマスとマルルィアが…異世界人だったとは…。
親父の奴め…子どもである俺とマモルにまで暗示をかけていやがったな。それも、こんな長期に及ぶ…強いやつをかけやがって。
良く考えれば気がつきそうだが…俺は、長い間、ファーマスとマルルィアのことを遠い親戚の外国人だと思いこんでいた。
なんだよ?…遠い親戚の外国人…って?
・・・
絶対にあり得ないとはいわないが…ふつうは違和感を覚えるはずだよな。それを、何も感じることなく今日まで騙されてきたとは………今まで以上にあのくそ親父への腹立たしさがいやますぜ。
まぁ、とにかく。可愛い遠い親戚のファーマスちゃんは、実はクアさんと同じ異世界人だった…というわけだ。
俺は、異世界…なんてものは正直、信じていなかった。まぁ…ぶっちゃけ、今、この瞬間も…心の底から信じている…とは言えないな。
だが、そんなことは何の問題でもない。連中が、どこの出身だろうと…実在する…ことだけは間違いない。それだけは、俺自身が確認しているのだから。
そして、その実在する彼らが、口を揃えて「自分たちは異世界から来た」と言っているのなら…もう、それを議論しても仕方がない。俺が、信じようと、信じまいと世界の有り様が変わるわけでもない。
そもそも…科学なんていうものは、新たな事実が発見される度に、その常識を変容させてきた。大昔に「平面」だと思われていた世界は、今や球形であることを疑うものは一人もいない。内角の和が180度になる三角形など、実は少数派だ。物質の質量は、光速に近づくほど重くなり、不変だと思われた質量は、莫大なエネルギーへと変換されて消失する。
量子論だの、それ的宇宙論だの…半導体により実用されているトンネル効果にしても…先ほどの光や質量、エネルギーにしても…実際に、肉眼で見て確認した上で信じている人間が一人でもいるだろうか。
・・・
そんな人間はいない。いた時点で、人間じゃない。では、何をもって皆、相対性理論や量子論を信じるのか?…簡単だ。自分が信じても良いと思う権威なり、メディアなりが…それを真実だと言うからだ。
ならば。俺にとっては、あのクアさんが…そう言うのであれば、真実ってことで全然にノープロブレムだ。
可能性としてだけなら…今、同じ世界だと俺たちが信じている海外の国…そう、例えば米国…だって、ひょっとしたら、異世界にあるのかもしれないのだ。渡米する途中、航空機や船舶が通過する海域や空域に、巨大な異世界への扉が常時口を開けているのであるかもしれず…我々は知らずして異世界と恒常的に国交を結んでいるのかもしれない。…まぁ…その可能性は極めて低いが…。
しかし、将来、万が一にでもそのような空間の扉が発見されでもすれば、その日を境に常識は塗り変わる。
だから、研究者というのは、そのような常識の変化にも柔軟に対応できるように、歩幅を広めにゆったりと構えていなければならない。そうでなければ一流とは言えない…と俺は考えている。
とにかく、俺は、遅ればせながら異世界についての情報を把握しはじめた。まぁ…親父の残していったレポートや論文から得たナレッジ・データベースのお陰でもあるのが…少々、癪に障るが…俺は、そんなことで自分の了見を狭めるような狭量な男ではないからな。使えるものは、何でも使う。どんな汚い手段で手に入れようと、情報そのものの価値には一切関係がない…というポリシーがある。
・・・
だから…ファーマス坊やよ。今は、遠慮せずにゆっくりと体を休めるがいいさ。くくく。
心配するなよ。俺は、こう見えて…医師としての資格も保有しているのだ。マルルィア嬢の体にだって、傷一つ残すことなく綺麗に治してやるさ。だから…お前は、俺を神のようにあがめて恩義を感じればいい。なぁに…報酬に金なんかは必要ない。体で返してくれればいいのさ。
おっと…妙な誤解をするなよ。俺にはそっちの趣味はないし…マルルィア嬢は美人だが、俺の好みとはちょっと違うからな。
少しだけお前の異世界人としての体組織を研究させてくれればいい。それと…お前の持っている異世界に関する情報を洗いざらい話せばな…
ふははははははははは…どうだ?…悪くない取引だろう?
さて。親父が行き。マモルが行き。…となると、この俺様の出番が無いわけが無い…のだが。今は、まだ俺の出番には、ちと早い。
インチキのような知識量を持つ親父。得たいの知れない力を行使するマモル。
奴らより、俺が優位に立つためには…俺だけの「売り」の部分をしっかりと見極め、そして徹底的に強化する必要がある。
それには…取りあえず、あのナヴィンとかいう曲者と、早い内に接触したいものだな。俺の見立てでは、あのナヴィンという奴は、親父やマモルの知らない重要な何かを知っている。いや、知っているだけでなく状況をコントロールしていたような節がある。暗示をかけることが出来る…ということは、誰よりも状況を外側から客観的に把握できている…ということに他ならない。まずは、何とかして奴を俺の土俵に引きずり込む。配下には出来なくとも…手を結ぶだけでも良い。
くくく。面白くなってきたぜ。俺は、好物の梅昆布茶を飲み干し行動を開始する。
・・・
・・・
「ナザーフォース3201からナザーフォース3003へ。報告事項あり。回線の接続を乞う。」
<<………>>
「ナザーフォース3201。現在のコード名は『ナヴィン・ジウ・エムクラック』。暗証コードは、ANZI3XANJI…。」
<<コード名及び暗証コードの照会を完了。回線の接続を認める。>>
全く…。委員会の本部の連中の呑気さには嫌気が差す。
先日から、これほどまでに状況が目まぐるしく遷移しているというのに、回線接続すら長ったらしい正式手順を踏まなければ行えないとは…。
だいたい…この回線を使用できる者が自分以外にどこにいるというのだ?…私は、強制的に回線を開いて、一方的に通信を開始することも出来なくはないのだが…委員会の内部事情を考えると…今はまだ癇癪を起こす時ではない。従順な僕を演じていなければならないのだ。
「予定した事象と、予期せぬ事象の両方が発生した。」
<<………またか?…つい最近…まったく同じ貴様のセリフを聞いた覚えがあるのだが…まさか冗談ではあるまいな?>>
「…こちらも…そんなに暇ではないんだがな。…報告を開始してもよいか?」
<<…了解した。では予定した事象とは>>
「碧色の森泉国のファーマス王子とその守護者のマルルィアが、こちら側へと再度侵入した」
・・・
<<…くくく。ナザーフォース3201…貴様でも知らないことがあるのだな?…ファーマスは、既に復権し…王となっているぞ>>
「…私の知らない情報を手にしていることが…そんなに嬉しいのか?…ほぅ…しかし、残念ながら…たった今、私は新たな情報を入手できてしまったな。貴重な情報の提供を感謝する…」
<<ちっ…し、しまった。いや。ち、違う…>>
「慌てなくともいいですよ。私には、アナタたちと張り合うつもりはありませんから…まぁ、とにかく現在、ファーマスとマルルィアは…例の緋宮家で療養中だ」
<<了解した。…しかし…何故…それが予定した事象なのだ?>>
「…そんなこともお分かりにならない?………仕方有りませんね。そちらが長々とした私の解説を聞く余裕があるのでしたら…懇切丁寧に解説してさしあげましょう」
<<…くっ。け、結構だ。…いいから…予期せぬ事象の方を、早く報告しろ!>>
「地球世界の側の人間が…また一人、基盤世界へと入り込んだ」
<<何!?>>
どこか遠くの方でくぐもった声のように聞こえる通信相手。今の報告で、向こう側が大騒ぎになっている。これまた、先日と全く同じで…まるでデジャヴのようだ。
<<ナザーフォース3201!…ま、またしても…き、貴様は…>>
<<この責任は………!>>
「あぁん?…騒がしくて…何を言っているのか聴き取れませんね。もしかして、今、責任…とか言われましたか?…残念ながら地球世界に留まっている私には、責任の取りようがありませんね。そちら側の皆さんで、しっかり対処してください。では…」
・・・
私は、こんどこそ一方的に回線を切ってやった。
あのまま会話を続けたところで、どうせ前回と全く同じやり取りを繰り返すだけだ。
安っぽい茶番に付き合う趣味は、生憎と私にはないのだ。
すでに計画より、ずっと早い速度で事態は進行しているのだ。
先日の件があったことを踏まえて…まず、ファーマスの再転移の可能性を考慮し、調整をするのが向こう側の当然の仕事だったはずだ。
だが、奴らはその役目を怠った…。だけでなく、その可能性に気づいてすらいなかったようだ。なんとも…呑気で…羨ましい限りだ。
…しかし。予想はしていたが、まさか本当に転移不適時期に世界間転移を行うとは…。
最悪の場合、こちら側での肉体の再構成が失敗し…永遠に体を失う恐れもあったというのに………知らない…というのは恐ろしいものだな。
だが、その無茶を、大怪我を負ったとはいえ…成功させてしまったのだ。あの二人は、やはりこれから始まる大きな流れの中で重要な役目を担うことになるのだろう。
運命が…云々…などという非科学的なことを言うのではない。
世界を司るシステムを、自分の望むように無理矢理に従わせる。ファーマスは、図らずもそれを実現してみせたのだ。
そう…。まるで「始祖」の一人…あの…彼のように。
計画開始からずっと眠ったままだった、彼の因子が…予定より早く目覚めようとしているのかもしれない…。
私は、遠くない未来に自分も基盤世界へと赴くだろうことを予感し、深く息を吐いた。
・・・
・・・
「な、ナザーフォース3201との通信が途絶。…一方的に切断された模様。だ、駄目です。再接続、行えません!」
「何だと!?…く、ナザーフォース32……ええぇい、もうまどろっこしいわ!…ジウの奴は、いったい何を考えているんだ!」
「し、しかし…ジウの報告は本当のようです…転移に伴い、基盤世界側の肉体再構成システムが励起状態に!」
「うぬ?…では、まだ再構成は完了していないのだな?」
「はい。ジウの報告が早かったのか…いや。やはり現在が転移不適時期に当たっていることが障害となっているようです」
「…な、何をしている?…急げ。ジウが防げなかった転移を、我々が防いで見せるのだ。全く、貴様等は儂の指示がなければ動けんのか!…アレだ!…例の幽閉用隔離サーバが使えるだろう?…既にアレの管理権限は取り戻してある。マテリアル・クラスは無理でも…マインド・クラス・オブジェクトだけでも捕獲して隔離するのだ!」
儂の叱責に縮こまりながらも、次々と儂の指示を実現するために必要な様々なタスクが実行されていく。コントロール・ルーム内に無数に浮かんでいるフォログラフィック・ディスプレイの表示が目まぐるしくフラッシュし、変化する。
…やがて、そのディスプレイの表示が落ち着きを取り戻すと、部下たちが安堵の色を見せながら儂へと報告を始めた。
「ナザーフォース3003。ただ今、ご指示のあった全てのタスクを完了いたしました。ステータスはオールグリーン………あ、いや。お待ち下さい…?」
・・・
…?…どうしたというのだ?
ステータスがオールグリーンならば、見事に隔離が完了した…ということではないのか?
「…おかしい?…各ステータス値は…正常な値の範囲内なんだが…クラス・オブジェクトのデータ総量が…想定されたサイズより微妙に小さい。いや…微妙…というより…これは…全てが正常値の下限のギリギリ…」
「単に…そいつの頭の中身が…空っぽだった…ということではないのか?…報告によると、先日、地球世界から基盤世界へと転移した者は危険なほどのインテリジェンス値の持ち主だと聞いたが…今回は、その息子でありながら…インテリジェンス値は…残念な値だと聞いたような気がするぞ?」
「いや。しかし…いくら何でも…これは…少なすぎないか?」
儂への報告が途中のままだというのに、部下たちは勝手に議論を始めてしまい、状況がなかなか把握できない。
「…待て。この隔離サーバ内の旧タイプのシステムが、勝手に起動しているぞ?…稼働率が………こ、これは?」
「何だ?…実験環境における何らかの魔法システム励起状態にある?」
「停止できないのか?」
「…駄目だ。プロセスツリーごと強制終了をかけても…自動的に再起動を繰り返してしまう………しかも…何だ?…これは3重に起動している?」
「こうなったら…サーバを強制的にシャットダウンするか?」
・・・
強制的にシャットダウン?………さすがに儂はギョッとする。
それは、駄目だ。若い部下たちは…それが何を意味するのか理解できていないのだろう。
仕方なく儂は口を出す。
「待つのだ。さすがにそれは…してはならぬ…。それに、そんなことをしたら、直ぐにアノ方の知るところとなり…我々の保有する権限を全て剥奪されかねん」
部下たちは「アノ方」という言葉を聞いて、皆、沈黙する。
現在の所在は不明だが…、アノ方は、絶対にこの二つの世界を観測しているハズだ。
委員会側の過度な世界への干渉は、アノ方が極端に忌避する行為だ。
アノ方の逆鱗に触れる。そのような危険は冒せない。
「まぁ…よい。下限とはいえ、正常値の範囲内のマインド・オブジェクトのデータは隔離できたのだ。少なくとも、この対象者が基盤世界において元の世界どおりに再構成されることはない。…ところで、マテリアル・クラス・オブジェクトは…どうなった?」
「そ…それが…」
「…?…どうした?」
「み、見失いました…」
「そ、そんな馬鹿なことが?…」
「モニタリングを担当していた者が言うには…何か別のオブジェクト・データと融合して、識別情報の収集に支障が発生したということで…」
「ふむ。…肉体だけの再構成…など、仕様上に想定されているはずがないからな。何らかのエラーが生じた…ということか…」
・・・
マインド・クラスについては…神の領域の話になるが、マテリアル・クラスの情報だけなら、元の世界に残された僅かな残存組織を採取し解析することでリカバリーが可能だろう。
取りあえず、儂は、マテリアル・クラス・オブジェクトを見失った件については棚上げにすることにした。
魂の無い肉体がどうなろうと…世界には、それほど大きな影響は無い。
ジウの奴との通信は途絶してしまったが…次回の奴からの報告時に、この件について教えてやることにしよう。奴の驚く声が楽しみだ…。
「ナザーフォース3003様。地球世界の人間の転移は阻止できましたが…この転移で、基盤世界に所属するクア・アオシ・ウルトなる白暮の石塔国の従者が1名、帰還をした模様です」
「ふむ。帰還であるなら…問題はないな…どうした?…まだ、何かあるのか?」
「はい。…ジウからの報告は無かったのですが…今回の転移と、その少し前と…非人間タイプのオブジェクトも…どうやら地球世界から基盤世界へ向けて転移させられているようなのです…」
「ふむ。非人間タイプか…どんなオブジェクトだ?」
「基盤世界においては『狼』と…地球世界においては『狐狼』と呼ばれる…それぞれの世界においては実在しない…とされる生物を象ったもののようです…」
「ふむ。逆では無いのか?…地球世界になら『狼』という動物が存在するし、基盤世界には…初期の頃に『狐狼』と呼ばれるレジェンド・エネミーが暴走して排除された…ように記憶しているが………まぁ…非人間であれば、計画への影響は無いだろう。気にする必要はない…」
・・・
・・・
「…こ、こ…これ…結構…つ、辛いな…」
「コケッコッコウ?」
急激な浮遊感と共に強烈な目眩に襲われて、俺は、自分が何処でどんな状態になっているのかすら把握できずにいた。
自分が目を開けているのかどうなのかも分からない。少なくとも正常な視覚は維持できておらず、闇の中にいるようでもあり…様々な色の光りが飛び交う空間にいるようでもある。…あの…ほら、真っ暗な部屋の中にいたり、目をギュッと瞑っている時でも、まぶたの裏に無数の色が揺らいでいるように感じたりすることあるでしょ?…アレを何倍にも酷くしたような感じ。真っ暗なのに…脳の奥底まで照らされ焼かれるような不快感。
俺が、その感覚に「辛い…」と悲鳴を上げると、近くに寄りそうクア…の気配…から、ふざけたような合いの手が返される。なるほど。「これけっこう」と「コケケッコウ」の発音は…確かに似ているけどね。ワザトでしょ?クアさん?
しかし…実際には、この会話も音声によるものであるかどうか…正直、自信がない。耳には何も聞こえていないような気もするし、しかし、様々な周波数のノイズで鼓膜を叩かれているようにも感じる。これも…ほら、あの、凄く静かな場所で、逆に耳鳴りのような音が絶えられないほど気になる…ってことあるよね?…ぁあ…こっちは人によるかもしれないね。俺は、静かすぎると…耳鳴りに襲われるタイプなんだ。
何も感じない。…けれど、押し返されるような感覚。世界の境が抵抗してる?
・・・
体と心が繋がっていないような変な感じに耐えながら、俺はジッと異世界への到着を待つ。何せ、初めての体験なんだ…その異世界への転移とやらが、どのような手順でどのぐらいの時間がかかるのか…全く分からないんだから…ひたすら耐えて待つしかない。
「クア…大丈夫?」
俺は…そう念じてみた。声が出せているという感覚はまるで無いが、さっきも俺の考えはクアに伝わっていたみたいだから…同じように念じてみたのだ。
「だ、だ、大丈夫…じゃ…な、ないですわん…」
「えぇ!?…どうしたの?…だ、大丈夫!?」
「…だ、だから…大丈夫じゃ…ないと言っているですわん!…く、苦しいですにゃん!…にゃぅあぅああぁぁあ~」
「…が、ガンバレ…クアさん!…よ、よく分かんないけど…て、転移ってこういうものなんでしょ?」
「お、おかしいですわん!…この間、基盤から飛ばされた時には…こんなに苦しかったり、時間がかかったりはしてないですにゃん…」
「え!!!…そ、そうなの???」
どうやら、この状況は経験者であるクアにとっても異常な辛さをもたらしているらしい。
そ、そうか。だからファーマスとマルルィアの二人も、あんなボロボロの傷だらけになっていたんだ………って、ことは…
え~~~~~~!?…俺とクアさんも、あんな風にボロボロになるってコト!?
・・・
じゃぁ…姫様を助けるどころの話じゃないじゃん!
ぜ、絶体絶命のピンチに…颯爽と格好良く現れるつもりが………な、何てこったぁ~!…絶体絶命のピンチに現れるのは瀕死の重傷、血まみれの二人だよぉ!
ひ、姫様ゴメン!!…先に謝っておくね。俺、助けるどころか…逆に、お荷物になっちゃいそうだよ!!!
「ご、ご主人しゃまぁ~…た、たしゅけてぇ…くるちぃ…」
クアのマジっぽい悲鳴…のような思念を感じる。ふざけたようにも聞こえるが…そんな余裕は無いハズだ…
しかし…その時、突然、クアの気配が感じられなくなった。
いや。違う。どちらかというと…俺の方が、とつぜん置かれていた状況から引っこ抜かれて別の場所へ連れ去れたような感覚?
どうしてそう思うかというと、クアと一緒に気配を感じていた「狐狼」の石像についても感じ取れなくなったからだ。いや。ちょっと待て。俺自信の体…も、無い?
混乱している俺の思念は、恐ろしいほどに静かで、絶望するほど深い闇の中に閉じ込められたようだった。飛び交う光の色も感じられないただの闇。耳鳴りすら聞こえない真の無音。
な、何だ?…これは何だ…俺は、考えることしかできず…考える。考える。考え続ける。
・・・
(…何をしている…)
何を…って?…え、何?…誰、この声?
(……幽閉用隔離サーバが使えるだろう?…)
何のコト?…俺、そんなの知らないよ…
(………既にアレの管理権限は取り戻してある………)
け、アレ?…って何?…管理権限って?
(…………マテリアル・クラスは無理でも…………)
何なんだよ?これ?…俺の頭の中に…意味不明の言葉が流れ込んでくる…
(…マインド・クラス・オブジェクトだけでも捕獲して隔離するのだ!)
!!!…俺は、その瞬間…説明不可能な危機を感じ、「ここにいてはいけない!」と本能的に念じた。
ここは…。ここは…何か、とても良くない所だ。
そして、俺は今、とてもヤバイ状況を強制されようとしている。理由なんて説明できないけれど、本能の奥のさらに深いところで強い警告音が鳴り響いている…。
・・・
俺は、この異様な空間から脱出しようと念じる。強く念じる…念じ続ける。
駄目だ…何も起こらない。
こ、このまま、姫様を助けに行くことも出来ず…クアとも離ればなれになって、俺は閉じ込められてしまうのか?
…でも、もし、姫様の所へ駆けつけても…ファーマスたちみたいに…傷だらけのボロボロじゃぁ…役に立たないし………因子の能力も満足に操れない…俺なんかが行って、ラサさんが苦戦するような相手をどうこうできるとは思えないし…
いいのかな。別に………兄貴や親父が…きっと助けにきてくれる?
ここは…静かすぎて…何も…見えなくて………何だか…意識が………
・・・
<マモル殿!>
<ご主人様!>
・・・
!!!…うぉ…今、俺、なんだ…意識が………危なかった。
違う。違う。違う。
兄貴に言われたじゃないか!
(…願いを聞いただろう?…今、それが出来るのはお前しかいないんだ。…だったら、答えは決まっている…)
そうだ。答えは決まっている。もう一人の俺の力を借りてでも、俺は、クアの願いを叶える。そして、姫様の危機も何とかする!
(…俺の弟なら…やって見せろ。それで全員が笑顔になれる…)
俺…もしかして…ブラコン?…この間は…なんかファザコンみたいだったし…あはは。
でも、そんなこと気にしてる場合じゃないね。
俺にしか出来ないコト。…思い出した。意地を張ってる場合じゃない。もう一人の俺。お前も、俺なら…出てきてくれよ。あの日以来…存在を感じ取ったことは無いけれど…消滅していないんなら…いるんだろう?…こんな時に現れなかったら…いつ現れるっていうんだ?………今でしょっ!
<<………気まずいから…変なノリで呼び起こすのは…止めてくれないか?>>
「…おい。遅いぞ。俺も思念だけになってる…この状況で、最初っから思念の状態なお前が…どうしてなかなか出てこないんだよ!?」
・・・
<<…あのなぁ…『出てくる』とか『出てこない』…とか…ヒトを便秘の時のアレみたいに表現しないでくれよ、キミ。キミが気づかなかっただけで、俺はさっきからずっとキミと一緒に状況を観測していたさ…>>
「だったら説明は不要だよね。さぁ…何でもいいからさっさと何とかしてくれよ」
<<…おぃおぃおぃ…何か勘違いしているようだけど…何度も言うが、俺はキミだ。キミは俺だ。俺のやれるコトは、キミもできるし…キミの出来ることしか、俺は出来ない>>
「くっ。この期に及んで…自分で自分に説教されるとは…。いいから…。やばいんだよこの状況は!…俺にすら感じ取れるんだから…お前なら余計に理解できるだろ?」
<<まぁ。それもそうだね。キミには早く俺たちと同じステージまで上がってきて欲しいところだけど…今回は、そうも言っていられないか…>>
「俺…たち?」
聞き間違いだろうか?…今、「俺たち」…って言ったような?…その前が「キミには早く」…だから…「俺たち」の中に「俺」は含まれないってことでしょ?…ってなんだか自分でも何言ってるんだか混乱してきた…
<<混乱しないでくれよ。キミの記憶は封印されているから…思い出せなくても仕方ないけれど、キミの他に俺は…俺たちは全部で3人いるんだぜ?>>
「さ…三人?」
<<まぁ…思念だけの状態を『人』と呼ぶのも変だけど…緋宮護という人間は、キミであるところの表層意識と…それを支える俺たち三重展開された深層意識を…本来なら自在に操れる珍しい生き物なのさ…>>
・・・
「くっ…お、俺が…そ、そんな珍獣的な設定だったとは…」
<<せ、設定ね。割り切った表現だけど…なかなか言い得て妙だ…>>
(…プロセスツリーごと強制終了………自動的に再起動を繰り返してしまう…)
<<…おっと。いけない…あのオッサンたち、無茶なコトを始めたぞ…>>
(……しかも…何だ?…これは3重に起動している?)
<<まずいな…気づかれたか?…いや。まだだな。こんな特殊な技…そう簡単に悟られることは無いだろうが…>>
(………こうなったら…サーバを強制的にシャットダウンするか?………)
<<おい。やばいぞ。俺たち!。こりゃ、つべこべ言ってる場合じゃなさそうだ。キミ…今から、俺たちが必殺技を炸裂するから…キミに何が起こっても…冷静に対処してくれよな…頼んだぜ…>>
「え?…え、えええ?…何、どういうコト!?」
<<説明してる暇は無さそうだ。行くぜ!…ソースヲカレントニセッテイシデスティネーションハ………>>
何やら呪文のような言葉に途中から変わり…もう一人…いや…もう三人の俺たちは、それっきり俺との会話を打ち切った。
・・・
次回、「真・銀雪の狼(仮題)」へ続く…