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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜道の記憶

作者: 鈴野鈴


 夜中の二時を過ぎていた。

 等間隔で立っている街灯の光だけでは心もとなく、辺りは暗闇と静寂が停滞している。夜空は紺色を通り越し黒色に染まり、その中央にポツリと輝く満月が、歪な形の雲にその姿を薄く遮られている。

 閑静な住宅街の一角。

 腕時計から目を離し、車の後部座席のドアを閉めた。封鎖的な音が辺りに際立って響いた。見渡すかぎりの家々には明かりはなく、暗闇を内包した無機質な雰囲気で夜を彩っている。どこか遠くからは、名前も知らない虫が静けさを強調する鳴き声を小さく響かせていた。

 夜空を見上げ、生ぬるい空気を吸込んで吐き出した。

 車の反対側へとまわり、運転席に乗り込む。ハンドルを握りドアを閉めると、虫の鳴き声が一気に遠ざかった。沈黙が密閉され、息苦しさを感じる。

 バックミラーに目をやると、後部座席で横になっている息子が見えた。何も言わず、ただ目を開いてこちらを見ていた。

 汗ばんだ手でキーを回す。エンジン音と振動を全身に感じならが、アクセルペダルを踏む。


 街全体が眠りについてしまったかのような、死んでしまったかのような静けさだった。深夜の時間帯であることも理由の一つだが、コンビニや深夜営業をしている店がない住宅街だからだろう。暗い道を照らすのは、寂しい街灯と車のヘッドライトだけだった。

 忙しなくハンドルをきり、家々の間をすり抜ける。角を曲がり、標識やカーブミラーの下を走る。同じような形をした家と家の間から、真っ白な満月が見え隠れしていた。

 ハンドルを握る手が汗で滑る。焦っているのか、怖がっているのかは判別できず、ただ前だけを見るように努めて車を走らせた。

 幾度目かの角を曲がると大通りに出た。一定間隔で並んだ街路樹に挟まれたまっすぐな道へすべりこむ。街灯の放つオレンジ色の光が提灯のように、遠く前方にぼんやりと浮かんでいる。

 前にも後ろにも、歩行者や走行中の車は見当たらなかった。生きているのは自分一人だけなんじゃないかと、あり得ない疑いを持ち、その場で捨てた。ちらりとバックミラーを見る。息子は当然のように動かず、蝋人形のように固まっていた。視線も、まぶたも、口も手も脚も動かない。すぐに前方に視線を戻す。

 赤く光った信号機に足止めをくらった。

 ハンドルの上に両手を重ねて肺の中の濁った空気を吐き出した。

 助手席には妻の良く聴いていたCDが無造作に置いてあった。

 信号が青に変わり、またアクセルペダルを踏む。


 妻が居なくなったのは三日前の事だった。

 主観的にも、客観的にもお互いに仲の良い夫婦とは言えなかった。口喧嘩をすることは日常茶飯事になっていた。妻は定期的に口論の最中に離婚届を見せては同じ台詞を繰り返した。もう出ていってやる、と繰り返した。

 妻が居なくなる前日、いつものように酒に酔いつぶれて帰ると、例のごとく激しく口喧嘩を繰り広げた。リビングにお互いの怒声が飛び交っていたのを覚えている。だが酔いが頭のてっぺんまでまわっていたからか、喧嘩のその内容は思い出せなかった。それだけではなく、それからどうやって布団に入り、何時に寝たのかも記憶にはなかった。

 ただ、次の日に起きると、家に妻は居なかった。置き手紙もなく、荷物も持たずにこつ然と姿を消していた。よほど酷く言い争ったのだろうか。妻はいつも突発的に考えなしで行動する性格だから、数日待てば帰ってくるだろうと思った。妻のことを心配する息子はしつこく質問をして来たが、鬱陶しいので殴って黙らした。

 だが、昨日、息子が妻の遺書を見つけた。

 日頃から口論をしていると、口癖のように「死んでやる」と妻は言っていたが、まさか本当に遺書を書いていたとは思わなかった。となると、突発的な家出だと思っていたのは勘違いで、本当は自殺をするために出て行ったということになる。

 遺書自体は書いたのは随分前ならしく、延々と書かれた愚痴のような呪いの言葉には最近の出来事は記されていなかった。いつでも自殺を出来るようにと書いておいたものなのだろう。

 今年で小学三年生になる息子にも文章の意味することが理解できたようで、狂ったように喚き散らし、警察に電話をしようとした。

 だから殺した。

 抵抗を諦めるまで殴り続け、そして首を絞めて二度と喋れなくした。息絶える直前、息子はひねり潰れる喉の奥から「恨んでやる」とらしくないことを言っていた。激しい怨念に歪んだその顔は、どこかいつもの息子とは違う気がした。


「山に行くんだろ」


 声がして、意識が強制的に現在に戻された。

 驚いて、反射的にブレーキペタルを強く踏み込む。前につんのめり、シートベルトが体に食い込む。後ろからどさりと何かが落ちる音がした。

 周囲に人間は見当たらない。

 至って静か。

 気配すら感じ無い。

 いや、気配だろうか。背筋を下からなめられるような、感触に近い悪寒を感じた。

 直接首を回して後ろを見る。

 後部座席には、いるはずの人間がいなかった。一瞬心臓を冷えた手で掴まれたようにゾッとしたが、息子の死体は床に無造作に転がっていた。急停止したせいで、反動で転がって落ちたのだろう。

 それは良いにしても。

 今聞こえた声はなんだったのだろうか。

 息子の声のように聞こえたが、それが息子自身の声であると確信することは出来なかった。だが、それはどこかで聞いたことのあるような声だった。

 幻聴。

 そう思う他なかった。死んだ筈の人間が喋ることはない。そんな話、噂意外で聞いたことはないし、信じたことも勿論ない。ならば殺しきれてなかったのかと考えてみたが、どう見ても後部座席の足元にうつ伏せの状態で転がっているその姿は、死んでいるようにしか見えなかった。

 いや。

 死んでいるように見えて、実は死んでいない?

 心拍が停止し、意識もなく見た目は死んでいるように見えるが、蘇生する余地のある状態。

 仮死状態。

 現在の状況には合致しそうな表現だった。

 だが、一時的に人間が蘇生し、また仮死状態に戻るようなことがあり得るのか。医術関係の知識は乏しく、そこに明確な答えは出せなかった。

 額に浮かんだ汗を腕でぬぐい前を見る。既に信号機は赤から青に変わっている。

 暴れる鼓動を無理矢理に無視し、アクセルペダルを踏む。


 山の中へ入った。

 舗装された道もなければ取り付けられた街灯もない山道を進み、木々に囲まれ行き止まりになった地点で車を止めた。エンジンも切ると、急に森閑とした空気が広がる。自身の乱れた息遣いだけが車内に漂う。震える肺を使って深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうと努める。吐く息が小刻みに震え、吸いこむ息も小刻みに震えた。寒さでないことは明確だった。取り囲む木々の間から溢れ出てきそうな暗闇が、無駄な想像をさせる。

 荒れ狂う思考を無理やり遮断し、早いことろ息子を埋めてしまおうと車から出た。生ぬるい風が木々を揺らして体に纏わりついた。じっとりと汗が腕に浮かぶ。雑然と混み合う背の高い木々がすべて意志を持って視線を送ってくるようで、しかし孤独を際立たせた。余計なことは考えないように、浮かぶ思考を片っ端から切り落として車の後ろへ回る。

 トランクの中に入っていた持ち手の長いシャベルと、懐中電灯を取り出し、草をかきわけて森へと潜り込む。すぐ隣が真っ暗な状態で、どの方向に何がどうなっているかもわからないのに、不思議と体は難なく木々の間をすり抜け、畳を一枚敷ける程に開けた場所を見つけた。車からそう遠く離れていないが、絶妙な具合に木々に囲まれ、遠くからは様子が分かりにくくなっていた。車から離れすぎては迷うかもしれないと思い、早速シャベルを土に勢い良く差し込んだ。

 思っていたよりも土は柔らかく、さほど苦労することはなく掘り進めることが出来た。時折土の中から出現する小石等を素手で取り除きながら、着々と息子の墓穴を掘り進める。月の明かりもここまでは届かず、光源は地面に置いた懐中電灯だけだった。掘った穴はまるで、墨汁を流し込んだように黒く染まり、土を掘り返すシャベルの先端は視認することが出来ない。

 土にまみれた腕で汗を拭い、もうひと息と強く差し込んだシャベルから、土とは違った感触が伝わってきた。黒い池の中で、なにかにつっかかったような僅かな反動が持ち手を掴む手に走る。木の根にでも引っかかったのだろうか。シャベルを後ろへ投げ、手を闇に浸して土をどける。やがて冷たい感触があった。

 足元に置いた懐中電灯を手に取り、闇を照らす。


 妻の顔が出てきた。


 黒い土の中で、青白く光る顔があった。目、鼻、口に土が詰まり土偶の様になった顔が、土にまみれた二つの目でこちらを見ている。首筋は半分あたりまで切れていて、裂け目からどす黒い血がまわりに滲む。木の根だと思っていた感触は、シャベルの先端が妻の首を突き刺すものだった。

 その光景が引き金となり、忘れていた記憶が溢れ出た。

 曖昧だったピースが一気に頭の中で揃い嵌った。

 思いだす。

 妻が消えたのは家出でも自殺でもなかった。

 殺したのだ。息子と同じように、殴り、首を絞めて。

 あの日、酒に酔って帰り、いつもの様に喧嘩をした後、妻を殴り飛ばし、眠りにつこうと部屋へ入った。その時、背後から妻が襲いかかってきた。不意を付かれたが力の差は歴然だった。すぐに返り討ちにして、その勢いで妻を死へおいやった。そして、今日と同じように車の後部座席に死体を乗せ、この森の、この場所に埋めた。

 森の中を進んでいた時に感じた既視感の正体が明らかになった。

 自分は、三日前に行ったことを、同じようになぞっていたのだ。

 脳裏に眠っている妻を殺した記憶が、無意識となって体を動かしていたのだ。


 遠くで車のドアが開く音が聞こえた。

 続けて狂ったような笑い声。

 木々をかきわけ、雑草を踏み荒らす足音。

 走っている。

 近付いている。向かってきている。

 動こうとしたが、動けない。

 振り向こうとしたが、振り向けない。

 ただ、妻の顔を見たまま固まっている。

 笑い声はすぐ後ろから聞こえている。

 歓喜の、狂気の笑い声。

 妻を殺すその時に聞こえた呪いの声。

 息子を殺す直前に聞こえた呪いの声。

 何も考えることもできず、呼吸も忘れたその状態でなんとか首を回して振り返ると、妻の顔をした息子が手に持ったシャベルを振り下ろす瞬間が見えた。

 頭に激しい痛みが走る。その場に仰向けになって倒れる。木々に隠された夜空を確認する間もなく、続けて首筋にシャベルの先端が突き刺さる。喉の奥から血が逆流し、強制的に口から飛び出す。そこで呼吸を思い出し、酸素を求めるが吸いこむこともできない。首の裂け目で血がぶくぶくと泡立つ音が聞こえた。もともと暗かった景色に完全な闇が降りてきて、狭まる視界と比例して意識が遠のいていく。目を横にやると、そこには土に埋もれた妻の顔が見える。笑っている。妻が笑っている。嬉しそうに笑っている。邪悪さを含んだ表情で笑っている。

 意識が完全にと切れる間際、黒ずんだ視界の端に倒れた息子の顔が見えた。

 息子も笑っていた。







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