第十四通「件名:進路の話、真剣に聞いてくれたね」
翌朝。
校舎の廊下には、まだ冷えた空気が残っていた。
窓の外では冬に近づきつつある淡い光が、ゆっくりと校庭を照らしている。
珠紀は教室の扉の前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
理由は分からない。
けれど――この扉を開ければ、また何かが進んでしまう。
そんな予感が、胸の奥に小さく引っかかっていた。
数秒の静止。
やがて何事もなかったかのように扉を開け、教室へ入る。
中には、いつもの光景があった。
席に座る生徒。
小さな会話。
机に置かれた鞄。
何一つ変わっていない。
それなのに――
決定的に違う。
空気が、薄い。
感情の温度が、均一に冷まされている。
怒りも、悲しみも、驚きも。
ここ数日で噴き出したそれらは、すでに一度燃え尽き、今は灰のように静かに積もっているだけだった。
珠紀は席に座る。
机に手を置いた瞬間、木の冷たさが掌に伝わった。
――終わりが近い
はっきりと、そう思った。
ホームルームのチャイム。
慎司が入ってくる。
いつも通りの足取り。
いつも通りの声。
だが、その"いつも通り"を保つために、
どれだけの力を使っているのか――
もう誰の目にも分かっていた。
出席確認。
連絡事項。
そして訪れる、避けられない沈黙。
誰もが知っている。
次に起こることを。
椅子が引かれる音。
静寂の水面に、小石が落ちるように響いた。
立ち上がったのは、鶴崎 和佳奈。
その動きはゆっくりで、
けれど迷いはなかった。
両手でスマホを持つ。
指先が、かすかに白くなるほど力が入っている。
一度、目を閉じる。
小さく息を吸う。
そして――開く。
『件名:見守ってくれてありがとう
私が部活で苦戦をしていた時、優しく見守ってくれたよね。本当にありがとう。』
読み終わる。
静寂。
だがそれは、これまでの沈黙とは違った。
痛みではない。
暴露でもない。
罪でもない。
ただ、
確かにそこにあった優しさだけが残る沈黙。
誰も目を逸らさなかった。
誰も茶化さなかった。
和佳奈はゆっくり顔を上げ、
教室を見渡す。
涙はない。
けれど、何かを乗り越えたあとの静かな強さが、そこにあった。
静かに座る。
その瞬間、
教室の空気がほんの少しだけ柔らいだ。
*
授業が始まる。
教師の声が流れる。
チョークの粉が舞う。
ページをめくる音が重なる。
すべては日常。
だが――
生徒たちの内側では、確実に何かが変わっていた。
これまで暴かれてきた本音。
向き合わされた過去。
突きつけられた感情。
それらはもう、
無かったことにはできない。
珠紀はノートを取りながら思う。
もし、美月が望んだものがあるとしたら――
それは復讐じゃない。
暴露でもない。
もっと別の何か。
まだ言葉にならない"何か"。
時間は静かに過ぎ、
やがて最後のチャイムが鳴る。
*
帰りのホームルーム。
夕焼けが差し込み、
教室のすべてを赤く染めている。
終幕の色。
慎司が前に立つ。
口を開きかけた、その時――
「ちょっと思ったことがあるから俺が読むわ」
赤井 和馬。
軽い声。
だが、その奥にある温度は低い。
スマホを見て、読み上げる。
『件名:進路の話、真剣に聞いてくれたね
私が進路迷っていた時、真剣に話を聞いて相談に乗ってくれたね。沢山聞いてくれて嬉しかった。ありがとう。』
沈黙。
そして和馬は続ける。
「……これ、本当に追い詰められて自殺したのか?」
空気が凍る。
「文が普通っつーか、どうも皮肉には見えないんだよな。他の文も"逆に考えれば"皮肉かも、程度だろ」
誰も動かない。
「『死にたい』なんて、冗談で言うこともある。
……ただ、それを本当に実行しただけなんじゃねぇの。何の理由もなく死んだだけなんじゃねぇの?」
その瞬間――
鈍い音が教室中に響く。
机が蹴り飛ばされる音。
「ふざけるなあッ!!」
怒号。
視線が集中する。
まさかの神崎 碧だった。
肩で息をし、目に激しい感情を宿している。
和馬が叫ぶ。
「どうした神崎!お前らしくないなぁ!」
答えない。
ゆっくり立つ。
髪をかきあげながら、教室を見渡す。
「何の理由もなく自殺……?」
震える声。
「そんなやつ――」
そう言いながら、和馬の胸ぐらを掴む。
「いるわけねぇだろォ!!」
叫びが、
教室のすべてを揺らした。
胸ぐらを突き放す。
沈黙。
誰も動けない。
仮面が、完全に剥がれていた。
場をかき乱す水差し屋でも、
傍観者でもない。
ただ――
怒りと痛みを抱えた一人の人間が、そこに立っていた。
碧は天井を見上げ、
長く、深く息を吐く。
そして肩の力を抜いて前を向き、静かに言う。
「次は――僕が読む」
その声は、
嵐の中心のように、
異様な静けさを帯びていた。
本当の核心が、
いま、開こうとしていた――




