表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本音。  作者: 外野透哉
12/17

第十二通「件名:教科書見せてくれてありがとう」

 何事もなかったかのように、一日が始まった。


 朝のチャイムが鳴り、教室の扉が開き、生徒たちがそれぞれの席へ向かう。

 机を引く音、椅子の脚が床を擦る音、鞄を置く鈍い音――そのどれもが、昨日までと同じはずなのに、どこか膜を一枚隔てた向こう側で鳴っているように遠かった。


 空気は静かだった。

 重苦しい静寂ではない。

 むしろ整いすぎているほどの、平坦な静けさ。


 誰も騒がない。

 誰も昨日の出来事を蒸し返さない。

 まるで最初から何も起きていなかったかのように、全員が「普通」を丁寧になぞっている。


 珠紀はゆっくりと前を向き、黒板に視線を固定した。

 教師がチョークを走らせる音が耳に届く。白い粉が細く舞う。

 授業は確かに進んでいる。


 だが――内容は、頭に残らない。


 言葉は聞こえている。

 文字も読めている。

 それでも意味だけが、指の隙間から零れ落ちる水のように抜けていく。


 周囲も同じだった。


 ノートを取る手は動いている。

 ページをめくる速度も自然だ。

 教師の問いに頷くタイミングさえ、これまでと寸分違わない。


 けれど決定的に違う。


 ここに心を置いている者が――誰もいない。


 全員の意識が、別の場所を見ている。

 過去かもしれない。

 後悔かもしれない。

 あるいは、まだ言葉になっていない感情の奥底かもしれない。


 時間だけが、静かに前へ進んでいった。



 昼休み。


 教室の空気は、わずかに緩む。

 机を寄せる音。

 弁当箱の蓋を開く軽い音。

 購買の袋を破る乾いた音。


 日常の断片が、慎重に並べ直されていく。


 美里は別のクラスの数人に囲まれ、笑っていた。

 声色も、仕草も、昨日までと同じ。

 けれどその笑顔は、どこか薄い膜の上に描かれた模様のようで、触れれば簡単に崩れてしまいそうだった。


 悠木は大きな声で冗談を言っている。

 誰かが小さく笑う。

 しかし笑いは広がらず、途中で力を失って落ちた。


 紗奈は静かにパンをちぎりながら、視線を落としている。


 沙希は弁当を口へ運び続けるだけで、ほとんど顔を上げない。


 それぞれが「いつも通り」を演じている。

 けれど、その均衡はあまりにも脆かった。


 珠紀は少し離れた席から、その光景を眺めていた。


 ――普通、だな


 胸の内でそう呟く。

 だが同時に理解している。


 これは本当の意味での普通ではない。


 壊れてしまったものを、

 壊れる前と同じ配置に無理やり戻しているだけの状態。


 静かすぎる均衡。


 やがてチャイムが鳴り、午後の授業が始まる。

 同じように過ぎ、同じように終わる。


 *


 気づけば、帰りのホームルームの時間だった。


 慎司が前に立つ。

 その動きには、もう迷いがない。


 この時間が何を意味するのか、

 誰もが理解してしまっているから。


「……今日は、誰が読む?」


 静かな問いかけ。

 教室の奥まで、まっすぐ届く声。


 一瞬の間。


 だが沈黙は長引かない。


 椅子が引かれる音。


 立ち上がったのは、藤沢(ふじさわ) 憲利(のりとし)だった。

 わずかに強張った指でスマホを持ち、画面を見つめる。


 そして、読み上げた。


『件名:消しゴム貸してくれてありがとう


私が消しゴム忘れた時、貸してくれたよね。本当に助かった。ありがとう。』


 あまりにも小さな出来事。

 教室の誰もが、忘れていてもおかしくない一瞬。


 それでも――

 その記憶を、大切に覚えていた人がいる。


 その事実だけが、静かに胸へ沈んでいく。


 憲利は何も言わず、席に座った。


 続いて立ち上がったのは、黒田(くろだ) 夏帆(かほ)


『件名:体育の時、ペアになってくれてありがとう


体育の時、わざわざ「ペア組まない?」って誘ってくれて嬉しかった。ありがとう。』


 読み終えたあと、夏帆は小さく息を吐いた。

 それだけで十分だった。


 さらに、下川(しもかわ) 宏樹(ひろき)


『件名:教科書見せてくれてありがとう。


私が教科書忘れてしまった時、見せてくれたの本当に助かった。嬉しかった。ありがとう。』


 淡々とした声。

 感情はほとんど滲まない。


 それでも教室は、静かに受け止めている。


 誰も茶化さない。

 誰も笑わない。

 誰も目を逸らさない。


 進行は驚くほど滑らかだった。


 つまずきも、沈黙も、戸惑いもない。


 まるで最初から決められていた儀式のように、

 一定の速度で、確実に進んでいく。


 そう、皆んな慣れてしまった――


 珠紀は、その事実をはっきり自覚する。


 悲しみにも。

 後悔にも。

 告白にも。


 人は、慣れてしまう。


 どれほど重い感情でも、

 繰り返されれば日常に溶けていく。


 それが救いなのか、

 残酷なのかは分からない。


 ただ一つ、確かなこと。


 この時間は、

 確実に終わりへ向かって進んでいる。


 窓の外では、夕焼けが校舎を静かに染めていた。

 橙色の光が教室の床を長く伸び、机の脚の影を歪める。


 今日もまた、一日が終わろうとしている。


 何事もなかったかのように。


 けれど――


 本当に"何もなかった日"など、

 もう二度と訪れないのだと。


 そのことだけを、


 珠紀は、

 誰よりも静かに理解していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ