第一通「件名:壊れた日常」
一日の始まりを告げるチャイムが鳴る少し前から、3年1組の教室はすでに賑やかだった。
窓の外の冷たい空気とは裏腹に、教室の中は不思議なくらいあたたかい。机をくっつけて笑い合うグループ、黒板の前でじゃれ合う男子、テストの点数で騒ぐ女子。受験生とは思えないほど、気楽で明るい空気が流れている。
その中心にいるのが、瀬戸 美月だった。
教室の中央あたりの席。特別大きな声を出すわけでもないのに、気づけば人が集まっている。誰かが話しかければ自然に笑い、困っている子がいればさりげなく声をかける。
まるで、そこにいるのが当たり前みたいに。
クラスのマドンナ――そう呼ぶのに相応しい存在。
佐久間 珠紀は、その様子をぼんやり眺めていた。
――ああいう子が、クラスの空気を作ってるんだろうな……
羨ましいとか、妬ましいとか、そういう強い感情じゃない。ただ、景色として完成している感じ。瀬戸 美月がいることで、この教室は「3年1組」になっている気がした。
「せんせー、いっつもホームルームが長く感じるんだけど」
気だるげな声を上げたのは、窓際の席の神崎 碧。
担任が困ったように眉を下げるより先に、美月が笑いながら口を開く。
「神崎くん、ちょっと言い過ぎじゃないかな?」
軽く、柔らかく、場を丸くする声。
教室のあちこちから小さな笑いが漏れ、空気がふっと緩む。
ホームルームが終わると、美月はそのまま碧の席へ向かった。
「神崎くん、さっきはごめんね?でも先生も大変だからさ、ね?」
「別に」
そっけない返事。
それでも美月は気にした様子もなく、いつもの調子で「またあとでね」と手を振って離れていく。
その自然さが、美月らしかった。
珠紀は前の席の山下 沙希に身を乗り出す。
「山下さん、こないだの中間の結果どうだった?」
「別に普通ですけど」
差し出された成績表には学年4位の数字。
「いや高いじゃん!」
「そうですか?佐久間さんはどうなんです?」
珠紀は苦笑しながら自分の紙を見せる。学年16位。
「俺なんか学年16位だぞ」
「でもクラス4位なら良い方なんじゃないですか?」
「クラス2位に言われたくねぇー」
2人の間に小さな笑い声が落ちる。
教室のあちこちで、そんな何気ない会話が続いていた。
それが、このクラスの"日常"……のはずだった。
*
――翌日。
教室の扉を開けた瞬間、珠紀は言いようのない違和感を覚えた。
空気は同じ。声もある。笑い声もある。
なのに、何かが決定的に足りない。
視線が吸い寄せられるように教室の中央へ向く。
瀬戸 美月の席。
そこには、何もなかった。
机の上も、椅子の横も、引き出しの中も空っぽ。鞄も教科書も、いつもそこにあったはずの物が、きれいに無くなっている。
――あれ……?
胸の奥がざわつく。
担任の苅間 慎司も出席簿を持ったまま動きを止めていた。
――瀬戸に限って遅刻欠席の連絡がないのはおかしい……
「みんな、瀬戸知らないか」
教室のざわめきが静まる。
「何もなく無断欠席するような子じゃないし、何かあったのかな?」
鹿島 正樹の声が、さらに不安を深める。
「探してくるから少し待っててくれ」
慎司は早足で教室を出ていった。
廊下を進むにつれて、胸の鼓動が嫌な速さで高まっていく。
階段を上り、人気のない屋上の扉に手をかける。
金属の冷たさが、やけに現実的だった。
扉を開けた瞬間、強い風が吹き抜ける。
視界の端に、制服のスカートが揺れた。
見慣れた制服。
ゆらゆらと揺れる後ろ姿。
首に括り付けられた制服のスカーフ。
一瞬、何を見ているのか分からなかった。
時間が止まり、音が遠のく。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
声を出そうとしても、喉が固まって空気しか漏れない。
目の前の現実を、脳が理解することを拒んでいた。
どれだけの時間そうしていたのか分からない。
気づけば慎司は、ふらつく足で教室へ戻っていた。
扉が開いた瞬間、教室中の視線が突き刺さる。
その顔色を見ただけで、生徒たちの表情が凍る。
慎司は教壇に手をつき、震える声を絞り出した。
「瀬戸が……亡くなった」
中央の空席だけが、やけに広く見えた。
ついに「本音。」連載開始です。
サスペンスものですし、考察大歓迎です。




