第4話 外庭の午後──影が踊り、空が揺れる日
魔王城の朝は、紙の擦れる音と、静かに積もる疲労の匂いで満ちていた。
黒月侍女団が列をなし、報告書を次々と机へ積み上げていく。
魔王エイナは片肘をつき、眉間を押さえたまま動かない。
「……なぜ朝に“まとめて”持ってくるのじゃ。
分散せよと言ったであろう……」
声音は静かだった。
だが侍女たちは、雷鳴に撃たれたかのように背筋を伸ばす。
その横を、ネフィラはエイデンを抱いたまま静かに一礼し、音を立てぬよう部屋を後にした。
(……三日徹夜なら、そりゃ怒るよん……
ほんと、魔王様は頑張り屋さんすぎなんだって……)
扉を閉めた瞬間、肩の力がふっと抜ける。
(よし。今日は外庭でまったりしよ〜。
エイデンくん、風が好きだしね)
◆
外庭は、冬国とは思えないほど穏やかな光に包まれていた。
魔力で調整された暖かな空気、草花の香り、澄んだ噴水の音。
ここだけ、季節が春に取り残されている。
エイデンを降ろそうとした瞬間、小さな手が服をぎゅむっと掴んだ。
「え〜? まだ離れたくないの?
……はいはい、かわいいの……天使〜……」
抱き直すと、エイデンは胸元へすり寄り、くんくんと匂いを確かめてくる。
(今日のエイデンくん……やば……
かわいさ二百%増しなんだけど……寿命ちぢむ……)
しばらく抱っこ散歩をしてから地面に降ろすと、
エイデンはよちよちと歩き、葉っぱを拾ってネフィラに差し出した。
「くれるの……?
優し……無理……尊い……」
声が勝手に震え、思わず顔を覆う。
◆
草がふかふかだったので、ネフィラはそのままごろーんと寝転んだ。
「エイデンくんも、ごろーん♡」
ころん、と小さな影が横になる。
耐えきれず、額にちゅっとキスを落とした。
(尊……息できない……好き……)
――その幸福を裂くように、外庭全体がびりっと震えた。
「ネフィラァァァァァァァァァ!!!!!!」
爆音。雷鳴。魔王城に響く絶叫。
エイデンがびくっと震え、ネフィラへしがみつく。
(……あ〜……来た……ミリア姐さん……)
黒炎を引き連れ、ミリアが爆速で飛び込んでくる。
「キスはずるい!!
エイデン驚くじゃんか!!」
「いや、姐さんの声が一番驚かせてるよ……?」
「それはそうだけど!!
でもずるい!!」
真っ赤なミリアを横目に、エイデンは涙目だ。
ネフィラは慌てて抱き寄せ、背中をぽんぽんと叩いた。
◆
空気が、すっと冷えた。
(……来た)
庭の影がわずかに揺れ、ラズリが静かに姿を現す。
五塔を統括する魔術師の“圧”が、声にならぬまま外庭を引き締めた。
「……びっくりしたのだわ……?
エイデン、怖くないのだわ……」
すぐに、リュカがミリアの袖をそっと引く。
「……姉様……声……大きいよ……?」
「赤子が怯えるぞ」
グロンが腕を組み、冬山より重い声で言った。
「皆さま……どうかお静かに」
セラフィルが優雅に一礼しただけで、空気が整う。
――気づけば、五柱が揃い踏みしていた。
(いやいやいや……
なんで自然にフルメンバー集合してんの……?
今日ってエイデンくんと二人きりデーだよね……?)
もちろん、ネフィラには自覚がない。
自分がほぼ二十四時間、エイデンに密着しているという事実に。
「……みんなさ〜。
エイデンくん依存症じゃない……?
ちょっと……引いちゃうんだけど〜……?」
五柱の視線が、一斉にネフィラへ突き刺さる。
沈黙が、そのまま“全員ツッコミ”の圧になっていた。
一番に爆発したのはミリアだった。
「依存症はアンタだろうがァ!!?」
「え〜? あたし? そんなわけ──」
「今日だけで二十三回抱っこしてるよ……」
リュカの冷静で致命的な一言。
「……エイデン……一度も逃げられてないのだわ……」
ラズリがじとっと半眼になる。
「距離ゼロでございますね……」
セラフィルが静かに刺した。
「お前が一番ひどい」
グロンは短く言い捨てる。
「えっ? そんなことないよね〜?
ねぇエイデンくん♡
あたし、重くないよね〜?」
ぎゅむっと抱きつくエイデン。
五柱は揃って“重いんだよ”という顔をした。
◆
だがネフィラは、悪意ゼロで地雷原を走り抜ける。
「リュカ様〜?
魔法学院でまた爆発あったよね〜? ひま〜?」
「……言わないで……」
「ラズリ様?
二時間迷子だったって聞いた〜?」
「……触れなくていいのだわ……」
「グロン様?
弟子の鍛え直し、どうしたの〜?」
「……なんで知ってんだ……?」
「セラフィル様?
講義サボり〜?」
「……後ほど、まとめて参りますので……」
そして、最大の地雷。
「姐さんは、何すっぽかして来たの〜?」
「してないし!!」
「机の上、報告書散らかってたよ〜?」
「ぎっ……なんで……!」
焦ったミリアが口を滑らせる。
「ま、まさか……
リュカに代わりに書いてもらおうとしてたのまで──」
一瞬、時が止まった。
「今のナシ!! 忘れて!!」
だが、リュカの笑みは消えていた。
「……姉様……本気……?」
「ち、違うの!!
舌が勝手に──!」
「……エイデンの方が……
まだ……考える癖あるよ……?」
「リュカァァァ!!!!」
ラズリの追撃。
「……脳が置いてけぼりなのだわ……」
「ラズリまでぇぇぇ!?」
グロンが肩をすくめる。
「自爆だ」
セラフィルが目を伏せた。
「……リュカ様に……心より同情いたします……」
(姐さん……刺され放題で草……)
ネフィラは笑いをこらえて震えた。
◆
「ほら〜?
みんな仕事すっぽかして来てるじゃん?
エイデンくんの人気、すご〜い♡」
五柱は揃って“原因はお前だ”という顔をした。
だがネフィラは胸を張る。
「安心しなよ〜?
エイデンくんは、あたしが守るんだもん♡」
(……それが心配なんだ……)
五柱の沈黙が、そう語っていた。
その時、グロンが顎で示す。
「……ガキが、こっち見てるぞ」
エイデンが、じっとラズリを見つめていた。
「……影、見たいのだわ……?」
ラズリが指先で影をすくう。
影はウサギになり、鳥になり、獣になる。
エイデンは声を上げて笑い、追いかけた。
その笑顔に、ミリアの表情がぱっと明るくなる。
「よーし! 次は姉様が遊ぶ!!」
気づいた時には遅かった。
「たか〜〜〜い!!!」
ミリアの“高い高い”で、エイデンが空へすっ飛ぶ。
(高っ……!! 落ちたら死ぬ!!)
「姉様!?」「危険です!!」「受け止める!」「……許さないのだわ……」
四方向から悲鳴とツッコミが同時に飛ぶ。
「大丈夫大丈夫〜!
楽しそうじゃん〜!」
二投目に入りかけた瞬間、リュカの一言が刺さった。
「姉様……
取り損ねたら……魔王様、本気で泣くよ……?」
ミリアは即座に固まった。
「……それはヤバい」
全力キャッチ。
「ごめんごめんごめんエイデェェェン!!」
本気で焦った声だった。
◆
騒ぎが落ち着くと、エイデンはネフィラへぎゅっと抱きついた。
「はぁ〜い♡
かわいいんだから……」
五柱の表情が、一斉にゆるむ。
「……笑ったのだわ……」
「……本当に、かわいい……」
「大したガキだ……」
「癒しでございます……」
「エイデン、最高……」
(……こんな時間、ずっと続けばいいのに……)
冬の外庭の中央だけ、春そのものだった。
◆
その笑い声は、遥か執務室にまで届いていた。
書類の山に埋もれながら、エイナは目元をやわらげる。
(……元気そうじゃな……
エイデン……外の風にも慣れてきたかの……)
穏やかな一瞬。
しかし――
「魔王様、追加の報告書でございます!」
「こちら、緊急審議案件を!」
「商会より至急照会が──!」
黒月侍女団の第二陣、第三陣が押し寄せ、
書類の山は机を越えて積み上がっていく。
エイナは額を机に押しつけた。
「……わらわにも……外庭に行く権利くらい……
あるはずじゃろうがぁぁぁ……!」
外庭の笑い声と、魔王の嘆きが重なり、
魔王城の穏やかな午後は、ゆっくりと流れていく。
――今日も魔王城は、平和だった。




